5

 建物の裏手に回ると、神官たちが寝泊まりしているらしい寮が見える。その一室に、篝も配置されているようだった。

 苅安は日の出ているうちに調べたらしく、淀みのない足取りで桐花を案内した。何ともまあ、手際の良いことである。

 桐花の身柄が露見してはまずいので、篝の部屋と思わしき引き戸は苅安が先に叩くこととなった。桐花は苅安の背中に隠れるようにして、恐る恐る様子を窺う。

 こん、こん──と。控えめに、苅安が戸を叩く。


「──誰だ?」


 訝しむような声と共に、からから、とおもむろに戸が開かれる。

 苅安の情報は間違っていなかったようで、出迎えたのは篝本人だった。舞い手の中でも例外──唯一の男性ということもあってか、一人部屋のようだ。

 寝間着である襦袢を身に付けた篝は、普段は括っている髪の毛を下ろしており、すっかり寝付く準備を整えていた。しどけない格好ではあるものの、不思議と下品には見えない。むしろ、きっちりと着物を身に付けている昼間よりも艶っぽく見える。

 篝は突然の来訪者である苅安と、彼の後ろに佇む桐花を前にして、驚きを隠すことなく目を見開いた。


「苅安、それに桐花じゃあないか。何故此処が──いや、立ち話はまずいな。とりあえず上がれ。履き物も中に入れて良い」

「ありがとう、お邪魔するよ」


 そろりそろりと足音を忍ばせつつ、二人は篝から促されるままに彼の部屋へと足を踏み入れる。

 篝に宛がわれた部屋は小ぢんまりとしており、必要最低限の家具しか設えられていなかった。間ノ瀬家とは異なり、食事は別室で済ませるようだ。大方、他の舞い手と共に食べるのだろう──と桐花は推測した。


「すまんな、一人部屋だからこれといったもてなしは出来ないんだ。桐花、もし座りづらかったら俺の枕でも使って──」

「だ、大丈夫よ! さすがに私だって、篝さんの使う枕をお尻に敷くなんて出来ないわ。そのままで良いから、ね?」

「ははは、何だかんだで篝も桐花には優しいんだな。この調子で口調も優しくなってくれたら良いんだが」

やかましい」


 さすがの篝も気を遣ったらしいが、桐花とて寝具を座布団代わりになど出来ない。勧めてきた篝には悪いが、丁重にお断りさせていただいた。

 そんな二人のやり取りを、苅安は呑気に笑いながら見守っている。──余計な一言を挟んでくるのは、最早ご愛嬌か。

 はぁぁぁ、と見せつけるような溜め息を吐いてから、篝は来訪者二人に向き直る。苅安を相手にすると、篝もそれなりに疲れるようだ。


「それで──だ。今日はお前たちに聞きたいことがある」

「聞きたいこと?」

「ああ。──苅安、お前は百姓なんだろう? この村が飢饉、もしくは天災に襲われたという話を聞いたことはないか」


 呆れ顔から一転、何かを探るように篝は目を眇める。

 苅安に問いを投げ掛けたのは、やはり彼が日中働いている百姓であるが故なのだろう──と桐花は思った。

 桐花が間ノ瀬家に縛り付けられていることは篝に伝えてあるし、何よりも村長の孫娘という、田舎である金峰村の中では上位に君臨する階級に座していることは明白だ。余程の阿呆でもなければ、桐花が畑仕事をしている──などという考えに至ることはないだろう。

 それがわかっていても、桐花としては少し悲しかった。篝にそのつもりはないとわかってはいるものの、除け者にされているような気分を覚えたのだ。

 問いかけられた苅安はというと、数秒間きょとんとしてから、ううん、と首を捻る。


「今のところはないなあ。もしかしたら、俺が生まれる前──ずっと昔には、そういった危機に晒されたこともあったのかもしれない。けれど、俺が生きてきたうちでは一度もないぞ」

「一度もか? 不作だったことは?」

「いいや、聞いたことさえないよ。米も野菜も、毎年村人たち全員に行き渡るくらいには収穫出来ているはずだ。金峰村はこの通り、大自然に囲まれた土地だからな。作物の実りも良いんだろう」


