第8話
「先輩。みづき先輩」
呼ばれて、振り返ると、みづきの机のすぐ傍(そば)に佳南が立っていた。手にどっさりと紙の束を抱えている。
「伝票の確認をお願いします」
「ああ、ありがとう」
みづきはクリアファイルに入った伝票の束を受け取った。
絲雲寺から東京に戻った翌日、モヤモヤと絶望感とを抱えて出社したみづきを待っていたのは、佳南のいつもと変わらぬ無邪気な笑顔だった。みづきは卒倒しそうなほど驚いたが、佳南にはそもそも絲雲寺に行ったという記憶すらないようだった。
「宿坊、どうでした?次はあたしも行きたいですう」
などと甘えた声で言ってきた。何も変わらぬ日常が、また始まった。
あの日から、もうすぐ1年が経とうとしている。
また、夏が来る。あの日と同じ季節に、また近づいてゆく。
みづきは伝票の控えを取るため、立ち上がり、コピー機に向かった。
雅也の会社でも人事異動があったらしく、みづきの会社に出入りする担当が変わった。佳南がまだ雅也と付き合っているのか。そもそもあのラインの内容が現実だったのかどうか、みづきには確信が持てない。佳南には何も聞かないことにした。
日和は絲雲寺から戻って間もなく、20年勤めたこの会社を去った。退職の理由は、仙台で暮らしている長男夫婦と同居するため、とのことだったが……。
絲雲寺から戻って以来、日和は何だかみづきに対してよそよそしくなってしまい、詳しいことは聞けていない。ただ、日和と仲の良かったパート女性によると、日和は怪しげな新興宗教にのめりこみ、茨城県にあるお寺だか道場だかに通い詰めているという。
夫を亡くし、息子たちも独立し、気ままな独り暮らしを楽しんでいると思えた日和。けれど、実際はどうだったのか。
日和がパワースポット巡りにハマっていたこと。そして、絲雲寺のお勤めの時、熱心に祈っていた姿。
あの時は何も思わなかったけれど、日和もまた、何かに救いを求めていたのではないか、とみづきは思っていた。
何も変わらないようでいて、周囲は確実に変わってゆく。
何だか全てが、夢のような気がする。
あの絲雲寺という異空間が見せた、長い長い夢。
けれど確かにそうではないという証……。写経のとき、慈海がみづきに渡した小さな紙片だけが、あの日々が確かに現実だったことを伝えてくれている。今でも捨てられずに、スマホケースの中にずっと入れていた。
雲居山の大規模な崩落により、絲雲寺もまた、土砂に呑み込まれた。絲雲寺の住職であった慶雲は死亡が確認されている。絲雲の滝も崩れ落ち、完全に埋まってしまったらしい。
慈海がどうなったのかは不明だ。
だが、みづきには何となく分かっていた。
あの雲居山の崩落は、慶雲と慈海が蜘蛛を斃したという証だ。絲雲寺、そして、あの滝も……忌まわしき「絲(いと)の檻」は滅びた。檻の看守であった慶雲も、ともに。だから、慶雲の後継者である慈海も、きっともう、生きてはいない。「絲の檻」の歴史とともに、消え去ったのだ。悲しいことではあるが……。
みづきは席に戻り、窓の外を見つめた。入道雲が湧き上がり、まぶしいほどの青空だ。
今でもふとした瞬間に、慈海のことを考える。
慈海は今、慶雲と本当の親子になれたであろうか。
実の両親と再会できたであろうか。
それとも……ほんのわずかな希望ではあるけれど、この世界のどこかで、彼が生きていてくれたなら……。
いずれにしても、彼の孤独が今、少しでも癒されていればいいと、みづきは思っていた。本当は会いたくてたまらないけれど。
昼休み。佳南にランチに誘われたがあまり気のりがしなかったので、1人でビルを出て、ぶらぶらと歩いた。
弁当の入ったビニール袋を下げ、汗ばんだ顔で歩くサラリーマン。連れだって日傘をさし、おしゃべりに興じるOLたち。店の前の行列。いつもの昼休みの光景だ。
みづきは1人の時よく行くカフェに入り、サンドイッチとコーヒーを注文した。エアコンの風が火照った顔や体を冷やし、心地よい。
