第4話 小黒・大智の巻


あの子に気付かれてしまったかもしれない。見かけより、あの子はずっとさとい子だ。

唇を噛んだ冬衣は、その痛みにふっと視線を上げた。外は春の盛りである。桜はとうに散ったが、山吹の花がそこここに金色の花を咲かせていた。

もうすぐ、あのお方と初めて会った季節がやってくる。美しく、懐かしく輝かしい季節。

・・・それにしても・・・。どうして私はあんなことを言ってしまったのだろう?

きっとあの方が成されたことを私はちょっぴり誇りに思ったのだ。罪は憎むが、惨いことはしない。あの時あの方は毅然としてそう言った。帝はそうでなくてはならぬ、と。

天の水を使って氏姓をただす、その方法を思いついたのがあのお方だということを私はあの子に自慢したかったのだ、きっと。


月に一度、新月の夜あのお方は灯りも持たずにここにやってくる。

「危なうございます」

と私が言うのは単に暗い道をやってくるのが危ない、と言っているのではない。だけど、それを知ってか知らずか

そらで道を覚えているのだ、心配ない」

とあのお方は取り合ってもくれない。そして注意した筈の私の心は弾んでいる。結局、それ以上私は何も言えず、私たちは一夜、語り明かす。後ろめたいことなど何もない。でも・・・。きっと世間の人はそうは思わない。

ああ、考えるだけで胸が苦しくなる。

そのまま時は静かに過ぎ、やがて戸から覗き始めた十六夜いざよいの月を眺めながら、冬衣はあの日のことを思い起こしていた。


行ってはならぬ、ときつく言われていたあの川のほとりに私が何かに導かれるかのように辿り着いたのは十の歳になったばかりの頃だった。花摘みをしているうちにふと見も知らぬところへいざなわれた私の耳にさらさらと不思議な音が聞こえてきた。

なんだろう、と草をかき分け進んだ先に見えたのは滔々とうとうと音を立てて流れる水であった。

「あ」

私は思わず声を上げた。

それは今まで見たことのない景色だった。

水面は力強く渦巻き、跳ねる飛沫が陽にきらめいた。まるで水は生き物のように輝きその力を見せつけるように解き放っていた。それまで井の中で静穏せいおんに留まる水しか見たことのない私には水という物がこれほど激しく力強いものだと思いもしなかったのだ。

暫くじっと川の流れを見つめていた私の耳に、突然誰か男の声が聞こえた。若々しい声だった。私は慌てた。私が定めを破って川に近づいたことをとがめる声だと思ったのである。

こわごわと視線を上げた私の目に、向こう岸に立っている男の姿が映った。それは見たことのない凛々りりしい若者で、驚いたような目で私を見つめていた。


どのくらい私たちは互いの姿を見つめ合っていたのだろう。

「おひめさま、どこにおられるのですか?」

声を限りにとでもいうような、朝顔の叫ぶ声が背後で聞こえた。若者は驚いたように視線を私の背後に移すと、私に指を三本立て、分かったかと頷くように首を振った。私も頷き返した。さっと辺りを警戒するように見回してからくさむらに若者は消えていった。

