第6話

「お世話になりました」

 日和が爽やかな声で言った。みづきもぺこりと頭を下げた。

「お気をつけて」

 寺男の松木信三が微笑んだ。

 信三によると、覚善と丹海は本山の研修があるため、朝のお勤めの後、すぐに出発したそうだ。慈海はまだ体調が思わしくないとのことで(それが事実ではないことをみづきは知っているが)、みづきと日和を山門まで見送ったのは、松木信三だった。

 蜘蛛を、斃す。

 みづきは昨日、慈海から聞いた話を頭の中で反芻した。信三の背後。曇り空の下。陰鬱に沈んで見える絲雲寺の建物を見上げる。天候のせいか、あの蜘蛛がいると思うせいか、寺は薄暗く、不気味な気配をまとっているかに見えた。

 本堂の巨大な屋根の向こうに、客殿2階の回廊が覗いている。あのあたりが僧坊で、慈海の部屋がある。朝のお勤めを終えて……慈海は今、どこにいるのだろう?この建物のどこかにはいるのだ。けれど、もう、みづきには何もできない。今は帰ることしかできない。

 みづきは重い足取りで、日和の後ろについて長い石段を下りた。

「慈海様、まだ良くならないのねえ。朝のお勤めの時も、いらっしゃらなかったし」

 日和が急な石段をゆっくりと下りながら、背中越しにみづきに話しかけた。

「そうですね……」

 みづきは機械的に相槌を打った。日和が「佳南ちゃんって、誰?」と言い出してから、佳南の記憶を失っていることはあの蜘蛛のせいだと分かっていても、みづきは何だか日和が不気味に思えて、今までと同じように話すことができなくなっていた。

「どうしたの、みづきちゃん。疲れちゃった?」

 みづきの様子がおかしいことに、日和は多少なりとも気付いているのだろう。振り返って優しい笑顔を向ける。その笑顔は屈託がなく、それがかえってみづきには薄気味悪かった。

「あ、いえ、大丈夫です。……お天気が悪いから、山道大丈夫かなって思っただけで」

 みづきは精一杯の笑顔を日和に返した。

 修行体験の間は、着いた日を覗いて綺麗に晴れていたが、今日の空はどんよりと灰色の厚い雲に覆われている。雷は聞こえないが、雨が降るのかもしれない、とみづきは思った。

「着いた日もこんな感じだったわね。ま、登山口に着くまでは、何とか持ってくれるでしょ」

 日和は「楽しかったわねえ」などと言いながら、あの時はこうだった、ああだったなどと修行体験中の思い出をあれこれ語っている。みづきは無難な返事を返し、日和に話を合わせながら、心の中ではずっと、慈海とあの蜘蛛のことを考え続けていた。



 石段を下りて「絲雲寺」と書かれた巨大な石碑の前を通り過ぎ、山道を延々と下る。今はただの廃墟群となった雲居下(くもいしも)集落跡も、薄暗い空の下、不気味な沈黙を守っているかに見えた。

 どれくらい、歩き続けただろうか。

 行く手が次第に開け、雲居山登山口のバスターミナルが姿を現した。

 明かりの灯されたレストラン。バス停の小さな標識とベンチ。

 天候のせいか人はほとんどいないが、みづきは異世界から現実に戻ってきたような心地がした。ここから、バスに乗って、雲居駅まで行く。雲居駅から電車に乗って、特急に乗り換えて、東京に戻るのだ。そして明日から、また仕事が始まる。何事もなかったかのように満員電車に揺られて、オフィスに出勤して……だけどもう、佳南はいない。

 絲雲寺で起こったことは、異世界の出来事のようでありながら、紛れもない現実だった。あの蜘蛛の化け物。人を喰らう恐ろしい……妖怪なのか何なのかは、みづきにはよく分からなかったが……。絲雲寺の忌まわしい歴史。それを、慈海と慶雲は今、終わらせようとしている。

 慈海に、会いたい。

 蜘蛛の件に巻き込まれたのは、最初は、佳南を助けたいと思ったからだった。

 けれど、今は違う。

 別にあのラインを見たからどう、ということではない。いや、佳南のラインのことでは確かに動揺したし、正直、佳南に同情できなくなった部分もある。けれどそれとは直接関係なく……今は、慈海が気がかりだった。