ランチ用の小さなバッグからスマホを取り出すと、ラインが来ていることを示す履歴があった。実家の母からだ。開いてみると、祖母の7回忌の法要をやるから帰って来なさい、という内容だった。
正直、今はまだ、お寺に関わりたくない。嫌でも慈海を思い出してしまうからだ。
だが、みづきをとても可愛がってくれた祖母の法要に、帰らないという選択肢はない。それに、両親と久しぶりに、きちんと話をしてみたいとも思っていた。
東京に来てからは、何となく帰ることを避けていた実家。だが、せっかく両親が揃って、いつでも会いに行ける環境にあるというのに、口うるさいだの何だの言っていては、慈海に申し訳ないような気がする。
「お待たせいたしました」
白シャツにエプロン姿のウェイトレスが、サンドイッチとコーヒーの乗ったトレイをみづきの前に置いた。
コーヒーの心地よい香りを感じながら、みづきは母に「帰ります」と返信を送った。
冷たい。土のにおいがする。指先に、ざらざらとした感触。
何だろう。何があったんだろう。
次第に、意識がはっきりとしてきて、慈海は目を開いた。
最初に目に入ったのは、崩れ落ちた巨大な岩と、折れ曲がり地面に突き刺さった木々。
慈海はゆっくりと体を起こした。全身がぎしぎしと痛んで、あやうく叫びそうになった。何がどうだったか、しばらくは頭が働かない。ゆっくりと記憶を辿る。
そうだ。蜘蛛。蜘蛛を追って、絲雲の滝まで来て……。あの長刀を、確かに蜘蛛の目に突き刺した手応えを感じたのだが、その後、蜘蛛に滝へ引きずり込まれたのだ。滝壺の奔流と蜘蛛の糸が目の前いっぱいに迫って……覚悟を決めたのだが……。助かったということだろうか。
慈海は改めて自分の体を見た。全身泥だらけで、泥の表面は乾いて砂がこびりついている。たすき掛けをしているから、剥き出しになった両腕はいたる所擦りむけて血がにじんでいた。だが、とりあえず手も足も普通に動くから、骨は折れていないようだ。
ここは、どこだろうか。
滝壺に落ちたと思ったのだが、水はない。慈海は周囲を見回した。
すぐ傍(そば)に巨大な岩が転がり、地面から、折れた棘のような太い木が何本も突き出している。
……木、ではない。
慈海は心臓が跳ね上がるのを感じた。地面から「へ」の字型に盛り上がるように突き出したそれは、まぎれもない、蜘蛛の足だった。では、目の前の巨大な岩は。
ふらつく足を叱咤して、慈海はどうにか立ち上がった。巨大な岩に沿って、ゆっくりと歩く。
泥に半ば埋もれるようにして……巨大な女郎蜘蛛は息絶えていた。
琥珀色だったあの目には長刀が突き刺さったままで、黒く濁り、完全に光を失っていた。だが、これが蜘蛛の直接の致命傷になったかは分からない。蜘蛛の体を真っ二つに割るように、巨大な岩が突き刺さっていたからだ。割れ目からは血が出ている様子はなく、代わりに大量の糸があふれ出ていた。
不思議な、光景だった。よくよく見ると、半ば崩れかけた崖のいたる所に、蜘蛛の糸が絡みついている。
まるで、滝がそのまま時を止めたかのような光景。
自分は今、土砂に埋もれた滝壺の底にいるのだと、慈海は気付いた。
慈海はぺったりとその場に座り込み、蜘蛛の死骸を、そして、崩壊した檻のようにも見える、糸の絡みついた崖を見つめた。
……終わったんだ。何もかも。
灰色の空が、少しずつ明るくなってきた。雲の切れ間から、帯のように柔らかな日差しが差し込み、滝壺の底の光景を幻想のように照らし出していた。
その日の勤めを終え、僧坊で書見をしていると、障子の向こうから声がかかった。
「慈海様、失礼いたします」
障子を静かに開け、顔を出したのは、本山貫首(ほんざんかんじゅ)、つまり本山住職の身の回りの世話をしている若い修行僧だ。
「慈海様。貫首様がお呼びです」
「分かりました」
慈海はちらりと部屋の時計を見た。夜8時。貫首は既に勤めを終えているはずだ。こんな時間に呼ばれることは珍しい。
