第3話 小黒・小智の巻

それから五年の月日が過ぎた。

その間に末の妹である酒見郎女が十二の歳を迎え、宮へと迎え入れられた。その妹の世話を命じられ、今度はお姉さまの代わりに私がと熱心に手取り足取り宮中での作法を教えているうちに、いつしかあの日見た光景は幻だったように少女には思えてきた。

あの日以来、目を凝らすように二人の仕草を見ていた橘であったけれど、姉と従兄弟は互いに目を見交わすこともなく、忍び合う素振りなど欠片かけらも見せずに、淡々と宮中の日常を送っていたからである。

それでも姉に面倒をみてもらっている一年ひととせのうちは、時折鎌をかけるようなことも言ってみた。

「お姉さまは、舎人とねりの中でどの方が一番素敵だと思います?」

とか、

「好きになった方はいらっしゃいませぬか」

などというたわいのないものであったが、そのたびに姉は、

「さあ、どうでしょう」

とか、

「好きになった方などおりませぬよ」

とか、耳に心地よい声で答えると、

「ほら、ぼんやりとそんなことを考えておられるから、刺し子が乱れるではありませぬか」

と縫物の手を休めている橘に向かって柔らかく注意をし、話はその先に一向に進まなかった。時折、思い出したように姉の家の前を朝、うろついたりして葵を困らせた事もあるが、従兄弟が姉を訪れた形跡は一度も確かめることはできなかった。

そもそも市辺の御子が本当にあの時の人だったか、と問うと少女にも確信はない。そう思ったのは、たまたま前の日にお会いして心がときめいた相手だからということもあるのかもしれない。おかげで、それと共になんとなく少女の初恋めいた思いも消えてしまったのである。

「でも、お姉さまとならばお似合いだし」

そう思うのもなんだか一人相撲を取っているようである。


男同士、女同士はともかく男兄弟と女兄弟の間は、必ずしも心から打ち解けたものではなかった。宮に入った後も、食事の時も普段の生活も別々で会うこともめったにない。従兄弟となれば更に遠い関係であり、市辺の御子は宮の外に居を構え、参内するときに遠くからそれと見分けることができるくらいである。

とはいっても、兄弟に限っては同じ屋根の下で暮らす中で、時折は言葉を交わしたりすることもないではない。兄は全部で五人であったが、一番上の木梨皇子きなしのみこは次の帝になられるお方であり言葉を交わすことも数少なかった。

三番目の兄である穴穂皇子あなほのみこがなんとなく橘の心許せる話相手となっていった。

二番目の境之墨日子皇子さかいのくろひこのみこと、四番目の八苽之白日子皇子やつりのしろひこのみこはそもそも橘とだけではなく、女たちとあまり打ち解けようともせず、それぞれの興味は遊びと食べることだった。

遊びとは楽である。墨日子皇子はとりわけ、に興味を持っているようで、引き籠って弾く胡の音は見事なものだったが橘がそれを誉めてもたいして嬉しそうな顔をせず話の接ぎ穂がなかった。白日子皇子は食べることに異常な興味があり、若いというのにでっぷりと太っていて、この頃は酒まで覚えたらしく、吐く息が臭かった。

もう一人、一つ上の兄、大長谷皇子おおはせのみこも橘にとってどちらかというと苦手の人だった。年若の兄は寡黙で、宮中のことも手抜かりなくこなすのだが、何を考えているのか知れないところがあって、気を許す感じになれなかったのである。でも、それでも黒日子の兄さまや白日子の兄さまよりはだいぶましですね、そんな感想をつい姉に話すと、姉は首を傾げて、

「そのようなことはございませぬよ。皆さま、立派な方でございます。お兄様をそのような目で見るのは良いことではありませぬよ」

と叱った。

「でも、お姉さま、いずれは帝になられるかもしれぬ方々ではありませぬか。お姉さまはどのお方が帝にふさわしいと思われますか?」

その問いに姉は困ったような顔をすると、

「どのお方ということはございませぬ。それは帝のお決めになる事、私たちが口出しをするようなことではありませんよ、さあ」

と答え、

「今日はお蚕様をお世話する日ですよ。さっさと支度をせねば」

少女を促した。

「ええ、でもお姉さま。私、あの虫、どうしても好きになれませんわ」

少女はあらがった。

「何を言うのです。お蚕様はとても大切なものです。あなたの着ているそのお召しも、お蚕様の御蔭でできたものではないですか」

姉は美しい眉をひそめた。

着ている綾衣あやころもをちょっとこわごわと少女は見回す。

「本当にそうなのですか?」

「そうですよ」

蚕は遡る事四つの御代、後に仁徳天皇と呼ばれる大雀命おほさざきのみことと、その大后である石之比目命いはのひめのみことの治世に宮中で飼われることになったものである。

それまでは、蚕は大后の里である葛城かづらきの家がある那良ならで、韓人からびとによって門外不出のものとして飼われていた。夫の浮気に怒って実家に戻った石之比目命が宮に帰って来ないのを大雀命が嘆いたのを、大后が実家に帰った言い訳として

「大后は不思議な虫を見るためにこちらに戻られたのでございますよ」

とその韓人が取りなしたのである。大雀命は、

「では私も見に行こう」

と妻の里に行幸みゆきし、その事がきっかけで夫婦の仲は元の鞘に収まったのだが、以来宮中で蚕を飼うのが恒例となった。大気都比売おほけつひめが身罷われた時、その頭が蚕になったという伝説は後から付け加えられたもので、蚕は韓から伝来したものである。

「でも・・・」

そう渋る少女を強く促すと、姉は少女を蚕のいるむろへと有無を言わさぬように連れて行ったので、兄弟に関する批評は有耶無耶うやむやのうちに終わってしまったのである。


「それにしてもお姉さま」

「なあに?」

特に用事のない時の姉は、庭から花や木を眺めているのが常であった。指がかじかむような冬でも、火鉢を傍らに置いて時折手をかざしながらじっと外を眺めている。

今は春なのでそんなこともないが、季節が冬の間、雪を眺めながら外を見ている姉を見ていた時は、姉はそのまま雪に紛れてどこか別世界に行ってしまうのではないかと思えたものだった。そんな時はふと不安になって橘は姉の少しひんやりとした手を掴み、姉は振り向いて少女の頬を撫でてくれ、それでなんとなく安心したのである。

「どうしてお父様は、私たちをおとなになるまで別々に暮らさせるようなことをお考えになられたのでしょう?」

「そうですね・・・」

外に向けていた視線を橘へと戻すと姉は、にこりと笑った。

「それは私も不思議に思いました」

「ではお姉さまはご存じなのですね?」

橘は姉を見上げた。背を伸ばし美しく座るその姿はいつも橘の視線の上にある。

「お父様から直接伺ったわけではないから、本当かどうかはわかりませんけど、私には腑が落ちましたわ」

そう前置きすると、

「お父様は、いえ帝は即位なさる時に病をお持ちでした。その病が子供に移らないようにと宮の外で子供を育てることをお望みになったというお話でした」

と姉は話し始めた。

「そうなのですか?」

橘が尋ねると、

「ええ、病は韓から到来したの貴いお薬で今は治ったのですが、それまでは随分と長い間お苦しみになられたようですよ」

「それで、私たちは別々に・・・」

「でも、それだけではなかったという話もあります」

「え?」

眼差しを上げた橘に、

「本当のことをいうとお父様は、帝の地位をお継ぎになることをお望みでなかったのです。ご存知でしょう、あの伯父さまのお話を・・・」

あの伯父さまのお話、と声を潜めて姉が言ったのは、父帝の兄である墨江中津王すみのえのなかつみこの乱のことを指す。

父は四兄弟の末であるが、長兄である伊耶本和気命いざほわけのみことが帝位に就いた時、次男である墨江中津王が兄の住む宮に火を放った。

幸いにして伊耶本和気命は臣下の機転で難を逃れたのだが、以来帝は兄弟にさえ心を閉ざした。三男の水歯別命みずはわけのみことは兄の信頼を取り戻すために墨江中津王を騙し打ち、乱はなんとか収まったのだがその事件は宮中に深刻な分断をもたらしたのである。

墨江中津王についた者たちは処断された。だが一度裏切られた帝は自分を救い出した臣下以外にはなかなか心を開くことがなかった。そのために宮中は疑心暗鬼に包まれた。

忠誠を誓って次兄を殺した水歯別命に異心はなくその功績で皇太帝となったのだが、帝の本当の心は幼い息子である市辺忍歯命にあった。帝の心を忖度する者と、皇太帝の御代を望む者たちの間で宮中は分断した。

そのわだかまりが残ったまま、帝は崩御した。一旦は、それで帝を継いだ水歯別命の御代に落ち着くかと思われたのだが、その帝が一年もたたぬうちに崩御されたのである。その息子である財王たからのみこもまた幼かった。

