第十三章 村祭り
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神楽舞は、ほぼ日の出に近い明朝に行われる。
太陽の昇りきらないうちから起こされた舞い手たちは、重苦しい衣装と煙たい化粧で身を固めた。かよは化粧をされるのは初めてだ、とはにかんでいたが、男の身の篝としては早いところ儀式を終わらせて衣装を脱ぎ捨て、顔を洗って
「せっかくの美人さんが台無しだ。そんなに着飾られるのが不本意なのかい?」
夜霧からは
異性装とは、これほど居心地の悪いものなのか。これまで女装などしたことのなかった篝は、あまり嬉しくない発見をした。出来ることなら、もう二度と体験したくはない。
紅をさされてべたつく唇をぎざぎざにしながら、篝はそっと湧水まで逃げ込んだ。この期に及んで脱走するつもりはない。ただ、神官たちがさしすぎた紅を落とそうと思ったのだ。
幸い神官たちは皆村祭りの準備で忙しいようで、篝は誰かに見咎められることなく目的地まで到着することが出来た。少し衣装の裾が汚れてしまったかもしれないが、気にする程のものではない。其処まで値踏みする者など、そうそういないだろう。
近くにあった
「──っ!?」
「嫌だなあ、そんなに怯えないでくれよ。驚かせるつもりは少ししかなかったんだ」
びくり、と体を震わせて振り返った篝の先にいたのは、困ったように笑う、人好きのする顔をした青年だった。太めの眉毛がハの字に下がり、何とも言えない愛嬌がある。
しかし、篝は驚かされたことを咎め立てはしなかった。──いや、出来ることならそうしたかったが、それどころではなかったのだ。
「苅安、無事だったのか……!?」
「うん、お陰様でな。その口振りだと、無事じゃなかったって思われてたみたいで何か複雑だなあ。勝手に殺されたら誰だって悲しいぞ」
苅安は、御神体の付近──洞窟に潜っている篝に危険を知らせた後に姿を消していた。急いで戻ったところ、鬼女であるテクラに遭遇したため、篝は嫌な想像ばかり膨らませていたのだ。
しかし、苅安は無事だった。以前のように、軽口を叩いては困ったような苦笑いをしている苅安が、目の前にいる。それだけで、篝としては安堵の気持ちでいっぱいだった。
「お、おいおい、篝ってば大丈夫か? これから村祭り本番だっていうのに……」
「……うるさい、お前のせいだ。この馬鹿」
安心したからか、篝の体からは一気に力が抜けた。地面にへたりこみそうになる篝を、咄嗟に苅安が支える。
「俺のことを心配してくれてたのか?」
「心配しない訳がないだろう、こっちは鬼女に殺されかけたんだ。お前の姿も見えなくなったものだから、てっきり鬼女の手にかかったのかと思って……。昨日だって姿を見せなかったじゃないか、この野郎。余計な心配をかけさせて」
「いやあ、その節は悪かったって! 実を言うと、俺も逃げることに必死だったんだよ。まさかあんな場面で鬼女がやって来るとは思わなかったし……。俺もどうしたら良いかわからなくて、とりあえずああするしかなかったんだ。本当にごめん」
しゅん、とさらに眉尻を下げた苅安に、篝は眉間を揉む。申し訳なさそうな顔をされると、何故だか此方が悪いことをしている気分になる。
何はともあれ、苅安が無事ならそれに越したことはない。篝としても、彼の安否は気になっていたのだ。当時は自分のことで精一杯だったため、気にする余裕はあまりなかったが、いざ無事にやり過ごしたとなると他人のことばかり気にかかる。冬に言ったら貴様は何を考えているんだ──とでも睨まれそうだったので、相談は出来なかったが。
「……別に良い。もう過ぎたことだからな。お前が無事ならば、この間のことは水に流してやると決めていたんだ。これ以上情けない顔を晒すんじゃない」
いつまでも沈んだ顔をされているのは迷惑だ。篝はつんとそっぽを向きながら、なるべく気丈な風を装った。
苅安ははいはい、とわかっているのかいないのな曖昧な口振りで答える。良くも悪くも彼らしい返答に、篝は少しだけ気が楽になった。