 孤独な人だ。どこまでも優しくて……強いように見えるけれど、孤独な人だと、みづきは思っていた。

 もし、自分が……。

「あらやだ。バス行ったばかりじゃない」

 隣から日和のうんざりしたような声が聞こえ、みづきは思考の渦中から現実に引き戻された。日和はバス停と腕時計を交互に見ながらため息をついている。

「次のバスまで2時間よ、みづきちゃん。これだから田舎はねえ」

 このままここで待っているのも何だし、と日和はみづきを促し、レストランへ向かった。

「軽く、何か食べましょ。ずっと歩いてきたから、お腹すいちゃったわ」

 朝のお勤めの後、朝餉は食べたが、お粥と野菜の味噌汁と漬物という禅寺らしい簡素なものだった。

 みづきは道中あれこれ考えすぎていたせいで食欲は全くなかったが、それを日和に説明する気にもなれないので、日和の後について、黙ってレストランに向かった。

 平日で天候があまり良くないこともあってか、レストランには他に客はいなかった。ラベンダー色の制服を着たウェイトレスがゆったりとやってきて、2人の前に水の入ったグラスをことん、と置いた。日和は特にメニューを見ることもなく、サンドイッチと紅茶を注文し、みづきはコーヒーだけ注文した。

「あら、みづきちゃん、食べないの?」

「すみません。あんまりお腹、空かなくて」

 店内は結構冷房が効いているせいか、うすら寒い。みづきはリュックからカーディガンを取り出し、羽織った。ついでにトイレも行っておきたいな、と店内を見回すと、レジカウンターの隣にトイレマークの表示が出ているのを見つけた。

「あの、ちょっとトイレ」

 ウェイトレスは注文を書き止め、来た時と同じゆっくりとした足取りで去って行った。みづきはそれが合図ででもあったかのように、リュックを背負い、立ち上がった。

「行っといで」

 日和は特に気に留めるふうもなく言った。

 トイレを済ませて手を洗い、リュックからタオルハンカチを取り出した。

 と、ぽろりと何かが落ちた。

 拾い上げると、あのメモだった。

 写経の時、慈海がそっと渡してくれたメモ。確かあの時、半分に折って、リュックのポケットに入れたのだ。ハンカチに押しつぶされたのか湿気を吸ったのか、メモはもらった時より少しくたっとしているように見えた。開くと慈海の達筆すぎる筆跡が目に飛び込んできた。

「慈海様……」

 このメモを渡してくれた時の、背後で感じた衣擦れの音。足音。法衣の長い袖を左手で押さえて、メモをお手本の下に押し込んだ指先……そんな光景が、みづきの脳裏に鮮明に甦った。

 メモをそっと鼻先に押しあてる。紙のにおいに混じって、まだかすかに、白檀の香りが……香水なのか、衣に焚きしめているのか、線香のにおいなのか、詳細は知らないが慈海のにおいが残っていた。

 やはり、だめだ。

 このまま帰ったら、きっと後悔する。

 ぐるぐると後悔し続けて、自分の思考で、身動きが取れなくなってしまう。

 みづきは決心した。

 やはり、戻ろう。

 慈海は絲雲寺と為永家の問題だと言ったが、知ってしまった上で放置はできない。慈海が何と言おうと、力になりたいのだ。みづきは足早にトイレを出て、日和のいる席まで行った。そして席に座りもせず、日和に伝えた。

「すみません、日和さん。私、忘れ物が」

 今から戻ります、と言うと、日和は「ええ?」と明らかに迷惑そうな表情をした。当然だろう。いくら次のバスまで2時間待ちだとは言っても、絲雲寺まで行って戻ってくるのを待っていたら確実に乗り遅れてしまう。行って戻るみづきはまだしもずっとここで待たされる日和にとっては、迷惑以外の何物でもないだろう。帰りの特急だって、席を予約している。次の次のバスだとそれに間に合わない可能性もある。