ストーブを消し、部屋を出ると、若い修行僧は慈海を案内するかのごとく、先へ立って歩き出した。底冷えのする廊下を、慈海は修行僧の後ろについて進んだ。廊下のほの暗い明かりが、庭を黒々と浮かび上がらせている。
「奥の院へ、とのことでございます」
後ろを軽く振り返りながら、修行僧は言った。
「え?」
慈海は意外な気がした。
「奥の院」とは貫首の住居部分のことだ。近しい人間であっても、直接そちらに呼ばれることはめったにない。
よほど、プライベートな用件ということだろうか。
薄暗い廊下を進み、回廊を渡る。時折、冷たく棘のある風が頬をなでる。空から時折、白いものが落ちてきていた。
「冷えると思ったら……。雪ですね」
修行僧が言った。彼が空を見上げたのにつられて、慈海も回廊から真っ暗な空を見上げた。
やがて2人の行く手に、巨大な木の扉が現れた。「御錠口(おじょうぐち)」と呼ばれる二重になった頑丈な扉で、ここから先が貫首の住居、「奥の院」だ。その名の通り、昔は内側から頑丈な鍵が取り付けられていたらしいが、時代の流れとセキュリティ上の問題から、今はカードキーと暗証番号でロックする仕組みになっている。
一つ目の扉を開けると、そこは2メートル四方くらいの板張りの何もない空間で、天井から太い紐が1本、下がっている。紐の先には賽銭箱の前にあるような巨大な鈴(すず)。この「お鈴(すず)の間」は江戸時代から変わらないらしい。
修行僧が紐を引くと鈴が鳴り、もう一つの扉の向こうで人の動く気配があった。
ややあって扉のロックが解除されたガシャっという音とともに、もう一つの扉が内側から開かれた。
中から顔を出したのは案内してきた修行僧よりやや年かさの僧侶で、慈海を認めると軽く会釈をした。慈海が会釈を返すと、年かさの僧侶は扉を閉めた。背後でロックがかかる音が聞こえた。
慈海は案内してきた修行僧について、長い廊下を進んだ。奥の院へ入るのはこれが初めてだ。本山へ到着した日、挨拶と蜘蛛の顛末を伝えるため貫首に会ったが、その時は寺内の貫首の公的な居場所でだったからだ。
奥の院はよく手入れされた日本の邸宅、という雰囲気で、時代劇に出て来る武家屋敷のような風格がある。柱も板張りの床も、年月を経て重々しく黒光りしている。修行僧は障子の並んだ廊下を、奥へ奥へと入ってゆく。同じような光景が続いて迷子になりそうだ、と慈海が思い始めた矢先、ある障子の前で、修行僧は足を止めた。
「こちらです」
一礼して修行僧が去ると、慈海は板張りの廊下に座し、障子の向こうに声をかけた。
「貫首様、失礼いたします。慈海でございます」
「うん、入っておいで」
中からゆったりとした老人の声が答えた。
障子を開くと、こたつの向こうに老人が座り、慈海に向かって穏やかに微笑みかけた。
慈海は一礼し、障子を閉めると老人に向かい合った。
本山貫首、吉武慈円(よしたけ じえん)。
慈海とは戸籍上の叔父にあたる。慶雲の妻、周安子(ちやこ)の実兄だ。
慶雲とは本山での修行僧時代からの親友同士だという。年齢は慶雲の2歳年上。小柄でほっそりした体を灰色の法衣に包み、柿色の袈裟を着けている。筋骨たくましい慶雲とは異なり、可愛らしいお爺ちゃん、という風貌だが、やや下がり気味の大きな目は少年のように輝いている。
「ここへ来て、そろそろ半年か」
貫首は独り言のようにそう呟くと、慈海に座布団を勧め、こたつに入るように言った。そして手元の急須から湯気の立つお茶を湯呑に注ぎ、慈海の前に差し出した。
慈海は頭を下げ、温かな湯呑を受け取った。貫首は傍(そば)に置いた木の菓子皿から最中(もなか)を勧めたが、甘いものが苦手な慈海は丁重に辞退した。
貫首はにこにこと笑みを浮かべ、
「そうそう。お前さんは確か、甘いものが苦手だった。慶雲と同じだな」
と背後の戸棚を開けた。中には柿の種だのせんべいだのがぎっしり入っている。どれだけお菓子を買い置きしてあるんだろう、と慈海はちらりと思った。
「あの、貫首様。何か、お話がおありでは……?」
「うん」
貫首は柿の種とせんべいの袋をこたつの上に出してから、最中の包みを開け、美味しそうに頬張った。
「どうだ、慈海。少しは、落ち着いたか」
貫首の声は優しく、心地よい。慈海は湯気の立つお茶を啜り、目を伏せた。
あの日から、もう半年になる。
蜘蛛の件を片付けた後、慈海は松木信三のはからいで、信三が新しく働くことになった慶雲の知人の寺にしばらく身を寄せていた。その寺で慶雲の葬儀を済ませ、慶雲の遺骨とともに本山へ向かったのだ。
中学、高校と本山の学校に通い、その後も修行僧として3年暮らしたから、慈海にとって本山は慣れ親しんだ場所だ。中学、高校時代の友人や修行僧時代の仲間の中には、今も本山で働いている者もいて、懐かしい再会もあった。本山での勤めにもすぐ慣れたが、未だに気持ちの整理はついていなかった。日中は何かとやることがあるから気が紛れるが、夜、僧坊で1人になると、嫌でも絲雲寺での日々、そして慶雲のことを思い出す。この世にたった1人、取り残されたかのような、身を静かに侵食されてゆくような寂寥感に苛まれる。 慶雲の遺骨も、本山の墓所へ入れるよう勧める人もあったが、結局手元に置いたままだ。
そして、時折、みづきのことを思い出す。彼女は今、どこでどうしているだろうかと。結局、連絡先も交換しないままだった。東京へ会いに行きたい気持ちはあったが、東京で働いている、という情報だけでは探しようもない。自分にはどうすることもできないが、せめて、今、彼女が幸せであってくれればと、慈海は考えていた。
「落ち着いたか」という貫首の問いに、はいともいいえとも返せずにいると、貫首は無言で頷き、お茶を啜った。
しばらく、静かに時が移ろった。やがて、貫首は口を開いた。
「今回の件は、本山にも責任があろうな」
「え?」
意外な言葉に、慈海は驚いて貫首の顔を見つめた。貫首は湯呑をそっと卓に戻し、息をついた。
「本山はあの蜘蛛の件を、少なくとも明治の終わりには把握していた」
「今回の……父からの手紙で知ったわけではないのですか」
あの日以来、慈海は慶雲を「父」と呼んでいた。あの最期の一瞬。慶雲と真実、親子となれたことを忘れたくなかったし、慶雲も心の底では慈海と親子であることを望んでいたと知ったからだ。
本当の両親がどこの誰であろうと。慶雲は紛れもない、慈海のこの世でただ一人の父親だった。
「うん。儂も今回の慶雲からの手紙を受け取って、いろいろ調べてみたのだ。少なくとも本山は明治34年に、筑紫(つくし)の上人殿(しょうにんどの)からの手紙で……事態を知らされていたはずだ」
筑紫の上人殿。
絲雲寺の16代住職、覚寿上人(かくじゅしょうにん)に仕えた中村実海(なかむら じっかい)の別称だ。
中村実海は絲雲寺を退去後、長年、北九州市の道場で弟子の育成に尽力したため、宗派内では「筑紫殿(つくしどの)」「筑紫の上人殿」と呼ばれるのが通例だった。
中村実海が蜘蛛の件を知っていて、しかも本山に知らせていたというのは、慈海には初耳だった。
貫首によると、中村実海は明治34年の春、当時の本山貫首であった園田信証(そのだ しんしょう)にあて、「絲雲寺にゆゆしき事態あり」と書かれた書状を送っているという。
明治34年といえば、と慈海は記憶を探った。確か、覚寿上人が息子の覚円上人を絲雲寺副住職に指名した前年だ。この後継者争いともいうべき事態で、中村実海は絲雲寺を去ったはずだ。
「筑紫の上人殿はその翌年に絲雲寺を退去されていますが、その書状の件と何か関係があったのですか」
慈海の問いに、貫首は首を振った。
「詳細は分からん。だが本山は、結果的にその手紙を黙殺した」
「何故です」
「書状を受け取った翌月に、信証上人が遷化されたからだ」
園田信証が明治34年5月に急死し、後継者の指名がなかったことから、本山では一時貫首の座が空白になるなど、混乱状態に陥った。
