第2話

「みづきちゃん、みづきちゃん。起きて」

「みづき先輩」

 右と左から体を揺さぶられて、みづきは目を覚ました。日和と佳南が心配そうにみづきの顔を覗き込んでいる。一瞬、みづきは自分がどこにいるのか分からなくなった。

「寝坊ですよ、先輩」

 佳南が少し唇を尖らせて、いたずらっぽく笑った。

 寝坊。そうだ。宿坊。朝のお勤め。

 みづきは慌てて体を起こした。

「揺すっても全然起きないから、心配したわよ。おはよう、みづきちゃん」

 キャリーケースに服をたたんで入れながら、日和が優しく微笑んだ。日和は既に寝間着ではなく、Tシャツにジーンズ姿。すっかり支度を整えたようだ。佳南も花柄のカットソーとジーンズ生地のショートパンツに着替えていて、メイクもばっちり済ませていた。いつもよりメイクが濃いのと、カットソーの胸元が際どいのは、慈海にアピールするためか……。それはともかく、みづきは完全に出遅れてしまったようだった。

「おはようございます。すみません、寝坊して」

「大丈夫よ。まだ時間あるから。それにしてもよく寝てたわね。よっぽど疲れてたのね」

 大急ぎでTシャツを脱ぎ捨てるみづきを見て、日和が笑う。

「慣れなくて、なかなか寝付けなくて……」

 みづきは夏用の半袖ニットとジーンズに着替えて、タオルや化粧道具を手に洗面に向かった。



 部屋を出て廊下を歩きながら、次第に頭がはっきりしてくる。雨はすっかり上がり、外は霧が立ち込めてはいるが、青空も覗いている。早朝の柔らかな日差しが回廊を照らしていて、夕べの出来事が何だか夢のようだった。

 薄闇に浮かぶ慈海の刺青。

 あの後ろ姿は鮮明に覚えている。けれどそれはこびりついた夢の名残のようにも思えて、現実に見たことなのかどうか、みづきはだんだん自信がなくなってきた。トイレに起きたことからして、夢ではなかったろうか。だいいち、トイレから戻ってきて布団に入った記憶すらないのだ。廊下を逃げ戻ってきて……気付いたら朝、という感じだ。

 洗面所に着いた。トイレの隣。だが、今はあの白檀の香りも漂っていない。

 洗面と歯磨きを済ませ、髪を整える。

 雅也と別れてから、肩の下まであった髪をばっさりショートにした。元々直毛すぎるくらいまっすぐな髪なので、とかすだけで、セットはすごく楽だ。

 洗面所を出ると、そっと角から僧坊の並ぶ廊下を覗き込む。障子は全て閉まっていて、人影はなかった。

 みづきはホッとして、今度は歩いて、部屋に戻った。



 部屋の障子を開けると、佳南の笑い声が響いた。戻って来たみづきを見るや、佳南が言う。

「ねえねえ、みづき先輩。お坊さんって、シャンプーするんですかね?」

 どうやら、お坊さんがどうやってシャンプーをするのかについて、日和と盛り上がっていた様子だった。

 確かに、慈海にしろ、昨夜夕食を運んできた若い修行僧にしろ、頭は綺麗に剃り上げている。あの頭にシャンプーを使うのかどうか。言われてみれば気になるな、とみづきは思った。洗顔で頭の後ろまで洗うんだろうか。どうでもいいし、ここで結論が出るわけでもないのに、佳南は楽しそうだ。

「だから、洗顔でまとめて洗うのよ。それか、ボディーソープで体と一緒にか。朝のお勤めが終わったら、慈海様に聞いてみれば?」

 日和がおかしくてたまらない、という風に答える。

「以外と、頭皮を気にしてめちゃいいシャンプー、使ってるかもしれないですよお。聞いたらヤバいかなあ」

 と、佳南。

「トリートメントもするの?頭皮がコーティングされるだけじゃないの。余計髪生えてこなさそう。佳南ちゃん、慈海様が実はハゲでもいいの?」

「だけど坊主頭っていいですよね。ハゲてもごまかせるから」

 ゴキブリ退治だの、シャンプーだの、変なことばかり質問攻めになるかもしれない慈海がさすがに気の毒で、2人の漫才みたいなやりとりにみづきは笑いをかみ殺しながら言った。

「やめてよ佳南ちゃん。これから朝のお勤めなんだから。慈海様の顔見た瞬間、笑いそう」

 みづきがそう言うと、佳南と日和がケラケラと笑う。

 こんな他愛もない会話をしていると、昨夜のことはやっぱり夢だったような気がする。疲れていて、それに慈海への警戒心もあるから、変な夢を見たのかもしれない。みづきはそう思い直し、日和、佳南と一緒に本堂へ向かった。