「そんなの、電話して後から送ってもらえばいいじゃない」

 日和の口調はいつも通り柔らかかったが、微妙な棘が含まれている。

「本当に、すみません。日和さんは次のバスに乗ってください。私は、何とかしますから」

 みづきは日和の返事を待たず、キャリーケースの取っ手を引っ掴むと、そのまま走り出した。

「え?ちょっと。みづきちゃん。みづきちゃん!?」

 日和の声が背中にぶち当たっても、みづきは振り返らなかった。

 レストランを出て、みづきはまず建物の裏手に回った。「手荷物預かり」の看板が出ていることに気付いたからだ。重い荷物は、なるべく置いてゆきたい。

 キャリーケースを預け、ミニリュックだけになると、みづきは「絲雲寺」という看板の出ている山道をほとんど走るような勢いで登って行った。

 贄のフリをすることになっても構わない。慈海の、力になりたい。

 自分に大した力なんてないけれど、もし……。


 もし、慈海の抱える孤独を、ほんの1ミリでも癒せるのなら。


 それは、烏滸(おこ)がましい考えだろうか。

 「辛いのは、一生懸命生きているから」。慈海の言葉が甦る。

 そう、自分は、一生懸命生きてきた。たぶん。

 両親や先生の期待に応えられるように、勉強も運動も、習い事も必死で頑張った少女時代。

 雅也の愛を繋ぎ止めたくて、料理や洗濯、掃除……自分が擦り切れてしまうくらい、尽くして、尽くして、尽くしまくった。

 佳南に一人前になってほしくて、仕事の指導にも熱が入った。

 そして、そんな期待が裏切られるたび、絶望した。

 思えば自分の人生は、常に何かの見返りを求めてきたような気がする。

 褒められたいから頑張る。

 愛されたいから尽くす。

 自分の意思で、したいからする、というのではなく、相手にこうしてほしいから、自分は我慢する。

 相手が期待に応えてくれなければ、自分を責め、相手を責め、絶望して自分の殻に閉じこもる。

 受け身で臆病な自分。

 けれど。

 みづきは今、はっきりと悟っていた。


 自分は、慈海が好きなのだ。


 あの強さも、素朴さも、優しさも、内に秘めた孤独や脆さも、全て含めて、彼を愛しているのだ。

 だから、力になりたい。

 それは慈海が自分を愛してくれることを期待して、ではない。もちろん、愛してくれたら嬉しいが、それは慈海が決めること。慈海がみづきを拒否するなら、それでも構わない。ただ、力になりたいから戻ってきたと、そのことだけ伝えられれば、それでいい。それが、みづきの意思なのだから。

 山道はどんどん急になり、鬱蒼とした樹々と灰色の空が眼前に迫りくるように見えた。それでも、みづきは肩で大きく息をしながら、決して足を止めることはなかった。



 慈海は1人、薄暗い回廊に立っていた。

 重く垂れこめた灰色の雲。湿っぽくくすんだ空気。本堂の屋根も、その向こうの山並みも、灰色の風景の中に沈んで見える。

 朝のお勤めの後、丹海、覚善は既に出発した。研修のため、新潟県にある本山永楽寺へ向かったのだ。絲雲寺が廃寺となった場合の2人の身の振り方については、慶雲から本山貫首(ほんざんかんじゅ)吉武慈円(よしたけ じえん)にくれぐれも、と頼んである。本山職員となるか、丹海は実家が寺だから、そのまま実家へ戻る可能性が高い。

 寺男の松木信三は慶雲の知人の僧侶がいる隣県の寺で雇ってもらえることになっていた。信三自身は蜘蛛の件を薄々知っているから、本心では最後まで見届けたいようであったが。特に慈海のことは幼少期から知っているだけに、心配してくれているようだ。

 今、信三は山門に宿坊の客を見送りに出ている。その様子は本堂の影に隠れて見えないが、慈海は回廊から、山門のある方角を見下ろした。

 みづきは今日、東京へ帰る。

「私はまた、慈海様にお会いしたいです。……会えますか?」

 会えますか……?