となると、先帝の庇護者たちは市辺忍歯命を自然と担ぎ出すことになったが、それを阻もうとした者たちも少なくはなかった。今更、というわけである。

祖父帝大雀命にはもう一人別の后との間に生まれた波多毗能大郎子はたびのおほいらつこ、またの名を大日下王おほくさかのみこという息子がいるのだが、この人を帝に推す勢力はなかった。まだ存命中であった大雀命の大后である石之比売命の悋気りんきはひどく、自らの子の系統でない波多毗能大郎子を皇位につけることを嫌っていたからである。波多毗能大郎子は実直で温和な人であり、人柄は申し分がないのだが、そのために帝を継ぐべき人として実際に推す人はなかったのである。

結果としてそのどちらでもない男浅津間若子宿祢命をあさづまわくごのすくねのみことを推す者が多数となり、臣連たちは帝位に就かれることを願い出た。

だが、当の男浅津間若子宿祢命はそれを拒んだ。繊細な年頃に兄同士の争いと相互不信を散々見聞きした帝は自らが帝になることで争いが続くのを良しとしなかったのである。その時すでに子を持っていた男浅津間若子宿祢命は自分の子供たちが皇位の継承に巻き込まれることを恐れてもいた。そして子供の心に自分と同じような傷がつくのを恐れていた。

乱は墨江中津王の直前にも起きていた。大雀命の后となるのを拒んだ女鳥命めどりのみこ速総別王はやぶさわけのみこと皇位を狙ったとして共に殺されている。その時、温和な性格である男浅津間若子宿祢命はまだいたいけな子供であったが、親族同士の争いを目の当たりにしてひどく怯えた。そして大人になってからも続く親族同士、兄弟同士の争いを目の当たりにしてそのような争いの中に身を置くことを望まなかったのである。

しかし、后である忍坂之大中津比売おあしさかのおほなかつひめの考えは異なっていた。皇室の傍流であった彼女は兄と共に夫を強く説得した。とうとう堪えきれなくなった浅津間若子宿祢命は皇位を継ぐときに幾つかの条件を義兄と妻に呑ませた。その一つが子供たちを宮から離して住まわせることであった。

「お母さまも気の強いお方ですからね」

姉はぽつりとつぶやいて話を終えた。

美貌ではあるが、気の強いその性格は父の配慮の御蔭か、娘たちに必ずしも受け継がれなかった。長女の長田大郎女ながたのおほいらつめにだけ少しそのおもかげがある。

「そんなことがあったのですね」

溜息をついた橘に姉は優しく微笑んだ。

「でも、もうそんな心配はしなくともよいでしょう。お父様は乱れた秩序をきちんと正そうとなさっております。それは群臣、民に留まらず、帝の系統にも及ぶことでございましょうよ」

父帝が臣下の氏素性を正すために盟神探湯くかたちを一斉に施したため、乱れていた氏姓があっという間に正されたのを二人は実際に見分している。

煮えたぎった湯に手を入れ、正邪を問うのが盟神探湯である。

「盟神探湯ですわね。でもびっくりいたしました」

味橿丘うまかしのをかの上で煮立った釜に手を最初に入れたのは長兄の木梨皇子である。帝の名代として先ず、その湯が正しいものの手に火傷を負わせないと示すのである。

煮立った釜に兄が手を入れた時、思わず目を瞑った橘はおー、というどよめきに目を開いた。兄が上げた手のどこにも火傷の跡はなかった。

周りにいた者たちが争うように兄に近寄り確かめていた。そして寿いだ。

暫くして、それに続く疑いの掛けられた者たちが釜の近くに集まった。

ぐらりと煮えたぎる湯に最初の男が手を入れた。ぎゃあ、と魂消る声を上げた男が倒れてのたうち回った。その湯が後ろで控えていた男の顔に掛ったのか、その男の顔が蒼白になった。

のたうち回っている男の手が赤く膨れ始めている。

「次の者、いでよ」

と神官の感情の乏しい声で呼ばれたが、顔に湯がかかった男は腰をぬかしたようにへたりこむと、いやいやとでもいうように首を振った。

「せねば、お前の氏は偽りであったことになるぞ」

と言われても、立ち上がらない。

「では、偽りであったと認めるのだな」

首を縦に小さく振ると、男は這ったまま逃げ出した。残りの者の中で僅かに二人が勇気を振り絞るかのように挑んだが、最初の男と同じような目にあっただけである。

結局、その日に集まった者たちは全て偽りの氏を放棄した。翌日に呼ばれた者たちは来もしなかった。そうして氏素性は正されたのである。

「お兄様は素晴らしいお方でございます心の正しい方には天も御味方するのですね」

橘が感嘆したかのように言うと、

「でもあれは・・・」

と姉は口ごもった。

「なんでございますか?」

橘の問いに、

「決して人に漏らしてはなりませぬよ」

と姉は唇に指をあてた。

「はい」

橘が頷くと、

「あなたは正直で口の堅い子だから教えてあげましょう。あれには秘密があるのです。あなたは見ていたでしょうが、お兄様が手をお入れになる前に、天の水と言って神官が水をお足しになられたでしょう?」