明治35年9月にようやく新しい貫首が決まったが、書状の件は引き継がれなかった可能性が高い。しかも、明治35年の終わりには中村実海自身が絲雲寺を退去している。そういった事情が重なり、結局、この時本山が動くことはなかった。
「間が悪かったとしか言いようがないが」
と貫首は言った。
「結果として、今回の事態に至るまで放置することになってしまった」
貫首は苦悶をありありと表情ににじませ、「申し訳ない」と詫びた。
「おやめください、貫首様。誰が悪いわけでもありません」
「しかし、そのせいで何人もの人間が蜘蛛の犠牲となり……慈海。お前にも辛い思いをさせてしまった。現貫首として一言詫びねば気が済まぬ。申し訳ない」
貫首は深々と頭を下げた。
「ご事情は分かりました。貫首様のお気持ち、確かに受け取りました。ただ……私自身はまだ、気持ちの整理がつけられないでおります。どうお答えして良いものか分かりません」
慈海は貫首に対し、思うことをありのままに言った。悲しいとか、本山への憤りとか、そんな分かりやすい気持ちを、今は抱けない。ただ、混沌としているのだ。貫首は顔を上げ、静かに頷いた。
「儂は貫首であるとともに、お前の叔父でもある。お前の気持ちは、最大限尊重したいと思っている。実はそのことが、今日のもう一つの話でもあるのだが、聞いてくれるか」
「はい」
「慈海。本山を離れる気はないか」
「え?」
慈海は驚いて、美しい双眸を見開いた。
「離れる、とは?」
「うん。実はな」
兵庫県三木市に、宝鏡寺(ほうきょうじ)という寺がある。5年前に住職が亡くなり、息子が跡を継がなかったため、今は空き寺状態で、隣町の同じ宗派の住職が宝鏡寺住職を兼務している状態だが追いつかない。寺の建物も檀家で協力して何とか維持しているがこれも限界があるという。檀家数も多く、どうにか本山から住職を派遣してくれないかという嘆願が届いているらしい。
「では、私がそのお寺の住職に?」
「行ってはもらえまいかと思ってな。絲雲寺に比べれば町中(まちなか)にある寺院で、檀家数も多い。環境が変われば、気持ちも変わるかもしれぬよ」
兵庫県三木市、と言われても、慈海は関西に土地勘がないから、よく分からない。貫首によれば、兵庫県南部の町、ということだが……。
だが、慈海が迷ったのは一瞬のことだった。「人に混じり、人に寄りそってこそ真(まこと)の仏教者」という、慶雲の最期の言葉を思い出したからだ。
「行かせていただきます」
慈海は貫首をまっすぐに見つめ、そう答えていた。
みづきが実家に着いたのは、法要の前日の午後だった。実家に帰ったときは、みづきが母と一緒に夕飯を作るのだが、今日は母は台所に立っていない。隣の6畳間で、あちこちのタンスを開けて、やたらと服を引っ張り出しては鏡の前で合わせている。
「ねえみづき。明日の法要、どれ着て行けばいいと思う?」
どうやら明日の祖母の法要に着て行く洋服を選んでいたらしい。
「はあ?」
みづきは訳が分からなかった。パーティじゃないのだ。法要なのだから、そこそこちゃんとした普通の服装で良いのではないか、と思った。
「法要なんだし、そんなおしゃれする必要ないでしょ。いつも着てるあの……紺のワンピースとかでいいんじゃない?」
「でも、あれじゃ地味かなって思って」
「地味って。結婚式じゃないんだから。何で派手にする必要があるのよ」
台所のテーブルに座って新聞を読んでいた父が、呆れたように咳払いをした。
「宝鏡寺の新しいご住職が……イケメンなんだと。よく分からん」
父は苦々しい口調で呟いて、バサッと新聞をめくった。みづきは驚いて、皿洗いの手を止め、父を振り返った。
「え?吉田君ち、新しいお坊さん来たの?」