 昨日、座禅堂で言われた言葉が、まだ耳の奥に残っている。

 東京で、みづきはどんな生活をしているのだろう。東京になど、慈海は一度も行ったことがない。テレビでたまに見る風景しか知らない。テレビ自体も、慶雲がたまに時代劇を見る程度で、慈海はそうそう見る機会はないのだが。あの、どこまでも広がる夜景の一つ一つに人が暮らしていると思うと、何だか途方もないように思える。人がたくさんいて、華やかで、煌(きら)びやかで……その分、悩みや苦しみも多いのだろう。

 みづきが何に囚われ、苦しんでいるのか、分かる部分も分からない部分もあるが、重すぎる荷物を抱えて、それでも必死で1人、頑張り続けようとする。そんなみづきが心配で、傍(そば)にいて守りたいと思ってしまう。けれど……。

 これで、良かったのだ。

 東京に戻り、日常に戻り、日常の生活の中で、みづきには幸せになってほしかった。

 自分では、彼女を幸せにすることはできない。

 蜘蛛を斃し……そもそも無事、斃せるかどうか。そして、斃せたとしても、自分はその後、どうなるかは分からない。お互い、生きていれば、また、会えることもあるだろうか。

 ご縁があれば。

 あの時は、他に、言うべき言葉が見つけられなかった。みづきにとっては、突き放されたように感じただろう。それが申し訳なかった。

 みづきさん……。

 慈海は目を伏せ、伝えられなかった言葉を頭の中で反芻した。

 私は、あなたを、……。

「慈海」

 突然、背後から名を呼ばれて、慈海は現実に引き戻された。慶雲だ。いつの間に、来たのだろう。気配を全く感じなかった。

「そろそろ、参ろう」

 慶雲の右手には、背丈ほどの高さのある、細く長い包みが握られている。仁海上人の長刀だ。慶雲はそれを慈海に手渡し、そのまま回廊の奥へと進んで行った。

 あの部屋のある方角へ。

 いよいよ、始まるのだ。

 慈海は一瞬、回廊の彼方へ……山門のあるであろう方角へ目をやった。握りしめた長刀は、ずっしりと重かった。

 迷いや恐怖が、ないわけではない。だが、心は決まっていた。慈海は長刀を握る手に力をこめ、ひとつ深呼吸すると、慶雲の後を追い、静かにあの部屋へと向かった。



 回廊が途切れ、土壁に囲まれた板張りの廊下を進む。足を踏み出すたび、廊下はギイギイと不気味な音を立てる。天候のせいか廊下は薄暗い。土壁には等間隔に照明が取り付けられ、歩くのに不自由しない程度の明るさはあるが、そのほの暗い光がかえって禍々しさを増幅させているかのようであった。

 慶雲の背中だけを見つめ、慈海は長い廊下を進んでいった。

 ふと、違和感に気付く。

 その違和感の正体が何なのか、最初は全く分からなかった。 ぼんやりしたオレンジ色の光に浮かび上がる廊下。慶雲と自分の影が床から土壁に伸びている。

 影。

 慈海は胸にきざした不気味な違和感の正体に気付いた。

 慶雲の影。

 体から、何かが突き出ているように見える。歪み、引き伸ばされた黒い骨のような。

 蜘蛛だ。

 別に根拠があったわけではないが、慈海はそう確信した。慶雲の影が、蜘蛛と一体化したかのような。

 まさか!そんなことが、あるはずがない。

 いつしか、慈海は足を止めてしまっていたらしい。廊下の軋む音が聞こえなくなったからだろう。慶雲が振り返った。

「どうした、慈海」

 呼ばれて、びくん、と心臓が震えた。一瞬、慶雲から目をそらす。

「恐ろしゅうなったか」

「いえ……」

 影が。そう言おうとして、慈海は改めて慶雲の影を見た。慶雲が振り返って体の向きを変えたからか、あの突起のようなものはなくなっていた。慈海を見つめる慶雲の表情も何も、別に変ったところはない。いつも通りだった。慈海はホッとした。気のせいだ。柱や長刀の影などが被さって、たまたまそう見えただけだろう。これから蜘蛛を斃しにゆくのだし、気負いすぎているのかもしれない。

「何でも、ありません」

「そうか……?」

 慶雲は釈然としない様子だったが、特にそれ以上何か問うことはなく、再び歩き始めた。

 やがて行く手に、巨大な木の扉が姿を現した。

 慶雲が閂を外す。金属のこすれる悲鳴のような音が薄暗い廊下に反響した。扉はひどくきしみながら、ゆっくりと開いた。壁際のスイッチを押すと明かりが灯り、正面にある襖が不気味に浮かび上がった。

