第3話

 みづきは自分自身の悲鳴で目を覚ました。布団に上半身を起こす。

「佳南ちゃん……」

 心臓が破裂しそうなくらいに打っている。全身、汗びっしょりだ。肩で大きく息をしながら、みづきは周囲を見回した。謎の部屋などではなく、宿坊の自分たちの部屋。既に部屋の中はうっすらと明るかった。障子ごしに柔らかな朝日が差し込んでいる。

「夢か」

 みづきはホッとした。不気味な夢を見たものだ。

 たぶん、夕食前に寺の開祖、仁海が蜘蛛を退治した話を読んだせいだろう。

 あの巨大な女郎蜘蛛。

 黄色と黒の毒々しい色彩や、とげとげした足に生えていた毛のようなもの。そして、光る琥珀色の目。吐き出した真っ白な糸。みづきは気持ち悪さに背筋がざわつくのを感じた。

 ただの夢だ。忘れてしまうに限る。今日もいろいろ予定があるのだし、皆でわいわいやっているうちに忘れられるだろう。そう思いながら周囲を見回し、みづきは再び不安になった。誰もいない。日和の布団は掛け布団がめくられていて、枕元には開いたままのキャリーケース。たぶん日和は先に起きて、洗面所にでも行っているのだろう。みづきと日和の間に、佳南が寝ていたはずだが、そこには布団すらなかった。佳南も先に起きて……わざわざ布団を畳んでから顔を洗いに行ったのだろうか。佳南の性格上、それはありえないような気がする。それに、昨日まで枕元に置かれていた大きなピンク色のキャリーケースや、化粧品の入ったポーチ、貴重品を持ち歩いていたリュックもない。あんな夢を見たからだろうが、佳南の姿を見ないと落ち着かない。きっと、洗面かトイレだろうが……。

 様子を見に行こうかと思っていると、廊下を歩く足音が聞こえた。

 入ってきたのは日和だった。黒っぽいポロシャツとジーンズ。手にはタオルと化粧品やら洗顔やらが入った透明なビニールバッグを持っている。

「おはよう、みづきちゃん」

 顔を洗ってきたのだろう。メイクこそしていないが、日和の肌は朝日を浴びてつやつやしていて、額には濡れた髪が少し貼りついていた。一緒に佳南が入ってくるかとみづきは期待したが、日和は1人だった。

「今日もいいお天気よ」

 などと言いながら、日和はタオルを障子のそばのタオル掛けに干し、ビニールポーチをキャリーケースにしまっている。

「おはようございます。日和さん。佳南ちゃん、一緒じゃなかったんですか?」

 日和がスーツケースから顔を上げ、きょとんとした表情でみづきを見つめた。

「佳南ちゃん?だあれ、それ?」

「え?」

 みづきは耳を疑った。一瞬、日和が寝ぼけているのかと思った。だが日和は洗顔後のさっぱりした顔に笑いを貼りつかせて、ちょっと首をかしげて、みづきを見つめている。寝起きでぼんやりしているようには見えない。

「いや誰って、佳南ちゃんですよ。佳南ちゃん。朝起きたらいなかったから、日和さんと一緒に先に洗面、行ったのかと思って……」

「知らないわよ、そんな人。やだみづきちゃん、変な夢でも見たの?さっさと顔洗って、目を覚ましてらっしゃい」

 みづきは、日和が、「なーんちゃって、あはははは。佳南ちゃん、お化粧に時間がかかるから、まだ洗面所よ。若い子は大変ねえ」などと言い出すのを待った。だが、日和は冗談を言っている風ではない。表情を見る限り、本当に佳南なんて知らないという様子だ。日和の屈託のない笑顔が何だか薄気味悪くて、みづきは背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 これ以上、何を言っても同じ答えしか返らない気がしたので、みづきはとりあえずこの場から逃れるために、キャリーケースからタオルと化粧ポーチを取り出し、いそいそと部屋を出た。



 頭がひどく混乱している。

 日和は一体、どうしてしまったのだろう。佳南を知らない?意味が分からない。ツアー中、ずっと一緒だったではないか。それ以前に、会社でもう何年も一緒に働いて、ランチも時折同席する関係だったのだ。娘のようにかわいがっていたはずの佳南を「知らない」とはどういうことなのだろう。どう見ても、寝ぼけている風ではない。まさか、若年性の認知症とか、何か病気だろうか。だが昨日までの日和におかしな様子はなかったし、そんなに急に病気になるものだろうか。

 ぐるぐる考えていると頭が沸騰して破裂しそうで、みづきは回廊でしばらく立ち尽くした。ともかくも洗面所に向かおうとして、逡巡する。洗面所は部屋を出て左だが、昨日の夢で佳南の後をつけた時、廊下を出て右に進んだことを思い出したのだ。

 みづきは右側に目をやった。回廊がずっと続いて、障子が並んでいる。回廊は向こうの方でいったん左に折れ、さらに奥へと続いている。

 夢と同じだ。

 突き当たりまで進んだ先に、あの部屋があって、蜘蛛がいる。

 まさか。あれは夢だ。夢の原因と思われる仁海の蜘蛛退治だって伝説だし、そもそも退治したのなら今いるはずがない……いや、封印したんだっけ。封印ということは生きているのか。そのあと、ずっとお寺で飼っている?で、何も知らず寺に来たみづきたちのような客をエサにしている?

 そんなわけがない。お寺は猛獣の檻じゃないのだ。妄想のしすぎだ。

 だが、みづきは気になった。この回廊を右側に進んだ奥に、本当に夢と同じ部屋があるのか。洗面所もトイレも左側だし、今まで右側は特段意識することがなかった。ちょっと、覗いてみるくらいなら……。勝手に関係ないところに入ったりしたら、見つかれば咎められるだろうか。

 みづきは周囲を見回し、誰もいないことを確認すると、右へ進んだ。後ろめたさから、自然に抜き足差し足みたいな動きになる。傍(はた)から見れば確実に不審者だわ、と、みづきは心の中で苦笑いを浮かべた。



 回廊が左に折れ、そこから先は薄暗い廊下が続いている。両側は古くなって黄ばんだ土壁で、障子や襖はない。夢の中では壁に取り付けられた照明が仄暗く不気味だったが、今は回廊からの日差しが差し込んでいるので、薄暗くはあったがさほど怖いとは思わなかった。廊下は一本道だから、迷う心配もなさそうだった。

 突き当りで左に折れ、そこからさらに一番奥まで行けば、あの部屋がある。そう思っていると、いきなり背後から、

「おはようございます」

 と慈海の声が飛んで来て、みづきは文字通り飛び上がった。

 振り返ると、慈海が鬼のような恐ろしい形相……ではなく、ごく普通の表情で立っていた。薄いグレーの法衣に、濃い目の同系色で文様の入った袈裟。胸元に朱色の扇。この扇は、中啓(ちゅうけい)というらしい。昨日、日和に教えてもらった。朝のお勤めの支度だろう。

「お、おはようございます……」

 心臓が壊れるのではないかと心配になるほど、バクバクと波打っている。夢の中で不気味なお経を唱えていた慈海。だが朝の光の中で見る限り、そんな様子はみじんも感じさせない。当たり前だ。あれは、夢なのだから。

「どうか、されましたか?」

 みづきが慈海の顔をじっと見つめていたからだろう。慈海がちょっと不審に思ったようだ。みづきは一瞬ためらったが、思い切って尋ねた。

「あの、慈海様。佳南ちゃん、見ませんでした?」

「佳南ちゃん?」

「私たちと一緒に来た、茶髪で小柄な女の子……」

 慈海が「佳南ちゃん」という名前で彼女を認識していないのか。そう思って佳南の特徴を伝えかけて、みづきは口をつぐんだ。慈海の顔に、明らかな動揺が見られたからだ。一瞬だが目を見開き、戸惑ったような様子がはっきりと見て取れた。

 慈海は何か心当たりがある。そう確信したから、みづきは畳みかけた。

「何か、ご存知なんですね。佳南ちゃんの姿が今朝から見えないんです。日和さんは佳南ちゃんなんて知らないとか変なこと言うし」

「それは……」

 慈海はみづきから目をそらした。と、回廊の向こう、僧坊の方角から、

「慈海」

 と太くどっしりした声が聞こえた。慈海が弾かれたように振り返る。みづきの位置からは、まっすぐにその人物が確認できた。住職だ。

「すみません。朝のお勤めが始まりますので。お話は、また後で」

 慈海は明らかにこれ幸いという様子で踵(きびす)を返し、さすがに走りはしなかったものの、足早に住職の許へ向かった。

「あの、慈海様。ちょっと」

 逃げる気か。

 みづきはこの際、衣の袖をひっつかんででも追いすがろうと思ったが、回廊の向こうから住職が恐ろしく険しい形相でこちらを睨み付けていることに気付いて、踏み出しかけた足を引っ込めてしまった。

 結局何も聞き出せないまま、慈海と住職は回廊の向こうへ消えて行った。

「何なのよ、一体……」

 今の様子だと、慈海は明らかに佳南の行方について何か知っている。

 そういえば、昨日の夕食前、佳南が荷上げの片づけを手伝ったと言っていたが、その時慈海のラインを聞き出せたとか……はっきり肯定はしていなかったが……。

 まさか、昨夜佳南は、慈海と会っていた?

