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「……疲れた……」


 ばしゃ、と清らかな湧水を顔にぶつけつつ、篝は心からの言葉を空に放った。

 空はすっかり橙色に色付き、斜陽の影が細く長く伸びている。ひとつの物事に熱中すると時間を忘れるというが、まさか知らず知らずのうちに日が暮れかかっている──という体験をするとは思わなかった。絶え間ない疲労感にも納得がいく。


「ふふ、篝はすっかりお疲れのようだね。それだけ頑張ったということかな」


 傍らで水分補給をしているのは、同じく神楽舞の稽古を終えた夜霧とかよである。夜霧は幽かに微笑みながら、顔を洗う篝の方を見遣った。

 夕食の時間までは少し待つということで、夕刻は専ら自主練習の時間となっている。その間に水分補給や休憩も兼ねておくという訳だ。


「疲れているのは皆同じだろう。何も俺ばかりがへばっているのではない」


 自分だけ労られるというのも、何となく複雑なものだ。とりわけ、篝はかよのように小柄な訳でも、夜霧のような不自由を抱えている訳でもないというのに。

 疲労感は誤魔化しきれないが、せめてもの悪足掻きとばかりに篝は強がりを放っておいた。夜霧には勘づかれているのだろうが、何も言ってこない辺り察してくれているのだろう。変なところで気遣いの出来る女だ。


(そういえば、以前に冬が獣を狩っていたのもこのような時分だったな)


 いっそ不気味な程に眩しい夕焼けに目を細めながら、篝はふと過去を回顧する。

 山より下りてきたという、異形とも形容すべき獣。それを、冬は難なく討伐していた。それだけの技量を有しているから、この村でも高位の間ノ瀬家に雇われているのだろう。本人は食い扶持が稼げるのなら何でも良い、と宣っていたが、あれほどまでの狩りを可能とするのは冬だけに違いない。

 冬や桐花の発言から鑑みるに、あの異形は比較的頻繁に村へ下りてくるようだった。それを冬一人で対処しているというのなら、大したものである。


「──ちゃん、篝兄ちゃん?どうすたの、遠いまなぐばすて」

「かよ、きっと篝は黄昏たそがれているんだ。黄昏だけに」


 そんな篝をかよは訝しげに眺め、夜霧が突っ込みづらい発言で返していた。夜霧の場合は平然と冗談を口にするので、どう対応したものか反応に困る。

 変に疑われたままというのも居心地が悪いので、篝は何でもない、と茶を濁しておいた。

 一瞬二人に異形の話をしようかと迷ったが、この状況下で無理に怖がらせるのはよろしくないだろう。ただでさえ人買いによって、因習の根付く村に売られた身なのだ。下手な話をして、彼女たちを精神的に追い詰めたくはない。


(しかし、売られた二人はともかく──人買いを介することなく、道中に拐われた俺に関してはそろそろ安否を気にされていても可笑しくはなさそうなものだが……。外界との連絡手段がない以上、どうすることも出来ないな)


 ううむ、と篝は首を捻る。

 夜霧とかよは人買いを介して金峰村に連れてこられたらしいが、篝だけは何故か其処にいたから──とでも言わんばかりに拉致された。そして、気付けば座敷牢に入れられていたという訳である。

 篝は身寄りがない──という訳ではない。実家暮らしではないものの、住む場所はあったし仕事もあった。仕事場の側で寝泊まりしていた、と言うのが的確であろう。

 篝の仕事場は、人材の管理に杜撰ずさんではない。むしろ厳しく取り締まっている印象がある。脱走や、仕事上の機密情報を漏らされないようにという意図があってのことだ。

 それゆえに、篝がいなくなったと知れれば遅からず仕事場に連絡がいくはずである。そもそも篝が山中を歩いていたのは、とある調査のためであった。それも篝一人でこなすという訳ではなく、何人か業務を同じくする者たちがいたのだが──。


 ──みゃあ。


 その鳴き声は、篝の意識を思案の内から引っ張り上げた。


「あーっ、お、あの時の猫だべ!」


 篝が声を上げる前に、大きな瞳を溢れ落ちんばかりに見開いたかよが“それ”に駆け寄る。そして、よいしょ、と呟いて抱き上げた。


「篝兄ちゃん、こいづだよ! この前お話すすた、白い猫!」

「……こいつが……」


 かよに抱え上げられているのは、一匹の猫であった。

 話に聞いていた通り、雑じり気のない真っ白な毛色をしている。瞳は青く、硝子玉のようにも見える。まだ幼いのか、それとももともと小柄な血なのか。その体躯は小さく柔らかそうだった。

 そんな猫を、篝はまじまじと見つめる。そして、その首元に目を向けた。


(……首輪か)