「良いか、慈海」

 慶雲は振り返り、押し殺した低い声で囁いた。

「儂が贄となるそぶりをする。目が開いたらお前はその長刀で、奴の目を狙え。儂が取り込まれそうになっても心配は無用だ。まずは目を狙うことのみを考えよ」

「はい」

 慈海は頷いた。長刀を握りしめる手が熱くなり、力がこもる。

 慶雲が取り込まれそうになっても……。

 本当に取り込まれてしまうより前に、的確に目を突かねばならない。そのタイミングの見極めが重要だ。手遅れになる前に、確実に。

 緊張が走り、胸が高鳴り、手のひらにじっとりと汗がにじんだ。

 ひとつ深呼吸をし、慈海は、佳南を贄に捧げたあの日と同じように……みづきを贄に捧げようとした日と同じように、部屋の隅に静かに座した。 ただ違うのは、今日はその傍らに包みを解かれた長刀が置かれているということだった。

 慈海は右手で長刀の柄(え)をしっかりと握り、長い衣の袖を被せるようにして、蜘蛛からは見えぬように隠した。そして経を唱え始めた。蜘蛛をこちらに呼び寄せるための経を。

 慶雲はそんな慈海の様子にゆっくりと頷き、自らは襖の前に立った。

 襖が、慶雲の手によって、静かに開かれる。

 やがて、襖の向こうから、生臭い匂いのする風が吹き付けてきた。

 慈海は経を続けながら、慶雲の背中越しに、襖の向こうを凝視した。

 畳敷きの、20畳ほどの、何もない空間。壁には一面、びっしりとお札が貼りつけられている。

 古びてささくれだった畳の表面に、黒い輪のようなものが現れた。ちょうど、静かな沼の水面に小さな石をひとつ、落とした時のように。

 輪はたゆたうような波紋となって、畳の上に幾重にも描き出され、それはやがて部屋の空気に微細な振動となって伝わり始めた。襖がガタガタと小刻みに鳴った。

 姿は見えないが、慈海は「あれ」の気配を全身で感じ取っていた。

 「あれ」が来る。あの化け物が、もうすぐ目の前に……。

 もうすぐ……。

 そうしたら、……。

 どくん、どくん、と耳の中で自分の心臓の鼓動が響く。

 ……。

 どれくらい、経っただろうか。慈海は嫌な違和感を覚えた。「あれ」が現れない。襖の向こうには、お札が無数に張られた空間。ただ、気配だけはびしびしと痛いくらいに伝わってくる。

 おかしい。……慶雲はこの違和感に気付かないのだろうか。

「お師匠様」

 慈海は経を止め、正座にした足を軽く浮かせ、声をひそめて慶雲を呼んだ。

 慶雲から返事はない。経を止めたことを咎められるふうでもない。

 と、慶雲がゆらりと立ち上がった。糸でつられた操り人形のような、どこか手足がばらばらな不自然な動きだった。

「お師匠様?」

 突如、慶雲が一回転した。呼ばれて振り返った、というより、何か大きな力で無理やり回転させられた、という感じだった。

 こちらを向いた慶雲の顔。

 慈海は本能的な恐怖を感じ、目を見開いたままその場で凍り付いた。

 慶雲の目には、黒目がなかった。真っ白な目には縦横に血管が浮き出している。

「ご、ご、も……」

 慶雲は口元をわなわなと震わせ、半開きになった唇の間から声とも呼べぬくぐもった音がもれる。やがて口元の震えは全身に及び、慶雲は全身を小刻みに痙攣させた。

「お師匠様!?」

 慈海は凄まじい恐怖を感じながらも、慶雲に駆け寄った。と、その刹那。

「ぐごおおおお!!」

 嘔吐するときのような濁った嫌な音とともに、慶雲の目から、口から、真っ白なものが吐き出された。

「お師匠様……!」

 慈海は反射的に慶雲の傍(そば)を飛びのいたが、慶雲から伸びた真っ白な奔流は生き物のように慈海の首や手に絡みついた。慈海は悲鳴を上げた。

 糸だ。蜘蛛の糸!