「ええ、そういえば・・・」

橘はその時のことを思い出した。神官は従者が運んできた石の器から釜にたっぷりと水を注いだのである。まもなく、釜の湯は沸騰したのだが、その時に妙に甘い匂いが漂ったのを思い出す。その時は甘露のような水なのだと、ふと思った。

「天の水は湧いても熱くならないのです。そこにお兄様は手を入れられたのですよ。でも天の水はすぐに天へ帰ってしまうのです。次の者たちが手を入れた時にはもうその水は天に昇ってしまっていたのです」

「そうなのですか?」

「ええ、たとえ氏素性を偽ったとしても、自ら正すなら、余り惨いことはしたくない、とお父様はお考えになったのでしょう。ですからあのような・・・。最初の男たちは中でもたちの悪い男たちが選ばれたと聞いておりますよ。他の者たちも素性の確かでない者たちであったことは間違えございません」

「そうなのですか。お父様はお優しいのですね。でもまあ、なんて不思議な水ですこと」

橘は感嘆したように何度も頷いた。

「でも、お姉さまはどうしてそのことをお知りになったのです?」

橘の無邪気な問いに姉がはっと体を強張らせた。

「それは・・・」

「ええ」

「お父様から伺ったのです。でもお父様にも、誰にも私が話したと言ってはなりませぬよ。そんなことをしたら私はたいそう叱られます。約束して頂戴な」

「ええ、もちろん」

姉の必死な様子に、橘は素直に頷いたのだけどその時姉が嘘をついているのだと直感していた。父は誰にもそんな話をするような人ではない。するとしたら、その場に立ち会った兄、木梨皇子だけである。

姉さまはきっと兄さまからその話を聞いたのだ。でも、いつ・・・どうやって?

迂闊に妹に話してしまったことを悔いているのか、顔を青ざめさせて項垂れている姉の横で橘は考えていた。

その時、ふとあの夜見た男は実は市辺忍歯命ではなく、木梨皇子であったのではないかという思いが脳裏を掠めた。

「でも・・・まさか」

父母を同じくする兄と妹が忍んで会うというようなことがある筈がない・・・。

橘は頭を振ると、脳裏からその考えを斥けた。


「何を考えているのだ、橘よ。少し元気がないぞ」

その翌日、声をかけてきたのは二番目の兄、穴穂命である。

「いえ、そんなことは・・・」

俯いて答えた橘に、

「ほらそれだ。いつもならば、そんなことはございません、お兄様の目は節穴でございますか、と食って掛かってくるものだが」

苦笑すると兄は橘の横に腰を掛け、ちらりと横顔を覗き込んできた。

「お前は女兄弟の中で一番元気が良い。元気がないお前は面白くない」

「そんなこと・・・」

橘の抗弁は勢いがなく、言葉の尻はすぼんでいる。

姉の相手が市辺の御子であれば仄かに抱いた恋心が消えるだけで済むが、一の兄さまだとしたらと思うと橘の心は重くなる。頭をいくら強く振ってみてもその思いは消えなかったのである。

まさか・・・実の兄だと知っていながら姉は心を通じ合ったのだろうか、と疑いつつも、そのような事がある筈はないと心のどこかが拒否をする。

姉は・・・常識人だ。そしてどちらかと言えば気が小さい。そんな大胆なことを成されるはずがない。

穴穂の兄は目の前で悩む様子の妹を一瞥すると、元気づけようとでも考えたのか、こほんと咳を一つして

「姉さまはどうもわがままで困る。衣通姫は、名の通りお美しいが今一つ何を考えているのかわからん。女とはそうしたものかもしれんが。酒見は・・・まだ子供だ。それに比べるとお前は分かりやすくて良い」

と言った。

兄の雑駁ざっぱくな姉妹への評に思わず笑うと、橘は少し気持ちが明るくなった。兄さまはどうやら私を誉めようとでも思っているらしい。

「ねぇ、兄さま。お伺いしたいことがあるのですけど」

兄にちょっと甘えたい気持ちが産まれ、橘はその眼を覗き込むようにした。

「うん、なんだ?」

少し身構えるようにして兄は橘を見た。橘が悩みでも打ち明けるとでも思ったのだろうか。

「兄さまたちは、子供の頃どこでお暮しになっていたのですか?」

橘が尋ねると兄は拍子抜けしたような表情をした。

「なんだ、そんなことか。お前も知っているだろう、味橿丘うまかしのをかを」

「はい」

それはあの盟神探湯のあった場所である。

「あの西側にわれら兄弟の家があった。丘は面白かったぞ。いろいろな生き物がおってな。鹿やら猪やら」

「そうだったのですか」

自分たちの住んでいたのはそこから川を隔てた場所だった。意外に近くに住んでいたのだ。その頃、川には絶対に近づいてはなりませぬ、と言われたのは、水にさらわれるのを大人たちが恐れていたのだと思っていたけれど、存外女兄弟と男兄弟を会わせないようにするための作り話だったのかもしれない。