みづきの実家の菩提寺である宝鏡寺は、みづきの小学校、中学校時代の同級生の家だ。吉田、というのがその同級生の苗字だが、みづきは一度も同じクラスになったことはない。近所でも有名な問題児で、小学校の頃からしょっちゅう問題行動を起こしていた。住職である父親は息子に分不相応な小遣いを渡し、母親も甘やかし放題で、典型的な甘やかされたお坊ちゃん、という感じだった。高校は、みづきは地元の公立校に行き、吉田は私立高校に進学し、別々になったから、その後は一度も会っていない。噂では喧嘩により高校を1学期で退学させられ、父親を殴って家を飛び出したらしい。今どうしているかは知らないが、みづきの母が知り合いから聞いたところによると大阪でヤクザ組織に入っているとか、いないとか。いずれにしても、僧侶にはならず、父親の後も継がなかった。
吉田の父親である住職が5年前に亡くなってから、母親は長女と同居するため家を出て行き、宝鏡寺は誰も住まなくなっていた。近隣の寺院の住職が宝鏡寺住職を兼務してくれているので、前回、祖母の3回忌の法要はその兼務住職の寺院で行った。今回もそちらでやるものだとみづきは思っていたが、父が言った。
「今年は宝鏡寺でやることになった。本山の派遣住職さんが来てくれたから」
ああ、とみづきは思った。そういえば前回3回忌のとき、檀家総代が本山に嘆願書を送るとかいう話を、母から聞いた気がする。だが、人が住まなくなって何年も経つし、維持管理も追いついていないし、寺はかなり傷んでいるはずだ。
「……あんなボロ寺にお坊さん来るんだ」
「ボロ寺ってあんた。うちの菩提寺よ」
相変わらず服を並べながら、母が咎めたように言う。
「だって屋根、抜けてなかったっけ」
「屋根は抜けてないわ。床は抜けてたかもしれない」
それは白アリでは?とみづきは思った。そんな場所に、本山もよく僧侶を寄越したものだ。
「もっと悪いじゃない。……っていうかその人、本山で何やらかしたの」
何か事情があるとしか思えないな、とみづきは思った。吉田の父親も息子の問題はさることながら、車庫に金ぴかのベンツを停めて棚経のときは法衣の袖口からロレックスをのぞかせているような人だったから、新しい住職とやらもろくな人物ではなさそうだ……というのは偏見か。
だが、父は新聞を閉じ、お茶を啜りながら言った。
「今年の春に赴任されて、ご挨拶にも来てくださったよ。まあイケメンというか……とても綺麗な人だから見た目は冷たそうにも思えるが、話してみると良さそうな人だったよ。礼儀もきちんとしているし、素朴で飾らない感じで」
「ふうん……」
みづきは皿を拭き終え、父の向かいに座った。綺麗なお坊さん、か。正直、明日会いたくないな、と思った。それこそ慈海を思い出してしまう。しかし父はそんなみづきの心の葛藤に気付くはずもなく、みづきの顔を見ながら続けた。
「年齢もみづきとあまり変わらないんじゃないか」
「住職さんにしては若いね」
「まあそうだなあ」
そして父は、六畳間に向かって呆れた口調で叫んだ。
「おい滋子(しげこ)。いい加減にしないか。いい年をしてみっともない」
いつまでもウキウキと洋服選びをしている母に痺れを切らしたらしい。母はようやく決めたらしいワンピースとネックレスをハンガーにかけ、渋々台所に戻ってきた。
「いいじゃない、別に」
「良くない。62歳にもなって、何を考えているんだ。みづきも呆れているだろう」
「だって、ジカイ様、とってもお綺麗だもの。お父さんとは大違い」
急須からマグカップにお茶を注いでいたみづきは、母の言葉にパッと顔を上げた。
「お母さん!今、何て言ったの」
急に大きな声を出したから、母はびっくりしてみづきの顔を見た。
「何よ。あんたまで大きい声出さないでちょうだい。お父さんとは大違いって言ったのよ」
「それはそうだろうけど、その前。……その新しい住職様、ジカイさんって言うの?」
母はみづきの食いつくポイントが理解できなかったらしく、皺の寄った目元をパチパチさせた。
「え?そうよ。慈しむに、海って書いて、慈海様」
「苗字は?」
「苗字?何だっけ。聞いたんだけど……ねえお父さん、田中さんだったっけ」