 絡みついてきた白く、粘り気のあるものは、紛れもなく蜘蛛の糸だった。「あれ」が吐き出す糸。慈海は必死で糸を振りほどこうともがくが、糸は慈海の首や手に固く巻き付き、首を締めあげた。

「く……」

 自由にならぬ手で何度糸を引こうとも、固く絡みつくばかり。首が締まり、次第に呼吸ができなくなり、頭が朦朧としてくる。

「お師匠様……お師匠、様……やめ……て……」

 苦しい息の下、慶雲に必死で訴える。と、慶雲と目が合った瞬間、慶雲の死者のごとく白濁した目に一瞬、光が戻ったように見えた。手に絡まった糸がわずかに緩む。慈海は少し自由になった右手を懐に差し込むと、短刀を抜き、鞘を歯で挟んで抜き取ると、首に巻き付いた糸を断ち切った。 外れた糸をかなぐり捨て、慈海はその場にうずくまり何度も咳き込んだ。

 うずくまって喘ぎながら、慈海は師匠を見上げた。

 慶雲は断ち切られた糸を体から垂らしたまま、ゆらゆらと揺れている。慶雲の体の動きに合わせ、糸も柳のようにぶら下がり揺れていた。

 慈海は肩で何度も呼吸を整えながら慶雲と距離を取り、短刀を構えた。といって、慶雲に刃を向けることなど、できるはずもなかったが。

 一体、何が起こっているのか。慶雲はどうなってしまったのか。

 襖の向こう。慶雲の背後に、蜘蛛の姿はない。押しつぶされそうな気配だけは感じるのに。

 慶雲は、動かない。慈海は息をつめ、状況を見守った。どうすれば良いのか。必死で考えを巡らせる。

 びん、と襖の向こうの空気が震えた。

 生臭い風が慈海の顔に吹き付ける。


 ク……クク……


 地の底から湧き上がるような、くぐもった声が聞こえた。

 どこから聞こえる、というのはよくわからない。ただ、部屋の中にその声が満ち満ちる。 あの化け物の声。


 愚カヨノ、慶雲、慈海。

 ソナタラの企ミ、我(ワレ)ガ知ラヌトデモ思ウタカ!


「どこだ。化け物!どこにいる!!」

 慈海は部屋を見回し、叫んだ。


 慶雲ハモハヤ、我ノ一部ジャ。


 慈海は慶雲を見た。慶雲の口から吐き出された糸が、少しずつ伸びてゆく。糸はそれ自身が生きているかのごとく、ゆらめきながら板敷の上を這い、のたうっている。


 仁海ハコレヲ恐レ、慈照ニ全テヲ押シ付ケ河内ヘ逃ゲタノジャ。

 我ヲ殺セナンダ己(オノレ)ノ無力ヲ呪イナガラナ。

 アゲク、狂イ死ニシヨッタワ。

 哀レヨノ、仁海。愚カヨノ、仁海……。


 蜘蛛の声が呪詛のように部屋を漂う。高らかな哄笑が響き渡った。

 そんな、まさか……。

 慈海には信じられなかった。蜘蛛の語ることが真実ならば……慶雲は既に、蜘蛛に乗っ取られている!?仁海も?そして、歴代住職たちも? 絲雲寺の住職になるとは。「絲の檻」の番人になるとは。

 身も心も、この化け物に捧げることを意味するというのか。

 だから慶雲は、自分を本山へやり、ただ一人、蜘蛛と決着をつけるつもりだったのか。

 自分はもはや、手遅れだと知っていたから……。

 自らを蜘蛛に捧げ、この「絲の檻」とともに滅びようとした。

 信じられない。そんなこと、信じたくない。

「そんな……。嫌です、お師匠様……」

慈海は何度も何度も首を振り、慶雲の死人のような白濁した目を見つめた。ゆらり、と慶雲の体が揺れた。慶雲の手が、ゆっくりと持ち上がる。その指先からも、白い糸が何本も伸びていた。