川辺から離れると私は朝顔の声に答えた。

「ここにおりますよ」

私の声に応じたように、ざざざ、と草を掻き分ける音がして、

「まあ、よくご無事で。川に流されたのではないかと・・・よくまあご無事で」

朝顔は涙を流さんばかりにして私を抱きしめた。

「ごめんなさいね、朝顔。道に迷ってしまったのです」

「ええ、そうでございましょうよ」

朝顔は頬を擦りつけんばかりに顔を寄せると、

「こんなとたころで・・・。危のうございました。いつも申しておりますように川には川の主が住んでおられます。決してこの近くには寄ってはなりませぬよ」

「分かっていますよ、朝顔。ここが川などと気が付かなかったのです」

「そうでございますか・・・それでは参りましょう。早く離れねば、他の誰かに見つかってしまいますよ」

手を引かれ戻りながら、私はもう一度背後を眺めた。

あの美しい若者が消えていった辺りを。


そして三日後、同じ刻に私はこっそりと抜け出すと川への道を辿った。

恋の力は素晴らしい。山の方角を頼りに歩く数を数えながら進むと私は三日前の時と同じ場所に出ることができた。あの若者は対岸で私を待っていた。

互いにひきつけ合うような力が私たちを支配していた。

それは誰にも打ち壊すことのできない力のように思われた。奇瑞きずいというものがあるならば、これがそうなのだ、と私は思った。

私たちは飽きることなく見つめ合っていた。でも、それにも限界はある。そろそろ居眠りから目覚めるだろう朝顔に気付かれてはならない。私は袖を翻した。

若者は分かった、というように頷くと今度は二本指を突き出した。二日後に、またということだ。でも、それでは短すぎる。小さく首を振ると、若者は残念そうに指をもう一本立てた。私は頷いた。ほっとしたような顔をすると若者は手を振った。私も振り返した。

でも約束をしたその日は雨だった。雨の日は外に出られない。私はしとしとと降り続ける雨を恨みながら、日がな外を眺めていた。

昨日は晴れていたのに・・・。日を一日足したことを私は自分の犯した愚かな過ちのように悔いていた。

「お姉さま、ずっとお外を眺めて、どうなされたのです?」

妹の橘郎女たちばなのいらつめが近寄って来たのにも気づかず、私は不意に掛けられた声にびくりとした。

「え、ええ。雨が・・・鬱陶しいですね」

私の言葉に妹は身を乗り出して外を覗いた。

「そうですね。でも、この季節の雨は、民にとってとても大切な雨だと聞かされましてよ。日照りが続くと稲が枯れてしまうそうです」

「・・・そうですね」

答えると私は空を見上げた。どんよりと切れ間のない雲から無限に雨が降ってくるようだった。稲は枯れぬかもしれないけど、恋は枯れてしまうかもしれない。そんな気がした。

翌日は曇ってはいたが、雨はやんでいた。私は人目を盗んで外に出、あの場所へと急いだ。川の近くに来ると、流れる水の音が前と違っていた。ざ、ざと雨を集めた水は激しく流れ、色も濁っている。その激しく流れる川の向こうで、あの方は私を認めるとにっこりと笑った。

約束した日が雨ならば次の日、という暗黙の約束ができたその日、戻って来た私を見て朝顔が目を丸くした。

「どこへいらっしゃったのですか、そんなにお御足みあしを汚して、あらまあ、裾もびしょぬれ・・・」

雨は止んでいたが、まだ草は露をしとどに含んでいた。土は泥のままであったのだ。

「だって、せっかくの晴れ間ですもの。少し庭を散歩していただけですよ」

私の答えに朝顔は疑わしそうな目で私を見つめた。

「いいえ、お姫様は、昔はそんなことをおっしゃりませんでした。雨の後でもめったに出たりなされませんでしたのに。どれに庭に出ただけでこのように濡れるものでしょうか」

「だって、お外が気持ちいいことに気付いたのですから」

なお疑わしい目で私を睨むように見ている朝顔に、

「わかりました。明日はおとなしくしています」

と答えると漸く朝顔は安心したようだった。

そんな日々が一月ほど続いた。その間、雨は降ったりやんだりして私は朝起きると真っ先に空を眺めるのが日課になった。


その日は朝からいつもと違う空だった。鬱陶しい雲はどこにも見当たらない、抜けるような青い空が広がっていた。あのお方と会う約束をした日だったので、朝から心が弾んでいた。

「良い天気でございますね」

朝顔も、じとじとした天気から解放されたせいか心なしかいつもより機嫌が良いようだった。

「そうですね」

私は上の空で答えた。あの方と会えると思うだけで気持ちは華やいでいて、朝顔の言葉などろくに耳に入って来なかったのだ。

「夏至れり、と皆も喜んでおります」

「なついたれり?」

呆けたような声で聞き返した私を朝顔は心配そうに見た。

「どうしたのでございますか、お姫さま。夏至れりとは夏至のことでございますよ」

私は、ああ、と大きく頷いた。気持ちがそこにないという事を悟られないように、

「そうですね」

といかにも謹厳そうな顔を作って答えた。朝顔はほっとしたように、はい、と応じると眩しそうに外の景色を見ている。。

夏至を過ぎると、すぐに半夏生はんげしょう、そして睦月の晦日みそかには大祓の儀式がある。

大祓は宮中の行事で、夏至の直ぐ後、水無月の晦日に行われるもので、私たちもその日には中臣の神職に浄めてもらうことになっている。その頃からこの地も急に暑くなり、虫たちが木で鳴きだすようになる。

