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 ラミネウスは先程暴風によって吹き飛ばされたとは思えない程軽やかな身のこなしで、テクラの首を目掛けて疾駆する。その手には、銀色に光る短剣が握られていた。


「寄るな、妖魔め!」


 嫌悪感を露にしながら、テクラは右腕を振り上げる。地面から、幾つもの尖った木の根が出現し、ラミネウスの体を貫かんと迫る。

 しかし、ラミネウスは少し目をすがめただけだった。このような攻撃など慣れっこだと言わんばかりに、構うことなく突進していく。


(援護しなければ)


 ラミネウスという男は気に入らないが、今は目的をほぼ同一にする間柄である。

 篝はすう、と息を吸ってから、「──『盾』」とよく通る声で放った。本来ならば和歌の形にして口にするべきだが、今は長々と詠唱している余裕などない。テクラに勘づかれて、此方に矛先を向けられたら一巻の終わりだ。

 ラミネウスの全身を包むように、薄い膜のようなものが現れる。テクラは瞬時にそれを確認したらしく、あからさまに不機嫌そうな顔をした。


「小癪な!」


 地を這う根とは別に、彼女は衝撃波を放つ。ラミネウスは巧みにそれらを回避したが、時折盾たる膜を掠り、外殻は次第にひび割れていった。

 やはり、即席の術では耐久性が劣る。篝は小さく舌打ちした。

 腕の立つ言霊の術者であれば、短い文言だけで完成度の高い術を用いることも可能だろう。しかし、篝はまだまだ三流、三十一文字みそひともじに霊力を込めなければまともな形を保つことは難しい。即席で用いた今のような術では、せいぜいその場しのぎが良いところなのだ。

 ラミネウスに向かって、テクラの殺意が牙を剥く。術を次がなければ、と篝は唇を動かそうとした。


「──おや、これはありがたい」


 ──が、それよりも一足早く、ラミネウスを守るようにして霊力の塊が形を成す。目には見えないが、その奔流の強さは篝にもたしかに感じ取れた。


「外つ国の術者よ! 微力ながら、お前の援護を行おう。お前は鬼女を倒すことに専念せよ!」

「あなたは──」


 舞台の上に立ち、神官たちと共にテクラを見据えているのは大巫であった。先程の霊力は、彼女によるもののようだった。

 大巫が用いたのは、霊力の修復だろう。見れば、篝によって形作られた盾は二重の層を作り、耐久性を向上させている。ひび割れていた箇所も、大巫の霊力によって元通りだった。

 大巫の補佐に向かうべきか。篝は足を動かそうとしたが、それよりも先に彼女は口を開いている。


「篝! お前は其処にいなさい。あの鬼女とは、浅からぬ縁があるのだろう? いざという時は、お前が動きなさい!」

「大巫様……!」

「我々の身を案ずる必要はない! 私が付いておるのじゃ、無駄死になどさせはせぬ。お前はお前にしか出来ぬ役目を果たせ!」


 御意、と篝は返答する。大巫が力強くうなずくのが見えた。

 篝は浅く深呼吸をしてから、ラミネウスの動向を追う。今は彼の援護に徹することが最善だろう。


(あの男は、外つ国の鬼にも造詣が深いと見た。奴の安全を確保しつつ、鬼女の隙を掴むことが出来れば)


 勝機は、あるかもしれない。

 ラミネウスは、既にテクラの眼前にまで迫っている。篝は彼の行動を見逃さないよう目を凝らす。

 ラミネウスの手に握られた銀の短剣が、太陽の光を受けてきらりと閃く。それは真っ直ぐ、テクラの心臓に向かう。


「無駄よ!」


 テクラはそう叫んだかと思うと、自身に向けられた短剣の先端を躊躇いなく掴んだ。ラミネウスの目がにわかに見開かれる。


「馬鹿な──お前、太陽だけでなく銀も克服したのか──?」

「見ての通りだ、妖魔。私とて、この数百年間ずっと引きこもるのみの生活を送っていたのではない。最早甦っただけの屍人しびととは呼ばせぬ!」


 ぐ、とテクラは短剣を掴んだ手に力を込める。彼女の掌から流れる血液と共に、ぱき、と何かが砕けるような音が鳴った。

 外つ国の鬼の特徴を、篝は知らない。だが、ラミネウスの口振りからして、一般的には日光と銀が弱点なのだろう。使い魔の白猫に銀の首輪を着けていたのは、魔除けの作用を期待してのことだったのかもしれない。