 愚カヨノ、慶雲……


 蜘蛛が再び嗤(わら)った。


「貴様のような化け物に、好きにさせてたまるかあっ!」

 突然、蜘蛛の声を打ち破るかのごとく、慶雲の怒号が響き渡った。慶雲は口から伸びた糸を両手でむんずと掴み、引きずり出した。

「くばあっ」

 慶雲の口から、糸とともに大量の血が迸った。慶雲はその場に膝をつき、崩れ落ちながらもなおも糸を引きずり出した。畳におびただしい血が滴る。

「お師匠様!!」

 駆け寄る慈海を押しとどめ、片膝をついたまま、慶雲は部屋の片隅に置かれた長刀を指さした。

「儂を殺せ、慈海。その長刀で、儂を突け!儂が完全に、化け物に取り込まれる前に」

「そんな……。できません、お師匠様……!」

 慈海は何度も首を横に振った。慶雲は震える手で、慈海の肩を掴んだ。目をかっと見開き、慶雲は慈海を見つめた。血にまみれた唇がゆっくりと動く。

「化け物を斃し、山を下りろ。……良いか、慈海。人に混じり、人に寄りそうてこそ、真(まこと)の仏教者ぞ」

 そして慶雲は、慈海が傍らに置き捨てた短刀を取り、慈海が止める間もなく、自らの喉を切り裂いた。大量の血が吹き上がり、慈海の身にも降り注ぐ。慶雲は身を激しく痙攣させ、その手から短刀がぽろりと落ちた。

「お師匠様……何故、こんな……」

 茫然とその場に座り込む慈海を、慶雲は震える手で抱きしめた。

「最期まで師と呼ばせ、父とは呼ばせなんだ儂を、許せとは言わん。だがお前は、紛れもない儂の子。儂の命。儂の、宝だ。出逢えて良かった。ありがとう、……ありがとう……智、壽……」

 慶雲の大きな手が、幾度も頭を撫でる。

 その手の温かさ。抱きしめられるぬくもり。

 それは、慈海が幼い頃から長年、慶雲に望んでいたことだった。

 けれど。それが叶ったのは、ごくわずかな時間だけだった。するり、と慶雲の体が慈海の胸に沿うように滑り落ちた。

「お師匠様!」

 慈海が慶雲を抱きとめる。慶雲は血まみれの口元に穏やかな微笑を浮かべたまま、息絶えていた。いつの間にか、慶雲の体から伸びた糸は消えていた。

「おとう、さ……ん……」

 生まれて初めて、慈海は慶雲にそう、呼びかけた。そして、慶雲の亡骸をそっと横たえ、顔や体を優しく撫でた。

「どうしてですか?やっと真(まこと)の親子となれたのに……また、私を独りにするんですか……?」

 大粒の涙が慈海の頬を伝い落ちた。

 慶雲の亡骸の上に突っ伏し、慈海は激しく肩を震わせ、泣き崩れた。慶雲の体には、まだ温もりが残っていた。 慣れ親しんだ慶雲のにおい。

 けれどそこに血のにおいを感じた瞬間、慈海はぴたりと泣くのを止めた。 涙を頬に伝わせたまま、慈海は顔を上げて襖の向こうを見つめた。

 今はまだ、泣いてはいけない。

 まだ、終わってはいない。

 慈海は手のひらで涙を拭うと袈裟を脱ぎ、その袈裟で慶雲の亡骸を覆った。合掌し、静かに経を唱える。そして、先ほど慶雲が落としたままになっていた短刀を懐紙で丁寧に清め、鞘に納めて慶雲の胸の上に置いた。

 化け物。逃(のが)しはしない。

 慈海は法衣の長い袖を頭の後ろで結び、上から玉襷(たまだすき)を絡めた。部屋の隅に置かれた長刀を手に取る。その姿は平安末期に活躍した僧兵を思わせた。

 慈海は慶雲の亡骸に一礼し、蜘蛛を追い部屋を飛び出した。滝へ向かうのだ。慶雲との約束を果たすために。



 空には灰色の雲が重くたれこめ、今にも雨が降り出しそうだった。遠雷が低く唸っている。

 みづきの行く手に、雲居下集落の廃村。もう間もなく、絲雲寺へとつながる長い石段が見えてくるはずだ。山道を無理に早歩きし続けたせいで、足がじんじんと痛い。けれどみづきは自分を励ましながら、決して足を止めることなく歩き続けた。

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