嘆きの森の食卓
鍋島小骨
侍女メイエは手紙を書かない
長年世話になった元上司にやはり一度手紙くらい書こうと定期的に思うのだけれど、『こんな話を信じてもらえるはずがない』の一言で考え直せるのが便利と言えば便利だ。お陰で、決して明かしてはならない秘密を漏らさずに済んでいる。
誰にも言わない方がいいのだ――魔族の屋敷で働いているなんてことは。
それでも、もしも書くならばどんな風に書いたらいいのだろうか、と考えることは多い。
そうしてまた、かぶりを振って自嘲する。
現状、端的に言うとこうなる。
『
こんな話を、信じてもらえるはずがない。
* * *
お城のようにしなくていいと言われてはいるものの、どうしても習い性通り朝から晩まで主人の世話をしてしまう。今の私の主人は、かつて仕えたダージュ領主の娘アルケ様の一人娘、リリア様だ。
様というと怒られる。仕え始めの時にリリアと呼ぶよう約束させられてしまったから。自分は庶民育ちでお姫様じゃないのだからと言うけれど、私にとってはやはり小さい姫様だ。
ただ、人間ではない。
人間の母親アルケ様から生まれ、人間として暮らしていたけれど、遠く魔族の血を引いて不思議な力のあったアルケ様が産み落とした星の子だった。強大な魔族のように
いや、間違えた。クロイというのは、彼がアルケ様の家庭教師をしていた頃の偽名だった。本当の名は――。
扉を叩いて部屋に入ると、開けっぱなしの窓から朝陽と一緒に入る風が、寝台に巡らされた白い
その寝台の上にいる二人を見て、私はもう怒る気もしなかった。
「お二人とも、ご存知だといいのですけれど朝ですよ」
おはようメイエ、と私の可愛い主が笑い声を立てながら言う。彼女に口付けていた屋敷の主も、少し振り返って怒る様子でもなく、ああ、おはようメイエさん、と微笑む。
私が仕える
例えば、
「そろそろ朝食のご用意ができます」
「じゃあ、もう
「いけません。
昔の癖で、ヴィルカのことはつい先生と呼んでしまう。まったく、こんな人だとは思いもしなかった。いや、人ではなかったのだが。
ヴィルカは
ところが、私が聞かされていた吸血鬼とは全然違う。処女の血しか飲めないわけではなく人間と同じものを食べるし、なんなら血よりも普通の食べ物の方が好きで自分で料理もする。人間時代のリリアを
彼は人間時代のリリアを見つけ、飢え死に寸前だった彼女を死なせないために自分の命と記憶を賭した。眠る彼女をこの屋敷に連れてきて養生させ、目覚める日を待ち続けたのだ。そしてリリアに自分の生気を与え続けている。
リリアは
ただ、伴侶と同じで、人間の食べ物も食べられる。この世でヴィルカが一番美味しい、などと言うものの、リリアは普通の料理を食べることがとても好きだ。人間時代を飢えて過ごした彼女が美味しそうに食事する姿が嬉しいのだと、先生も
――おれ、タシャ結構好きなんだよ、うまそうにもの食うから。
初めて会った時からギィはそう言っていたっけ。あの時、リリアはまだぎりぎり人間で、タシャと呼ばれていた。
「メイエ、どうしたの?」
「……いえ、何でも。あなたの頬がずいぶん柔らかく丸くなって嬉しいな、と思ったんです」
『タシャ』の時代は、
アルケ様の一人娘が食べるにも事欠いて生きてきたなんて、今でも腹立たしくて仕方がない。横暴で残酷な大人たちに奴隷のように扱われて、どんなに辛く寂しい思いをしていたことか。それに比べたらこの魔族だらけの屋敷はずっとましだ。
かつての私は、人間が魔族側になることは大きな失敗であり、愚かで不運だと思っていた。けれども、タシャ――リリアをめぐる人と魔族の様子を見ていてすっかり気持ちが変わってしまった。
リリアは人間に
それが現実だ。
顔を洗ってもらい、楽な服を着せたら髪をきちんと
この屋敷では、主も従者も一緒に食事をとる。屋敷の主たるヴィルカが台所に入り浸って誰彼構わず食べさせようとするのだから、そうならざるを得ない。客のある時ですらそうなのだから変わっているが、私は貴族じゃないからね、と主は言うばかりだ。
パンの焼けたいい匂い。柔らかく切り分けられたバター。湯気を立てるスープに、牛乳たっぷりのお茶。珍しいわけでもなく、豪勢なわけでもない、言ってみれば平凡な食卓だ。
でも私の仕えるリリアは、この食卓が夢のようだと言う。
食べ物が与えられずに人の食事あとからパンくずを拾って食べていたという人間時代、どれほど飢えて辛い思いをしていたことか。
見ると、テーブルの一方に
「そっか、今朝のスープはあなたたちが作ったの?」
リリアが言うと、三羽はこくこくと頷いた。
「お野菜切った」
「きのこも切った」
「
「それでぐつぐつ」
「ぐるぐる」
「あつあつ」
「ふうふう」
わかった! とリリアは笑って頷いた。
「いただきます」
木の
ああ、でも、この少女にはお行儀などよりはるかに大事なことがあるのだ。それが、溶けるような笑顔から分かる。