 客殿の1階へ降りて外へ出ると、外は青空が広がっていた。それでも山の上は風が涼しくて、日差しも柔らかく感じられた。

「いいお天気で良かったわ。夕べはすごい雨だったもの」

 日和は空を見上げながら言った。

「え?雨、そんなにすごかったんですか?」

 みづきは雨音を聞いた記憶がなかった。確かに夜中、トイレに起きた時、回廊の手すりが濡れていたし、空気がかなり湿っていたような気はしたが。

「みづきちゃん、気付かなかったの?すごかったのよ。あたし、雨音が目が覚めちゃったわよ。2時くらいかな。」

 トイレに起きる前か、とみづきは思った。トイレに起きたことが現実だとしたら、だが。

「あたしも全然気づかなかったですー」

 佳南が言った。

「あはは。年寄りは眠りが浅いってことなのかしらね」

「でもあたし、普段から眠りが深いんですよ。地震が来てても、いつも気付かないし」

 佳南が首をかしげる。会話に混じって玉砂利を踏む心地よい音が響く。

「さすがに地震は気付くかなあ」

 みづきが苦笑すると、日和は「佳南ちゃんらしいわね」と笑った。

「大丈夫よ。地震が来たら、あたしが起こしてあげるから」

「だけど、午後の滝行は中止かもしれないですね」

 昨日慈海が、雨で増水した場合は滝行は中止、と言っていたことを思い出し、みづきは言った。

「そうねえ。滝ってどの辺にあるのかしら。確か有名なのよ。絲雲の滝って。絲雲寺の名前の由来にもなってて……。見るだけでも見てみたいわねえ」

 日和が言うと、佳南がスマホを取り出した。

「しうんの『し』って、どういう字、書くんでしたっけ」

 地図アプリか何かで調べるつもりらしい。

「糸がふたつ。普通に変換しても出ないかも。でも佳南ちゃん、もう本堂入るから、後にしよう」

 みづきが言うと、佳南は「はあい」と言ったものの、指はまだ画面をいじっている。

「ほら佳南ちゃん、ここで靴、脱ぐの」

 日和に言われて、佳南は慌てて靴を脱ごうと足をもぞもぞさせた。サンダルのボタンを外していなかったから、危うくひっくり返りそうになっていた。



 本堂は畳敷きで広々としていて、線香の香りが満ちていた。天井から下がる装飾と重厚な橙色のカーテンの向こうに、金色の仏壇が輝いている。本堂が広いのでちょうどカーテン上部の影になっているが、仏壇の中央にご本尊と脇侍らしき2体が並んでいるのがみづきの目にも確認できた。仏壇の前には座布団とも椅子ともつかない座が据えられ、巨大な鈴(りん)と木魚が置かれている。

「おはようございまーす」

 背後から賑やかな声がして、女子大生3人組が入ってきた。

「どの辺に座ったらいいのかなあ」

「あんまり前、行くと緊張しそうだし。微妙に後ろがいいんじゃない?」

「微妙にね。慈海様の顔が見える範囲で」

「あはは」

「てか、木魚でかっ」

「ヤバイあたし。お経とか、寝るかも」

 朝からハイテンションな彼女たちに苦笑しながら、日和が言った。

「あたしたちも前、行こうか。慈海様の顔が見える範囲で」

「わあい」

 佳南が乙女チックな声を上げる。

 前に進むと、小さな木の三宝が置いてあるのが見えた。三宝には「貸出用 経本(きょうほん)」とものすごい達筆な筆文字で書かれた半紙が敷かれ、その上に使い込まれた経本がきちんと重ねられている。

 みづきが経本を手に取ると、1冊ずつ付箋(ふせん)が挟んであるのが分かった。経本は表面に貼られた布がかなりけば立っているが、付箋は新しい。挟んであるところを見れば良い、ということなのだろうか。

「わあ、何ですか、それ」

 佳南が後ろから覗き込む。

「経本よ。貸してくれるんだって」

 みづきは1冊取って佳南に手渡した。佳南は付箋のあるところを開いて眉をしかめる。

「うわ。めっちゃ難しそう。みづき先輩、『ぶつでんふぎょう』って、何ですか?」

「何って、そういうお経じゃない?」

 みづきも付箋のところを開けてみる。お経の意味までは当然分からないが、フリガナがふってあるので読むことはできそうだ。

「どういう意味ですか?」

「あたしに聞いて分かるわけないでしょ。後で慈海様に聞いてみな」

「慈海様に聞くことがどんどんたまっちゃう」

「ゴキブリとシャンプーは別に聞かなくていいでしょ」

 突然、鐘の音が響き渡った。腹の底に染み渡るような重く、そして分厚い音色だった。

「始まるのかしらね。ほら、2人とも座って」

 日和に促され、みづきたちも適当な位置にとりあえず座った。畳の上に正座をして、しっかりと背筋を伸ばす。手前左側の戸が開き、僧侶たちが入ってきた。

 女子大生たちのおしゃべりがぴたりと止む。隣で佳南がおかしいくらい必死で背筋を伸ばしたから、つられてみづきも座りなおした。空気が痛いくらい、ぴんと張り詰めるのが分かった。静まりかえった部屋に、僧侶たちが足袋で畳を歩くさらさらという音と、衣ずれの音が立った。

 先頭にいるのは、初めて見る顔の、70歳前後と思われる老僧だ。背が高く、老人とは思えぬ筋骨隆々とした体躯を、黒い法衣と柿色の袈裟に包んでいる。胸元には赤い扇のようなものが挟まれていた。頭は剃り上げているが、額の下の眉は真っ白で太く、眉間が盛り上がっていて、その下にくっきりとした大きな目が炯炯(けいけい)と光る。皺は深く固く刻まれ、峻険な巌(いわお)のような風貌だ。

 慈海がここの副住職だと言っていたのを、みづきは思い出した。当然、住職がいるはずで、この人がそうなのかもしれないな、と思った。

 住職で、副住職。

 もしかしたら、住職は慈海の父親なのかもしれない。背が高くがっちり目なところは似ているが、ごつごつした岩みたいな四角い輪郭……若い頃はそこそこ男前だったかもしれない、という感じだが、顔や雰囲気は慈海とは似ても似つかない。単なる師弟関係なのか、それとも、慈海は母親似なのか。慈海の家庭の事情まではどうでもいいが、みづきは気になった。

 住職らしき老僧のすぐ後ろに、慈海がいた。黒の法衣に、文様の入った薄い灰色の袈裟。胸元に朱色の扇が挟まれている。住職より背は低いが、すっと伸びた背筋と隙のない歩き方が美しかった。