 かつてかよが、銀製ではないか──と口にしていた首輪。それは、猫の首元で斜陽の光を受けてきらりと光った。

 たしかに、並大抵の素材でこの輝きは生み出せない。丁寧に磨いたところで、素材が出せる輝きというものは限られている。

 要するに──猫に着けられている首輪は、篝の目から見ても銀製のように思えた。


「うーん、お前はめんごいずにゃあ! それに暴れねす、すこだま利口だあ。やっぱす何処かで飼われでるんだべ、こいづ」


 かよに抱き上げられても、猫は暴れることなくおとなしく彼女の腕の中に収まっている。随分と人間に慣れているようだ。

 ──やはり、怪しい。


「夜霧姉ちゃんも抱っこすてみる? ふわふわで温がぐでめんごいよ」

「いや、私は──」

「遠慮すねで。何があったら、おらが受げ止めでけっから、ね?」


 篝の思案を余所に、かよは猫を夜霧に手渡している。夜霧は初めこそ遠慮していたようだったが、かよに勧められて猫をおずおずと受け取っていた。

 ごろごろと喉を鳴らす猫を前にして、夜霧も表情を和らげる。動物が苦手、という訳ではないようだ。


「人懐っこい子だね。この近くで飼われているのかな」

「絶対そうだべ! だって、此処って一応神域なんだべ? 普段がらこの辺り歩いでいねど、簡単に入るなんて出来ねはずだよ。神官様さ追い払われるがもすれねすね」

「……神官に飼われている──という可能性は考えられないか?」


 きゃっきゃと猫を囲んでいる夜霧とかよの話に、篝は彼にしては慎重な様子で口を挟む。可愛がっているところで申し訳ないが、その猫に対する疑念は膨らむばかりだ。

 そんな篝の胸中など知らないであろうかよは、いんや、と首を横に振った。


「さすがの神官様も、動物飼うごどは出来ねんでねがなあ。その辺り、大巫様も厳すそうだす……。少なぐどもおらは、誰がが表立って動物ど遊んでるどごろなんて見だごどねよ」

「そうか……たしかに、あのお方が愛玩目的で動物を飼育することを許すとは思えん」


 ならば、この猫は何処の家で飼育されているのだろうか。

 舞い手たちの住まいの周辺に住宅はなく、森の中にぽつんと立地しているようなものだ。迷い込むにしても距離があるし、そう頻繁に訪れられるような場所でもない。道を覚えていたのだとしても、その過程は小動物にとって過酷なものであり、異形という危険分子も存在する。このような場所を何度も訪れるくらいならば、村の者たちから余り物でももらっている方が良いのではないか──と篝は思う。

 この猫は疑わしい。放っておいて良い存在ではなさそうだ。

 篝は唾を飲み込んでから、猫をじっと凝視する。もとより、小動物の扱いは不得手なのだ。このような状況下でなくとも、おのずと奥手になる。


「──おや、篝。お前もこの子を抱いてみたいのかな」


 篝の視線を感じ取ったのか、夜霧が微笑みながら猫を差し出す。初めに見た時の猫は小さく見えたが、今は何故かその体が伸びて見える。

 力加減を間違えて、猫の骨でも折ったら一堪りもない。篝は撫でるだけで良い、と言って猫へと手を伸ばす。


「──!?」


 ぴり、と。

 痛みとまではいかない。しかし、猫に触れた篝の手には、刹那の時ではあったがたしかな衝撃が加わった。

 篝が瞠目している間に、猫は夜霧の手からするりと抜け出てしまう。かよがあっ、と声を上げたが、猫は構わずにすたこらと駆けていった。


「ああーっ、逃げだっけー! ほんてん、逃げ足速えんだがらっ」


 かよはまだ猫と戯れていたかったのか、わかりやすく落胆した様子を見せる。そんな彼女に、夜霧が苦笑しながら仕方ないさ、と慰めの言葉をかけていた。

 ──だが、篝としてはそのようなことに構ってはいられない。


(……三流の俺にでもわかる程だ。微弱ではあるが、あれはたしかに──)


 てのひらを通して伝わった衝撃。それを、篝はよく知っている。

 猫に触れた右手で、篝は握って開いてを繰り返す。先程の感覚を思い出すように、何度も──。


 ──瞬間、響き渡ったのは悲鳴。


 これには、その場にいた舞い手のいずれもが咄嗟に同じ方向へと顔を移ろわせた。すなわち、悲鳴の聞こえてきた方角である。


「──入り口の方だね」


 真っ先に発言したのは夜霧である。目が不自由だという彼女だが、その代わりに聴覚や嗅覚でその場の判断をしているのかもしれない。

 そうこうしているうちに、にわかに一同の向く先──入り口の方向からざわめきが聞こえ始める。何やら尋常ではない出来事が発生したことは明確であった。


「夜霧、かよ! 何かあってからではまずい、まずは入り口に向かうぞ!」


 篝は声を張り上げる。何故お前が仕切っている──と言われそうだったが、舞い手の少女二人は文句を言うことなくうなずいた。

 一度後ろを振り返り、かよが夜霧の手を引いているのを確認してから篝は駆け出す。言い様のない不安感が、篝の胸中に薄暗い影を落とした。

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