「……おいふぃー」
沁み通るような声と笑顔でリリアがそう言うと、
「ねぇみんな味見した? すごくおいしい、きのこおいしい」
「やった! リリアおいしい?」
「おいしいー」
力強く頷いたリリアを見て、
人に化けて町に行くようなことがこの先あるかもしれない、そのときお行儀のせいで魔族とバレてしまわないように、と先生が私に依頼した。この屋敷で私に、リリアのお世話以外の仕事をつくってくれたのだと思う。お陰で
おいしいね、おいしいね、と言いながらスープやパンを食べる子供たちは、本当にかわいい。くすくす笑いながら
リリアに必要だったのはこれだ。
大事なおまえが飢えないように、温かくておいしいものを、みんなで一緒に、という食卓こそが、誰も彼もに見下されお腹を空かせて孤独に生きてきたリリアには、絶対に必要だったのだ。
人間だった時代、始めて
ふと、リリアと目が合った。暖まって血色のよくなった小作りな顔が、わずか傾く。
「メイエ、あんまり食べないね。具合悪い?」
「いいえ――いいえ、リリア、大丈夫ですよ」
優しく可愛らしい魔族の少女。私の大切な主。このかたは伴侶と共に長い長い時間を生きはじめたばかりだ。
私はその旅の、ほんの最初のところまでしか一緒にはいられないだろう。人間は、すぐ老いてすぐ死ぬ。
それでも、この身体の動く限りお仕えしよう。そうしていつか死の国の門を
「あなたを見ていると、お母様のアルケ様を思い出すのです。夜色の瞳も綺麗に波打つ髪もそっくりですよ。それに、アルケ様のお子がもうこんなに大きくなって私の名を呼んでくださるなんて、信じられない、奇跡のようなことだなと、毎朝思いましてね。それで胸が詰まって、食べるよりもつい、あなたを見てしまうんですよ」
リリアは、戸惑ったような、けれども美味しいものを食べたときのような、泣きそうな
「メイエが私を見ていてくれて嬉しいよ。私のために
ありがとう?
どうして?
あなたが生きていてくれたことが私はこんなに嬉しくて、まだあなたにはほとんど何もしてあげられていないのに。
それなのに、私にお礼を言ってくれるのですか。
世の中にこんなに可愛い、優しい魔族がいるとは、私はついぞ考えてもみませんでしたよ。
リリア、あなたに会えて本当によかった。
まったく、この私が吸血鬼に感謝する日が来るとはね。こんなことを書いて送ったら気が違ったと思われるかもしれないから、やっぱり手紙を書くのはやめましょう。
だって、書くとしたらこうですよ。
『親愛なる育ての母、ワイムさん
お元気でいらっしゃいますか?
私は元気で働いています。驚いたことに、私はダージュのお城にいた時よりも
ここは
ねえ、信じられますか。主は、あのお祭りの日にお城に来たアルケ様のお嬢さまなんです。あの方に私は今、仕えています。お元気だった頃のアルケ様に似て好奇心たっぷり、森が大好きな可愛らしい方です。素直で、ひねたところがちっともなくて、お行儀でも読み書きでも教えがいがあります。時々、
それに、主の伴侶は私たちがクロイ先生として知っていたあの方なんですよ。あの方、
とにかく、楽しくやっています。ダージュでワイムさんに教わったことは何一つ無駄にしません。ここで、力の及ぶ限りアルケ様のお嬢さまにお仕えするつもりです』
……ねえ、こんな話を、信じてもらえるはずがないじゃありませんか。
ああ、でも、教えてあげたい。一緒にお仕えしたアルケ様の一人娘がいま何をしているかということ。以前よりずっと幸福だということ。
ワイムさん、私の主はいま、仔鴉の魔族たちと一緒にお台所に行って、スープのお代わりをよそっていますよ。美味しそうな匂いと湯気の中で笑っています。器を上手に持って食卓に戻ってくると、私と先生の間に座って食べ始めます。もうちっとも怯えていない。
たっぷり食べたらみんなで後片付けをして、それから今日は薬草園の手入れを一緒にする予定。
ワイムさん、私はできる限り健康で長生きするつもりです。
一日でも長く、ここでリリアのお世話がしたいのです。
ねえ、ワイムさん。
私もたぶん、ここにいて幸福なんですよ。
* * *
「あんたは本当に、嬉しそうにリリアを見るよな」
林檎を
リリアは熊の仔みたいに上手に針葉樹を登り、枝に座ってとびきり大きな
「あのかたの人間時代を生き地獄にした者たちが絶対に許せませんのでね。いま穏やかに笑ってらっしゃる姿を見るのが私は何より好きですよ」
「未だに自分のことも赦せないんだろう、あんたは」
「当然だわ」
私が熱に臥せっていたたった一夜、その一夜のせいで赤子は取り替えられ、リリアは産みの母アルケ様から引き離されて辛い人生を送った。
私があの方を長い間飢えさせたのだ。
しゃく、とギィが林檎を噛む音が続いていたが、やがてそれも止んで、こんな言葉が聞こえてきた。
「
何ですって?
