第5話
写経の途中で、みづきはトイレに行くと言って部屋を抜け出した。
写経堂にもトイレはあるが、みづきは写経堂を出て客殿に向かい、2階へ上がった。向かったのは僧坊。慈海の部屋だ。
部屋の障子は閉ざされている。具合が悪く横になっているのかもしれない。それなら申し訳ないが、みづきにももう時間がないのだ。明日には、東京に戻らねばならない。みづきは大きく息を吸い、障子の向こうに声をかけた。
「慈海様。今河みづきです。あの、お話があって参りました……」
返事はない。眠っているのだろうか。病気で寝ている人を叩き起こすのはさすがに鬼だと思ったが、事情が事情だけに、そこは謝り倒して許してもらうしかない。みづきはそっと障子を開け、中を覗き込んだ。
「慈海様」
部屋は空だった。布団も敷かれていない。室内は綺麗に整頓されていて、文机の上に黒い表紙の古そうな本が1冊置かれているのが目に入った。
「どうしよう」
みづきは思わず声に出して呟いた。慈海がいない、という状況は想定していなかった。布団が片付いているのだし、トイレに行った、とかではなさそうだ。といって、行先に心当たりはない。途方に暮れた。
しばらく部屋を覗き込んだまま固まっていると、後ろから声がかかった。
「慈海様なら、座禅堂ですよ」
いきなり声がかかったのでギョッとして振り返ると、修行僧の新田覚善が立っていた。覚善は大きな黒いスーツケースを両手で提げている。
「そうですか。ありがとうございます」
みづきはそそくさと障子を閉めた。みづき側の事情を覚善は知らない。どう見ても、覗きをしているようにしか見えなかっただろう。
きまり悪さを隠すため、みづきは覚善に話しかけた。
「どこか、旅行ですか?」
覚善の大きなスーツケースを指さす。
「明日から、私と丹海さんは本山の研修なんです。1か月間」
「1か月?大変ですね」
「まあ、大変ですけど、楽しいですよ」
覚善によるとその研修は3年に一度あり、全国から若い修行僧が集まるという。
普段は皆、所属する寺でバラバラに修行しているが、この研修の時は近い年頃の僧侶たちが一同に集う。友人もでき、修行の場であるとともに日ごろの悩みなどを打ち明け、励まし合う大切な場でもある。遠方にいる仲の良い僧侶と久しぶりに会えるので嬉しいと、覚善は幼さの残る顔をほころばせた。
「学校ではずっといじめられてて、友達、できなかったんです。本山で初めて、友達ができて、自分と似たような境遇の人もいて……あ、慈海様とお約束があるんでしたよね」
お引き留めしてすみません、と覚善は頭を下げた。
「いえ別に約束があるわけでは。研修、頑張ってくださいね」
みづきが優しく励ますと、覚善は「はい」と頷き、ちょっと照れたように俯いた。そのまま一礼して、彼は自分の僧坊へ入って行った。
可愛いな、とみづきは微笑ましい気持ちで覚善の背中を見送った。しかし、今は覚善を応援している場合ではない。座禅堂だ。
みづきは踵(きびす)を返し、来た道を足早に戻った。
1階へ下り、客殿を出て、みづきはほとんど走るような足取りで座禅堂に向かった。
外からの日差しが障子越しに差し込み、座禅堂の中を柔らかく浮かび上がらせていた。みづきは一礼して中に入った。
慈海が1人、座布(ざふ)の上で、静かに座禅を組んでいた。ほのかに、あの白檀のかおりが漂ってくる。
みづきが入って来るかすかな足音に気付いたのか、慈海が振り返った。みづきの姿を認め、一瞬、目を見開く。
「……みづきさん」
名前を呼ばれて、みづきはどくん、と心臓が高鳴るのを感じた。緊張して、声がうまく出せない。
「あの……覚善さんから、こちらだと伺って。お加減はもう、よろしいのですか?」
問われて、慈海は曖昧に微笑んだ。おそらくまだ、本調子ではないのだろう。黒い法衣の上に袈裟を着けて、きちんと僧形に整えてはいたが、表情は少しけだるげで、疲れているようにも見えた。熱が引いた後で体力が戻っていないのかな、とみづきは感じた。
慈海は姿勢をといて座禅の台を下りると草履を履き、みづきの傍(そば)に来た。そして、深々と頭を下げた。
「昨夜は申し訳ありませんでした」
みづきは何と答えていいものか迷った。
慈海は、慶雲の命令とはいえ、いったんはみづきをあの化け物の生贄にしようとしたのだ。けれど不思議と、慈海に対する怒りは感じていなかった。