 慈海の後ろから、昨夜夕餉を運んできてくれた2人の修行僧が続く。2人とも、昨夜は作務衣姿だったが、今日は黒い衣に柿色の袈裟を着け、神妙な面持ちで背筋を伸ばし、住職、副住職に従っている。

 前を行く修行僧は20代半ばくらいか。中背で、田舎の高校の野球部員のような素朴で優しげな顔立ちをしている。 後ろの修行僧はようやっと20歳を迎えたか、まだ10代かもしれない。おそらく、修行に入って間もないのだろう。緊張からか、顔が汗ばんで頬が紅潮しているように見える。小柄で色白で、ひょろりとした体形に眼鏡をかけ、頭は良さそうだが物静かな印象だった。あの住職に叱られたら、萎縮して泣き出してしまいそうだ。修行に耐えられるのかどうか、みづきは他人事ながら心配になった。

 住職が着座し、その後ろに慈海、さらに後ろに2人の修行僧が並んで座る。住職が左側に置かれた巨大な鈴(りん)を鳴らした。

 ゴオオオオン……と、腹に染み渡るような響きが堂内を満たし、みづきは思わず目を閉じた。お香の香りが強くなる。

 3度、鈴(りん)の音を響かせてから、住職は右手に木魚用の撥を持ち、ポン、一度叩く。

 読経が始まった。

 貸出用経本があることだし、これは一緒に読むものなのかどうか、と思い隣の日和をそっと横目で窺うと、日和は数珠を手に持ち、真剣な表情で経を読んでいた。そういえば数珠……持ってこなかったな、とみづきは思った。祖母の葬儀の時、買ったものが家にあるはずだったが、必要かどうか迷っているうちに忘れてしまったのだ。

 みづきはとりあえず手を合わせ、背筋を伸ばして経に聞き入った。住職らしき老僧の野太くしっかりした声に、慈海のよく通る透明感のある声が混じって聞こえてきた。経が聞こえる、というより、経に包まれる、という感覚だった。広い堂内に、経が満ち満ちてゆく。日和ではないが、何かパワーを得られそうな気がした。薄気味悪い悪夢の名残は、いつしか薄らいでいた。



「こちらが、座禅堂でございます。皆様、一礼して、お入りください」

 慈海がすっと一礼し、座禅堂に足を踏み入れる。続いて、慈海の後ろに従っていた修行僧2人。

 年かさの修行僧は鈴村丹海(すずむら たんかい)といい、年齢は25歳。寺院の息子で、本山での修行を終えた後、この寺の修行僧となって4年目だという。

 ひょろりとした色白の修行僧は新田覚善(にった かくぜん)。今年21歳。寺院の子弟ではないが、思うところあって僧侶を目指し、本山での修行を終えて絲雲寺へやって来たという。ここへ来てまだ1年足らずだということだった。

 真面目そうな風貌ながら、どこにでもいるような20歳の若者が、僧侶を目指すとは一体どういう「思うところ」があったのだろう、とみづきは気になった。もちろん、人にはそれぞれ事情がある。こみ入った事情がありそうなだけに、聞くことははばかられたが……。

 一礼し、生まれて初めて座禅堂へ足を踏み入れたみづきは、不思議な空間だな、と思った。入口の木戸の部分以外、全てに障子と木の格子でできた窓があり、うっすらと日が差し込んでいる。左右の窓際には膝の高さくらいの畳敷きの台があり、丸いクッションが並んでいた。何に使うのか、部屋の中央に小さな鐘がぶら下がっていた。

「それでは、お向かいの方にご挨拶をしていただいて、座布(ざふ)に……」

 薄暗い堂内に、座禅のやり方を説く慈海の柔らかな声が響く。座布とは、畳に置かれた座禅用の丸いクッションのことだ。

 座禅用の台は左右に4人分ずつあったから、みづきたちと新田覚善、女子大生3人と鈴村丹海のグループに分かれ、慈海の説明に合わせて丹海、覚善がそれぞれのグループにお手本を見せるやり方だった。ひょろひょろして頼りなく見えた覚善だったが、そこはやはり修行僧で、修行歴は浅いとはいえ、窓側に向かって結跏趺坐(けっかふざ)の姿勢を取り背筋を伸ばした姿はなかなか堂に入っていた。

 みづきたちも見様見真似でやってみるが、意外に難しい。特に佳南は体が固いのか、悪戦苦闘していた。

「みづき先輩、股関節が割れそうですう」

 結跏趺坐、とはいうが、どうしても足の甲が膝に乗らないらしい。佳南は泣きそうな声でみづきに訴える。

「佳南ちゃん……どんだけ体、固いのよ」

「みづき先輩は何でそんなに柔らかいんですかあ」

「小さい頃バレエやらされてたからね」

 親に無理やり通わされた習い事も、時には役に立つということを、みづきは実感した。

 慈海は皆のところを回って時に肩や足に手を添えて丁寧に姿勢を直している。佳南の体の固さにはさすがの慈海もちょっと困った様子で、「無理のない範囲で」と優しく言っていた。「はあい」と子猫のような可愛い返事をした佳南が、めちゃめちゃ嬉しそうだったのは言うまでもない。

 みづきは姿勢に特に問題はなかったが力が入り過ぎていたようで、肩をそっと抑えられた。慈海の温かい手が触れた瞬間、心臓がびくん、と波打つ。白檀の香りがかすかに漂ってくる。

「姿勢がお綺麗ですね。もう少し、肩を下げてリラックスしてくださいね」

「は、はい」

 あなたが後ろにいると、余計に緊張します、とは言えない。衣ずれの音がして、慈海が離れたときは、心底ホッとして、肩が一気に下がるのを感じた。

 後ろの、少し離れたところから、慈海の澄んだ声が響く。

「座禅中はいろいろな考えが頭に浮かぶと思います。しかし、それを留(とど)めたり、追いかけたりせず、ゆっくり流すようになさってください。それでは、鐘が3回鳴ったら開始いたします」

 コーン……と1度目の鐘の音が堂内を満たす。

 みづきが目の前の壁に意識を集中した、その瞬間。隣で、佳南の悲鳴が響き渡った。

「佳南ちゃん!?」

 静まりかけた堂内にいきなり大きな声が響いたから、みづきはギョッとして佳南を見た。反対隣の日和と、その向こうにいた新田覚善も目を丸くして佳南を見つめている。鐘を挟んだ向こう側で、女子大生3人と鈴村丹海もこちらを見ている気配があった。

「どうしました!?」

 みづきの呼びかけとほぼ同時に、慈海が駆け寄ってきた。

 佳南は苦心して作った結跏趺坐の姿勢を崩し、震えながら畳の上の1点を指さして泣きそうになっている。慈海が傍(そば)に来ると、どさくさに紛れて慈海の衣の袖にしがみついた。

「慈海様……、蜘蛛が。蜘蛛が」

 佳南が指さした先を見て、みづきもちょっとドキッとした。大きな、全身に黄色と黒の縞模様のある毒々しい蜘蛛が畳の上をゆっくりと這っていた。慈海は蜘蛛を見ても特に驚く様子もなく、しがみついてきた佳南の肩を抱き優しく引き離してから、

「女郎蜘蛛ですね。大丈夫。何もしやしませんよ」

 と言った。

「女郎蜘蛛って、毒があるんじゃ……」

 みづきが思わずもらす。みづきは佳南ほどの虫嫌いではないが(厳密に言うと蜘蛛は虫ではないが)、ここまで近くにいるとさすがに気持ち悪かった。

「人間には害のない程度なので、大丈夫ですよ」

 慈海によると、手でいきなり掴んだりすれば、自衛のために噛むことはあるが、蜘蛛の側から人間を攻撃してくることはない。万一噛まれても毒は弱く、人間には影響はないそうだ。慈海は山間部で暮らしているだけあって慣れているようで、蜘蛛がいても気にせず座禅を進めましょう、のスタンスらしかった。

 正直、みづきとしては、さすがにそれは勘弁してほしかった。いくら無害だと言われても、気になって集中できない。そこにいるだけならまだしも、膝とかに這い上がって来たら、悲鳴を上げることは間違いない。後ろで「うえー、キモ」などと言っている女子大生たちも同じだろう。

 慈海はそんな空気を読み取ったのか、しばらく思案してから、胸元に差した朱色の扇を引き抜いた。扇はよく見ると骨組みが朱、中の紙の部分は金色になっており、閉じていても半ば開いているような不思議な形をしていた。紙から柄(え)に移る部分には、紫色の紐が結ばれている。

 慈海は長い法衣の袖を折って手首を上にして扇を持つと、その先をそっと女郎蜘蛛に向けた。女郎蜘蛛は前足に扇の先が触れて、少し戸惑っている様子だったが、やがてゆっくりと扇によじ登り始めた。誰もが息をつめて見守っている。蜘蛛が扇の上に乗ると、慈海は扇を持ち上げ、近くの格子の隙間から、蜘蛛を外へ出してやった。

「では、続きをいたしましょうか」

 慈海は蜘蛛が窓の外へ逃げたのを見届けてから、何事もなかったかのように扇を胸元へ差し込んだ。

「慈海様、カッコイイ」

 女子大生の誰かがぽつんと呟いた。

「お騒がせしてすみません……」

 さすがに佳南も慈海に、そして他の皆にも申し訳なく思ったのか、小さくなって頭を下げた。

「いいえ。私の方こそ、失礼いたしました。私は慣れていますけど、都会から来た方は驚かれるでしょうね」

 慈海がかすかに笑った。座禅中の騒ぎに気を悪くした様子もなく、むしろ心から申し訳なく思っている風で、みづきには意外だった。彼が笑った顔を見るのは初めてだ。笑うと、変な話だが、ちゃんと人間に見える。みづきはちょっと慈海に対する印象を改めた。見た目の美しさに圧倒されるが、中身は普通の人かもしれない。というかむしろ、優しい人なのかもしれない……。