「為永さんだろ。為永春水(ためなが しゅんすい)と同じだから、よく覚えている」
父が江戸時代の戯作者の名前を出した。定年退職したとはいえ、中学の社会科教師らしい答え方だ。
その言葉を聞くなり、みづきはテーブルから立ち上がった。勢い余って椅子がひっくり返り、お茶を入れたマグカップが父の側(がわ)に倒れてお茶が扇のようにテーブルに広がった。
「おい、おいみづき!」
ズボンにお茶がかかったらしく、父が慌てて立ち上がり、ズボンを指でつまんでワタワタしている。そんな父に背を向け、みづきは玄関に向かって突っ走った。
「ちょっとみづき!?どこ行くの!?」
母の声。「おい母さん、雑巾、雑巾」という父の声を背中で聞きながらも無視して、みづきは靴を履く間ももどかしく実家を飛び出した。
夏の夕暮れ時はまだ明るい。みづきは蒸し暑さの残る道を、記憶を頼りに宝鏡寺へひた走った。
蝋燭の明かりが静かに本尊を照らし出している。すぐ傍らに、白布に包まれた骨箱。慶雲の遺骨だ。お香のにおいが漂う。
慈海は鈴(りん)の音(ね)が静かに堂内に吸い込まれてゆくのを感じながら、顔を上げた。
宝鏡寺へ赴任して、既に3か月。兼務している隣町の住職から引き継ぎを受け、檀家への挨拶回りを済ませ、とにかく慌ただしかったが、お盆を過ぎてようやく落ち着いてきた。夜のお勤めを終え、そろそろ閉門の準備を、と思っていると、電話が鳴った。
慈海は本堂を出て、廊下の奥にある受話器を取った。
信号が変わるのを待つのがもどかしい。みづきは横断歩道で止められるたび、待ち切れずマラソンランナーの準備運動みたいに足を小刻みに動かした。早くしないと、閉門になってしまう。
横断歩道を渡り、見覚えのある商店街を抜け、住宅街をしばらく行くと、瓦屋根を乗せた塀が現れ、「宝鏡寺」と木札が掲げられた門が見えた。まだ門は開いたままだ。みづきは境内へ駆け込んだ。
本堂への階段を上がる。板張りの縁側に、「照顧脚下」と書かれた木の札が置かれている。美しいその筆跡に、みづきは見覚えがあった。
……ああ、間違いない。慈海の字だ。
目の奥がじんわりと熱くなり、涙が浮かんできた。
本堂に入った。
誰も、いない。
けれど、ついさっきまで人がいた気配があった。夏の終わりの風が柔らかく吹き込み、蝋燭の火を揺らす。
白い骨箱が目に入った。
おそらく、慶雲の遺骨だろう。
本尊は蝋燭に照らされ、柔らかな表情でみづきを見守っていた。
「慈海様……!」
みづきは本堂の奥に向かって、呼んだ。
慈海は受話器を置いて、振り返った。誰かに、名前を呼ばれたような気がする。誰かに……。その声は、みづきの声に似ていた。
まさか。どうしてここに、みづきさんが……。
慈海は廊下から本堂の入口をくぐった。そして、目を見開いたまま立ち尽くした。
「みづき、さん……」
今河みづきの姿が、確かにそこにあった。
みづきの呼びかけに答えるかのように、慈海が本堂に入ってきた。
慈海は絲雲寺にいた頃より少しやせたように見えたが、変わらず美しく、凛とした佇まいを見せていた。
「慈海様……」
もう一度呼んで、みづきの目から涙があふれた。
一度は死んだものと諦めていた。けれど、会いたくて、会いたくて、この1年近く、忘れた日はなかった。
本尊の前で、みづきと慈海は二度と離れまいと誓うかのように、固く、固くお互いを抱きしめ合った。夏の終わりの温かな風が優しく吹き抜け、 お香のにおいが慈しむかのように柔らかく、2人を包み込んでいった。
〈エピローグ〉
薄暗い室内には、むせかえるようなお香のにおいが漂っていた。どこか禍々しく、棘のある香りだ。
重いカーテンが垂れ下がった、まるで玉座のような場所に、1人の僧侶が腰かけていた。がっちりした体を紫色の法衣と金糸の刺繍のある袈裟で包み、頭髪は綺麗に剃り上げられているが、どこか俗っぽいぎらついた印象の中年男だ。袈裟の金糸がほの暗い照明にきらきら光り、筋肉質の腕にはロレックスの腕時計が巻き付いている。
