レイチェルとヘンリー
「レイチェル、森の奥に綺麗な花が咲いているらしいんだ。一緒に見に行こうよ」
王子様が昨日思い付いたいじわるは、森に連れていき、置き去りにすることです。
もちろん、自分は側に隠れていて、レイチェルが泣き出すのを待つのです。
「行きたい! 探検だね!」
ここに来てから庭園ばかり見ているレイチェルは、あの森に入ったことがありません。
対して、王子様は小さい頃から、メリーや他の家来に連れられて何度も入っています。
とても深い場所以外なら、迷子になっても帰れる自信がありました。
「でも、明日でいい? 朝早く起きてお弁当を作りたいの。ヘンリーにも食べてもらいたいんだ」
可愛い女の子に、満面の笑顔でそんなことを言われれば、明日にしないわけにはいきません。
その日、王子様は他にも森でできることがないか、熱心に考えました。
ちなみに、怪我させてはいけない、とメリーが注意しましたが、さすがの王子様もそこまでするつもりはありません。
やろうとしたのは、レイチェルのお弁当に蛙を入れることだけです。
それもメリーに止められました。
次の日、メリーに頼んでレイチェルのメイドをお茶に誘ってもらうことで、二人きりで森に出かけることができました。
レイチェルははしゃいで、どんどん森の奥に向かっていきました。
王子様は直ぐにヘトヘトになって、ついていくのがやっとでした。
調子にのって、レイチェルの分の荷物も持っていたからです。
諦めてレイチェルに荷物を渡そうとした時、レイチェルが立ち止まりました。
「ここでお弁当にしようよ!」
そこには、他よりも大きな木がありました。
王子様が以前、メリーとお弁当を食べた場所です。
この奥は危ないから言ってはいけない、と言われました。
「ほら! これ、全部私が作ったんだよ!」
卵焼き、芋の煮物、魚の塩焼きにサンドイッチ……。
何種類もの料理がある上に、それらが国旗に見えるように並べてあるのです。
王子様はびっくりしました。
「食べて食べて!」
王子様はサンドイッチを食べてみました。
「美味しい!」
王子様ですから、国一番の料理人が作ったサンドイッチだって、飽きるほど食べたことがあります。
それなのに、レイチェルのサンドイッチは感想が勝手に口から出るほど美味しかったのです。
しかも、本当に一人だけで作っていたことは、メリーから聞いています。
朝早く、厨房にメリーが行くと、既にレイチェルが料理を始めていたと言うのです。
「あ、僕はデザートを持ってきたよ」
王子様は持ってきた箱を開けます。
いちごのケーキ、チョコレート、りんご、炒り豆にいなごの佃煮……。
「すごーい! ヘンリーってお菓子作れるんだ!」
「あははは……」
全てメリーが作りました。
「デザートも食べたし、そろそろ行く?」
ちなみに、王子様が手を付けようとしなかったいなごの佃煮ですが、レイチェルが平然と食べたので王子様はびっくりしました。
「あ、ちょっと待って、僕おし……トイ……べ……そのー、お……おしっこ行ってくる!」
真っ赤になりながら、王子様は走りだしました。少し離れた木の裏に隠れます。
おしっこというのは嘘で、置き去りにする作戦です。
「じゃあ私も小川で水を汲んでくるねー!」
まだ水筒の中身は残ってるはずなので、不思議に思った王子様は木の下を見てみました。
レイチェルはその場を動こうとしませんでした。
恥ずかしくないおしっこの言い方を教えてくれたのだと気付きました。
レイチェルはそんな気遣いもできる優しい女の子です。
なのに今から置き去りにしようとしているのですから、王子様は少し迷いました。
しばらくして、レイチェルが声をかけてきました。
「お腹痛いのー?」
答えるか迷いましたが、無視しました。
「大丈夫ー?」
一度無視したら、もう答えるわけにもいきません。
「そっち行くよー?」
ガサガサと近づいてくる音が聞こえて、王子様は焦りました。
今、小川で水を汲んでいる最中ではないのです。
何もできずに、レイチェルに見つかりました。
「あ、いや、その……」
「ヘンリーってかくれんぼ上手だね! でも見つけたよ!」
レイチェルはただ笑顔でした。
再び歩き始めた後も、レイチェルは疲れを見せることなく、森の奥へと歩いていきます。
既に王子様は帰り道が分からなくなっていました。
「……ねぇ、そろそろ帰らない? この辺り暗いし、怖いでしょ?」
「全然怖くないよ。探検って感じがして楽しい!」
そう言われてしまっては、自分から怖いと言い出すことなんて、とてもできません。
仕方なく、王子様はレイチェルについて行きました。
レイチェルは深い森をものともしません。
急な上り坂でも、高く繁った草でも、グッチョグチョの泥でも、ニコニコと進んでいきました。
「ぜぇ、ぜぇ……。もう無理だよ、足が棒みたいで一歩も歩けない。だから帰ろうよ。…………って思ってるでしょ?」
「大丈夫、全然疲れてないよ! ヘンリーは?」
「…………へっちゃらだよ、もちろん」
本当は、いじわるしたことを謝って、正直にもう歩けないと言おうとしたのです。
なのに、口から出た言葉は違ったのです。