「この山は、昔から蜘蛛が多く生息していて、昔は蜘蛛居山(くもいやま)と書いたんです」

 もう一度皆の姿勢を細かく直しながら、慈海が言った。

「まあ山奥ですから、蜘蛛に限らず虫は多いですけどね」

「じゃ、じゃあ、ゴキブリとかも出ますか?」

 佳南が尋ねる。

「ちょっと、佳南ちゃん」

 ここで聞くか。みづきは慌てて佳南を止めたが、慈海は笑って、

「庫裏(くり)の方(ほう)には、時々」

 と答えた。

「くり?」

 佳南は意味が分からなかったらしい。

「台所です」

 と慈海が付け足した。

「ゴキブリもさっきみたいに逃がすんですか?」

 女子大生の1人がおそらく佳南が聞きたかったであろうことを聞いた。思うところは皆同じのようだ。

「ゴキブリは害虫ですから、さすがにそれは。衛生的に良くありませんので」

「でも、お坊さんって、生き物殺しちゃいけないんじゃないですか?」

 今度は佳南が聞いた。

「あなたは、不殺生戒(ふせっしょうかい)をご存知なのですね」

慈海が言う。

「ふせ……?」

 ご存知も何も、佳南は「不殺生戒」の意味すら分かっていないらしい。みづきは呆れて、

「要は、生き物を殺しちゃいけないっていう、仏教の決まりのことよ」

 と口を挟んだ。

「意外―。お坊さんでも虫は殺すんだ」

 女子大生の1人が言う。「ねえ」と友達同士で「意外だよね」などと言い合っている。

 慈海はその場にいる全員の顔を眺めて、静かに言った。

「確かに、仏教では、あらゆる生き物を殺してはいけない、と説いています。ですが、人間は他の動植物を殺し、命を奪って、自らの命を長らえています。皆様もお肉やお魚を、日常的に召し上がっていらっしゃるかと思います。これはあくまで私個人の意見ですが、不殺生戒を完全に守ってゆくことは、不可能と考えております。」

「まあ、場合によっては、そうよねえ」

 日和が何度も頷きながら言った。

「ですから、そのことを自覚して、むやみに殺すことは慎む。どうしても殺す場合は、心から恥じる……慚愧(ざんき)と言いますが……心から慚愧し、殺してしまった動植物に合掌する。これが、人としての心得であると私は考えております」

「へえー」

「深あい」

 いつの間にか、女子大生3人も慈海の周囲に集まってきて、皆真剣な顔で話に聞き入っている。何だか、座禅ではなく法話の時間みたいになってしまった。慈海の声には、不思議な魅力がある、とみづきは思った。耳を傾けずにはいられない、不思議な魅力が。きっと、実際の法話も上手なのだろう。

「先ほど、朝餉(あさげ)の時、皆さん頂きますって仰(おっしゃ)ったでしょう?」

 慈海が言うと、何人かが頷いた。

「あれはね。お許しください、あなたの命を頂きます、っていう意味なんですよ」

 慈海は柔らかく微笑むと、「他にご質問は?」と聞いた。

 思いがけない法話の時間。真剣そのものの表情で語った慈海を前に、皆、しん、と静まりかえって、互いに顔を見合わせている。

 慈海は空気が重くなることは望まなかったようで、

「せっかくの機会ですから、どんな事でも結構ですよ」

 と一人ひとりを穏やかな表情で見回した。

「あ、じゃあ、はい!」

 女子大生の1人が手を上げる。

「はいどうぞ」

「お坊さんって、シャンプーしますか?」

 彼女がやたら真面目な口調でそう言うと、一瞬の間があって、何人かがぷっと吹き出した。彼女の隣にいた友人がばしんと背中を叩く。

「ちょっと麻利絵(まりえ)。そおゆう質問じゃないでしょ。仏教とか座禅に関する質問しなさいよ」

「だって昨日、美香(みか)も気になるって言ってたじゃん」

「あらそれ、今朝、うちの部屋でも同じこと言ってたわ」

 日和が言うと、女子大生たちがさらにどっと沸いた。新田覚善はツボに入ったらしく、袖で顔を覆いながら肩を震わせている。鈴村丹海も笑いをかみ殺すのに必死だ。

 慈海はさすがにウケてはいなかったが、さりとて変な質問に気を悪くした様子もなく、麻利絵という女子大生に笑顔を向けた。

「構いませんよ。ボディーソープで、顔も頭もまとめて洗っています。だけど丹海さんなんかは、こだわりがあるんでしたよね?」

 いきなり質問の矛先を向けられて、丹海は恥ずかしそうに笑った。

「あ、はい。私はヘア・アップ一筋です……」

 丹海は緊張からかもじもじ俯きながら、綺麗に剃り上げた頭を掻いた。薄毛を気にする人用のシャンプーの銘柄を挙げたから、座禅堂が笑いで満ちた。

「では、そろそろ座禅を始めましょうか」

 再び各自の座禅場所に戻ると、和(やわ)らいだ空気がぴんと張り詰めた。みづきも深呼吸をして、背筋を伸ばした。

「先ほども申しましたが、座禅中に何か考えが浮かんだら、留(とど)めたり追いかけたりせず、流すようになさってください。それではご準備は宜しいでしょうか」

 澄んだ鐘の音が3回鳴って、余韻が静かに吸い込まれていった。

 再び、静寂が訪れた。

 みづきは目を半分開いて、目の前の木の壁を見つめた。何も考えまいと思っても、頭の中にいろいろなことが浮かんでは消えて行った。

 慈海様、ボディーソープで顔も頭も一緒って……洗顔とか使わないんだ。どんだけ豪快なのよ。男の人って、そんなもの?

 ああでも雅也は、洗顔とか、男性用化粧水とか、いろいろこだわっていたっけ。部屋は汚いくせに、自分を磨くことには熱心で。

 雅也。

 ああ、いけない。雅也のこと、思い出したら……。

 いけない、とは思っても、いったん雅也のことを思い出すと、雅也のことばかりが頭をぐるぐる回る。留めない、追いかけない、流すように。慈海の言葉を思い出して、何とか流そうとするが、心の中でもがけばもがくほど、雅也との思い出ばかりが脳の奥底から引きずりあげられてゆく。



 雅也はみづきの2歳年下の、27歳。OA機器メーカーの営業職で、みづきの会社で使っている複合機やプリンターのメンテナンスで定期的に会社を訪れていた。故障などの時は臨時で訪問してくれることもあった。みづきは総務を担当しているので、故障などの際に連絡するのはいつもみづきの役目だった。今時の爽やかなイケメンタイプで、営業をやっているせいか話もうまくて、気配り上手で、みづきは次第に心惹かれていった。

