第7話
顔に吹き付ける湿った風に、かすかだが生臭いにおいを感じる。
慈海は長刀を握りしめ、山道を駆け上がった。
水の迸る轟音が次第に大きく耳を打つ。
木立が途切れ、絲雲の滝が姿を現した。どうどうと逆巻く水しぶき。灰色の空の下、滝は不気味に唸りを上げ続けていた。
慈海は崖の突端に立ち、滝壺を見下ろしながら経を唱えた。
ごぽり。
滝壺に一瞬、不自然な泡のようなものが盛り上がった。
慈海は長刀をしっかりと構えたまま、なおも経を続けた。
やがて、大量の白い泡としぶきをまき散らしながら、蜘蛛の足が水面から姿を現した。次第に全身が水面へ浮き上がる。蜘蛛は崖をよじ登りながら白い糸を吐き、慈海を絡めとった。蜘蛛の糸が纏わりつく粘っこい嫌悪感に慈海は全身が総毛立ったが、巧みに長刀で糸を避けながら、手の自由を奪われぬようにした。
自分が取り込まれる瞬間、蜘蛛の目が開くはずだ。そこを、突く。
と、絡めとる糸が、突然、ぐいと下に引かれた。
「……!」
慈海の体が柵を乗り越え、滝壺に放り出される。慈海はとっさに、長刀を持たない左手で、柵の鎖を掴んだ。蜘蛛はなおも糸に力をこめる。柵の杭が抜け、慈海は左手で柵を掴んだまま、蜘蛛の糸に絡められて中空に浮かんだ状態となった。蜘蛛の引く力は凄まじい。柵の杭がぼこぼこと続けて抜け、鎖が長くなり、その分蜘蛛との間合いが詰まる。
この高さなら、長刀が届きそうだ。だが、一歩間違えば蜘蛛ごと滝壺に引きずり込まれてしまう。慈海は懸命に蜘蛛との距離を測った。蜘蛛が糸を激しく引くごとに、左腕がきしみ、ちぎれそうな程に痛い。
もう少し。もう少しで、目が開くはず!
痛みを必死にこらえ、滝壺の水しぶきを全身に浴びながら、慈海は蜘蛛を凝視した。ギイイ、と蜘蛛が鳴き声なのか、何なのかよくわからぬ声を上げた。
刹那、二つの小さな目に挟まれた部分が細く、琥珀色に光った。
琥珀色の部分は次第に大きく膨らみ、開き切ると禍々しい月のようにかっと輝いた。
あれだ……!!
慈海は蜘蛛の糸に引っ張られながら、長刀を振り上げた。一度目は蜘蛛にかわされたが、二度目。届かない。蜘蛛は糸を絡めたまま、激しく身をよじり、慈海の体を振り回す。何度か崖に叩き付けられ、あまりの痛さに意識が飛びそうになった。耐えきれず、ついに左手が柵から外れた。慈海は一気に蜘蛛に引き寄せられ、一瞬、蜘蛛の足に乗るような形になった。琥珀色の巨大な目が目の前に迫る。激しい水しぶきが全身に打ち付け、視界を遮る。
慈海は糸を必死で振りほどきながら、長刀を振り上げ、渾身の力でその目を貫いた。
確かに、手ごたえがあった。長刀は固く刺さって抜けず、慈海はそのまま柄(え)から手を離した。体に巻き付いた糸がゆるむ。慈海は自由になった右手で崖の中腹の灌木をひっつかみ、蜘蛛から身を離した。蜘蛛が、真っ逆さまに滝壺に落ちてゆくのが見えた。
やったか……。
慈海が安堵したその瞬間。滝壺から、ぱあっと水しぶきを巻き上げながら、蜘蛛の糸が迸った。よける間もない。糸は慈海の首や腕に絡みつき、慈海の体を灌木ごと、崖から引き剥がした。体がふわりと浮き上がり、滝壺の上を舞った。片手で首に巻き付いた糸を引っ張りながら、残った手で必死で掴む場所を探すが、手は虚しく宙をさまようだけだ。次第に呼吸ができなくなり、頭がしびれたようになってくる。全身から少しずつ、力が抜けてゆく。しばらく格闘した後、慈海は観念し、目を閉じた。
……お父さんとの約束、果たせなかった。
浄土で再び出会えたなら、慶雲は許してくれるだろうか。今度こそ、真の親子になれるのだろうか。
そして……。
この滝壺に眠る本当の両親にも、もうすぐ会えるのだろうか。
自分は父と母、どちらに似ているのだろうか。彼らと何を、話せばいいのだろうか。
不思議と、怖いとは思わなかった。
渦巻く滝壺が視界いっぱいに広がり、激しい衝撃と、重く冷たい水に全身が呑み込まれる感覚が慈海を襲った。だが、それもほんの一瞬のこと。それっきり、目の前が真っ暗になり、全てが闇へと沈んでゆく。
最後に浮かんだのは、あのみづきの顔だった。
「私はまた、慈海様にお会いしたいです。……会えますか?」
会えますか……?
さようなら、みづきさん。
あなたを、傍(そば)で、守りたかった……。
下から突き上げるような激しい衝撃を感じ、みづきはあやうく転びそうになった。
山が、激しく振動している。樹々の梢から、鳥たちが慌ただしく飛び立ってゆく。
地震!?
地響きのような低い唸り声とともに、目の前の斜面が一気に崩れ落ち、みづきは悲鳴を上げた。幸い、土砂の奔流はみづきを巻き込むことはなかったが、目の前で山が崩れて行く。
みづきはしばし茫然とその光景を眺め、やがて気付いた。この上には絲雲寺があるのだ。
お寺は!?
慈海はどうなった!?
だが行く手の道は既に大量の土砂でふさがり、さらに斜面は崩れ続けている。ごろごろと人の頭くらいある岩がすぐ目の前を転がった。
「おいあんた!早く逃げるんだ!!」
突然、背後から声がかかり、手がぐいと引っ張られた。振り返ると、集落の人らしい男性が必死の形相でみづきの手を引いている。
「でも……お寺は!?」
「分からんが……とにかく、登山口まで避難するんだ」
男性に手を引かれ、みづきは無理やり走らされた。登山口……つまり、絲雲寺とは逆の方向へ。
轟音が響く中、みづきは何度も後ろを振り返った。大量の木や岩を巻き込みながら、土砂はさながら滝のように山を流れ下ってゆく。絲雲寺がどうなったかなど、もはや分かる状況ではなかった。
その時、ふと、ある考えが頭をよぎった。
慈海は、蜘蛛を斃したのだ。
あの蜘蛛は、山の神。その山の神を滅ぼしたことにより、雲居山は崩壊し始めたのだ。
それならば、慈海は……。
「辛いのは、一生懸命生きているからですよ」。
座禅堂で聞いた、慈海の言葉が甦る。
「慈海様……!!」
みづきの呼ぶ声は、崩れ落ちて行く雲居山の轟音に、虚しくかき消された。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます