魔女と夜景

水棲サラマンダー

箒で空を飛べた

「……まさか、灯が魔女になるとはね」

「私だってびっくりだよ。おとぎ話の中だけだと思ってた」


 自分が箒で飛べることに気づいた私は、幼馴染の圭助を空の散歩に誘った。

 こうして、二人で港の夜景を見てみたかったのだ。


 今は目的地にたどり着いて、ベンチに座るみたいに、横向きに並んで座っている。


「……フフッ」

「どうしたん、急に笑い出して」

「いやぁ、けーちゃんのひっくり返り方が漫画みたいだったから」

「うっせー」


 2階の自室で勉強中だったけーちゃんに、窓の外から声をかけたのだ。

 窓の外に足場なんてないから、最初は幽霊だと思ったらしい。


「そんで? 真夜中にこんな所来て、何がしたいんだ?」

「今夜だけだし、けーちゃんと夜景が見たいなぁと思っただけ」

「今夜だけ?」


 おっと、口が滑った。

 これは言うつもり無かったんだけどな。


「これが夢かもしれないじゃん。朝起きたら飛べなくなってた、ってなる前に、けーちゃんを乗せてみたかっただけ」

「それほど俺と飛びたかったのかぁー」


 けーちゃんはニヤニヤと笑った。

 事実だけに反論しづらい。


「へらへらして落っこちないでね。ここ水の上だから死にはしないだろうけど、けーちゃん泳げないし」

「分かってるよ。ぎゅっと握ってるから」


 けーちゃんは箒の柄を固く固く握っていた。

 もう何分も乗ってるというのに、未だ指が白くなるほど握りしめている。

 平気そうに見えても、水は彼にとってそれだけの恐怖なんだろう。


 ……昔、けーちゃんは川で溺れたことがある。

 それまでは泳ぐのが得意だったのに、今では水泳の授業も見学するほどだ。


「地面に落ちるよりは水の方が安全だからここにしたんだけど……場所変える?」

「大丈夫大丈夫。風もそんな吹いてないし、落ちたりしないって」


 そう言って、平気な顔で笑ってみせる。


 けーちゃんは強い人間だ。自分の危険を顧みずに、人を助けに行ける人間だ。


 だから……私も好きになっちゃったんだ。


「ねぇけーちゃん」


 夜景から目を離して、けーちゃんの顔を見つめる。

 赤くなっているのかまでは分からないけど、動揺しているのが伝わってきた。


「好きです」


 目を見開いて、口をぽかんと開けて……そんなに意外だったのか。


 私に告白されるなんて、微塵も思っていなかったらしい。


「まぬけな顔になってるよ」

「え……いや、だって……俺のこと、恨んでるんじゃないの? 美咲のことで……」


 美咲。

 私の妹だ。


 私の三つ下で、お姉ちゃんお姉ちゃんって、いつも私の後ろを付いてきていた。


 今では中学二年生、勉強に悩んだり、部活に精を出したりしているだろう。

 誰かに恋をしていたりするかもしれない。


 ……生きていれば。


「美咲が死んだのは俺の……俺が美咲を殺したんだから」


 そう、八年前、彼女はけーちゃんに殺された。


 記憶と写真の中でしか、美咲の笑顔を見ることはできない。


 彼女にお姉ちゃんと呼ばれることはない。


 後ろをついてくることもない。


 二度と、会うことは叶わない。







 当時、私とけーちゃんは小学三年生、美咲は六歳。


「来年から小学生!」

「お姉ちゃんと一緒に学校に行けるんだ!」


 そう言って、ランドセルを背負ってニコニコ笑っていたのを思い出す。

 私も嬉しくて、あの先生は怖いとか、国語が楽しいとか、あれこれ教えていた。


 田んぼばかりの田舎だから子供の数も少なくて、遊ぶのはいつも三人。


 上の二人が「探検だー!」なんて言ってあちこち連れ回すものだから、美咲は擦り傷だらけで、私達は大人にしょっちゅう怒られていた。


 美咲も楽しんでいたし、怒られたくらいで懲りる子供でもなかった。

 その日は確か、田んぼの脇の用水路でタニシを取っていたと思う。


 トイレに行きたくなって、私だけ家に戻ったのだ。

 用を済ませた後、母親に人数分貰ったオレンジジュースの缶を持って戻ると、二人はいなかった。


 そこを離れる時、けーちゃんが「ここのタニシ、全部灯が取りやがったー!」って言っていたのを思い出して。


 きっと別の用水路に行ったんだろうと思って。


 でもどこの用水路にもいなくて。


 ……二人が立ち入り禁止の川で発見されたのは、その日の夕方のことだ。


 けーちゃんの方は一命を取り留めたけど、美咲は助からなかった。


 けーちゃんが「自分が川に誘った」って言ったことで、彼は悪者になった。


 彼の両親が家に来て平謝りした。

 うちの母親がけーちゃんをビンタした。

 父さんは胸ぐら掴んで怒鳴り散らした。


 こっそり覗いていた私がビービー泣くほど怖かった。


 それでもけーちゃんはなぜか泣かなかったのだ。

 川に落ちたのが怖すぎて、あれくらいじゃ怖くも何ともなかったのかもしれない。


 その彼がワンワン泣いたのは……私が「人殺し」って言った時だ。







 あの日から、彼は強い人間になった。


 それが当然のように、人を助けられる人間になった。


「確かに、美咲を殺したけーちゃんを恨んでるよ」

「でしょ、なのに何で好きなんて――」

「恨めしいって感情と、好きって感情は両立するみたい」


 自分でも驚いた。

 私はけーちゃんのことを恨んでいるんだと、そう思っていた。

 一人でいると彼のことを思い浮かべてしまうのは、殺したいほど憎んでるからだと。


 でも、いつしか、私はけーちゃんのことが好きなんだと自覚した。

 教科書を貸してくれた時か、絆創膏をくれた時か、談笑している時か、それ以外の時なのかは分からないけど。


「返事、聞いてもいいかな」

「おっ、俺で良ければ、もちろん!」


 ぎゅっとハグをする。

 少し早めの、けーちゃんの鼓動が伝わってきた。

 恐る恐るといった感じで背中に当てられた手は、じんわりと温かかった。


 ちらっと腕時計を見ると、十二時五分前。


「ねぇ、次はキスして」


 ハグを止めて元に戻ると、けーちゃんはこの暗がりでも分かるほどに真っ赤だった。


「キ……キスはちょっと早くない?」

「いーじゃん、お願い」


 どうしても嫌と言うなら諦めるけど、やはりただの照れ隠しだったようで、徐々に顔が近づいてくる。


 目を瞑ってしばらくすると、唇に温かくて、柔らかいものが当てられた。


 人生で初めてのキス。多分けーちゃんも。


 味とか分かんないけど、とても幸せな気分だ。


「……ふぅ。けーちゃん、これだけは信じて欲しいんだけど」


 一旦言葉を切って、目を瞑る。


 一瞬、このまま帰ってしまおうかとも思った。それもありかもしれない。


 けれどそれはできない。

 もう引き返せない。


「嘘偽りなく、けーちゃんのことが大好きです」

「もちろん信じる。僕も心の底から大好きです」


 最後の心残りが消えた。

 消えてしまった。


 けーちゃんの背中を強く押す。


 ざっぱぁーんという大きな水音が悲鳴をかき消す。

 しばらくは暴れる音が聞こえていたが、やがて元の海に戻った。


 十二時まで、あと三分。


「最後まで実行なさらないつもりかと、ヒヤヒヤしましたよ」


 どこからともなく聞こえてきたその声は、箒に乗って飛ぶ力を私に授けた存在。

 一言で言えば、悪魔。


 夕方、こいつが契約を持ちかけてくるまで、けーちゃんへの恨みは無くなったと思っていた。

 私はけーちゃんのことを許して、そして彼のことを好きになったのだと。


 違った。


 恨めしいという感情と、好きって感情は両立してしまう。

 消えかけていた憎しみの炎は、再び大きく燃え上がってしまった。


「ねぇ、達成感も何もないんだけど。……私って、本当にけーちゃんのことを恨んでたの?」

「さぁ? 復讐を達成すると、虚しくなると申しますから」


 それでも後悔はして……。


 …………。


 後悔してないと、言い切れるのだろうか。


 美咲を殺した犯人に復讐したことは、微塵も後悔していない。

 それは断言できる。


 けれど、幼馴染――恋人をこの手で殺したことに後悔はないかと言われると……。


「自分が後悔しているかなんて考えるのは、おすすめしませんねぇ。清々しい気持ちのまま死にたいでしょう?」


 ……そう、私は今から一分少々で空を飛べなくなり、魂をこの悪魔に取られる。

 そういう契約だ。


「魂ってどうやって取るの?」

「スッと。痛みも苦しみもありません。眠るように安らかです」


 少し大きめの波が来て、ざぷんと音を立てた。


「それ、変えられる?」

「ご自由に」

「じゃあさ、このまま落ちて、溺れて死にたい」

「……お望みとあらば」


 けーちゃんは苦しんで苦しんで死んだ。もしかすると、まだ苦しんでいる最中かもしれない。


 私だけが安らかに死ぬのは不公平な気がした。


 目を瞑って、やっぱり開いた。

 自分のしたことから目を背けているような気がしたし、けーちゃんは目を開けていたわけだし。


 ……それは建前で、ただただ怖かったのだ。何もない真っ暗闇ってのが。


 港を見つめる。


 私とけーちゃんの間に、何の恨み恨まれも無かったら、ベンチにでも座ってあの夜景を眺めることもできたのだろうか。


 そう妄想してしまうくらい、きれいな景色だった。


 ……時間だ。


 箒が消え、体が自由落下を始める。


 さよなら、けーちゃん。



 海は真っ黒だった。

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