思わず振り向くと、ギィは愉快そうに笑っている。
「方法は何とでもなるからな。……あんたは、リリアに何か教えるのでも薬を作るのでも、自分がすぐ死ぬからと思って急いでやってるだろう」
「勿論ですよ。あと二、三十年もお仕えできたら良い方でしょうね。それも年々身体は動かなくなるはず。私はもう若くないのだから」
「リリアがそれに気付いてないと思うか? あの
はっとした。
リリアとはそんな話、一度もしたことはなかったのに。
「あんたが
だけどあんたにはあんたの矜持があるだろうから、あくまでも人間として生きて死にたいということなら――と言いさしたギィに、考えさせて、と私は答えた。
今度はギィの方が目を丸くする番だった。
「そういうことが可能だと思わなかったので考えもしなかったけれど、できるというのなら……リリアや街の人間たちに害を与えない形でできるというのなら」
悪くないんじゃないか。
素直にそう思ってしまった。
これは、よくよく考えなければならない。
見ると、ギィがくつくつと笑っている。
「何です?」
「いや、悪い悪い。ヴィルカの言う通り、あんたはほんとに頭の回転も決断も速いなと思ってさ」
「まだ決めてないわ」
「でも、魔族になることも選択肢のひとつに入れようと即決めただろ? そのことだよ」
普通の人間は頭から拒否するもんだ、とギィは言うが、ことここに至っては、世の中の普通などよりリリアの方が私には大切なのだ。
「とにかく、よく考えるわ――リリアにとって良い方向に」
「あんたにとってもだよ。あんたの人生だ。魔族になったらそれが途方もなく長いんだぞ。良し悪しだ、よく考えな」
つやつやの赤い林檎をひとつ私に押し付けて、ギィはリリアの方へ歩いて行ってしまった。
私の人生?
そうね。リリアに全力でお仕えすると決めた。
着いていける範囲でなるべく遠くまで一緒に行くというのも、仕え方のひとつではある。死の国へ辿り着きアルケ様にお会いするのが遅くはなるけれど。
そして、これこそ本当にワイムさんへの手紙には書けないな、と思って私も少し笑ってしまった。
向こうで、座っていた高い枝からリリアが飛び降りようとしている。それを見ても私はもう悲鳴をあげたりしない。リリアはつむじ風を呼べるようになり、地面に叩きつけられることなく降りられる。それに、今は真下に
安心して、私は彼らの方へ歩いていく。
リリアが枝から離れる。枝に積もっていた粉雪が同時に散って、少女の周りにきらきらと輝きながら、氷の花火みたいに真っ直ぐ落ちていく。小さなつむじ風がその軌跡を螺旋状に変化させ、間もなく、ヴィルカが差し上げた両手の中にリリアが綺麗におさまって、そのままぎゅっと抱き止められる。追って、長い美しい髪が夜色に波打ち、少女の背に戻る。
抱かれたままのリリアの笑い声が聞こえて、ああ幸せだなあ、と思った。
この先どうするにせよ、私はすべてをリリアのために決めるだろう。この星屑の少女を再び飢えさせないよう、苦しませないように。
そう確認すると私は、林檎ひとつを手にして主の方へと歩いていく。
現状、端的に言うとこうなる。
『
こんな話を、信じてもらえるはずがない。
誰にも言わない方がいいのだ――魔族の屋敷で働いているなんてことは。
ちょっと
そのまま歩いていくと、
「ああ、メイエさん、ソースができているからあとで味を見てくれませんか。今夜の鹿肉に使う予定だから」
「分かりました。でも正直、私よりも先生の舌の方が確かだと思いますけれどね」
「今日は私じゃなく
「おやおや、ついに! それは楽しみですわ」
私は味見したよ、とまだ抱かれたままリリアが言う。いつの間に、とヴィルカが笑って、リリアの頬に軽く口付けた。
まったく、仲の良い。
こんな風に、決して明かしてはならない秘密の森に、私は住んでいる。
そして、その現実をとても、とても気に入っているのだ。
〈了〉
嘆きの森の食卓 鍋島小骨 @alphecca_
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