第4話
耳の傍で、あのお経が聞こえる。嫌だ。気持ち悪い。佳南が、あの蜘蛛に食べられた時のお経。
みづきはハッと目を覚ました。一瞬、自分がどこにいて、どういう状況にあるのか分からなかった。
何が、起きたのだろう。
そうだ。慈海の部屋に呼び出されて、……ここは、慈海の部屋……? ではない。
板張りの床。目の前の襖は開かれ、その向こうに、「あれ」がいた。
夢でみたあの巨大な女郎蜘蛛。
くすんだ巨大な巌(いわお)のような体に、黄色と黒の毒々しい紋様。巌の一部が、がばりと持ち上がった。足だ。刃のような節くれだった折れ曲がった蜘蛛の足。みづきは悲鳴を上げた。その途端、今までずっと耳元で鳴っていたお経が、ぷつりと途切れた。背後から、誰かがみづきの傍(そば)に立った。
慈海。慈海だ。
みづきは必死で立ち上がり、無我夢中で慈海にしがみついた。夢の中では慈海は蜘蛛に佳南を食べさせた妖怪坊主だったが、もはやそんなことを言っている場合ではなかった。
「慈海様!慈海様!化け物が!」
あらんかぎりの声で叫んで、そして慈海の顔を見たみづきはギクリとした。慈海の表情が、これまでに見たこともないほど、驚愕の色に塗られていたからだ。しかもその目は、蜘蛛ではなく、みづきを見ている。みづきは背後で、蜘蛛の化け物がずるずると近づいてくる気配を感じた。
ダメだ。慈海と、あの蜘蛛。どちらも、味方ではない。
蜘蛛に食べられる!!
「嫌……嫌……っ……!!」
みづきは何度も首を振り、慈海を見上げた。味方ではないと分かってはいても、他にこの状況を打開できる方法なんて思いつかない。
慈海はみづきと女郎蜘蛛に一瞬、交互に目を走らせた。そして、みづきを思いっきり、部屋の出口に向けて突き飛ばした。
「きゃあ……っ」
慈海の力で、みづきは文字通り吹っ飛び、部屋の入口に尻餅をついた。
「みづきさん、逃げてください!!」
叫ぶや、慈海は蜘蛛に向き直り、念珠を懐から取り出して何やら経を唱えた。
オノレ慈海!何故(ナニユエ)、我ガ贄(ニエ)を奪ウ!!
地の底から響き渡るような声が部屋に轟(とどろ)いた。
みづきは部屋の扉の傍で尻餅をついたまま、逃げ出すことはおろか立つこともできずに、目の前で繰り広げられる光景を見つめていた。
蜘蛛が、言葉を話した!?
慈海は経を唱えながら両手で印を結び、襖を閉ざそうとしたが、蜘蛛は部屋の敷居を越え、慈海にのしかかるようにして覆いかぶさった。琥珀色の目が妖しく光る。
慈海は肩にかかる蜘蛛の足を払いのけたが、蜘蛛はそれでも慈海から離れず、目の下の巨大な口で慈海の肩に噛みついた。慈海が短い悲鳴を上げる。
「慈海様!」
ヤバイ。このままでは、慈海があの蜘蛛に殺される。
みづきは混乱しながらも、とっさに部屋の隅にあった長い燭台をひっつかみ、蜘蛛に向かってぶん投げた。狙ったつもりはなかったが燭台は蜘蛛の目の近くに命中し、一瞬ひるんだ蜘蛛は慈海を口から離した。
「慈海様!」
みづきが慈海に駆け寄る。蜘蛛は琥珀色の目でみづきを睨み付けた。
我ニ歯向カウカ、コノ小娘!
蜘蛛が足を振り上げた。鋭い棘に覆われた巨大な足が、みづきに向けられた。
「みづきさん、下がって!」
慈海が噛まれた右肩を押さえたまま、みづきを強引に自分の後ろへ押しやろうとする。みづきはジーンズのポケットから携帯用の虫よけスプレーを取り出し、蜘蛛の目に向けて噴射した。他に武器になりそうなものが思いつかなかったのだ。
蜘蛛が悲鳴なのか鳴き声なのかよくわからぬ咆哮を上げ、ずりずりと襖の向こうに下がってゆく。化け物とはいえやはり蜘蛛だから、虫よけスプレーは嫌なのだろうか。厳密に言うと蜘蛛は虫ではないが、殺虫剤などは効くのだし……。
みづきが妙なことに感心していると、背後からどかどかと廊下を踏み鳴らす足音が響き、扉が吹っ飛びそうな勢いで開け放たれた。弾丸のように誰かが部屋に乱入してきた。
住職だ。
住職の手には、人の背丈ほどもある巨大な長刀(なぎなた)が握りしめられている。
「慈海!しくじりおったか!」
住職は鬼さながらの形相で絶叫すると、長刀を振り上げ女郎蜘蛛に突進した。蜘蛛の眼前で何やら経を唱え、長刀を二度、三度激しく払う。蜘蛛がずるずると後退し、完全に襖の向こうへ戻ったのを確認して、住職はぴしゃりと襖を閉め切った。襖の向こうではしばらく唸り声や、ずりずりという蜘蛛の動く音が響いていたが、やがて静かになり、いつしか蜘蛛の気配そのものも消えてしまった。
「申し訳ございません、お師匠様」
慈海は肩を押さえ、苦し気(げ)な表情のまま、住職の前で正座し詫びた。
「途中で、術が解けてしまいました」
慈海がそう言うと、住職は慈海を冷ややかに見下ろしてから、目線を動かし、じろりとみづきを睨み付けた。
「やはり、そうか。この娘に刺青(いれずみ)を見られたのであろう」
「刺青って、慈海様の右肩の……」
刺青、という言葉を聞いて、みづきはとっさにそう言って、ほぼ同時にしまった、と思った。住職の顔がさらに険しくなったからだ。あの刺青はそんなに、見られるとマズイものだったのか。別にみづきとて、見たくて見たわけではないが。
「みづきさん、いつ、それを……」
慈海はみづきに刺青を見られた記憶などないに違いない。夜中にトイレに起きたとき、たまたま僧坊を覗いたら見てしまいました、とは言いにくい。何で覗いていたのかと問われるに違いない。何だか覗き趣味みたいだ。
みづきが口ごもっていると、住職は吐き捨てるように冷たく言った。
「いつどこで見たかなど、どうでも良い。結果的に見られたことがお前の失態じゃ」
住職は長刀をくるりと反転させ、刃の方を下に向けた。部屋の明かりに照らされ、刃がぬるりと滴るような光を放つ。
「そこへ直れ、慈海」
慈海は両手を畳につき、住職に向かって一礼した。住職が慈海の背後に回り、長刀を振り上げる。もちろん柄(え)の方ではあったが。そして、畳に両手をついたままの慈海の背中に向かって、全く手加減する様子などなく、長刀の柄を振り下ろした。肉に食い込むような重く、にぶい音が響いて、慈海の表情が苦痛に歪む。悲鳴を上げるのは懸命に堪えている様子だ。それでも時折、短い喘ぎ声のような声がもれる。
「ちょっと、待ってください、住職様!待って!」
みづきは唖然としながらも、必死で住職の腕を押さえた。座禅で使う警策(きょうさく)ならともかく、長刀の柄(え)だ。殺すつもりか。死にはしなくても、骨の1本や2本は折れてしまいそうだ。
「邪魔じゃ。引っ込んでおれ、小娘が!」
腕に取りすがるみづきを、住職が乱暴に振り払う。180センチ近い長身の住職に振り払われて、危うく吹っ飛ばされそうになりながらも、みづきは再度住職にしがみついた。
「やめてください。慈海様が死んじゃいます!何がどうなのか分かりませんけど、落ち着いてください!」
死んでしまう、と言われて、さすがに住職もやり過ぎたと思ったのか、長刀を下ろした。目だけは忌々しげに慈海を睨み付けたままであったが。
慈海は肩で大きく息をしながら、ゆっくりと体を起こした。
「……慈海様。大丈夫ですか?」
「みづきさん……」
慈海の手が、みづきの肩に触れた。発する声の、息遣いがひどく荒い。うるんだ瞳が、じっとみづきを見つめている。
「ごめんなさい……」
囁くようなかすれ声で、慈海はみづきに言った。
「ごめん、なさい……」
みづきの肩に触れた手が、するりと滑り落ちる。そのまま慈海は、崩れるように板張りの床に倒れ込んだ。
「慈海様!?」
みづきが慈海の体に触れる。息遣いが荒い。様子がおかしい。額に手を当てると、燃えるように熱かった。
熱がある!?
みづきはとっさに住職を振り返った。住職も慈海の様子が尋常でないことに気付いたようだ。
「慈海?どうした、慈海?……智壽(ともひさ)!?」
智壽、はおそらく、慈海の俗名(ぞくみょう)だろう。住職の表情が一瞬、師匠から父親の顔になったように、みづきには思えた。だが慈海が住職の呼びかけに答えることはなかった。固く目を閉ざしたまま、激しく喘ぎ続けるだけだ。表情は苦悶に歪んでいる。
みづきはもしや、と思った。
「まさか……さっき、あの蜘蛛に噛まれたから……」
座禅の時、女郎蜘蛛の毒は人間には無害だと慈海は言っていたが、あの化け物の場合はそうではないのかもしれない。
みづきの言葉を聞くや、住職の顔色がさっと変わった。
「噛まれた!?何故(なぜ)それを早く言わんのじゃ」
あなたが言わせる隙を与えなかったからだ、とみづきは思ったが、さすがに言える状況ではない。
みづきの答えなど待たず、住職は慈海を軽々と抱き上げて立ち上がった。そしてみづきに向かって言った。
「儂は絲雲寺二十二代住職、為永慶雲(ためなが けいうん)じゃ。申し訳ないが、こたびの件について儂から外の人間に話せることは何もない。どうか、お忘れくだされ」
無茶だ。あんな女郎蜘蛛の化け物まで見せられて、忘れろと言うのか。それに、佳南はどうなったのか。みづきは部屋を出ようとする慶雲に追いすがった。
「そんな。無理です。あの蜘蛛は何なんですか?佳南ちゃんは?私の後輩は、どうなったんですか!?ちゃんと説明してください!」
みづきは慶雲を睨み付けた。正直言うと慶雲は恐ろしいが、このまま終わるなんて、納得がいかない。だが慶雲は眼光鋭く言い放った。
「問答無用!命が惜しければ、これ以上深入りはせぬことだ」
脅迫とも取れる一言を吐き捨て、慶雲は慈海を抱き上げたまま、足早に部屋を出て行った。
「信三!信三はおるか」という慶雲の声が遠くで聞こえ、バタバタと人の足音が入り乱れて、やがて静かになった。
「何なの……」
みづきは茫然とその場にへたり込んだ。自分が見たものも、目の前で起こったことも、何もかもが信じられない。
蜘蛛の化け物。
慈海はあれに、自分を食べさせようとした?
でも自分は刺青を見たから食べられずに済んだ?
意味が分からない。
けれど、これ以上この部屋にいるのも気持ち悪い。とりあえず、自分の部屋に戻るしかない。みづきは立ち上がると明かりを消し、部屋の扉を閉め、閂(かんぬき)をかけた。「みづきさん、ごめんなさい」……。慈海の声が、倒れる前最後に見せた表情が、いつまでもみづきの頭を離れなかった……。
翌日、朝のお勤めに、慈海の姿はなかった。お勤めの後の座禅に現れたのは、修行僧の鈴村丹海だった。慈海が体調を崩したため、今日の座禅と午後の写経は丹海が担当するとのことだった。
「慈海様、お風邪かしら。心配ねえ」
日和が言う。事情を知っているみづきは、まさか真実を日和に伝えるわけにもいかないから、曖昧に頷いた。
「そうですね……」
まだ、熱が引かないのだろうか。蜘蛛に噛まれたことが原因なのだろうか。あの蜘蛛は、仁海が封印したという女郎蜘蛛なのだろうか。慈海に聞きたいことは山ほどある。今日で修行ツアーは終わり。明日には、東京に帰ってしまうのだ。このまま黙って東京に帰ることなど、できそうになかった。最初は、佳南を助けたいという気持ちだったが、今は違う。じゃあ何なのか、と言われると答えに詰まるが、とにかく、全てがモヤモヤ中途半端なまま、元の生活に戻りたくはなかった。何とか、途中で抜け出して、慈海に会いたい。具合が悪いときに迷惑ではあるだろうが、このままでは終われない。みづきはそう心に決めていた。
豆球の灯された薄暗い部屋で、慶雲はじっと慈海の寝顔を見つめていた。氷枕の固さを確かめ、慈海の額に手を添える。信三に手伝わせ、蜘蛛の毒を解毒する処置をしたのが効いたのか、熱はいくらか引いたようだった。だがそれでもまだ額はかなり熱く、荒い息遣いが部屋に響いていた。
「智壽(ともひさ)……」
慈海の俗名を……あの滝で慈海を拾ったとき、自分がつけた名を、慶雲は呼んだ。慈海の汗ばんだ額から頬を、そっと撫でる。手を握ってやるとかすかに握り返してきて、慶雲はホッとした。
「……」
慈海の唇がかすかに動いた。目を覚ましたのかと思い、慶雲は握った手を離そうとした。
「みづ……き……さ……ん……」
慈海が何と言っているのか分かったとたん、手が止まり、慶雲の顔に優しい笑みが広がった。普段、慈海の前では決して見せることのない表情だった。
やがて、夜が白々と明ける頃には、慈海の息遣いは大分落ち着いていた。熱が引いて楽になったのだろう。規則正しい寝息が聞こえてくる。
他の僧坊で、丹海や覚善が起き出す気配がした。そんな気配を感じながらも、慶雲はじっと、慈海の寝顔を見守っていた。
慈海の瞼がかすかに震え、その目が少しずつ開かれてゆく。それに気づくと慶雲は握ったままだった手を離し、眉間に皺を寄せ、厳格な師匠の顔に戻っていった。
「お師匠様……」
まだ光の戻り切らない茫洋とした目で、慈海が慶雲を見つめていた。
慈海はゆっくりと目を開いた。茫漠としていた風景が、次第にはっきりとした像を結び始める。
天井。
見慣れた自分の僧坊だった。
傍らに師匠が座っていた。師匠、慶雲の表情はいつにもまして険しい。
「お師匠様……」
「解毒の処置はしておいた。毒が抜ければ、熱も自然に下がろう。座禅と写経は丹海に代わってもらうから、今日はこのまま寝ていなさい」
言われて、昨夜のことを思い出した。みづきを、あの蜘蛛の「贄(にえ)」、つまり生贄にするはずが……催眠術が途中で解けてしまったのだ。 解けた原因としては、右肩の刺青……この絲雲寺の、後継者の印である女郎蜘蛛の刺青を見られたこと以外にありえなかったが、見られた心当たりが全くなかったから、混乱してどうして良いか分からなくなった。とっさに、みづきを逃がそうとして、蜘蛛に噛まれたのだ。
誰を贄にするか、決めるのは師匠だ。これまで師匠の命に背いたことなど一度もない。今回初めて、その意に反した。
「申し訳、ありません」
慈海は起き上がり、きちんと師匠に詫びようとしたが、体はだるく重く、全く力が入らなかった。肩にはまだ鈍い痛みが残っている。
「そのままで良い。寝ていなさいと言うたであろう」
慶雲は慈海の噛まれていない方の肩を押して布団に戻らせた。
慈海は仰向けになってじっと天井を見つめたまま、慶雲の次の言葉を待った。慶雲の口から出たのは、意外な言葉だった。
「みづきさん、とは昨夜のあの女性のことか?」
「なぜ、それを……」
「熱の高い間、ずっとその名を呼んでおったでな。気になるのか?」
慶雲は特に怒っているふうには見えない。
「気になる……」
慶雲の言う「気になる」の意味を、慈海は図りかねた。みづきの顔が浮かぶ。自分が彼女に対してどういう気持ちでいるのか、うまく言葉にできない。
「分かりません。……あの人は……すごく傷つきやすくて、繊細な人なのに、何があっても自分の足で立とうとする。それが心配で……傍(そば)で守りたいと思ってしまうんです」
慶雲は厳格な表情をわずかに緩め、言った。
「構わぬよ、慈海。儂は、お前に絲雲寺を継がそうとは思っておらぬ」
「え?」
慈海は慶雲の口から出た言葉に、耳を疑った。自分は、絲雲寺副住職だ。慶雲はいずれ後を継がせるために、自分を育ててきたのではなかったのか。
「それは、昨夜の失態のためですか?」
昨夜の所業で、慶雲に見限られたのか。破門ということなのか。慈海は起き上がろうとしたが、再び慶雲に押しとどめられた。
「違う、そうではない」
「破門ということなのですか!?お師匠様!!私が、昨夜……」
肩に鋭い痛みが走って、慈海は言葉を切り顔を歪めた。
「違うと言っておるではないか。いいから、聞きなさい」
「……はい」
寝ている気持ちにもなれなくて、慈海は結局、無理に半身を起こした。慶雲は諦めたらしく、それ以上止めようとはせずに話を続けた。
「これは、儂が以前から決めておったことじゃ。この絲雲寺の悪しき伝統を、儂の代で終わらせる。儂は……」
慶雲は言葉を切り、慈海の目をじっと見つめた。そして続けた。
「儂は、あの蜘蛛を斃(たお)す」
「斃す?あの蜘蛛を?」
慈海は、美しい双眸を大きく見開き、師匠を凝視した。慶雲はゆっくりと頷いた。
「この寺の開祖、仁海上人(にんかいしょうにん)があれを滝壺に封じ込めて以来、絲雲寺はあれの檻として役割を果たしてきた。あれが滝壺と例の部屋以外行き来をせぬ代わり、30年に一度、贄を捧げるという約束を守り続けてきた。しかし」
慶雲は目を伏せ、右手の障子を見た。夜明けの光がうっすらと障子を染めている。
「慈海。お前は本当に、あれが山の神であると思うか。仁海上人が言い残したように、山の神であると」
沈黙。やがて、慈海はゆっくりと首を振った。
「いいえ。私には、そうは思えません。ですが、仁海上人も斃すことができなかったものを、斃すなど可能なのでしょうか」
「あの長刀。仁海上人が十六善神から授かったとされる長刀じゃ。あれを使えば、可能ではないかと儂は考えておる」
長刀。昨夜、慶雲があの部屋に持ち込んだ長刀で、蜘蛛を斃せるのか。しかし、と慈海は疑問に思った。
「では何故(なぜ)、仁海上人はそれをなさらなかったのでしょうか」
「仁海上人には、おそらく迷いがあった」
「迷い?」
「そうだ」
「それは、不殺生戒(ふせっしょうかい)を守れぬということでしょうか」
不殺生戒を破ることをためらったものか、山の神を斃すことについて、祟りを恐れる村人の進言を受け入れたためか。どちらも不自然な気がするが、慈海にはそれ以外の理由が思いつかない。
慶雲は傍らから一冊の古い書物を取り出した。黒い表紙で和綴じにされた分厚い書物。
「仁海上人の言行録だ。書写ではあるが、原本と全く同じものだ」
言行録。絲雲寺の二代目住職、慈照(じしょう)が師、仁海の言行を記録したものだ。
慈照は仁海が晩年、最も信頼していた弟子の1人である。飛騨国の出身で20代後半頃に仁海の弟子となったというが、僧になった経緯など詳細な伝記は分かっていない。仁海が病気療養を理由に河内に退いてからは、若くして絲雲寺住職を引き継ぎ、弟子の育成と寺の発展に貢献している。 慈照は晩年、長年書き溜めてきた師の言行録を一冊の本にまとめた。とはいえ室町時代後期のことだから、現代人が簡単に読めるようなものではない。慈海も後年の住職が解説などを加えたものは読んだことがあったが、元々の内容を全て読んだことはない。
慶雲は書物を慈海に手渡し、言った。
「仁海上人は河内へ退かれる直前、慈照上人にある告白をされている。後年編纂されたものではその箇所は削除されているが」
「告白?」
慈海が慶雲の顔を見つめる。慶雲がぐっと眉根を引き寄せると、厳格な表情はいっそう、峻険な巌のようになった。
「仁海上人が清瀧寺住職を辞したのは、表向きは応仁の乱によるものとされているが、真の理由は……」
しばし、沈黙が訪れた。部屋の空気が薄く、ぴんとはりつめ、今にも震えだしそうな沈黙だった。
慈海は何も言わず、師の次の言葉を待った。慶雲は見る人によっては恐ろしいとも言われかねない、眼光鋭い双眸をじっと慈海に向けた。
「自らの叔父を、手にかけたことによるものだ」
「叔父を、殺した?」
慶雲は頷いた。
慶雲が語るところによると、仁海の父親の弟にあたるその叔父と、仁海の母親とは長年、不義の関係にあったようだ。その関係のもつれから、叔父は結果的に、仁海の父親と母親を殺害するに至った。母親の必死の嘆願により、当時2歳だった仁海を手にかけることは思いとどまったが、報復を恐れた叔父は仁海を寺に預け、自らは行方をくらましたという。
後年、何らかのきっかけで、仁海は両親の仇が叔父であることを知った。
その叔父が偶然、京都に逗留していることを突き止めた仁海は……当時既に清瀧寺住職という立場にありながら、叔父の住居を訪ね、命乞いをする叔父を一刀のもとに斬り殺したという。
当時、応仁の乱により京都は大混乱のさなかにあり、仁海の凶行は公になることはなかった。
また、長引く戦乱のため多くの公家や僧侶が京都を脱出していた時期でもあり、仁海が突然京都を去ったことについて同情されることはあっても深く追求されることはなかった。 しかし自らの罪を隠し通すことの恐ろしさに耐えきれなかったものか、それとも贖罪のつもりか……。仁海は晩年、最愛の弟子慈照に全てを告白し、絲雲寺住職を辞し故郷河内へ去ったのである。河内で過ごした仁海の最晩年は病に侵され、苦悶の果てに没したと言われている。
言行録を記した慈照はこの告白を書き残すべきか、おそらく逡巡したのであろう。最初にまとめられた本には記載されているが、後年編纂されたものからはその記述は削除されているという。
「親の仇討ちとはいえ、人を手にかけたことによる罪の意識から、結果的に封印をするという選択をしたのではないかと思う」
慶雲は、これはあくまで自分の考えであるが、と付け加えた。
慈海は慶雲の言葉を聞き、それを自分の中で解釈しようと試みた。
慶雲が編纂された言行録から叔父殺害の記録は削除されている、と言った通り、そのことは自分が読んだ言行録にはなかったと記憶している。
蜘蛛を封印した件は絲雲寺の来歴として当然、記載があったが、ただ蜘蛛を滝壺に封印した、とされているだけだ。なぜ殺さなかったのか、については一言も触れていない。
そして、言行録は仁海が河内へ退いた記録をもって終わっているから、それ以降歴代住職が守り通してきた「秘密」についても、触れられてはいない。
歴代の絲雲寺住職が守り通してきた「秘密」。
蜘蛛は、封印された。
絲雲寺のあの部屋と滝壺以外行き来ができぬように。
その封印を解かぬため、定期的に、蜘蛛に「贄」を捧げてきた。
おおよそ30年に一度。
かつては修行に脱落したり、禁を破ったりした修行僧が「贄」に選ばれていたらしい。選ぶのは歴代住職。慶雲もかつて、先代住職が選んだ「贄」をあの部屋に送り、それを見届ける役目を果たした。今回の慈海のように。そして一昨日、自らもしきたりに従い贄を選び、慈海に見届けさせたのだ。
贄にされた人間は、関わる人々の記憶から消えてしまうはずだった。記憶を消すための特別な術があるわけではないから、おそらく蜘蛛の力によるものだろう。しかし、絲雲寺の後継者に代々現れる刺青……贄を捧げる時期を教えるもので、その時期が来ると刺青はひどく熱を持ち、痛みを発するのだが……。みづきたちが絲雲寺に到着した日の夜はあまりに痛みと熱感が続き眠ることができなかったので、深夜、夜風に当てて熱を冷ましていたのだが……。
おそらく、それをみづきに目撃されたのだ。
刺青を目撃した人間からは、贄となった者の記憶は消えないと慶雲から言われていた。だから、くれぐれも、人に見られぬようにと釘を刺されていたのである。深夜のことだし、周囲に人がいないことは確認したが、みづきが、例えばトイレにでも起きたとき、僧坊のある回廊を覗き込んだなら見られた可能性はある。みづきがなぜそんなことをしたのかは分からないが。
いかにしきたりとはいえ、贄を捧げることは、人を手にかけるのと何ら変わらない。贄となった人間が消えたことを覚えている者がいれば、「秘密」が露見する恐れがある。だから、刺青を目撃した者がいれば、その者も贄とするのが歴代住職の暗黙の了解となっていた。いわば口封じだ。だから、昨夜はみづきを……。
結果的に、思い切れなかった。
術が解けてしまったのは、刺青のせいもあるだろうが、贄を捧げることへの迷いも原因だったろう。
慶雲の苦悩を間近で見、そして贄をあの部屋に送った慈海は、自らも人を殺したのだという思いに苛まれ続けていたからだ。
30年後、自分自身も誰かを選ぶのだ。 そして、後継者となる人間に、あの部屋で見届ける役目を背負わせるのだ。
さらに30年後……。
だが、もし今、あれを斃せるのなら。
封印ではなく、完全に息の根を止めることができるのなら。
絲雲寺の忌まわしい伝統は、慶雲と自分とで終わらせることができる。自分たちが佳南を殺したということ、そして歴代住職たちの罪が消えるわけではないが……。
仁海は蜘蛛を生かすことで、自分の後継者たちにこのようなしきたりを強いる結果になることを、知っていたのであろうか。知っていて、それでもなお、蜘蛛を斃せなかったのであろうか、と慈海は思った。
そんな慈海の心中を察したかのように、慶雲は続けた。
「仁海上人が、この忌まわしいしきたりを後世に残すことを承知の上で蜘蛛を生かしたのかどうかは分からぬ。もし知っていてそれでも斃せなかったのなら、それほどまでに苦悩が大きかったということかもしれぬ。だが、少なくとも儂は、蜘蛛を斃すことについて一切の迷いはない」
「はい」
「お前はどうだ、慈海。思うところを、正直に述べよ」
慈海の答えも決まっていた。布団の上に乗せた拳が、小刻みに震えているのが分かった。自分は……。
慈海は顔を上げ、慶雲の目をまっすぐに見据え、答えた。
「私は、もう誰のことも、傷つけたくはありません」
自分があの部屋に送った佳南という女性にも、当然、今まで生きて来た時間があり、家族や友人、恋人がいて、未来の夢や希望があったはずだ。そして記憶が消えなかったことにより、後輩が突然失踪してしまったという事実に直面してしまったみづき。もう誰にも、こんな思いをさせたくはなかった。
それが絲雲寺を……幼い頃から自分の世界の全てであったこの場所を、失うことに繋がろうとも。
「私の思いも、師匠と同じです」
慶雲は頷いた。そして、言った。
「実はこの件に関して、既に本山のお許しは得ている。明朝、丹海と覚善が本山研修に出発するゆえ、お前もそれに同行し、本山へ参れ。お前も承知の通り、本山貫首(ほんざんかんじゅ)は儂の妻、周安子(ちやこ)の兄上だ。お前のこと、丹海と覚善のことも、くれぐれもと頼んである」
「え?」
慈海は耳を疑った。
本山貫首、とは、宗派の総本山である永楽寺(ようらくじ)住職のことで、現住職の吉武慈円(よしたけ じえん)は慶雲の妻、周安子の実兄にあたる。別に政略結婚とかではなく、慶雲と慈円は若いころから懇意にしており、結果的にそうなった、ということのようだが。
周安子は慶雲が慈海を養子に迎える前年、30歳の若さで病死している。周安子は生来病弱で、慶雲も彼女との間に実子をもうけることは諦めており、いずれはどこからか養子を迎えて絲雲寺を継がせようとしていたらしい。周安子が長く生きていれば、慈海は彼女を母と呼んでいたのかもしれない。
それはともかく。慶雲は蜘蛛を斃す決意をしながら、慈海には明日、ここを去れと命じている。それはつまり……。
「私を、蜘蛛退治の場には立ち会わせぬということですか?」
「さよう。儂はただ、お前も儂と同じ意思を持っておることを確かめたかっただけだ」
「お1人で、どうなさるおつもりです!?」
そんな危険なことを、師匠1人にさせるわけにいかない。斃すなら、ともに。そう言いつのる慈海を、慶雲は押しとどめた。
「周安子に実子ができなかったこと。そして、みづきさんの記憶が消えなかったこと。これらは全て、御仏(みほとけ)のお導きだと儂は考えておる。慈海。お前は儂の弟子とはいえ、血の繋がりの上では、為永家の人間ではない。これは為永家の問題。立ち会わせるわけにはゆかぬ」
そんな理由は無茶苦茶だ、と慈海は思った。
そもそも、為永家による絲雲寺住職の世襲が行われるようになったのは、宗派が僧侶の婚姻を認めた明治に入ってからのこと。師弟関係により住職となった人間は二代目慈照を始め、いくらでもいる。為永家と血のつながりがないから、と言われても、慈海には到底納得できるものではなかった。それに。
「いいえ、お師匠様。血のつながりはなくとも、お師匠様は私の唯一の家族です。何故、いけないのです?2人で蜘蛛を斃し、ともに本山へ参れば宜しいではありませんか」
「ならぬと言うたら、ならぬ。師の命令に逆らうことは許さぬ!」
慶雲は取りすがる慈海の手を強引に引き離し、きっぱりと言った。慈海はそんな慶雲を見上げ、何度も首を横に振る。
「であれば、私を破門にしてくださいませ、お師匠様」
「何だと!?」
「破門になれば、もはや師でも弟子でもありません。私は自分の意思で、お師匠様と行動をともにするのです。私を、破門にしてください!」
沈黙が訪れた。慶雲は慈海の顔をじっと見つめ、しばし思案している様子だったが、やがて巌のような表情がわずかに緩んだ。
「そこまで言うのであれば、やむをえまいな。お前の決意がそこまで固いのであれば、尊重しよう」
慈海は一瞬、安堵したが、その後違和感も覚えた。師は一度こうと決めたことは、容易には曲げない。幼少期からともに過ごしてきたから、そこは十分すぎるくらい承知している。師にしては、随分あっさりと翻意したものだと。だが慈海がその違和感を言葉にまとめるより早く、慶雲は立ち上がった。
「そろそろ、朝のお勤めが始まるな」
お前はここにおれ、と言い残し、慶雲は部屋を出て行った。トン、と障子を閉め切る音が響き、重々しい足音が遠ざかっていった。
慶雲が去ると、慈海は再び横になった。枕元に慶雲が置いて行ったあの黒い表紙の書物がある。そっと、その書物に手のひらを乗せた。
蜘蛛を斃す。そんなことが可能なのであろうか。
仁海が過去に叔父を殺した罪により、あの長刀の力を発揮できなかったのだとしたら、人を殺した、という点において、自分たちも同罪な気がする。蜘蛛に贄を捧げたという点において……。それとも、斃せなかったのは長刀の力の問題ではなく、あくまで仁海個人の判断の問題ということであろうか。
慈海は起き上がった。体がだるく、ひどく重い。まだ熱が残っているのか、少しくらくらしたが、起きていられないという程ではない。肩の痛みも大分薄らいでいた。文机に向かい、慶雲から渡された書物を開いた。慶雲がしおり代わりに紙片を挟んでいたページ。日付は、1507年(永正4年)の8月。仁海が河内へ退去する前年だ。この年、仁海は愛弟子である慈照を絲雲寺の後継者に指名している。すぐ前のページにその旨の記載があるから、罪の告白はその直後に行われたのであろう。殺害に至る経緯などが淡々と述べられ、慈照の感想などはない。言行録であるから、仁海が慈照に語ったこと、そのままを書くことに主眼が置かれているものと思われた。
京都の外れのうらぶれた長屋に叔父を訪ねた仁海。叔父はおそらく、大人になった阿智丸(あちまる)、つまり仁海が自分を訪ねてきた理由を即座に理解したのであろう。命だけは、と必死で懇願する叔父を蹴り倒し、手にした刀で叔父の首をはねたというから、仁海に全くためらいはなかったと思われる。最初から叔父を殺すつもりで会いに行ったことは間違いなさそうだ。しかし、言行録には、仁海が激しい後悔に苛まれていたことが記されている。「深き因縁を後世にまで残した」。仁海はそう、慈照に語ったという。自分にはどうしても、目を開くことができなかった、と言った、とも書かれている。
目を開く?
仁海の言葉を慈照がそのまま記したのであろうが、何だか気になる記述だ。今までは目を開き自分の罪を正視することができなかったが、ようやっと告白する決心がついた、ということなのか。少なくとも言行録を記した慈照はそう解釈していたようだ。だが……。
目、という言葉で慈海の頭の中に浮かんだのは、昨夜眼前に迫った蜘蛛の目。巨大な、ねっとりと輝く琥珀色の球体だ。蜘蛛は3つの目を持っているが、真ん中の最も大きな目は普段は閉ざされており、贄を捕食するときだけ開く。昨夜はみづきを捕食する寸前だったから、開いたままだったのだろう。
そこまで考えて、慈海はふと、思い出した。昨夜、蜘蛛に噛まれた時。結果的にみづきが自分を助けてくれたのだが、至近距離で蜘蛛の目に噴射していたもの。蜘蛛を引き離すのとみづきを止めるのとで必死で、詳細に見る余裕はなかったが……。
虫よけスプレーだ。
蜘蛛は明らかに嫌がって、噛む力が弱まり、襖の向こうに退きかけた。そこへ慶雲が突入してきて事なきを得たのだ。あの化け物に虫よけスプレーが効くとは思えない。まあ虫……蜘蛛は虫ではないが……似たようなものと言えなくもないが、おそらく理由は別にある。重要なのは虫よけかどうかよりも、おそらく目に当たったことだ。蜘蛛は全身が石でできた針のような固い毛で覆われている。だが、目だけはそうではない。虫よけスプレーの前にみづきがぶん投げた燭台も蜘蛛の目の下に命中し、蜘蛛は一瞬、ひるんだ様子だった。
あの目。捕食の際にだけ開くあの不気味な琥珀色の目が、唯一、攻撃可能な場所なのではないか。その目がどうしても開かなかったから、仁海は蜘蛛を殺すことができなかった。ここは、そう解釈しても良いのではないか。というか、慶雲はそう解釈したから、蜘蛛を斃すことが可能と結論づけたのではないか。
深く、重く、鐘の音が響き渡った。慈海は障子を開け、回廊に出た。まだ、立っていることは辛かったから、回廊の柱にもたれかかり、じっと鐘の余韻に耳を澄ます。鐘の音は本堂に、慈海のいる回廊に、寺の隅々に……そして彼方までたゆたう深い山並みに、静かに吸い込まれ、やがて消えて行った。鐘が満たしてゆく世界。それは、慈海を幼い頃から育(はぐく)んできた世界そのものだった。
慈海は眼前に広がる光景を見下ろした。
絲雲寺の歴史を、終わらせる……。
朝のお勤めが終わり、部屋に戻った慶雲はじっと文机の前に座していた。文机には大量の書物が積まれている。いずれも和綴じの、かなり色あせ歴史を感じさせるようなものばかりだ。だが慶雲はそれらの書物を開く様子はなく、目を閉じ、思索にふけっていた。
あの蜘蛛の化け物を斃す。
その決意が胸にきざしてから、調べ、考え続けてきたことを、慶雲は頭の中で反芻していた。
絲雲寺住職が世襲となったのは、明治21年に住職の座についた16代為永覚寿(ためなが かくじゅ)上人からだ。
明治35年、覚寿上人は実子覚円(かくえん)を次期住職に指名した。覚円は当時25歳。実質的な副住職の立場にあった覚寿の一番弟子、中村実海(なかむら じっかい)はこれに強く反発し、自分に賛同する弟子十数名を連れて絲雲寺を退去している。
当時、修行道場を兼ねていた絲雲寺には30名近い修行僧がいた。その修行僧のほぼ半数が実海とともに去っているから、実海だけでなく他の修行僧たちの反発も相当なものだったのだろう。
最終的に、本山永楽寺(ようらくじ)が間に入る形で覚円への継承は認められ、大正2年に覚寿が遷化(せんげ)した後、覚円は17代住職となっている。翌年、絲雲寺道場は廃止された。
中村実海はこの騒動の当時、37歳。
彼は1866年(慶応2年)に高崎藩(今の群馬県高崎市)の下級武士の子として生まれた。俗名は勝之助(かつのすけ)。
父親は500石(こく)二人扶持(ふち)の決して裕福とは言えない御家人(ごけにん)であったが、明治維新により職を失い、一家を養うために江戸へ出て来た。
とはいえ、所詮はいわゆる「士族の商法」。古道具屋、団子屋、金貸し。慣れない商売はいずれも失敗し、一家は困窮。父親は次第に酒浸りとなり、思うに任せぬ憂さを幼い勝之助に向けるようになった。そんな夫の行状に耐えかね、さりとて離縁して息子を抱え生きてゆく決心もつかなかった母親は、思い余って近所の寺の住職に相談。一時避難という形で勝之助は住職に預けられ、そのまま得度し実海の名を与えられた。当時実海は10歳。15歳の時、預けられた寺の住職が亡くなり、次に住職となった僧とはあまり反りが合わなかったため、実海は単身、本山永楽寺に入った。本山での修行の際に、後に師僧となる覚寿と出会い、覚寿の誘いで19歳の時、絲雲寺道場にやって来たという。 170センチと当時としては大柄で、容姿も端麗であったという実海であるが、辛い生い立ちによるものか生来の気質か、とにかく気性が荒く、若い頃は荒法師として有名だったらしい。師僧である覚寿と殴り合い寸前の喧嘩をしたことも絲雲寺の記録に残されている。
そんな困った一面はありつつも実直で誠実。曲がったことは大嫌いという性格で、慕う弟子も多かったようだ。
師僧覚寿は絲雲寺住職としては初めて結婚をしているが、後継者問題以外にもやや住職としての自覚に欠ける部分があり、実海はしばしば師に諫言をしていた。覚寿は実海を頼りにしつつも、一方で少し疎ましく思っていた感がある。とはいえそんな実海が可愛くもあったのであろう。どんなにワガママを言っても、最終的には実海の言葉を受け入れていたようだ。
しかし、覚円の住職世襲に関しては頑として譲らなかった。それが、どんなことがあっても師僧の傍を離れなかった一途な実海を激怒させ、ついに堪忍袋の緒が切れた実海は絲雲寺を退去するに至ったのである。元々双方に不満が募っていた部分があり、そこへ後継者問題がラスト・ストローとなったのであろう。
絲雲寺を去った実海は九州に草庵を開き、弟子を育成した。草庵はやがて本山に認められ、正式な寺院となった。
戦中・戦後の激動の時代にあっても法灯を守り抜いた実海は1964年(昭和39年)、大勢の弟子、孫弟子たちに囲まれ、自らが築き上げた九州の道場で安らかに遷化した。死因は老衰。98歳没。当時としては稀に見る長寿であった。
絲雲寺にいた当時、実質的な副住職、つまり覚寿の後継者の立場にあった中村実海であるが、彼に後継者の印である刺青があったという記録はない。少なくとも、慶雲が調べた限りでは確認できなかった。
実海の背中には父親の虐待の跡と思われる傷跡が無数にあり、中でも右肩の下から斜めに走る大きな火傷の跡は、容姿が端麗なだけに、見る者にはいっそう痛々しく映ったという。本人が弟子に語ったところによると、幼少期、父親から燃え盛る薪を背中に押し付けられていた痕だそうだ。そんな傷痕については多くの人間が証言しているが、刺青に関する証言は1つも出てこないのだから、刺青はなかったと考えるのが自然であろう、と慶雲は思っていた。
では、実海の後に後継者となった覚円にはあったのか。
問題は、そこだ。
慶雲には、1つの仮説があった。
覚円に刺青が現れたことで、後継者としてゴリ押しせざるをえなかったとしたら。
後継者の証の刺青は、いつどのタイミングで現れるのか。
蜘蛛の存在は、絲雲寺の外部には決して漏らしてはならない禁忌。だから歴代住職たちは、蜘蛛の存在やそれにまつわる忌まわしき出来事の数々を一切記録に残してこなかった。住職から後継者へ、一子相伝のような形で脈々と受け継がれてきただけだ。それゆえ、刺青が何歳頃、後継者に現れるのかは不明だ。だが自分も慈海も、20歳になる頃には現れていたと記憶している。世襲ではない住職たちはもう少し後だったかもしれないが。
後継者問題が勃発した当時、覚円は25歳。そして、贄を捧げる30年のサイクルで考えると、翌年がちょうど贄を捧げる年にあたる。
中村実海は蜘蛛の化け物についてどこまで知っていたのであろうか。
実海の性格からして、人間を蜘蛛に捧げるという状況をすんなり受容したとは思われない。是が非でも覚寿を制止するか、何なら荒法師ぶりを発揮し、自らが蜘蛛を斃すとでも言い出しただろう。
蜘蛛の立場からすれば、後継者にはなってほしくない人物だ。結局、実海は絲雲寺を去り、覚円が住職となり、無事、贄は捧げられている。今日(こんにち)までそれが続いたということは、絲雲寺の伝統を守れる人間が、住職に指名されてきたということを意味する。
そこまで思いめぐらせて、慶雲は閉じていた目を開き、目の前の壁を凝視した。
歴代住職を指名していたのは、誰だ?
檻に閉じ込められているのは、蜘蛛ではなく、自分たちではないのか?
そう、慶雲が考える根拠は、他にもあった。
絲雲寺の歴史を紐解くと、歴代住職には、脳の疾患による死亡者が異常に多い。
開祖仁海は晩年、物忘れや妄言、徘徊などの症状があり、慈照の言行録にはそれを心配する記述がある。当時仁海は既に70歳を超えていたから認知症の可能性も否定はできないが。これらの症状が悪化し、住職としての責務を果たせなくなったことが、仁海に河内へ去る決意をさせた、とも書かれている。最期は父母の墓を掘り返そうとするなど精神的に錯乱し、狂死したとも言われている。そして言行録を記した慈照自身も、晩年は原因不明の激しい頭痛に苦しみ、ついには絲雲の滝に身を投げ、自ら命を絶っている。慶雲の父親、つまり先代住職の死因は脳腫瘍だった。そして……。
そこまで考えて慶雲は、指先に、いつしかチリチリとした痛みが発していることに気付いた。
慶雲は自分の手のひらを開き、指先をじっと見つめた。
慶雲の目が次第に見開かれ、血走ってゆく。
指先から、白く細い糸が……ちょうど蜘蛛の巣を引っ掛けたような糸が伸び、文机の上にゆらゆらと這っていた。指先が小刻みに震える。左手の人差し指から伸びた糸を、右手で引っ張った。抜けない。糸は指先に絡まっているのではない。指から、生えているのだ。ぐっと力を込めて引っ張ると、指先に焼けるような痛みが走り、皮膚の中で何かがこすれるような感覚があった。ずるりと糸が指先から引き出される。血が玉となって文机に滴った。血はたらたらと溢れ続けて、指を伝い、手のひらにたまってゆく。
血だらけになった左手をぐっと握り込み、慶雲は肩で激しく息をした。この症状に気付いたとき。
絲雲寺を継いだ者はやがて、身も心も蜘蛛に支配されてゆき、命を奪われるという事実に気づいたとき。
慶雲は、蜘蛛を斃し、忌まわしき伝統を終わらせる決意をした。
絲雲寺住職となった者の末路を、慈海には知らせていない。慈海は何も知らないし、今後も生涯、知る必要のないことだと慶雲は思っていた。
あの子はまだ、取り込まれてはいない。
たとえ血の繋がりはなくとも、慶雲にとって、慈海は大切な我が子だった。父親らしい態度など、気恥ずかしくてどうしても出来ないでいたが。 あの子には、絲雲寺の忌まわしい歴史から離れ、山奥の閉ざされた暮らしからも離れ、普通の生活の中で幸せになってほしい。
だからこそ、今ここで、絲雲寺を、この呪われた「絲(いと)の檻」を、滅ぼすのだ。
自らの命と、引き換えに。
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