 苅安は素直に答えているようだったが、彼が話せば話すだけ篝の顔色は悪くなっていった。彼はほんのりと色付いた唇をわななかせ、何てことだ、と小さく呟く。

 篝が何を恐れ、危惧しているのか、桐花にはさっぱりわからない。

 畑仕事も肉体労働もしたことのない小娘が、この期に及んであれやこれやと口出しをするのは無粋極まりない。それは桐花自身がよくよく理解している。

 だが、毎年豊作で、天災にも襲われない環境の何が恐ろしいというのだろうか。身を脅かすものがないのならば、それはむしろ幸運と言うべきなのではないか。

 実際に、桐花は金峰村で飢えたり、天災の危機に晒されたりしたことはない。苅安の言う通り、ただの一度も──だ。

 篝は顔を青ざめさせて、重々しく唇を開く。


「苅安、お前が嘘を言っているのではないとわかってはいるが──そのようなこと、あり得るはずがない」

「篝──?」


 苅安は小さく首をかしげる。彼もまた、篝が何に怯えているのかを理解していないようだった。

 篝は不安げに視線をさ迷わせる。しかしそれも刹那のことで、気付けば彼はまたいつも通りの気丈な顔付きに戻っていた。


「地域にもよるのだろうが──俺の知る限り、この国では天災と隣り合わせの生活を送らなければならない。──いや、天災がすぐ側に潜んでいるのは、何処の国も同じか」


 種類が違うというだけだな──と、篝は自嘲するように笑う。


「天災と言っても、その種類は多岐に渡る。地震、気象、山火事、水害、干魃かんばつ、火山噴火。共通しているのは、人の暮らしをいとも容易く破壊するということだな。そういった経験を、多かれ少なかれ普通の──いや、外界の集落や町は経験しているんだ。自然というものは、いつ牙を剥いてくるかわからないからな」

「そんなに──危険な目に遭っているのね、外界の方々は」

「加えて、天災の後には必ず飢饉や食料の不足が起こる。日常的な暮らしが崩壊するのだから、仕方のないことだが……。農村では作物を育てることが出来なくなるし、都市部では物の買い占めが発生する。財力や権力のない者から、ばたばた死んでいくという訳だ」


 篝はさらりと言ってくれるが、その内容はあまりにも壮絶である。

 聞き手に回っている桐花は思わず瞠目し、苅安は苦しげに唇を噛んだ。お人好しな苅安のことだから、生活を壊され疲弊する民たちに共感しているのだろう。

 此処で、しかし──と篝は話の流れを変える。主語が金峰村に変わるのだろう、と桐花は思った。


「俺が見る限り、金峰村はそういった危険に晒されることもなく、少なくとも百年近くは平穏と安寧を享受しているように思える。これほど山の奥深い場所に立地しているというのに──だ。これには違和感を覚えざるを得ない」

「けどなあ、篝。俺たちにとっては、これが普通なんだぞ? 君が違和感を覚えたとしても、俺たち村人からしてみれば外界の環境に首をかしげたくなるようなものだ」

「何もお前たちの価値観まで否定はしないさ。だが、長らくの間災禍のさの字も知らずに存続している共同体などあり得ない──と言いたいだけだ」


 篝は顎に手を添える。ちょっとした仕草でも絵になるのがこの男の恐ろしいところだ。


「話を聞く限り、この村で祀られる神が変わってからそういう状況になった──という訳ではなさそうだな。──苅安、桐花。知っている範囲で良いが、かつて鬼女が祀られていた頃にこの村が災禍に襲われたという話はあるか?」

「いいや、ないぞ。昔からこうだった──と聞いている」

「私も、聞いたことがないわ。そもそも、鬼女は賢女として村人たちから尊敬されていたというもの。これは私個人の意見になってしまうのだけれど、彼女はこの村に災禍をもたらさなかったと思うし、むしろ鬼女によって村は安定したのだと思うわ」


 これはあくまでも桐花の憶測に過ぎない。しかし、あながち間違った解釈でもない──と桐花は思う。

 口伝てにしか聞いたことのない鬼女の伝承ではあるが、神として崇められていたのなら少なくとも金峰村に禍をもたらしたとは考えにくい。現在の村祭りに繋がる祭祀では生贄を求めていたらしいが、それは村人とも合意の上であったと聞いている。

 つまり──金峰村に豊穣をもたらしたのは、ホフリの君に打ち倒された鬼女なのではないか──と桐花は考えるのだ。

 二人の言を聞いた篝は、ふむ、とうなずく。頭ごなしに否定しない辺り、桐花の意見にも何かしら考える余地があったのかもしれない。


「……なるほどな。まだ考える材料は少ないが、良いことを聞いた。村祭りにどう繋げるかは考えどころだが」

「何か思い付いたの?」

「まだ憶測の範疇を出ないから、はっきりしたことは言えんよ。だが、少しは霧が晴れた──と言っても良いかもしれない」


 篝の表情は相変わらず涼しいが、やや満足げな辺り収穫があった──と感じているようだ。村祭りの根本的な解決にはまだ程遠いようだが、桐花としては嬉しいところである。

 自分の意見が正しい、と言い切れる訳ではないが、それでも篝の役に立てたのなら喜ばしい。篝の前では、何も出来ない村長の孫娘ではないのだ──と実感出来るような気がする。