 で、実は慈海は妖怪坊主で、佳南は無防備にも会いに行って、哀れ蜘蛛の化け物の餌食に……それはないだろうが、ともかくも夜中に逢引して、そういう事で……。慈海は僧侶……しかもここの副住職という立場上、さすがにそれがみづきにバレるとまずいので動揺している。

 そう考えるのがまあ普通だろうが、それなら佳南が戻って来ないのはおかしい。何食わぬ顔で戻って来て、素知らぬ顔をしていれば、みづきや日和に気付かれる心配はないはずだ。関係がバレるのを恐れて、慈海が佳南を殺した?まさか!サスペンスの見過ぎだ。今は僧侶だって結婚する時代だし、別に佳南と何かあったからといって、そこまで彼の立場が危うくなるとは思えない。あの鬼瓦みたいな住職にしばかれる可能性はあるが。その程度で殺されていたら、日本全国、殺人事件だらけになるだろう。それに、あの日和の態度。佳南に何があったにせよ、日和が佳南を忘れている?そこだけは、どう考えても解せなかった。

 どうすれば良いのか見当もつかないまま、みづきは重苦しい足取りで洗面所へ向かった。



 朝のお勤めが始まっても、佳南は姿を見せなかった。日和は佳南など初めから存在しなかったかのように、「今日の午後は写経ね」などと楽しそうにしている。その様子は昨日までと全く変わった様子がなく、みづきは動揺を隠して相槌を打つのが精いっぱいだった。

 本堂の入口が騒がしくなって、女子大生の美香、麻利絵、優美が入って来た。来る途中何を話していたのか、美香が腹を抱えてゲラゲラ笑っている。みづきと日和が並んで座っているのを見ると、3人は「おはようございます」と元気よく挨拶してきた。

「おはようございます」

 みづきはそう返して、誰かが佳南の行方について尋ねてくるだろうか、と思った。特に佳南と美香は、昨日一緒に慈海の荷物片付けを手伝ったようだし。

 だが美香は、佳南がいないことなど全く頓着する様子を見せず、日和と「今日も晴れて良かったですねー」などとにこやかに話している。

「ねえ、美香さん」

 みづきは思い切って尋ねた。

「はい?」

 美香が弾けるような笑顔のまま、振り返った。

「昨日、慈海様の荷上げの片づけ、手伝ったんですってね」

 言った途端、美香は頬のあたりを手で押さえて真っ赤になった。

「やだ。みづきさん、でしたっけ。何でそれ、ご存知なんですか?あ、ひょっとして慈海様に聞きました?」

 どうやら美香も慈海に気があるらしい。ということは佳南のライバルか、とみづきは思ったが、とりあえず今、そこはどうでもいい。

「その時、他に誰が一緒だったの?」

「え?」

 美香は一瞬、怪訝な顔をしたが、しばらく記憶をたどるように上目遣いになりながら答えた。

「確か、慈海様と……寺男っていうんだったかな。信三さんっておじさんと、あ、そうだ。あのヘアアップのお坊さんも傍にいた」

 隣で聞いていた麻利絵がぷっと吹き出す。

「ちょっと美香。ヘアアップのお坊さんって言い方、ウケるんだけど。丹海さんって言いなよ」

「あはは。そうそう。丹海さん」

「佳南ちゃん、一緒じゃありませんでした?」

 みづきが続けて尋ねると、美香の顔が、今度ははっきりと不審の色に塗られた。

「佳南ちゃんって、誰ですか?」

 みづきはざわざわと背中が泡立つのを感じたが、平静を装いながら続けた。

「……ほら、私たちと一緒に来た、茶髪で小柄な女の子。滝で、一緒に虹の写真撮ってたでしょ?」

 美香はきょとんとした表情でみづきを見つめた。

「え?だってそちら、お2人でしょう?」

 日和だけでなく、美香までがおかしい。みづきは激しく混乱した。

 みづきは美香の反対隣に目をやった。日和は美香とみづきの会話を聞いているのかいないのか、熱心に経本に目を通している。

 美香と日和がグルで嘘をつくとは思えない。

 慈海が何を知っているにせよ、そこに美香と日和が協力しているとも思えない……。

 その時、お勤めが始まる合図の鐘が響いて、美香との話はそれっきりになってしまった。



 本堂左側の扉が開いて、僧侶たちが静かに入ってきた。順番は前日と変わらない。先頭に住職、そして副住職の慈海、修行僧の丹海と覚善。

 と、慈海がみづきの方を見た。あからさまに見たわけではなく、ほぼ視線だけ。戸惑いと、申し訳なさとが入り混じったような、何とも言えない目。みづきが睨みつけると、慈海はすっと視線をそらした。やがて僧侶たちは何事もなかったかのように着座し、読経が始まった。