(だが、日ノ本の鬼は尖ったものを嫌うという。だというのに、あの鬼女は短剣に手を伸ばすことを躊躇わなかった)


 日ノ本における鬼の弱点すらも、テクラは克服したというのか。

 かつて柊や鰯によって弱体化させられたテクラのことだ。人への憎しみや、次こそは失敗してなるものかという執念から、弱点を克服した可能性もあり得なくはない。

 ラミネウスは僅かに眉を跳ね上げて、即座に短剣から手を離す。そして、直ぐ様後方へと飛び退いた。


「驚いたな。まさか弱点を克服しているだなんて、夢にも思わなかった。お前、一体何になった?」

「何に、だと? ──ハ、何かと思えば、これは可笑しなことを聞く。私は神になったのだ」

「しかし、もうお前を信仰する村人はいないと聞くぞ? あの術者の女のように、お前の力を利用せんとする者はいるだろうが……。お前を神として崇め奉るものは、もう何もない」

「貴様」


 知ったような口を、とテクラは魔法使いを睥睨へいげいした。

 しかし、ラミネウスは動じない。むしろ、しめたと言わんばかりに笑みを深めた。


「おや、何を怒っているのかな? お前はもとから忌避され、排斥され、拒絶される存在だっただろうに。何に傷付く必要がある? 何に憤慨する必要がある? どう足掻いたところで、所詮お前は弾かれ者じゃあないか」

「──黙れ!」


 黙れ黙れ黙れ、とテクラは繰り返す。

 ごう、と唸りながら、今までよりも激しくうねる衝撃波が繰り出される。ラミネウスはひらりと避けたが、地面に落ちたそれは看過出来ない大きさの弾痕を作った。


「貴様、同じ弾かれ者の分際で、わかったような口ばかり利くな!」


 大きく肩で息をしながら、テクラは吠える。そのまま、彼女はラミネウスへと飛び掛かった。


「魔法使い!」


 ラミネウスがどれほど体術に優れているのかは知らないが、ふとした拍子に肉を喰い千切られでもしたら堪ったものではない。篝は顔を青くさせて、ラミネウスにかけた防御を強化せんと努める。


「『いにしえの 怒れる真蛇が 敵なれど 汝が憎悪 知りしためしか』」


 ラミネウスの体を覆っていた膜は、僅かに輝きを増した。問題なく強度は高められたようだ。

 相手にかけられた術をテクラも察知したのか、じ、とその視線が盾の外殻に向けられる。彼女はほう、と息を吐いた。


「下らん」


 ばり、と。

 破れるような、砕けるような音だった。

 テクラはいとも容易く、篝と大巫によってかけられた術を破壊した。たった一度、その外殻を殴り付けるだけで。


「何……!?」


 大巫も、この状況にはわかりやすく狼狽えていた。まさか、此処まで容易に打ち破られるとは思っていなかったようだ。それは篝も同様である。

 ラミネウスは一瞬目を見開き、懐から武器か何かを取り出そうとした。──が、それよりも先にテクラの拳が脇腹に叩き込まれている。

 ぐうっ、と呻き声を上げながら、ラミネウスは地面に転がった。口元から血を流しているところを見ると、軽傷とは言えない。

 篝は彼に駆け寄りたい気持ちを抑え、テクラを睨み付ける。


「『壁』!」


 今のラミネウスに、これ以上の深手を負わせてはならない。少しでも時間稼ぎをせんと、篝は霊力によってテクラの前に壁を作る。

 テクラはふん、と高慢に鼻を鳴らす。篝を下等生物と見なしているが故の表情と行動であった。


「……術者もどきめ。そのようなお粗末な術が通じると、貴様は本気で思っているのか?」

「…………」

「私は、吸血鬼として、そして鬼としての弱点を、この村の神に成ることで克服した。貴様の貧弱な術など、霊力の無駄遣いに過ぎない。愚かなことよ」

「愚かなのはお前だろう、テクラ」

「──何だと?」


 篝を嘲笑っていたテクラは、他ならぬ彼の反論にぴたりとその動きを止めた。

 テクラの表情から指先まで硬直した瞬間を、篝は見逃さない。眉間に皺を寄せながら、畳み掛けるように口を開く。


「お前は直情的過ぎるんだ。己が感情に突き動かされるままに動いて、結果的にはやけくそになっている。考えるよりも先に体が動いてしまう性分を悪く言うつもりはないが、お前の場合はその性分でわかりやすく自滅したじゃないか」

