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 灯りひとつない間ノ瀬の屋敷を、一言も発することなく歩む者がいる。

 提灯や手燭てしょくを持つことなく、冬はいつも通りの仏頂面で屋敷の奥へと歩を進める。普段は足を踏み入れない領域なので、土地勘はない。

 鬼女の正体は間ノ瀬桐花だった。その事実は、決して軽いものではない。

 篝は口にしなかったが、考えているところは今の冬と大体同じだろう。彼に伝えればやめておけ、と止められそうだったため、冬も特に今の行動について前もって伝えることはなかった。


 間ノ瀬が、鬼女復活に一枚噛んでいるのではないか。


 その疑惑をいつまでも燻らせておく訳にはいかない。そう思い立った冬は、宛がわれた寝所を脱け出して、普段ならば立ち入ることを禁じられている屋敷の奥に向かっていた。

 この先には、村長である伝三、小百合、そして彼女の夫であり次代の村長と見て良い、跡取りになるはずの昭文あきふみの自室がある。

 伝三や小百合とは顔を合わせる機会も多いが、冬は昭文にだけは一度も会ったことがない。何やら軽くない病を患っており、自室にこもりっきりだという。彼の世話は小百合と、ごく限られた使用人のみで行われているようだった。それ以外の人物は、基本的に立ち入りを禁じられていた。

 伝三などは時々立ち入ることもありそうなものだが、それを除けば世話をしている者以外は誰も昭文の部屋に入ってはならないということになる。だからこそ、冬は彼の部屋には何かが隠されているのではないかと推測した。

 使用人たちが寝静まった頃を見計らって出たためか、人気は全く感じられなかった。もし誰かと鉢合わせしたところで、軽く当て身でも食らわせれば良いだけの話だ。さすがに冬を圧倒するだけの手練れはいないだろう。

 神経質に辺りを見回してから、冬は足音を忍ばせて進む。自分の呼吸だけでも、静まった屋敷の中ではうるさく聞こえる。

 冬はとある部屋の前までたどり着くと、音を立てぬようにと気を引き締めながら襖を開けた。此処まで来て誰かに勘づかれでもしたら、一巻の終わりである。

 足を踏み入れた先は、特にこれといった点のない、普遍的な和室だった。──あまりにも、変わった点のない、何処にでもありそうな。


(……生活感がなさすぎる)


 昭文が病人だというのなら、何処かに寝かされているはずだ。しかし、室内には誰もいないどころか、布団すら敷かれていない。箪笥たんすや長持ちなどはたくさん置かれてあるが、座布団やちゃぶ台などの家具は一切見受けられない。

 冬は目をすがめてから、ぐるりと室内を見渡した。そして、ある一点に視線を集中させたかと思うと、一直線に歩いていく。

 冬が向かったのは、室内中央部。特に何も置かれておらず、畳が敷かれているばかりである。

 その畳を──冬は、躊躇ためらいなく引っくり返した。


「……やはりか」


 冬の視線の先。其処には、畳の下敷きに──隠されていたと表現するのが妥当な、地下への扉がある。恐らく、梯子はしごを下っていくものであろう。

 施錠されていたらどうにもならないが、冬が取っ手を引くと扉はぱかりと開いた。その先には、一層暗い闇が待ち受けている。

 冬は案の定側面に引っかけられていた梯子に足をかけると、そろりそろりと下っていった。それほど長いものではなかったが、一段下るごとに自分が異界へと落ちているかのような、不気味な感覚を覚える。

 梯子を下り終わった冬は、ほとんど黒に塗り潰された空間に立った。そして、言い様もない違和感に顔をしかめる。


(……何だ、この異臭は)


 その空間は、鉄錆びた、それでいて何かが腐ったかのような、えた臭いが充満していた。

 夏場なので、くりやなどから出た生ごみが腐りやすいということもあるが、これは生活の一環で放出されるような臭いではない。言うなれば──放置した死体の臭いというべきか。

 冬は片手で口と鼻を押さえてから、そっと一歩を踏み出した。歩を進めていくごとに、その異臭はむんと強くなる。

 ──血に慣れていなければ、きっと今頃吐いていたかもしれない。

 眉を潜めながら進んでいると、ぐちゃ、と何か湿った──異臭の元凶とも言える存在にぶつかった。鼻を突くような悪臭に、冬はげほ、と思わず咳き込む。


「……これは……」


 夜目が利いたのは、幸か不幸か。冬の目には、目の前に吊り下げられた“それ”がはっきりと映し出された。

 それは、人の体──一人の男性だった。五体は満足だが、その姿は人とは言い難い。まず影が映し出されていなければ、何かわからなかったかもしれない。

 その体は腐っている──というよりかは、溶けている、と表現するのが適切だった。一糸纏わぬ全身は、硫酸でもかけられたかのようにどろどろにただれ、体液がにじみ出ている。体を吊るすのは、上方で固定されているらしい彼の両手首に繋がれた布だが、それすらも滲む体液によって元の色がわからなくなる程に変色していた。

 冬は生理的な涙に滲む視界には構わず、男の体──胸部へと耳を近付ける。


(──こいつ)


 生きている。

 聞き間違いではない。たしかに、心音が聞こえた。

 このような状態でも、この男は生きている。ものを言うこともなく、ぴくりとも動かないが、その心臓はたしかに動いていた。

 一体いつから、この男は吊るされているのだろうか。何か罪を犯したのだろうか。溶ける体に、恐怖を覚えることはなかったのだろうか。

 ありとあらゆる疑問が、冬の脳裏を駆け巡った。何かを思わずにはいられなかった。

 そっと男から離れて、冬は目元に溜まった涙を拭う。そして──瞠目した。


「──あれは」


 男の背後。其処にあるのは、壁ではない。あれは──。

 ひゅ、と息を吸った直後。冬の後頭部に、何か硬いものがぶつけられる。

 がつん、と硬質な音が響いた。冬は体勢を整えることも出来ずに倒れ──最後に、自らの腹を目掛けて突き立てられる白銀の閃きを見た。

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