 読経の声と木魚の音が響く中、みづきは経本越しに、時折慈海の背中に目をやった。

 慈海は佳南について確実に何か知っている。

 だが、問い詰めたところでそれを簡単に話してくれそうもない。

 佳南は無事なのだろうか。例えば何らかの事情で先に帰った、とかなら、日和やみづきに必ず伝えるはずだ。若くてやや常識に欠ける部分はあるが、佳南は黙って帰るほど非常識な子ではない。よほど差し迫った事情があって事前に伝えられずに帰ったとしても、落ち着いてから連絡してくるだろう。

 みづきは膝の上に置いたリュックから、そっとスマホを取り出した。佳南からの連絡は来ていない。だが、日和のところには来ている?そして、その何らかの「事情」により、日和は佳南を知らないと言った?美香もその「事情」を知っている?

 佳南が「事情」を日和に知らせてみづきに知らせない、という状況は、「事情」の内容によってはありえるだろう。どうしてもみづきと一緒に残りの日を過ごすのが嫌だ、とか。そこまで嫌われる覚えはないが、人の気持ちというのは分からないものだ。そしてそういった事情で耐えきれないから先に帰りたいと慈海に打ち明け……宿坊の客がいきなりいなくなったら慈海たちも困るだろうから、慈海に事情を話すというのはごく自然だ。 そういうことなら、慈海がみづきに対して言いにくそうにしていたのも納得できる。だが美香は?美香はたまたまツアー日程が同じになったというだけで、初対面の赤の他人だ。いくら意気投合したとはいえ、そんなこみ入った事情を話すとは思えない。日和にしたって、佳南自体を知らないと言うのはものすごく不自然だ。今思いついたような事情なら、「佳南は急用があり、先に帰った。至急のことで、みづきには伝えるタイミングがなかった」とでも言えば済むことだ。身内の不幸とか、旅先で緊急に帰宅しなくてはいけない事情はいろいろ考えられる。「佳南ちゃんて誰?」などと言えば誰だって変に思うに決まっている。やはり、おかしい。

 さしあたってできそうなことは、佳南に連絡を試みることだろう、とみづきは思った。佳南が無事でいる、という前提の許でだが。何かみづきに打ち明けにくい事情があるとして、電話やラインでなら、話してくれるかもしれない。

 そう思うと居ても立っても居られない。とはいえ読経が響く中、隣に日和もいる状況であからさまにスマホをいじるのはためらわれた。みづきは経本とリュックでスマホを隠しながら、片手でそっとラインのアプリをタップした。「佳南ちゃん、どうしたの?大丈夫?」……簡単なメッセージではあるが、手早く打ち込み、送信ボタンを押した。

 佳南の性格上、スマホは常に肌身離さずだろう。朝のお勤めが終わって、座禅までには少し間があるから、その時点で既読がつかなければ電話してみよう、とみづきは思った。



 朝のお勤めが終わり部屋に戻ると、みづきは日和にトイレに行くと言って部屋を出た。小さな化粧ポーチの中に、スマホが入っている。トイレの方向に向かって回廊を歩きながらラインをチェックした。既読はついていない。

 みづきは佳南に電話を掛けてみた。呼び出し音が鳴り続けるが、応答はない。何とか、出てほしい。祈るような思いだった。出ない。じりじりするみづきをよそに、呼び出し音だけが虚しく耳元で鳴る。

 ふと、みづきは気付いた。どこかから、着信音が聞こえる。かすかだが、回廊をもっと行った先から、それらしき音が聞こえるのだ。

 無意識に歩きながら電話をかけていて、いつの間にかトイレと洗面所が並んだ回廊の突き当りまで来ていた。回廊はここで右に折れ、トイレ、洗面所の並びを少し行くとさらに左に折れて僧坊となる。

 みづきはいったん電話を切り、僧坊に入る手前の角まで来ると、再度佳南に掛けてみた。

 やはり、聞こえる。

 僧坊の障子が並んだ廊下の、ずっと奥。初日に慈海の刺青を見た部屋の、もっと先。

 僧坊を突き当りまで行くと右に折れて、そこから1階へ降りる階段がある。その階段は本堂や客殿に行くときに使っている。左にも曲がり角があるが、そちら側には行ったことはない。