夏・・・。

遠飛鳥とほつあすかの夏は美しい。朝は霧が立ち込め、日が昇ると緑が瑞々しく立ち上がる。夜になれば蛍があちこちで、光を瞬かせながら舞う。どこにも不浄はなく、すべてが神々しい。

きっと私たちの恋も・・・。


抜け出すこつは、直前まで素振りを見せないでいること、そしてあまり長い間抜け出さないことだった。

朝顔は年のせいか、私が抜け出す頃に居眠りをし始める。その前に外に出てしまえば朝顔もついてくる。だから、その頃合いにはじっとおとなしくして、朝顔が居眠りをしだしたらそっと抜け出ればいい。

でもあまり長くなると朝顔が居眠りから覚めてしまう。日の傾きが山の峰半分・・・それが限界だと私は決めていた。

その日も朝顔はうつらうつらと体を傾け始めた。私はそっと抜け出すといつもの場所へと急いだ。今となれば、暗い夜でも行きつくほど慣れた道である。

あの方は、いつものところで私を待っていた。でも、いつもと違って顔を俯け、何かを考えているようだった。暫く私のことに気付かなかったに違いない。ふと顔を上げ私を認めると袖を振った。私も振り返した。

川の流れは強く早く、音を立てて流れていく。声を出しても相手に届かないのはいつもの通りだ。でも私たちは通じ合っている。言葉を交わさなくても見つめ合っているだけで。

そしていつかこの川の流れも弱くなり、堰き止められ、私たちは飽くことなく語り合うことができるのだろう。

でも、その日、あのお方の様子はいつもとは違っていた。いつもなら只じっと互いを見つめ合っているだけなのに、あのお方は、時折目を逸らし、川に沿って行ったり来たりしていた。

どうしたのだろう、私は少し心配になった。それに残念だった。いうものようにずっと見つめ合っていたいのに・・・。

すると、突然あのお方は意を決したように、川を渡ろうとし始めた。

「あ」

思わず私は叫んでいた。

まだ川の水は早く、そのまま無理にわたってこようとすればどこかへ流されてしまうに違いない。

「おやめください」

そう叫んだ私の声が届いたのか分からないけれどあのお方は二・三歩進んだだけで立ち止まった。それ以上進めば足を取られてしまうと思ったのに違いない。

瀬に立ったままあのお方はこっちを見た。そのまま長い間私たちは見つめ合った。いつもよりもほんの少し、近いところで。私はときめいていた。いつもよりほんの少し近いところで見つめ合うことに。

日は山の峰を一つ越えてしまったの違いない。背後で朝顔のおののくような声が私の名を呼ぶのが聞こえてきた。その呼び声と、はっと私が振り向いたことであのお方も誰かが私を探しに来たことを悟ったのに違いない。名残惜しそうにいつもより大きく袖を振るとあのお方は岸へ戻ると、急いで姿を消した。

私の名を呼んでいたのは朝顔ばかりではなかった。他に小女や小者が数人、私の名を呼んでいた。

でも、私は答えようとしなかった。やがて誰かが私を見つけたのだろう。声が急に近く、多くなった。

「おひめさま」

叫んだ朝顔の声にも私は振り向くことはなかった。あのお方は・・・あのお方は次の約束の日を告げることもなく、去っていったのだ。

私の目じりからとめどなく零れる涙をみて、朝顔が驚いたような表情をすると向こう岸を見た。だが、そこにはもう誰もいない。戸惑ったような仕草で私を見つめ直すと、朝顔は私を抱きしめてくれた。

「おひめさま・・・」

その声に川岸にいた白鷺しらさぎが羽を拡げ空に向かって飛び立っていった。私はその姿をずっと追っていた。涙でその姿はぼんやりとしていたけれど・・・その姿が空の果てへと見えなくなるまで。