「川には河童という恐ろしい生き物が住んでいて、子供を攫って食べるのですよ。だから決して近づいてはなりませぬ」

と、昔、葵が怖い顔で言っていたのも、そう言えと命じられていたに相違ない。

「兄さまたちも川へ出てはいけないと言われていたのですか?」

「川?・・・ああ」

穴穂の兄は頷くと、

「確かにな。川には変な生き物が住んでいて子供が迂闊うかつに近づけば食われてしまうとか言われたがの、男の子にそんなことを言っても却ってけしかけるようなものじゃ。時折目を盗んで遊びに行ったわ。その生き物とやらを見に行こうとな」

「一のお兄様も?」

「もちろん。今は落ち着いて見えるが、子供の頃いちばんやんちゃだったのは一の兄上じゃ。黒日子と白日子は川に行くのを怖がっておったがあとの二人は、つまり私と大長谷は兄上に連れられて良く川に遊びに行った」

「そうだったのですか。ではその住まいにはお兄さまたちだけが?」

「ん?」

穴穂は橘の問いの意味がよく分からなかったのか、聞き返した。

「もちろん私たちだけではない。世話をしてくれる者たちがおった」

「ええ、でも他の方、例えば市辺忍歯命などは?」

「あのお方はおられぬ」

穴穂は笑ってそう言った。

「あのお方がおられたらもっと楽しかっただろうな。狩のお好きな方だから、きっと山中の獣が獲り尽くされてしまったに違いあるまい」

「そうですか・・・」

「お前たちも同じように脅されていたのだろう?」

穴穂は笑った。

「ええ」

「その頃は女兄弟が近くにおるなどと知らなかったからな。知っておったらからかいに来てやったに」

「でも、川が・・・」

「うーん」

兄は唸った。

「確かになぁ。あの川はさほど広くはないが、流れが速い」

そう言うと、橘がいつもの闊達かったつさを取り戻したと思ったのか兄はにやにやと笑い、寛いだ様子で、

「お前は川には行かなかったのか?」

と橘に尋ねた。

「ええ、散々脅されましたもの」

事実ではなかったが、澄ました顔で橘は答えた。

「それはいい子にしていたものだ。予想に反して」

からかうような口調だったが、橘はそれには反応せず、

「ねぇ、兄さま。子供の頃はずっと川に遊びに来たのですか?」

と尋ねた。

もし、姉が、それが兄だと知る前に一の兄と会ったとしたならば、それはきっとその川でに違いあるまい。だが兄弟が一緒に行くのが常ならば一の兄が姉と二人きりで会うこともないだろう。

尋ねた橘に、うーんと考え込むと、

「そう言えばそうでもないな。一の兄様がある日突然、川に行くのをおやめになった。いや、それだけではない。我々が川に行くのも禁じられたのだ」

と穴穂は手を叩いた。

「思い出したぞ。兄さまはある日一人で川に行きなさって、子供が溺れるのを見たとおっしゃったのだった」

「子供が?」

「うむ。それ以来ぴたりとわれらは川に行くのをやめた。まあ、禁じられてもいたしな。兄上がそうおっしゃった以上、子供が水に攫われたというのは本当であったであろう」

豪快に笑うと、

「何はともあれ、溺れずに済んでよかったわい」

と言った。兄のいささか的を外した感想は聞き流して橘は更に尋ねた。

「一のお兄さまもそれからは?」

「ん?なぜそのような事を聞く?」

「いえ・・・」

「一の兄さまはほどなく宮へ赴かれたからの、そのようなことはなされなかったであろう。男は十五で宮へと呼ばれたからあれは五年も前の事だったか、いや六年か」

兄は指を折って数えている。

でも・・・。兄の動く指をぼんやりと見つめる橘の心には一つの情景が浮かび上がっていた。

一の兄が一人で川に行かれた時、見たのは本当に子供の溺れる姿であったのだろうか?それは美しい女人の姿であったのではなかろうか?そして・・・それはあの時の・・・お姉さまの。

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