 とはいえみづきの性格上、自分から食事に誘ったり、ましてや気持ちを伝えたりする勇気もなく……。ただ、時々会社で会えるだけで十分だと思っていたのだ。

 同じ総務を担当している佳南も雅也を気にしていて、時々、親しげにしゃべっていた様子から、みづきは、雅也は佳南のようなタイプが好みなのだと思っていた。だから、付き合おうと言われた時は夢かと思うほど、幸せだったのだ。雅也は意外にも甘えん坊で、しっかりした年上の女性が好みだと言っていた。

 30歳目前で、ようやくできた恋人。大学時代に少しだけ同級生と交際したことはあったが、うまくいかずに1年程で別れてしまった。恋人ができるのは、それ以来だ。

 理由ははっきりしている。みづきは恋愛でも「頑張りすぎる」のだ。

 雅也と別れることになったのも、結局はそれが原因だったと、みづきは思っている。

 雅也とは、お互い独り暮らしだったこともあり、お互いのアパートをしょちゅう行き来していた。特に、雅也はどちらかというと家事が苦手で、掃除洗濯も手抜きでコンビニ弁当か外食ばかりだったから、料理や部屋の片づけをするためにみづきが彼のアパートを訪れることが多かった。みづきは親から厳しくしつけられたせいもあり、料理、洗濯、掃除いずれも得意だ。栄養面を考えた食事。健康的な生活。常に雅也を気にかけ、よくあれこれラインも送っていた。世話を焼くことも愛情だと思っていたからだ。

 だがそんな束縛が、雅也にはうっとうしかったらしい。

 雅也は社交的なタイプで、女友達も多かった。遅くまで飲み歩くこともよくあった。他の女と飲んでいたとか、帰りが遅かったとか、そういうことにいちいち口を挟まれるのが嫌だったようで、次第にみづきを避けるようになった。みづきとしては、不満があるならはっきり言ってほしかったが、雅也の態度は煮え切らない。

 そんなギクシャクした関係の末に、雅也の浮気が発覚し、大喧嘩の末、別れた……というか、後で判明したことを合わせると、最初から他に本命の女がいて、みづきは単なる都合のいい女でしかなかったようだ。みづきが深入りしてくるのが面倒でフェードアウトするつもりが、みづきが浮気を強く詰(なじ)ったから、捨て台詞とともに別れる流れになったのだ。

 雅也は最初から本気じゃなかった。遊びでしかなかった。

 そう分かってはいても、みづきはどうしても雅也を諦めきれなかった。

 雅也は相変わらず、会社に定期的に出入りしている。仕事だから嫌でも顔を合わせることになるが、以前とは違ってみづきを完全に無視していて仕事の用件は全て佳南に連絡してくる。傍にいるのにそんな態度を取られるから、みづきにとっては会えないより余程辛かった。別れて、二度と会わなければ、時間の経過とともに心が癒される日も来るだろうが、忘れようと思っても雅也が訪問してくるたび、記憶が鮮明に甦る。いっそ会社を辞めようかとも思ったが、大学卒業時、何十社も受けてようやっと内定をもらった会社。独り暮らしで経済的に余裕があるとは言えず、さりとて両親を頼るのはもっと嫌だった。両親に雅也のことは伝えていない。実家に帰って来いと言われるのが目に見えていたからだ。 転職をして1から何もかもやり直す勇気もなかったから、辛い思いを抱えながらも、みづきはずるずると日々を過ごしていた。悶々と1人悩むことに耐えきれず、ランチの時、日和に打ち明けた。日和はみづきと雅也の交際を知っており、雅也のことは「遊び人タイプ」とあまりいい印象を持っていなかった。

「結婚するような相手じゃないし、結婚したら苦労する」

 日和はそう言って、交際にやんわりと反対した。

 雅也に夢中だったみづきはその言葉を聞き流し、「まあ、雅也はまだ若いから」などと適当に相槌を打っておいたが……。

 日和の人生経験に基づくアドバイスは、結果的には正しかったことになる。

 そして雅也との破局は、いつしか佳南の知るところとなっていた。日和からもれたのか、雰囲気でそうと察したのかは知らないが、佳南は佳南なりに、一生懸命励ましてくれた。それで、たまたま夏休みが重なったこともあり、気分を変えた方がいいと、今回の宿坊ツアーの話が持ち上がったのだ。

 せっかく、2人が、特に日和が気を利かせてくれたのに、私は、ここへ来てまで、何度も雅也を思い出している。

 イケメンは、信用できない。 

 それはただ、雅也がそうだった、というだけなのに、勝手に一般化して、佳南を傷つけた。そして、本人は知らぬことではあるが、慈海も。

 嫌な奴だな、私。

 嫌な奴だ。本当に、嫌な奴だ。

 ……。

 すっと、背後で衣ずれの音がした。

 慈海だ。

 座禅が始まってから、慈海は叩くための細長い板のようなもの……「警策(きょうさく)」というらしいが……を持って座禅堂内を回っていて、静かな堂内には皆の息遣いと混じって足音と柔らかな衣ずれの音、そして時折、誰かが叩かれたらしいパンッという鋭い音が聞こえていた。よそでも座禅を体験したことのある日和によると、音は大きいが意外と痛くはないらしい。修行僧相手だと蚯蚓腫(みみずば)れができるほど叩くこともあるらしいが、体験に来た素人相手にはさすがに手加減をするという。まあ、それはそうだろう。