 みづきは曲がり角から顔だけを出して、そっと僧坊の様子を窺った。風を通すためか、障子の開け放たれている部屋もあったが人の気配はない。 心臓の高鳴りを我慢しながらみづきは廊下を進んだ。走っているわけでもないのに、何だか息苦しい。左に並んだ僧坊をちらりと見る。開け放たれた障子から、中の様子が確認できた。畳敷きの6畳くらいの、ごく普通の部屋だ。木製の文机……時代劇で見るような正座をして使う机と、座布団。違い棚のような作り付けの本棚。押し入れ。押し入れの前には泊まりがけで出かける用事があるのか、黒い大きなスーツケースが荷造りしかけたまま開いて置かれていた。誰の部屋だろう。そんなことを考えながら、みづきはいったん電話を切り、奥へ歩を進めた。



 階段手前まで来て、みづきは再度電話を掛けた。左奥の廊下。この奥から着信音が聞こえる。間違いない。

 人の気配がないことを確認して、そっと角を曲がった。ここはもう回廊ではなく、普通の廊下だった。左手に大きな木の引き戸。ななめ向かい、右側の少し進んだところには扉のない入口があって、シンクらしきものが見えるから、おそらく庫裏(くり)……台所だろう。

 着信音は明らかに木の引き戸の向こうから聞こえてくる。

 みづきは電話を切り、大きく深呼吸をして気持ちを整えると、引き戸を軽くノックしてみた。

 応答はない。

 引き戸の取っ手にそっと手をかけた。指先が震えている。

 ゴロゴロ、という重い音とともに引き戸が滑った。鍵はかかっていなかったらしい。

 中は部屋、というより物置だった。2リットルペットボトル6本入りの段ボールが何箱か積まれ、左側の棚には歯磨き粉やボディソープ、大きなカゴに入ったタオル。日用品や食料品が入った段ボール。2番の札が貼られたままの箱もある。佳南が荷上げの荷物を片付けたというのはここの物置のことだろう。そして、斜め向かいの庫裏で、丹海と覚善が食事を作っていたのだろう。

 倉庫の中はかなり広くて、手前に食料品や日用品、奥には文机や座布団、ストーブや火鉢、その他何だかよくわからない段ボールや木の長持ちが積まれている。

 みづきは再度、佳南に電話を掛けてみた。スマホを耳には当てず、聞こえてくる着信音の出所に耳を澄ます。きょろきょろ倉庫内を見回して、やがて左奥の壁際に置かれた大きな木の長持ちに目を留めた。

 着信音は、明らかに、この長持ちの中から聞こえてくる。

 ちょうど棺のような形をしていて、人1人余裕で入りそうだ。

 人1人、余裕で。そこまで考えて、みづきはゾッとした。

 まさか。まさかこの中に佳南が。

 どうしよう。もし本当に、それこそ佳南の死体でも入っていたら……。

 そう思うと、蓋を開けることなんて、とてもできそうにない。だが、ここから着信音が聞こえるという事実を無視して、何食わぬ顔で部屋に戻るのはもっと無理だった。

 みづきは震える手で長持ちの蓋をつかんだ。もし、自分が想像しているようなことがあれば、紛れもなく犯罪だから、警察に通報すれば良いことだ。両手にぐっと力をこめる。蓋はかなり重かったが、どうにか持ち上げることができた。蓋を外し、傍の棚に立てかけて置く。

 長持ちの中には大きな紫色の風呂敷に包まれた荷物が入っている。どうやら自分の想像したようなものは入ってなさそうだったので、みづきはひとまずホッとした。だが風呂敷の包みを解いて出て来たものを確認したとき、みづきは再び恐怖に囚われた。

 ピンク色のスーツケース。革製の、海外ブランドのミニリュック。……間違いない。どちらも佳南のものだ。ここ数日、すっかりおなじみになっていたから、すぐ分かる。リュックを開くと、財布やハンドタオル、化粧ポーチ。そして、着信を知らせるランプが点いた状態のスマホ。みづきはスマホをそっと取り出した。プラスチック製の、ピンク地に金色のリボン飾りがついた可愛らしいスマホケース。佳南のスマホで間違いない。画面をタップすると明るくなって、みづきからラインが届いたことの通知、そして着信履歴が画面上に残っていた。