メリーはいつも言います。
――悪いことをすると罰が当たりますよ。
本当の気持ちを言えないのは、レイチェルにいじわるをした罰なのだと、そう思いました。
「…………!」
王子様の目に、涙が溜まっていきます。
でもそれを溢すのはカッコ悪くて、上を見上げました。
枝の間に、わずかに灰色の空が見えました。
「…………、……!」
王子様が泣くのがもう少し早いか、または遅かったら。レイチェルが呼んでいるのに気づいていれば。
また違う結果になったことでしょう。
けれど、王子様が泣き始めたのはこの場所で、レイチェルの言葉は耳に入っていませんでした。
足を何かに引っかけ、突然、王子様の体が前に倒れました。
そこで初めて、自分がどこに向かって進んでいたのか気づいたのです。
「ヘンリー!」
ようやくレイチェルの声が聞こえたのとほぼ同時に、王子様は派手な音を立てて川に落ちました。
立てるほど浅くはなく、疲れている王子様がどうにかできるほど緩やかな流れでもありません。
なすすべもなく、王子様は流されていきます。
レイチェルの顔から微笑みが消えました。
王子様は、誰かが自分の名前を呼んでいることに気がつきました。
でも、王様でもメリーでもありませんでした。
「ヘンリー!」
目を開けると、びしょ濡れの女の子がいました。
女の子の長い髪の毛から垂れた水滴で、ヘンリーの顔も濡れていました。
「ヘンリー! 起きてよぉ!」
女の子は、まだヘンリーが起きていることに気がついていませんでした。
大粒の涙が顔に落ちてきます。
「レイチェル……?」
王子様はやっと、目の前で泣いている女の子がレイチェルであると分かりました。
彼女はいつも笑顔なので、すぐには気づきませんでした。
「あ、ヘンリー! 良かったぁ」
レイチェルはヘンリーの脇にヘナヘナと座り込みました。
どうしてレイチェルがびしょ濡れなのかを考えていると、王子様は自分が川に落ちたことを思い出しました。
けれど、それならなぜ、レイチェルがびしょ濡れなのでしょう。
「どうしてレイチェルが濡れているの? もしかして……」
王子様の思った通りです。
流されていった王子様を、レイチェルは川に飛び込んで助けたのです。
けれど、レイチェルは言いませんでした。
助けたことも、自分も溺れかけたことも、岩で腕を怪我したことも。
「ごめんなさい! 私が森の奥に誘ったせいで……本当ににごめんなさい!」
レイチェルはポロポロと涙を流しながら謝りました。
「謝るのば僕の方だよ! 森に置き去りにしようとしたし、他にもいろいろいじわるして……ごめんなさい!」
王子様も同じくらい涙を流しながら謝りました。
それからは、二人で謝り合いながら大泣きしました。
長いこと泣いて泣いて泣いて、それから笑いました。
笑いながら、王子様は気づきました。
ずっと見たいと思っていたレイチェルの泣き顔を見たことに。
そして、レイチェルが泣くのを見ても、ちっとも嬉しくなかったことに。
王子様がレイチェルを泣かせようとすることは、もうないでしょう。
次の日の昼になって、二人はお城に戻ってきました。
誰もが心配していて、無事に帰ってきた時は誰もが泣いて喜びました。
レイチェルがいなかったら、例え奇跡が起こっても帰ってくることはできなかったでしょう。
王様はレイチェルにお礼を言いました。
メリーとレイチェルのメイド、のんびりとお茶を飲んでいた二人は、それはそれは怒られました。
危うくクビになるところでしたが、他に王子様やレイチェルの面倒を見れる人がいないので、ちょっとした罰則で済みました。
そして、二人がたっぷり三日休んだ後、王子様は王様に、レイチェルは自分の父親に呼び出されました。
その時の怒鳴り声といったら、まるで雷が落ちるかのようでした。
メリーとメイドの時の何倍もの時間、二人は叱られ続けました。
王子様はレイチェルと一緒に家出しようとまで思いました。
けれど、王様に抱きしめられて、そんな考えは吹き飛んでいきました。
レイチェル?
彼女が頭の中で考えていた家出計画を実行していれば、どんな人探しの達人でも見つけることはできなかったでしょう。
それから五年後、二人は取り決め通り結婚しました。
親が決めた結婚とは思えないほど、二人の仲は良いと評判です。
私もそう思います。
きっと、素晴らしい王妃様と王様になることでしょう。
さて、この話だけでは王子様が嫌われ者になってしまうかもしれないので、別の話もしておきましょう。
結婚したその日、王子様は私にプレゼントをくれました。
羽根ペンです。
小さい頃に折ってしまったお詫びにとくれました。
なんと、国一番の職人に教わって、自分で作ったというのです。
嬉しくて嬉しくて、私は泣いてしまいました。
使うのがもったいないので、とても大事な時にだけ使っています。
例えば、そう、二人から聞いたこのお話を書き留める時とか。
ヘンリー王子と笑顔のレイチェル 水棲サラマンダー @rupa_witch
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