「何様のつもりだ、貴様は」

「何様でもないさ。俺は部外者だ。金峰村に伝わる伝承や因縁も、ついこの間知ったばかりの新参者だ。本来ならば、口出しをするべきではないのだろうが──お前があまりにも哀れだから、黙っていられなかった。それだけのことだ」


 許せとは言わん、と篝は肩を竦める。


「テクラ、お前は人が憎いのだろうよ。人でありながら人に裏切られ、虐げられ、その結果鬼になったのだからな。人を厭い憎むのは至極当然のことだ」

「貴様の共感などいらぬ!」

「俺も共感などするつもりはないから安心してくれ。──だが、ひとつだけ言わせてもらおう。何故、お前は自らを信じる娘を──佐知を拒絶した?」


 佐知、という単語を耳にした瞬間。テクラの顔は、みるみるうちに歪んでいった。


「だ、まれ」


 呼吸が荒くなる。先程まで勝者の表情をしていたテクラが、明らかに狼狽している。

 やはり──テクラにとって、あの純粋過ぎる少女は長年の痼であったのだ。

 篝はその隙を突く。佐知には悪いが、こうでもしなければテクラとまともにやり合えない。


「俺は知っているぞ、テクラ。お前は、佐知が自分を心の底から信奉していることすら信じられなかった。あの少女にとって、お前は無二の恩人であり、指針であり、神であったのに──だ。佐知のことを受け入れていれば、お前は人を喰らわなければ生きられぬ鬼でいることもなかったかもしれないというのに……。お前は、人間だからという、ただそれだけの理由で、あの無垢な娘を拒んだ」

「訳知り顔で、根も葉もないことを……! 貴様に、あの小鬼の何がわかる!」

「わからないさ。俺はあの場所にはいなかった。ただ、と後から知っただけだからな。だが、佐知とホフリの君──いや、福寿と呼ぶべきかな? あの村人の少年は、あまりに不憫でならない。少なくともあの二人には、お前を傷付ける気などなかったのに」


 ひゅう、とテクラの喉が鳴った。やめろ、と懇願するかのような音だった。

 テクラの顔は、どうしようもなく歪みきっていた。


「貴様に」


 何がわかるのだ。

 先程と同じように、テクラは篝をなじった。しかし、その声に覇気はない。


「お前だってわからないだろう」


 篝は語気を強めることなく、静かに断ずる。

 佐知のことを、テクラは理解していなかった。そもそも人間を理解する気など、彼女にはないのだろう。この鬼女にとって、人とは憎たらしく許せない、罪深い存在に他ならないのだから。

 テクラは唇を噛んだ。尖った歯が柔らかな皮を破り、つうと細く血が流れた。


「……あの娘は、死んだ。私が止めを刺したのだ。ただただ驚くばかりで、私を憎むことすらしなかった、愚か者だ」


 ゆらり、とテクラが動く。


「その愚か者は、私の下僕だ。下僕だったのだ。私の所有物にも等しい存在だ。それを──それを!」


 鬼女は吠える。掠れた、乱暴な、自己愛とは対極にあるような叫び。


「貴様ごときが、軽々しく語るな──!」


 空気が、震える。

 篝の張った結界は、いとも容易く砕かれた。粉々になった霊力は、光の粒となって空気の中に溶けていく。朝日を反射して、夏場なのに雪を想起させた。

 テクラは本気だ。先程まで侮蔑と嫌悪しかなかった彼女が、ただの言葉でこうも豹変した。

 言霊使いとしては願ってもない結果だが──生憎、テクラの怒りを真っ正面から受け止めてやる程懐深い人間ではない。


「おや、随分とお怒りのようだ。怖い怖い」


 何処かふざけたような、甘い声と共に。

 視界いっぱいに、紅蓮が咲いた。

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