 これは、どういうことだろう。

 みづきは佳南のスマホを手にしたまま必死に頭を整理しようと試みた。

 スマホが、というか、佳南の荷物がここで発見されたということは……。

 佳南が自分の意思でどこかに行ったのなら、当然、スマホや貴重品は持って行くはずだ。特に、財布とスマホは必ず身に着けておくだろう。

 とすると、佳南は無事な状態ではない可能性が高い。

 慈海は、佳南の行方について何かを知っている。

 住職もおそらく知っている。

 日和や美香の態度の理由は結局分からない。 諸々の状況を考え合わせると、ここでスマホが見つかったことを証拠として慈海を問い詰める……それが、一番取りやすい選択肢かと思われた。これはみづきの直感だが、慈海はおそらく嘘がつけないタイプだ。見た目の美しさに圧倒されるが、中身は田舎育ちの素朴で優しい人間。それが、この数日一緒に過ごしたみづきの感想だった。慈海は佳南の行方を知っていながら隠していることを後ろめたく思っている様子だ。スマホのことを証拠として揺さぶれば、かつあの住職がいない状況であれば、真実を語ってくれるのではあるまいか。

 そこまで計画を練って、そういえば、とみづきは思い出した。ラインだ。佳南がもし、慈海とラインのやりとりをしていたのなら、その中に居場所の手がかりがないだろうか。直接居場所は分からなくても、やりとりをしていたこと自体が、佳南の失踪に慈海が関係している証拠になるかもしれない。幸い、佳南のスマホにロックはかかっていなかった。他人のスマホを勝手に見ることには抵抗があったが、緊急事態なのだからと自分に言い聞かせて、みづきは佳南のスマホを開いた。ラインのアイコンを見つけ、タップする。

 と、いちばん上に見覚えのあるアイコンを見つけた。みづきのスマホからは削除したが、アイコンの小さな写真には忘れたくても忘れられないあの男が……雅也が笑顔で写っている。佳南はみづきと同じ総務部にいて、仕事で雅也と接する機会がある。佳南が雅也とライン交換をしていてもおかしくはないが、最後に送った日付が昨日の夜だ。雅也が会社を訪問したとき、佳南と親しげに話していることはあったが、そんなに頻繁にやりとりをする関係だったのだろうか。いずれにしろ雅也が今回の佳南の失踪に関わっているとは思えないし、今は慈海とのやりとりの証拠を見つけないといけない。

 それは分かっていても……見ない方がいいと分かっていても、みづきは自分を止められなかった。

 震える指先で、みづきは佳南と雅也のトークルームをタップした。そして、そこに表示された内容に、みづきは目を疑った。



『宿坊から毎日ラインはまずいだろ。俺たちの関係、みづきにバレたらめんどくさい』

『大丈夫。ちゃんとカムフラージュしてあるから。美坊主サイコー(笑)』

「美坊主~?何か気になるな、そいつ」

『あはは。大丈夫。見た目めっちゃ綺麗だけど、中身はただの田舎の坊さん。マジ芋臭くてキモイ』

「いーや、やっぱ、気になる。佳南りんが俺以外の男に』

『やーだ。佳南はまあくん一筋だよん♡』



『あのオバサン、雅也にフラれたってマジ落ち込んでんのウケる。初めからあんたなんか相手にされてないっての』

『なかなか面白いゲームだったよな』

『まあくん、演技派。あたし一瞬、まーくんがまさかあのババアに本気になっちゃったかと思った』

『本気になるわけねーだろ、あんな地蔵みたいな女。ゲーム、もっと盛り上げようぜ』

『それにしてもさ、まあくんがちょっと声かけただけで完璧舞い上がってやんの、あの地味ババア。隣で見ててマジうける。結婚焦ってんのミエミエじゃん』



『たかが発注ミスくらいでマジギレされた。マジムカつく。あのヒスババア』

『俺がちょいと遊んでやろうか?』

『……』

『……』



 みづきはそれ以上読めなくなって、ラインを閉じた。頭の芯がじんじんする。思考は、完全にマヒしていた。

 佳南の、もう一つの顔。 4年後輩の佳南。楽をすることばかり考えるようなタイプで、仕事よりもプライベート重視。ミスも多かったし、周囲の都合を考えずに休みを取ったり、いろいろイラ立つことはあった。それでも根は素直ないい子だと思っていた。早く一人前になって仕事の面白さを知ってほしいと、一生懸命指導した。

 確かに、連日発注ミスを繰り返したときは始末書だって書かせたし、みづき的にマジギレしたつもりはないが、別室に呼んで厳しく叱責したこともあった。佳南は泣いて反省し、二度としないと誓ってくれたが……。