 と、背後で人の気配がした。

 真後ろだ。

 ふわりと白檀の香りが立ち上(のぼ)る。

 かすかだが心地よく、それでいて怖い。

 一瞬の静寂。右肩に、何か固いものが触れた。

 古くなった木のにおいがする。

 警策だ。

 みづきは体がきゅっと固くなるのを感じた。自分の心臓の音がはっきり聞こえて、何だか息が苦しかった。思考を……雅也のことをいつまでも流せず、しがみついていたことを見抜かれたのか。もちろん慈海は雅也のことなど知るはずもない。ただ、みづきが何事かに囚われている、というのは、僧侶として感じ取ったのかもしれない。

 みづきは動揺からか体が小刻みに震えるのを感じた。それでも、事前に教わったとおりに合掌し、左に少し頭を傾けた。警策が空を切るかすかな息遣いのような音が聞こえて、みづきは思わずきつく目をつむった。

 刹那、真っ暗な視界に鮮明に浮かんだ画像があった。

 慈海の、刺青(いれずみ)。

 昨夜の、夢とも現実ともつかぬあの、仄暗い灯火の中で見た、あれは。慈海の右肩にあった、あの絵は。

 女郎蜘蛛だ。

 パンッと甲高い音が耳の傍(そば)で鳴って、みづきは危うく悲鳴を上げそうになった。軽い衝撃がある。だが、痛いとは感じなかった。むしろ、音に驚かされた。

 衣ずれの音が遠ざかってゆく。現実に引き戻すかのように、座禅の終了を告げる鐘が鳴った。



 座禅堂の外に出ると、日差しがまぶしかった。よく晴れていたが、昨晩の大雨で滝がかなり増水しているらしく、午後からの滝行は中止、と慈海から伝えられた。

「残念だわー。滝、見るだけでも見てみたかったわ」

 日和が心底残念そうに呟く。

「だよねえ。見るだけでも、見たいよねえ」

 女子大生たちも口々に言う。

 慈海はしばらく全員の顔を代わる代わる見つめていたが、ややあって言った。

「では、参りましょうか。滝壺には降りられませんが、上から見ることはできます」

 そして、

「ちょうど、荷上(にあ)げの時間ですし……」

 と、すぐ近くにいた新田覚善に、何事か話しかけている。

「承知いたしました」

 覚善が頷き、合掌する。

「慈海様、荷上げって、何ですか?」

 佳南が可愛らしく小首を傾げながら慈海を見上げた。たぶん、荷上げ云々の部分はみづきたちに向けたものではなく、覚善との内輪の話だったのだろう。慈海は「え?」と美しい目を一瞬見開いて、それから佳南に微笑んだ。

「荷上げというのはね……」

 客殿へ戻る道すがら、慈海はこの地域の特殊な事情について説明を始めた。



 雲居山(くもいやま)は、近年は登山道も整備されているが、昭和に入るまでは修行僧の山籠もり専用の山として、一般人の入山を厳しく規制していた。しかし、集落の人口増加に伴い、昭和の始め頃には入山の規制が解かれ、山の中腹あたりまで人が定住するようになった。必要な食糧や日用品などは、修行僧が修行の一環として物資を背負って麓の集落と山上の集落、寺院を行き来していたのだが、次第にそれでは追いつかなくなり、戦後間もない頃、物資運搬のためのロープウェイが建設されたという。

 ロープウェイはバスの終点である「雲居山登山口(くもいやまとざんぐち)」を起点とし、かつては3つの停留所があった。登山口に近い側から、「雲居下(くもいしも)」(下(しも)停留所)、「絲雲寺(しうんじ)」(中(なか)停留所)、そして雲居山山頂近くの、登山客向け宿泊施設用の停留所が、「雲居山八合目ロッジ」(上(かみ)停留所)である。

 地域の過疎化が進み、20年程前に雲居下(くもいしも)集落が廃村となってからは、下停留所は廃止となった。現在は登山口と絲雲寺、雲居山八合目ロッジの間を週2回、1日1往復が運行されているらしい。

 みづきは慈海の話を聞きながら、そういえば、登山口でバスを降りたとき、山小屋の背後に、ロープウェイらしきワイヤーがあったな、と思い出した。あれは、人が乗るための物ではなかったのだ。そして、登山口から絲雲寺に上がって来る途中に見えた廃屋群が、廃村になったという雲居下集落跡なのだろう。

「じゃあ、人が乗るロープウェイはないの?」

 日和が問うと、慈海は「ありません」と即答した。登山道側にも、ないらしい。

「ええー。じゃあ、お寺で急病人とか出たら、どうするんですか?」

 女子大生の美香が目を大きく見開き、驚いて言った。

「麓に診療所があります」

 慈海によると、その診療所が雲居地区の集落の唯一の医療機関だという。絲雲寺で病人やけが人が出た場合、さほど緊急でなければ、登山口まで患者をおぶって山を下り、登山口の駐車場に停めてあるお寺の車両を使って、麓の診療所まで連れて行く。慈海も幼い頃、何度か師匠である住職や寺男の松木信三(まつき しんぞう)に背負われて山を下りたことがあるという。診療所が開いていない時間は、登山口から車で1時間程の場所にある総合病院まで運ぶ。緊急時は登山口に救急車を待機させるか、過去には1度だけだが、ドクターヘリの出動を要請したこともあったそうだ。

「ううわ、大変」

 美香が顔を引きつらせながらもらした。みづきも同感だった。登山口から絲雲寺までかなりの距離があった。あれを、しかも場合によっては夜間に、人を背負って下りるなんて、とても考えられない。みづきの実家がある地域だって、そこまでの僻地ではない。みづきたちは宿坊のお客さんだから、「大変」で済むが、慈海や絲雲寺の人々にとってはそれが日常なのだ。いろいろな人生があり、いろいろな世界がある。自分が経験したことだけに、こだわってはいけない。