心の痛みというのはなかなか消えるものではない、と私は初めて知った。そしてやがて痛みが少しずつ収まって行っても、傷跡は残るのだということも。

あの日以来、朝顔は今までに増して私を気遣わしそうに観察するようになり、欠かすことのなかった昼寝もしなくなった。それにも関わらず私たちの会話は途切れがちになった。

朝顔は勘違いしていたのかもしれない。私が世を儚んで死のうとでもしていたのではないかと。でも、あの時まではそんなことは一時たりとも考えたことはなかった。むしろ、死などどこか遠い世界の出来事だった。けれど・・・。

あのお方に会うことができなくなってからの私は死というものをずっと身近に考えるようになっていた気がする。

下の妹はそんなときも心の慰めだった。まだ恋というものを知らないであろう妹は、その闊達で純真な心のままに、変わらずに私に接してくれた。

大祓もつつがなく終わり、夏は盛りを迎えていた。

そんな或る日、橘がいつものようにやってくるなり苦情を言って来た。

「お姉さま、近頃ぼっとしておられることが多くなりましてよ。わたくしと滅多に遊んでくれないし、遊んでくれても心ここにあらざるのようですし」

ねたような目で私を睨む妹に、

「そうですか、ごめんなさいね」

と答えると妹は機嫌をすぐ直し、

「でもこの頃お姉さまはお綺麗になられました。どうしたらそんなにお綺麗になれるのかしら」

とあどけない声で尋ねてくる。心がやつれて食が細くなっただけなのに、妹はそれを綺麗になったと言ってくれる。

「橘はとても美しいですよ。私よりも・・・」

「そんなことはありませぬ。姉さまも酒見も色白なのに、私だけ・・・」

橘は健康的な肌の色をしているのに、妙にそれを気にかけている。

むしろ酒見が病気がちで心配なのだけど・・・。

「橘・・・。人はそれぞれに良いところ、悪いところを持っているのですよ。そして、その良いところ、悪いところというのも人によって見方が違うものなのです。あなたは私を美しいと言ってくださる。でも、あなたのように健やかなことは私の目にはとても素晴らしいこと。でも、私はあなたにはなれないし、あなたは私にはなれない・・・。そういうものです」

「それはそうでしょうけど・・・」

橘はあぐねたように宙に目を浮かばせると、

「でも私はお姉さまが羨ましい。とっても素敵ですもの。私はお姉さまのことが好きなのです」

「橘・・・」

なんて率直な子なのだろう。

「ところでお姉さま・・・」

橘は秘密を打ち明けるように声を忍ばせた。

「なあに?」

「お姉さまは川に行かれたことがございますか?」

「川?」

どきんとした。

「あそこへは行ってはならないのですよ」

「存じております」

橘は真面目な顔を作ると。でも、と続けた。

「行ってはならないと言われると、なんだか行ってみたくなるものではありませぬか。それにこんなに暑いし、水のある所に行ってみたくなったのです」

澄ました顔で妹はそう答えた。

「あなたは・・・行ったことがあるの?」

「ええ、一度。つい先日です」

「どう・・・でしたか?」

「あそこには河童などと言う生き物はおりませんでしたよ。それは美しいところでした」

橘はうっとりとした目で言った。

「どなたか・・・おられませんでしたか?」

思い切って私は聞いた。あの日以来、私は川を訪れることはなかった。朝顔の目があるというのも一つの理由だが、あのお方が振り切るようにして私に約束を告げることなく立ち去ってからというものの、どうしてもおもむく気になれなかったのだ。

「どなたか?」

不思議そうに橘は尋ね返した。

「おられませんでしたけど」

「そう・・・」

「どなたか、いらっしゃるとお思いだったのですか?」

疑わし気な目で妹は尋ねてきた。

「だって・・・行くことを禁じられているのですから、どなたかが見張っているのではないかと思うではありませんか」

「ああ、そう言う事ですか」

妹は頷くと、

「いいえ。どなたもおられませんでした。なぜあそこへ行くのはいけないのでしょうね」

「それは・・・川に流されるかもしれないからでしょう?」

「でも、あんなに水が少ないのに・・・」

「水が少ない?」

「ええ、向こう岸にも渡れるくらい」

「ほんとうですか?」

私の声に驚いたように橘は目を瞠った。

「お姉さま?」

「橘、一度そこに連れて行ってちょうだい」

「え?・・・ええ、いいですけど」

橘はまん丸に目を瞠ったまま頷いた。


「お姉さまとお出かけしますから、あなたは心配なさらなくても結構ですよ。それとも私を信用していないのですか。もう雨の季節は終わったのですよ」

不安げな目をしている朝顔にきつい声で言うと橘は

「さあさ、参りましょう、お姉さま」

と私の手を引いた。橘は私より年下なのにきっちりと物を言える子だ。例え相手が目下の者であっても、私には妹のような物言いはできない。

連れ立って歩く道中、橘はずっと私に話しかけてきたのだけど私は満足に答えもしなかった。私とあのお方を離していたあの川の流れ・・・あの日のことをまざまざと思い出した。