 内心では、こんなことを思っていたのだ。そして、佳南はこのラインを見る限り、雅也と付き合っていた。そして、口うるさい先輩であるみづきを嫌悪し、軽蔑していた。雅也にみづきに関する愚痴をラインするうち、雅也は佳南にあるゲームを提案した。雅也がみづきを誘い、付き合っているフリをし、みづきが舞い上がるのを見て2人であざ笑う。そして最後、雅也はみづきを手ひどく振る。みづきが雅也に振られたとき、佳南なりに励ましてくれた、あの言葉……慰めを口に出しながら、心の中で笑いをかみ殺していたのだろう。佳南にとっては、ゲームが終わっただけ。裏で雅也と2人、大笑いしていたに違いない。そして。慈海に惚れたというのも嘘。宿坊でずっと一緒にいることで、みづきが佳南と雅也の関係に気付くかもしれない。それをカムフラージュするためにあのような言動をしていたのだ。そして、みづきが雅也にフラれたことをずっと引きずっている様子を内心面白がっていたのだろう。

 みづきは全身から力が抜けて、その場に座り込んだ。どうしていいのか分からなかった。と、突然、スマホのバイブレーションが震えた。みづきのスマホだ。画面には日和の名前が表示されている。なるたけ動揺を知られないように、みづきは努めて明るく、電話に出た。

「もしもし、みづきちゃん?今どこにいるの?もう座禅、始まっちゃうわよ。部屋で待ってるから、すぐ戻って」

「すみません。すぐ、戻ります……」

 みづきは全身の震えをかろうじて押さえ、佳南のスマホを長持ちの中に戻し、蓋を閉めた。そのまま何事もなかったかのように物置の扉を閉め、のろのろと部屋へ向かう。頭の芯が痛い。泣きそうな感覚があって、それでも不思議と、涙は一滴も出てはこなかった。




 座禅の間のことを、みづきはほとんど覚えていない。ただ機械的に、言われたことをこなしているだけだった。いっそ気分が悪いとでも言って途中で部屋に戻ろうかとも思ったが、それなら慈海にそう告げなくてはならない。今は慈海と直接会話をするのも嫌だった。

 慈海が時折みづきの方を見ているのは感じていたが、みづきは一度も視線を合わせなかった。どのみち、他のメンバーがいる中で慈海に佳南のことを尋ねるわけにはいかないし、もう正直、佳南のことも雅也のことも、考えたくなかった。

 それなのに座禅の間じゅう、あのラインのやりとりがみづきの中でぐるぐると回っていた。文章で書かれていたことが、そのまま佳南や雅也の声になって、頭の中でエンドレス再生みたいに繰り返されるのだ。

 もうやめて!

 何度、そう叫びそうになったか分からない。そんなみづきの様子が、慈海にどう映ったのかは分からない。勘の良い慈海のことだ。何も気づかなかったはずはないだろう、と思う。けれど、もし、滝の時のように慈海に何か言葉をかけられたなら……自分がどんな態度を取ってしまうか……自分の中で今、黒々と渦巻いている言葉にできない感情が、堰を切ってあふれ出てしまう気がして、恐ろしかった。

 お願いだから、今は来ないで!

 慈海が後ろを通り過ぎるたび、みづきは必死で念じていた。

 その願いが慈海に届いたわけでもないだろうが、慈海はこの日、一度もみづきの背後には立たなかった。やがて、何事もなかったかのように、座禅終了を告げる鐘が響き渡った……。




 写経道場にはほのかにお香が焚かれ、墨の匂いと入り混じって心地よい香りが漂っていた。

 畳敷きの20畳ほどの部屋に、書道教室のように書き物机が並び、それぞれの机には硯や筆、毛氈、紙やお手本など必要なものが綺麗にセットされている。一度に10人程度が入れる部屋。みづきと日和は隣同士の机に座り、少し間を開けて、女子大生の美香、麻利絵が隣同士、優美がその後ろに座っていた。

 部屋の前方右寄りには床の間のように少し高くなっている箇所があり、くすんだ金色の仏像が置かれている。両手を合わせ、蓮の葉の形をした高い台に座し、背後には蓮の蕾のような形をした彫刻を施した光背。仏像の両脇には、2体の僧侶の銅像がある。仏像は何という仏様かは分からないが、僧侶の銅像は宗派の開祖と絲雲寺を開いた仁海だろうか、とみづきはぼんやりした頭で考えた。

 慈海から説明を受けながら墨をすった後は、めいめい筆を執り、写経が始まった。部屋は静まり返り、紙の上を滑る筆の音までも聞こえてきそうだ。ぴんと張り詰めた空気を感じながら、みづきはゆっくりと筆を進めた。写経は初めてだが、高校2年の途中まで書道を習っていて、3段まで取得しているから、書くことは得意だ。親に無理やりやらされた習い事の中では、書道は比較的好きで、今の職場でも字を褒められることがよくあった。慈海は写経の流れや墨のすり方、道具の使い方を説明した後は部屋の後ろへ下がり、特に皆を見て回る風でもなかった。何か質問があれば挙手を、とのことだったが手書きの丁寧なお手本が配られていたから、初めてでも特に迷うことはなさそうだった。

 みづきは少しだけ気を取り直し、目の前のお手本に集中しながら、無心に写経を続けていた。

 ふと、みづきは顔を上げた。畳を滑るかすかな足音と衣擦れの音。背後に人の気配を感じた。白檀の香りがふわりと立ちのぼる。

 ……慈海だ。

 どくん、と心臓が波打つ。

 何か、言われるのだろうか。

 身を固くしたみづきの前に、す、と何かが差し出された。

 慈海は左手で長い衣の袖を押さえ、右手の指先を綺麗に揃えて、何かをみづきのお手本の下に差し込んだ。

 みづきは思わず振り返ろうとしたが、慈海はそれを躱すかのようにさらりと立ち上がり、みづきの傍(そば)を離れた。足音と衣擦れの音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。

 白檀の残り香だけが、みづきにまとわりつくかのように、わずかに漂っていた。

 みづきはお手本を確認するふりをして、慈海が下に差し込んだものをそっと指先で引き出した。小さな紙片。「今夜、私の部屋にいらしてください。佳南さんの事をお話しします」。そう、物凄く達筆な文字で書かれていた。さすがに筆ではなく、ペンでの走り書きだったが。

 とっさに慈海を振り返ろうとして、やめた。周囲に気付かれてはいけない。慈海も悩んだ末、みづきに打ち明けることを決めたのだろう。

 みづきは紙片をそっと、リュックのポケットに入れた。



 みづきは日和が寝入ったのを確認して、そっと着替えて部屋を抜け出した。

 慈海から渡された紙片にはっきりとした時間は記されていなかったが、1日の予定が終わるまでは日和と長時間別行動をすることは難しい。内容的に、1人で動けるようになる時間まで待った方が良いと判断したのだ。

 僧侶が朝早いことは知っているから、慈海には少し申し訳なかったが。

 回廊の明かりは既に常夜灯に切り替わり、灯篭は1つおきに灯されている。時間がまだ早いとはいえ、薄暗い廊下はやはり不気味だった。

 僧坊に着くと、奥から2つ目の障子から明かりが漏れているのが分かった。初日に刺青を見たのがあの部屋だったから、おそらくあそこが慈海の部屋なのだろう。何だかものすごく緊張してきて、みづきはきりきりと胸が痛むのを感じた。とはいえ佳南の行方については聞いておきたい。

 助けたい、のかどうか。そこは正直、もはやみづきには分からなかったが。

 みづきは障子の前に立ち、大きく深呼吸をした。

「慈海様。今河みづきです。失礼いたします」

「どうぞ、お入りください」

 中から慈海の声が聞こえた。

 みづきはごくん、と生唾を飲みこんで、静かに障子を引き開けた。とたんに、ぞっとするような奇妙な空気がみづきを包み込んだ。

 え?何、これ。

 部屋の中はむせかえるような香のにおいが充満している。その中に、慈海が無表情のまま座していた。

「あの、慈海様……」

 慈海に声をかけようとした刹那、ぬるり、と顔に何かが触れて、みづきは思わず短い悲鳴を上げた。ちょうど、蜘蛛の巣に気付かず顔を突っ込んでしまった時のような、生暖かくて粘っこい何かが、顔に、首に、そして半袖ニットから伸びた腕にも絡みついてくる。

「ひ……っ」

 みづきは恐怖に硬直した。目の前の慈海はみづきの異変に気付かぬわけでもないだろうに、変わらず無表情のまま、ただ、その手にはよく見ると念珠がかけられ、口元が微かに蠢(うごめ)いていた。形良い唇から、慈海のものとは思えぬ低く、唸るような声が漏れ出す。

 お経だ。あの、夢の中で聞いたお経に、似ている……。

 みづきがそう思った刹那、視界がぐにゃりと歪んだ。耳元でお経が大きく反響して聞こえ……そのまま、スイッチが切れるように、目の前の全てが真っ暗になった。


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