「いいえ。結果的には助けてくださったわけですし。でも……佳南ちゃんは、もう戻ってこないんですね」
「それは……」
慈海は顔を上げ、ひどく辛そうな表情で頷いた。
「申し訳、ありません……」
もともとこの蜘蛛の件に関わったのは、失踪した佳南を探すためだった。佳南を何とか、助けたいと思っていた。
けれど、あのラインを見て。
佳南の本心を知って。
みづきは、認めたくなかったが、自分が今どう思っているのかはっきり分かった。
「いいんです」
みづきは慈海を見つめ、はっきりとそう言った。
「え?」
慈海が目を見開く。みづきの言葉の意味を図りかねているようだ。佳南を、助けたかったのではないのか?慈海の澄んだ双眸が、そう言っているように思えた。
みづきは慈海に微笑みかけた。
「私、嫌な奴です。正直、ざまあみろって思ってるんです。佳南が化け物に食われた。いい気味だわって」
言った瞬間、目の奥から、じわりと熱いものがこみ上げてきた。ラインを見た時は泣けなかったのに。みづきは泣いているのを慈海に悟られたくなくて、何度も瞬きをした。
「私は本気で雅也を愛していたのに、雅也はそうじゃなかった。ただのゲームだった。佳南には一人前になってほしくて、毎日必死だった。でも、あの子はそんなこと、望んじゃいなかった。雅也と一緒に、私をからかって楽しんでいただけ……」
感情が言葉になって、どんどんあふれ出てくる。事情を打ち明けるにしても、ちゃんと順を追って説明しないと、慈海に伝わらないとは分かっている。慈海からすれば、そもそも、雅也って誰?という感じだろう。
だが慈海はそんな疑問を口にすることなく、ただ黙って、傍(そば)でみづきの話を聴いていた。
ひとしきり、吐き出してしまって、みづきが「ごめんなさい……」と俯くと、慈海はそっとみづきの頭に手を乗せた。温かい手だった。 そして、慈海は穏やかな声で言った。
「辛いのは、あなたが一生懸命生きているからですよ」
と。
「慈海様……」
みづきは心がふわりと、何か温かいもので満たされていくような、不思議な気持ちがした。
ろくに説明もしないまま打ち明けたのに、慈海には確かに何かが伝わっているようだ。雅也が誰、とかそういう細かい部分は分からなくても、みづきが囚われているその核心部分は、きっと伝わっているのだ。
慈海はみづきの頭をぽんぽん、と優しく叩くと、手を離した。
しばらく、沈黙が訪れた。
慈海はみづきを長い時間じっと見つめていた。そして、静かに口を開いた。
「私も……みづきさんにお伝えしたいことがあります」
「はい」
慈海は言葉を選ぶかのように、しばし視線を動かした。そして、続けた。
「今朝、師匠と話し合いをいたしました」
「話し合い?」
話し合い。蜘蛛について、だろうか。そんなみづきの思考に割り込むように、慈海はまっすぐにみづきを見据え、言った。
「あの蜘蛛を、斃(たお)します」
と。蜘蛛を、斃す。その言葉の意味するところがみづきの中で形となるまでに、しばしの時間を要した。斃す?あの蜘蛛を?
「それって、つまり、あの蜘蛛を殺すってことですか?」
慈海は頷いた。
「仁海上人から500年。絲雲寺は、蜘蛛の檻として役目を果たしてまいりました」
「お寺が、蜘蛛の檻?」
そこから、慈海が語ってくれたことは、みづきには信じられないような話ばかりだった。そもそも、あんな化け物が実在していることからして、現実離れしすぎている。しかし、昨夜、確かにあれを自分の目で見たのだ。慈海の言うことを信じるほかなかった。
「絲雲寺の忌まわしい歴史を、師匠と私の手で終わらせたいのです」
慈海が慶雲とともに、あの蜘蛛を退治する。途方もない話だ。そんなことが可能なのか。みづきには分からなかった。だがあの慶雲が、何の勝算もなしにそんなことを考えるとも思えない。何かしら方法があるのだろう。
「元々は、師匠が1人で計画を実行されるおつもりだったようです。しかし、師匠は私にとって唯一の家族です。ですので、私も師匠とともに参ります」
慈海はきっぱりとした口調で言った。
家族。
慈海のその言葉は、みづきの耳にはっきりと刻み付けられるほど、重く揺るぎないものに感じられた。
蜘蛛退治に直接関係があるわけではないし、聞いて良いことなのかどうかも分からなかったが、みづきはずっと気になっていた疑問を口にした。
「あの、慈海様。これはずっとお聞きしたかったことなのですが……」
「はい」