「それよりも、さ。篝、これから村祭りだろ? 緊張してないか?」
自分のことを棚に上げて、苅安はそう問いかけてくる。先程まで誰のせいで不安になっていたと思っているんだ──という文句を、篝はぐっと飲み込んだ。
「……緊張していないと思うか?」
「いやあ、其処までは。でも、篝は何だかんだ言っておきながら、最終的には上手くやりそうな気がするんだよな。ほら、何ていうんだっけ……大器晩成ってやつ?」
「使い方は若干違うが……まあ、言いたいことはわからないでもないな」
俺は其処まで上手く事を進められる自信などないが、と篝は肩を竦める。
他人の手前なので弱音を吐くことはないが、実を言えば篝には長らくの間不安が付きまとっている。
初めのうちは、桐花と共に犠牲者を出さず村祭りを成功させるという目標だけだったというのに、今となっては鬼女や村に出没する異形、そしてホフリの君の謎にまで着手している。其処まで首を突っ込むつもりはなかったというのに、成り行きで幾つもの問題を抱え込む羽目に陥ってしまった。しかも、協力者であるはずの桐花は鬼女の別人格だったという真実までのし掛かってくる。
この村がきな臭いことは、薄々感じ取っていた。だが、まさか陽向の担当するような案件だったとは──正直なところ、あり得ないだろうと否定していたのだ。きっと、人の思惑が絡んだ、陰謀と呼ぶにはお粗末なものだろう──と。
だから、篝は自信を持ってうなずくことなど出来ない。抱え込んだものの全てを解決することなど、容易に片付けられるような案件ではなかった。
「苅安、お前は俺のことを買ってくれているようだが……。正直なところ、俺はお前の思っているような有能な人間じゃあない。何もかもを断りきれずに背負い込んで、自滅しそうなだけの大馬鹿だ」
お前とは良い勝負になるな、と篝は付け加える。憎まれ口でも叩いていなければ、足が竦んでしまいそうだった。
そんな篝を、苅安は責めなかった。やはり困ったような顔をして、見下ろしているだけである。
「そうかなあ。俺は、少なくとも篝が何も成し遂げられないとは思っていないよ。むしろ、君のような人間をずっと待っていたくらいだ。それくらい、金峰村は逼迫していた」
「そうか、それは大変だな。俺のような三流に頼み込まねばならない程、この村は終わっているのか」
「うん、終わっているさ」
にべもなく苅安は言う。躊躇いは皆無だ。
「多分、もうそろそろ潮時なんだと俺は思う。……ああいや、わかった風な口を利いてはいるけどさ、俺はあくまでも一村人だから、何て言ったら良いのかな……こう、周りの雰囲気がそんな風に感じられるっていうか、嫌な予感ばっかりするっていうか」
「……虫の知らせ、か?」
「そうそう、そんな感じ。とにかく、金峰村はもう誤魔化しきれないところまで来ているんだと俺は思ってる。篝の話も聞いていて、思い付いただけなんだけど」
「金峰村が外部との干渉を持たず、それでいて安寧と豊穣を享受し続けているということか?」
うん、と苅安はうなずく。
「これまでは、金峰村の生活が常識だと思っていたんだ、俺。だから、篝の話を聞いて、外界ってどれだけ辛くて苦しいものなんだ──って驚いてさ。そんな世界で、人は生きていけるのかって思った」
「……生きていけない者もいるだろうな。社会的弱者が、すぐに死ぬような状況に陥ることもある。そうでなくとも、ただひたすらに幸せだと思いながら暮らしていけるような人間は、この世のごく一握りでしかない。大部分の人々は、苦しみ、そしてもがきながら生きている」
「それでも、ずっと続いているんだよな。彼らの──庶民の暮らしは、たったひとつの存在によって支えられてる訳じゃないから」
苅安は、もう笑ってはいなかった。
彼は寂しそうな目をしていた。泣き出しそう──とまではいかなかったが、何処か幼げで、頑張って積み上げた積み木が一瞬にして崩れ去ってしまったかのような、子供らしい顔をしていた。
篝は彼の表情に言及しない。ただ、黙って見つめるだけである。