あのお方は川を渡って来ようとされたのに、川はそれをはばんだ。あのお方は何を私に伝えようとなさったのだろう。そしてどうして次の約束をせずに去られたのだろう。

「お姉さま」

気付くと横を歩いていた橘が立ち止まって私を睨んでいる。

「あら・・・」

私も立ち止まる。

「お姉さまったら、ちっとも私の話を聞いておられませぬのね」

「ごめんなさいね。ちょっとぼっとしていたものですから」

「またですか?」

「ええ、なんでしたかね?」

妹は、立ち止まっていたあたりから、ささ、と小走りに駆け寄ると、

「私はお姉さまも実は川にやって来られたことがあるのではないかとお伺いしたのです」

と尋ねた。その顔には好奇心が溢れていた。

「そして誰か殿方とお会いになられたのではないかと」

「どうしてそう思うのですか?」

図星を指した橘の言葉に少したじろぎながら私は何とかごまかそうと必死で考えていた。

「だって、素敵ではないですか。だって今日は七夕でございましょう?牽牛と織姫が一年に一度、逢瀬を楽しむ・・・あれも川、そう天の川でお会いになるのですよ。まるで同じではないですか」

七夕・・・。そんなことも忘れていた。一年で一度、恋人同士が逢える日。私の胸はときめいた。でもそのときめきを妹に気付かれないように

「そうですね・・・でも、橘、違うのです。現実ではそんなことはないけれど・・・。そう、私は夢で見たのですよ。その夢では川が流れていて、その向こう岸に立派な殿方がおられるという夢を・・・」

と私は平静を装った。

「そうなのですか?」

妹は素直な子だ。疑うということを知らない。

「じゃあ、今日その夢が叶うかもしれないですね」

「ええ」

「では急ぎましょう」

私を追い越すと橘は、さっさと歩きだした。面白い子・・・。

「ほら、ここですわ」

葦を掻き分け、先を進んでいた橘が手招いた。石を積んでしるしにしておいたのです、と得意そうに言った橘が立ち入っていった川岸は私があのお方と会っていた場所より少し上流のようで、見慣れた柳の木が右手に見えた。

川の流れは・・・。

妹がそう言ったようにあの時よりもずっと弱かった。ところどころに石が顔を出して、その殆どは水に洗われて黒ずんでいたけれど幾つかはすっかりと乾いて白々と日の光に輝いていた。このくらいの流れならばあのお方はきっとこっちの岸まで渡って来られたに違いない。

妹は日の光を遮るように手をかざしてきょろきょろと辺りを見回していた。

「何をしているの?」

「ふふ、どこかにお姉さまが夢の中で見たような素敵な殿方がいないかと思って」

「まさか」

そう言いつつも私は向こう岸を眺めていた。あのお方が不意に姿を現すかもしれない。そんな淡い期待を抱きつつ。

不意に向こう岸の藪がざっと音を立てて揺れた。

「あっ?」

小声で叫んだ妹が手を翳してその先を見つめている。私の心は何かに締め付けられたように動かなくなった。

だが、おそるおそる見つめる先に現れたのは鹿の姿だった。角が立派に生え揃った牡鹿は川に口をつけ、水を飲むと一瞬私たちの方を見た。黒々とした優し気なひとみだった。

「鹿でございましたね・・・あら?」

振り向いた妹は目を見開いて私を見つめていた。

「お姉さま、泣いていらっしゃるのですか?・・・どうして?」


まだ、宮へ上がる前、私は幸せな恋を喪ったと思っていた。でも・・・それは取り戻すことができた。ただ・・・もっとも二人にとって最も不幸せな形で。

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