「住職様は、慈海様のお父様なのですか?」
佳南が荷上げの片づけをしながら慈海に尋ねたときは、師匠だと答えていたと聞いている。だが、昨夜慈海が倒れたとき、慶雲が見せたあの表情……。あれは、間違いなく、父親の顔だった。そして、慶雲とともに蜘蛛を斃すというその経緯も、師弟関係というより親子の情愛に近いもののように思える。
慈海はみづきの問いに、しばし、言葉を発しなかった。やがて、ゆっくりと目を伏せ、言った。
「いいえ、師匠です」
みづきは納得がいかず、さりとて「嘘でしょう」とも言えず、ただ黙って慈海の顔を見つめた。
慈海は一瞬俯き、そして顔を上げ、静かに続けた。
「私の両親(ふたおや)が誰であるのかは、私自身も知りません」
「え……」
慈海が話してくれた生い立ちは、みづきにとっては衝撃的なものだった。
33年前の夏。滝行を行うため絲雲の滝へやって来た慶雲と、当時寺にいた修行僧数名は、崖の途中の灌木に引っかかり泣いている赤ん坊を発見した。崖の上には、男物の革靴と女物のサンダルが1足ずつ、きちんと揃えて置かれていたという。
「それって……」
みづきは自分の頭に浮かんで、思わず口に出しかけた想像を慌てて呑みこんだ。
だが慈海は、みづきが何を言おうとしたか、分かっていたようだ。
「ご想像の通りだと思います。おそらく両親は、心中するために滝を訪れたのでしょう。けれど、私を連れてゆくことが忍びなかったのか、それとも、一緒に飛び込んだけれど私だけ途中で引っかかってしまったのか……」
赤ん坊を発見した慶雲と修行僧たちも同じことを考えたようだ。赤ん坊を救出した後、警察や地元の消防団も協力して、大規模な滝壺の捜索が行われた。しかし、遺体も靴以外の遺留品も発見されなかった。滝壺の内部は奥が非常に深く、入り組んだ洞窟のような構造になっている。人が入り込むと迷って出られなくなる危険があり、ダイバーも途中で潜水を断念せざるをえなかったようだ。
結局、遺書はなかったが、警察は無理心中と断定し、捜索は打ち切られた。
「師匠はせめて親戚でもいれば引き渡したいと、かなり時間をかけて私の身元を調べたそうですが、結局、分かりませんでした」
両親が赤ん坊に名前を付けていたのかどうか。身元不明では、そのことも分からない。
赤ん坊はいったん、乳児院に預けられた。
しかし、慶雲はその前年に妻の周安子を病気で亡くしていた。周安子との間に子供がいなかったこともあり、その子を絲雲寺の跡継ぎとして自ら引き取ることにしたのだという。
慶雲は自分の俗名の智義(ともよし)から一文字取って、その子に「智壽(ともひさ)」という名をつけた。
両親が心中に到った理由は分からない。不倫、駆け落ち、無理心中……もしかしたら、この子は祝福されて生まれてきた子ではないのかもしれない。たとえそうであっても、これからのこの子の人生が祝福されたものであるように。名前の「壽」(「寿」の旧字体)にはそんな願いがこめられている。
そういった事情だから、慈海は戸籍上、慶雲の養子となっており、2人に血の繋がりはない。そして慶雲は慈海にあくまで師匠として接し、人前で父親と名乗ることはないし、慈海が慶雲を父と呼ぶことも許してはいないという。
みづきは慈海に話させてしまったことを後悔した。
両親の遺体が、今もあの滝壺に沈んでいるかもしれない。
滝行のたび。荷上げに行くたび。そして、みづきたちを案内したとき。慈海はどんな思いで、あの滝を見つめていたのであろうか。滝の上で見た慈海の横顔。滝壺の一点を憑かれたように凝視していたあの横顔が、みづきの脳裏に甦った。
慈海の孤独。
滝壺へ身を投げたなら、両親に会えるのではないか。
慈海はおそらく一度ならず、そんなことを考えたことがあるのではないか。だから、あの時……みづきが滝壺に吸い込まれそうな感覚に囚われたあの時、みづきに手を差し伸べたのではないか。
聞いては、いけなかった。
そんなみづきの心中を察したのか、慈海は穏やかに言った。
「物心ついた時からこの環境が普通でしたので、両親がいなくて寂しいと思ったことはありません。両親がいるという感覚が、そもそも私には分かりませんから」
「そう、ですか……」
慈海はみづきに気を遣わせまいと思って言っているのだろうが、みづきは余計辛くなった。