「篝、こんなことを言えるのは君だけだ。──正直、ホフリの君はもう上手く機能しないだろう。あれは村を守ろうと努めたようだけど、所詮はただの、世間知らずな村人。持ったとしても、百年と少しだった」
「……百年も持たせられたんだ。それで十分だろう。ただの、本当にただの村人がなったにしては、まともな神だと思うぞ。ろくでもない奴だということに変わりはないがな」
「……そうだな。ろくでもないな、ホフリの君は」
よく言ってくれた、と苅安は囁くような声音で呟いた。
篝は何も言わないまま、そっと苅安から離れた。もう支えてもらわずとも、一人で立っていられる。
「言っておくがな、苅安。人はたしかに弱く脆い存在だが、人智を超えた大いなる力がなければ生きていけない程腐った連中ではないぞ」
「篝……?」
唐突に口を開いた篝に、苅安はきょとんてつぶらな目を見開いた。
その
「術者の端くれである俺が言うのも何だが、人間はもう、人間だけで生きられる時代を歩んでいる。そりゃあたしかに、
「……人間だけで、生きられる時代……」
「そのせいで、滅ぶものもあるかもしれない。山々や海が、自然が破壊されるかもしれない。人が死ぬかもしれない。それは許せないことだろう。──だが、もう神は人に口出しなぞしてはいけないんだ」
選び取らなければならないから、と篝は語気を強める。
「だから、金峰村が此処で滅ぼうと存続しようと、それは神たるホフリの君や鬼女ではなく、そういった生き方を選んできたこの村に責任がある。何も出来ず、間ノ瀬や有力者に巻き込まれてきた村人に関しては災難という他にないが、詰まるところこれは人間が主軸になった問題なんだ。それで村が終わったのなら、それまでの存在だったというだけだ」
「篝、俺は」
「馬鹿、まだ情けない顔をしているのか。お前は出会った時からその調子だな」
座敷牢に入れられている篝のもとへやって来た苅安は、まるで自分が捕らえられているかのような、此方が呆れるくらい不安げな顔をしていた。出会った時から、彼は変わらない。
そんな彼の表情を見たら、先程まで気分を沈ませていたのが馬鹿馬鹿しく感じられた。他人の沈んだ顔を見れば大抵はそれにつられるものだが、苅安の場合は不思議と安心してしまう。
篝はばしばしと、気持ち強めに苅安の肩を叩く。筋肉質な苅安と、男性にしては華奢な篝なので、それほど痛みを覚えるものでもなかろう。
「お前の顔を見たら、へこむにもへこめなくなった。大した奴だよ、お前は」
「……? 篝、一体どうしたんだ?」
「何、お前の阿呆面で元気付けられたというだけだ」
「あ、阿呆面って君なあ……。そりゃあ、今の君に比べたら、俺の顔なんて間抜け面って感じだろうけどさあ……。綺麗な人にそういうことを言われるの、結構傷付くんだぞ」
む、と珍しく苅安が唇を尖らせる。不満げな表情はあまり見たことがないので新鮮だ。綺麗だ何だという世迷い言も、今なら水に流してやれる。
「苅安。せっかくの祭りなんだ、余所者の俺などにかまけていないで、お前も楽しめるだけ楽しんでおいたらどうだ? このような状況で楽しむのもどうかと思うが、好いた女と回るくらいは出来るかもしれないぞ」
「何を言ってるんだよ、篝。君、俺を茶化している余裕なんてないだろう。そ、それに俺、好きな人とかいないし」
「ははは。顔が真っ赤だな。それでは苅安とは名乗れまい」
悪戯っぽく笑ってから、篝は苅安の横を通る。紅を直すつもりだったが、苅安と話していたら気にしていること自体が馬鹿馬鹿しく思えて、もうこのままで構わないだろうと思い至った。少し化粧の厚い方が、素顔を隠せて良いのかもしれない。
「じゃあな、苅安。お前はお前で上手くやれ。俺も最善を尽くす」
一度も苅安の方を振り返ることなく、篝はひらひらと手を振る。全ての不安が拭い去った訳ではないが、何となく心は軽くなった気がした。
苅安は、あ、と何やら声をかけようとしたようだったが、それに次ぐ言葉はなかった。篝は僅かに肩を竦めてから、何事もなかったかのような表情でその場を後にした。
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