 そんな二人を微笑ましげに見つめつつ、苅安はそうだ、と話を切り替える。


「そういえば篝、舞の練習はどうだ? 今日から本格的に始まったと聞いているんだが」

「お前は本当に情報を嗅ぎ付けてくるのが速いな。子犬か?」

「さすがに子犬呼ばわりはどうかと思うぞ。俺だって立派な男子だからな」


 篝と苅安のやり取りはいつも通りだが、たしかに神楽舞については桐花も気になるところであった。

 一年のほとんどを間ノ瀬家の中にいる桐花ではあるが、重要な会合や村祭りの際には外出することを許されている。神楽舞の舞い手たちがどのような目に遭っているのか知らない頃は、村祭りが近付く度に胸を弾ませたものだった。舞い手たちの神楽舞も、ただただ美しいものとして眺めることが出来た。

 舞い手たちが無惨な死に方をする──とわかってからというもの、村祭りは桐花にとっておぞましく、忌避しなければならないものへと変貌した。神楽舞も、舞い手たちの最期を考えると直視出来なくなってしまった。

 それでも──この時ばかりは、純粋な好奇心から篝の神楽舞を見てみたい、と思った。

 篝に死んで欲しい訳ではない。しかし、彼が神楽舞を舞う姿はきっと美しいのだろう──と考えると、どうしてもこの目で篝の神楽舞を拝んでみたいと思えてならなかった。

 じっとりと苅安を白眼視する篝に、桐花はねえ、と声をかける。


「もし良ければ──なのだけれどね。篝さんの神楽舞、私たちに見せてくれないかしら」

「神楽舞を──? 俺は別に構わないが、大丈夫なのか? 舞い手と同じ空間にいるだけでもああだこうだと言われそうなのに」


 桐花の申し出は、篝にとって意外なものだったようだ。長い睫毛に縁取られた瞳を見開いてから、彼は怪訝そうに問いかけてくる。

 たしかに、村の重鎮たちであれば苦い顔をするところだろう。しかし、桐花からしてみれば、いちいち細かいことを気にする程厄介なこともない。要するに、純粋に篝の神楽舞を見たいというだけなのだ。


「良いんじゃないか、練習にもなるだろうし。ホフリの君だって、下手な舞よりは上手い舞を見たいと思うぞ」


 どう説得したものか──と桐花が悩んでいた矢先、からからと笑いながら苅安が助勢した。飾り気のない──言ってしまえば歯に衣着せぬ物言いだが、不思議と嫌な気にはならない。

 これには篝も納得したようで、少しだけだぞ、と前置きをしてから立ち上がった。どうやら神楽舞を見せてくれるらしい。

 つ、と篝がり足する。神楽舞の際には、普段のように歩むことはないのだ。

 くるりと回り、足を摺らせ、袖をひらひらと翻す。腕を軽く振るのは、採物とりものを鳴らす仕草であろうか。

 正直、神楽舞自体はまだ上手いとは言えない。たどたどしく、拙いものである。

 しかし、それでも──桐花は見惚れてしまう。篝の浮かべる、その表情に。


(……まるで、最初から選ばれていた舞い手のようだわ。何て綺麗な表情なのかしら)


 此処にいる誰を見ることもなく、神に捧げ奉る舞を一心不乱に舞う篝。その姿は、天上界から舞い降りた天人のようにも思えてならない。

 冬の危うい美しさとは別の世界にある、精緻で整った、気高き美。それは篝の見目だけではなく、その内面からも滲み出ているものに違いない──。


「──うん、見せてくれてありがとう篝! あまり上手くはないな!」


 ──が、此処で苅安の忌憚のない感想が投げ込まれる。

 体勢を整えようとしていたらしい篝は思わずがくりと肩を落とし、桐花は一瞬で意識を現へ引き戻された。あまりにも素直過ぎる言葉というものは、時として爆弾にもなり得るものだ──と、今更ながら桐花は実感する。


「……あのなあ、それは俺も理解しているところだが、初日で完璧に舞をこなせるはずがないだろう。そもそも、俺は舞を舞ったことすらないんだぞ」


 再び腰を下ろした篝は、じっとりとした視線を苅安に向ける。その気持ちは桐花にもわからなくはない。

 しかし苅安は篝に睨まれても平気なようで、あはは、と苦笑いしつつ弁明する。


「いやあ、悪い悪い。これでも、神楽舞を見る機会は多いからな。知らない間に、目が肥えていたのかもしれない」

「まったく、お前という奴は……」

「おいおい、呆れてばかりいるなよ。俺も舞を舞ったことはほとんどないが、何度か神楽舞を見ているし、ちょっとした助言なら出来るぞ。桐花も、神楽舞について思ったことを言ってみたらどうだ? 篝にとっても、悪い話じゃないだろう」


 なっ、と苅安は茶目っ気たっぷりに片目を瞑る。どうしても憎めない表情であった。

 これには篝もお手上げといった様子で、溜め息を吐きつつも納得したようだった。相変わらずふてぶてしさを含んだ口調でよろしく頼む、と告げた篝に、桐花も思わず破顔した。

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