第2話 建武の巻

夜が明けきらぬ小道を一人の少女が歩いて行く。

かすかに東の山の端が鈍く赤に染まり始める暁の頃合いで、まんまるの月は未だ西の空にあり、少女はその月あかりを頼りに道を進んでいる。

檜葉ひばのふかふかとした葉を踏みしめるのは気持ちが良い。だが一昨日の暴風に折れたのか枝ごと落ちた杉の葉が、時折意地悪くちくりと肌を刺す。

その代わり、踏みしめた針のような葉からは、思いもよらぬほどはっきりと清々しい香りが立ち上る。

少女が後にした家には、今頃、あおいという名の老女がいぎたなく寝ているはずだ。

「葵にこの香りをかがせたら、びっくりして飛び起きるのではないかしら」

などと密かに考えて少女は微笑む。そして起きた時にふと見遣った老女の不様な寝姿に比べて昨日、久しぶりに見た美しい姿を思い起こす。

「お姉さま、あんなにお綺麗になられて」

少女が向かう先は、姉の家である。三年会わぬうちに、姉がどんなに美しくなったかを想うと、心は弾む。


姉が離れて暮らす前から美しかったのは認める。

でも、きっと私だって、大きくなれば・・・。だって姉妹ですもの。

少女が暫く姉と離れて暮らしたのは、帝である父の奇妙な考え方に発したものである。男は十五、女は十二の歳になるまで、宮の外にある地で男と女がそれぞれに別れて暮らし、歳を満たした生まれ月の朔日ついたちに宮へ呼び戻される。

その間、母とは会えない。代わりに乳母が面倒を見てくれる。父帝は年に二度、新嘗にいなめの祭りの後と菖蒲しょうぶの節句の時にやってくるが、臣下を引き連れてやってくるその様は、父親というよりも別世界の王のようで、馴染めない。その代わり子供たち同士は親密に暮らすことになる。但し、男は男同士、女は女同士であってその間は交わることはない。

宮へ戻ると宮中の礼儀作法を教わるが、教えてくれるのは年上の兄であり、姉である。もちろん、大人たちも手助けするが、兄弟姉妹の結びつきはより強くなる。どうやら、その様子を見て父は兄弟の行く末を決めようと考えているようである。

「私を教えてくれるのはお姉さま」

少女は昨日そう知って、喜びを隠しきれなかった。

ようやく十二の歳になって宮へ呼び戻され、昨日並み居る宮中人の前でお披露目を受けたのだが、中央に座る父の他に知る者は女兄弟だけである。父の横に座っているのが母だと初めて知ったのだけど、この歳になるまで会うことのなかった母は見知らぬ人にしか見えなかった。それでも、その母に手を引かれ父親である帝に挨拶をした時は母に繋がれた手が心強かった。それが血というものなのだろう。

「うむ」

と父は素っ気なく答えると、

冬衣ふゆころもによく教わるのじゃぞ」

とだけ言った。

「はい」

と答えて見遣ったお姉さまは、私を見てにっこりと笑った。その時、お姉さまは確かに輝いていた。

抜けるような白い肌、薄紅を差したような唇、みどりに輝く髪・・・。他の方々も美しくはあったけど、姉はその中でとりわけ美しかった。老女の葵が、姉上を衣通姫そとおりひめと呼ぶ人もいらっしゃるのですよ、お美しさが衣を透けて輝いているようでございますから、と教えてくれたのだけど、ほんとうにもっともなこと、と思う。

「明日、私のところへいらっしゃいな」

そう姉に声を掛けられ、昨夜その娘・・・橘は早くから寝すぎて夜が明ける前に目覚めてしまったのである。

姉のいる家は橘があてがわれた真新しい造りの家と遠くはない。目を覚ますと矢も楯もたまらず、こっそりと起きだして少女は姉の家に向かっている。

夜のとばりが怖くないかと問われれば少し怖いが、少し離れた宮では衛士えじの焚く篝火かがりびが見える。その火と月あかりで目を凝らせば道は見える。この辺りには狼や熊もいないから、心配あそばすなと言った葵もまさか少女が大胆に夜の道を辿るなどとは思っていなかったに相違ない。その葵の言葉を頼りに不安を押し殺して道をたどるのは朝早くに戸を叩いて姉を驚かしてみたいといういたずら心である。

「あれかしら」

月明りの中に黒い影のようなものが建っているのが、遠目に見えた。

「きっとそうだわ」

湧きたつような心を抑えて、道を踏み外さないように気を付けながら少女は歩を進めていく。だがすぐに雲が月を隠し、少女は立ち止まった。篝火は丘にさえぎられている。

「あ」

さっき見えた家らしきもののあたりから、ゆらりと火がともったのを見て少女は小さな声を上げた。灯りは誰かが手にしているのか、上へ横へと揺れながら動いていく。息を凝らしてその火影ほかげを追っていると、不意に雲を抜けた月がその人影を照らし出した。

「お姉さま?」

二つの人影のうちの一つは確かに姉のものであった。その美しい笑顔を間違えるはずがない。そしてその姉が見つめる先には・・・、

「まさか・・・」

竦んだように見つめている少女の前で二人は長い間、互いを見つめあっていたが、やがて男の方が小さく頷くとそのまま離れていった。その足音が少女の心臓の響きと呼応するようにがさがさと葉を踏む音となって耳に響く。

男の顔は良く見えなかった。ただ、その後姿や身のこなしの優美さが只の男でないことを示している。

市辺いちのへの御子さま?」

初めて紹介された兄弟や腹違いの兄弟、そして伯父やその子供たちの中で最も少女が心惹かれたのは帝の長兄である先々の帝の子息、市辺の御子であった。一番年上の木梨皇子より三つ年上の従兄弟は笑顔から覗く白い歯が美しい男であった、

残された姉は男の姿が消えるまでじっと見つめていたが、やがてその姿を見失ったのかこくりと小さく首を落とし、家の中へと消えていった。

少女は、何かいけないものを見てしまったかのように立ち竦んでいた。そしてそのまま、やがてその肩の後ろに暁の光が乗ってくるまでずっと、立ち尽くしていた。

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