自分は両親がちゃんと揃っていて、幼い頃から何不自由なく育ててもらった。それなのに、口うるさいだの何だの、両親の存在を疎ましく感じ、ろくに実家に寄り付きもしないのだから。慈海からしたら、とんだ親不孝娘だろう。それに、慈海がたとえ、本心から寂しいと感じていなかったにしても、辛い記憶であることは間違いない……。
「大丈夫ですよ。気にしないでください」
慈海は重ねて言って、優しい微笑を浮かべた。
「経緯はどうであれ、師匠は私の家族です。蜘蛛を斃し、共に本山へ参るつもりです」
慶雲が当初、慈海に先に本山へ行くよう命じたということは、蜘蛛退治は相当危険なものなのだろう、とみづきは思った。500年という長きに渡って恐ろしい「贄」の伝統が引き継がれてきたということは、歴代住職たちの誰も、斃す方法が分からなかった、もしくは分かっていたとしても危険を感じ躊躇していた、ということだ。歴代住職たちは伝統を守り、この秘密を決して外部に漏らさないようにしてきたという。
だが、今、みづきは知ってしまった。
絲雲寺の秘密だけでなく、慈海が心に秘めていた思いも、打ち明けさせてしまった。
自分は明日、何事もなかったように東京に戻ってしまっていいのだろうか。
とはいえ平凡なOLに過ぎない自分に、何ができるとも思えないが……。
贄になるフリをして蜘蛛を誘い出すとか?そういうことならできそうだ。正直怖いし嫌だったが、それでもこのまま何もせず帰ることは、もっと嫌だった。
みづきの揺れる心に気付く様子もなく、慈海は言った。
「明日は皆さんがお帰りになられますし、丹海さん、覚善さんは本山の研修です。信三さんにも皆さんをお見送りした後、知人のいる寺へ参るように伝えてあります」
明日、絲雲寺には慶雲と慈海しかいない。つまり明日、計画を実行するつもりであると。
修行僧の丹海、覚善は蜘蛛のことを知らない。30年、寺に仕えて来た信三はある程度知っているが、僧侶ではないため、寺の内部のしきたりについては一切口出しはしないという。
「あの、慈海様」
みづきは思い切って言った。格子窓の向こうを眺めていた慈海が、「はい?」と振り返る。格子窓から差し込む光が、慈海の顔を柔らかく照らし出していた。
「私に、何かできることはありますか?」
「え?」
慈海は美しい瞳を見開き、じっとみづきを見つめた。
「……私に何ができるとも思えませんけれど、慈海様と住職様が危険なことをなさるのを承知で、このまま帰るのは気がかりなんです」
一瞬、間があった。慈海は何かしら、みづきに手伝ってもらえる心当たりがあるのかもしれなかった。だが慈海はきっぱりと言った。
「お気持ちはありがたいですが、これは絲雲寺と為永家の問題です。外部の方をこれ以上巻き込むわけには参りません」
「そう、ですか……」
鐘の音が響き渡った。慈海がちらりと格子窓の外に目をやった。
「そろそろ、戻りますね」
慈海はみづきに向き直り、静かに一礼すると、そのまま座禅堂を出てゆきかけた。すっと伸びた背筋と、広い背中。その姿は美しかったが、大海をただ一艘漂う小舟のような、そんな寄る辺なさと脆さを感じて、みづきは思わずその背に向かって叫んだ。
「待って、慈海様!」
みづきが結構大きな声を出してしまったからだろう。慈海は弾かれたように振り返った。
「私はまた、慈海様にお会いしたいです。……会えますか?」
慈海はみづきの方に向き直り、みづきの顔を見つめた。みづきはまっすぐに慈海を見返した。
「会えますか……?」
繰り返したみづきの言葉に重なるように、開きかけた座禅堂の扉から柔らかな風が吹き込む。風は、慈海の法衣の袖や裾を揺らし、みづきの髪を揺らした。
慈海は言葉を選ぶかのようにみづきから視線を外し、しばし間を置いてから、穏やかな表情で言った。
「それは……。ご縁がございましたら、また、お会いすることもありましょう」
慈海とみづきはしばし、無言のまま見つめ合った。慈海が優しく微笑む。
「御身お大事に。失礼いたします」
慈海はすっと一礼すると、そのまま踵(きびす)を返し、静かに座禅堂を出て行った。足音と衣ずれの音が遠ざかっていき、その背中が見えなくなるまで、みづきは座禅堂の入口に立ち尽くした。
何故だか分からないが、涙があふれて止まらない。みづきは座禅堂の入口の柱にすがりつくようにしゃがみ込み、慈海の耳に届かぬよう、声を殺して泣き続けた。
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