その足元にすがりつくように、乙部日和は背中を丸めて正座し、数珠を手にかけ祈っていた。
僧侶……というには生臭いにおいがぷんぷん漂ってきそうな中年男は日和を見下ろし、もったいぶった口調で語りかけた。
「さあ、全て吐き出してしまいなさい」
日和は数珠を擦(す)り合わせ、絞り出すような声で言った。
「はい。私は33年前に……人を殺しました」
「人を……?」
さすがに、僧侶は少し驚いたようだった。太い眉がぴくんと跳ね上がった。
「はい。通っていた大学の先生に恋をしてしまい、お恥ずかしい話ですが、今で言うストーカーのようなことをしていたんです。その先生に、奥さんと生まれたばかりの赤ん坊がいて……」
先生が自分を裏切った。
そう思い詰めた日和は先生の自宅に忍び込み、冷蔵庫に残っていた料理に農薬を混ぜたのだ。先生は大学で書道を教えていて、自宅でも書道教室を開いていた。日和は書道教室にも通っていたから、家に入り込むことは比較的容易だった。
しかし自分のしたことが恐ろしくなり、自宅へ帰ってから父親にそのことを打ち明けた。
父親とともに先生の家へ向かうと……そこには既に冷たくなっている先生と妻の遺体があり、傍らのベビーベッドで生まれたばかりの赤ん坊が泣き続けていた。警察に自首するという日和を、父親は強引に説得し、先生と妻の遺体をスーツケースにそれぞれ入れ、赤ん坊を抱いて車に乗せた。 そのまま何時間か、父親はひたすら山の方へ向かって車を走らせ続けた。どの辺りだったのか、日和には判然としないが、辿り着いた場所からスーツケースを2人で山の中へ運び、偶然見つけた滝へ、遺体を捨てたのだ。心中に見せかけられるように、靴も用意した。
赤ん坊はどうするか、最後まで迷ったが、このまま連れてゆくわけにもいかない。父親と相談し、心を鬼にして、生きたまま滝へ放り込んだ。空のスーツケースを持って日和と父は山を下り、何事もなかったかのように東京へ戻った。滝の近くに寺があることには、気付かなかった。
先生と妻子は失踪ということになり、日和は間もなく大学を卒業し、事件は誰にも知られることなく時効を迎えた。
だが、あの日。
絲雲寺の宿坊で。
日和は、出会ってしまったのだ。
かつて狂おしいほど愛した先生に瓜二つの美しい僧侶。
慈海に。
「あの時滝へ放り込んだ赤ん坊が生き残っていて、絲雲寺の住職様の養子になっていたんです。当人はもちろん、私が両親を殺したなんて知らないはずです。けれど……」
そこまで言って、日和は泣き崩れた。
「恐ろしかった。お前の罪を許さない。そう、言われているようで。……お寺では、何でもないふうを装いましたけど、帰って、1人になると、もう耐えられなくて……」
さらり、と衣ずれの音が響いた。僧侶が、日和の傍らに寄り添うようにかがみこんでいた。
日和は震える手で、傍らのハンドバッグからふくさに包んだ分厚いものを取り出し、僧侶に手渡した。僧侶がふくさを開き、中に入っていた封筒を覗き込む。僧侶の目が一瞬、ぎらついた光を放ったように見えた。
僧侶は包みを懐に押し込み、日和の耳元に口を寄せて、ねっとりした口調で囁いた。
「慈悲にお縋りなさい。あなたは必ずや浄土へ導かれましょう」
「あああああ、教祖様あああ」
日和は歓喜の入り混じった嗚咽にも似た声を絞り出し、僧侶の法衣にしがみついて僧侶の顔を見上げた。
ああ、やっと見つけた。私の救い。私の……。
遠くで鐘の音が聴こえた。日和はうっとりとした表情を浮かべたまま、「教祖」を見上げ、歓喜の声を上げ続けていた。
完
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この物語はフィクションであり、実在の人物団体とは一切関係ございません。
絲の檻(いとのおり) 蓮水凛子 @hasumirinko
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