 みづきは前を歩く慈海の背中をじっと見つめた。

 慈海には、慈海の事情があり、生きてきた時間がある。女郎蜘蛛の刺青の映像が、頭の中でちらちらと揺れていた。ただただ怖い、胡散臭いと思っていた慈海に、みづきは初めて興味を持った。

 だが、あの刺青について聞く勇気は、自分にはとても出せそうにないとも思った。



 絲雲寺の通用門から表に出ると、急な斜面が視界を遮った。よく見ると斜面を削って丸太が埋め込んであり、階段のような形で、人が登れるようになっている。しかし丸太はかなりすり減って半ば地面と一体化し、しかも斜面が急過ぎるせいで、気休め程度にしかならなそうだった。

 そんな山道を、慈海は慣れた足取りで登ってゆく。法衣の長い袖は肩から首の後ろで束ね、上からたすき掛けをしている。袖を束ねることは「玉襷(たまだすき)」、上からのたすき掛けは「上(あ)げ手巾(じゅきん)」というらしい。袖がキュッと上がって、覗く腕は滑らかで綺麗だが筋肉が意外にしっかりとついていた。何だか僧兵っぽいと、みづきは思った。袈裟は今まで着けていた半身を覆うタイプのものではなく、首から下げるような形の簡素なものだ。絡子(らくす)、というらしい。裾も上げて、脚絆(きゃはん)に草鞋(わらじ)。博物館などでは見たことがあるが、脚絆や草鞋を実際に使っている人を見たのは、みづきは初めてだった。こんな山を日常的に上り下りしているからか、足首の細さからは想像できないほど足はがっちりしていて、脚絆の上からでも、筋肉に覆われていることが分かる。荷上げ用なのか、背中には木を組み合わせて作った背負子(しょいこ)を背負い、背負子にはなぜかトランシーバーと、「郵便」と書かれた薄緑色のケースが紐で固定されていた。

 その背後から、みづきたちが一列になって登ってゆく。覚悟はしていたが、かなりきつい。山の上で涼しく、風が心地よいのが救いだったが。

 慈海は時折立ち止まって、全員がちゃんとついて来ているかを確認していた。段差が大きいところは、1人1人に手を貸す。佳南がものすごく幸せそうだったのは言うまでもない。みづきは身長165センチで、女性としては比較的大きい方だが、それでも片手で引っ張り上げてくれた。指が長く、手の形は美しいが、実際自分の手と比較すると、慈海の手はかなり大きい。温かくてがっちりした手だった。

 おそらく慈海は、山歩きに慣れない面々のため、かなりゆっくり歩いてくれているのだろう。でなければ、たぶんついて行くのも大変なはずだ、とみづきは思った。

 むっとするような緑のにおいと虫や鳥の鳴き声。周囲の樹々には、樹液を求めてか都会ではまず見かけないような大きな虫が群がっていて、羽音を立てて飛び立つたび、虫嫌いの佳南が悲鳴を上げていた。 慈海が蜘蛛が多い、と言っていたように、樹々の間のそこここに蜘蛛が巣を張り、かなり大きな女郎蜘蛛の姿もあった。餌となる虫も豊富なのだろう。女郎蜘蛛は樹木の幹と幹の間に、驚くほど巨大な巣を張り、その中央に女王様のように鎮座している。雑木林が続く向こうには、黒っぽい柵のようなものがぐるりと張り巡らされている。その柵ごしに、何かが動いた。

 何だろう、あれ……。

 みづきはじっと目を凝らした。

 イノシシだ。柵の向こうからじっとこちらを見つめている。かなり大きな、大人のイノシシだった。

「みづきちゃん、どうかした?」

 斜め後ろをハアハア言いながら登っていた日和が尋ねる。

「イノシシが」

 日和は帽子の下に挟んだタオルで汗を拭いながら、みづきの指さす方を見た。

「あらやだ。慈海様、慈海様!」

 日和が前を行く慈海を呼び止める。慈海もイノシシに気付いていたらしい。

「ああ、いますね。大丈夫。あの柵を越えては来ませんから」

 あの柵は、獣よけに設置されたもの。こちらに来ることはないが、なるべく目を合わせないように、と、慈海は特段気にしている風もなく、さらりと言った。やはり地元の人間だから、慣れているのだろう。

「イノシシ、生で初めて見た」

 みづきが言うと、

「そうですか?この辺りではよく見かけますよ。東京はやっぱり、都会なんですね」

 と慈海が意外そうな顔をする。

 慈海にとっては、野生動物を見かけない環境の方が珍しいのだろう。イノシシの他、鹿や猿、時に熊も出没することがある、と付け加えた。

「げっ。熊出んの!?」

 と、後ろで誰かが言っているのが聞こえた。

 いくら獣よけの柵をしていても、さすがに熊はヤバイだろう……とみづきも不安になって周囲を見回す。幸い、それらしき影は見えない。さっきのイノシシはしばらく柵ごしにこちらを睨み付けていたが、やがて飽きたのか、柵の向こうへは行けないと悟ったのか、すっと向きを変え、茂みの奥に消えて行った。

 濃い緑のにおいに、雨上がりのような湿ったにおいが混じり始めたことに、みづきは気付いた。ざあざあという水しぶきの音が少しずつ大きくなってくる。滝が近いのだろう。息を切らせながら斜面を登り切ると、ふいに木立が途切れた。

 水のにおいのする冷たい風が顔に吹き付けた。どどどどど、と、水の流れ落ちる轟音が空気を揺さぶった。視界の向こうに突如、巨大な滝が現れた。はるか向こう岸の、切り立った崖の突端。樹々の間から、真っ白く輝く糸を束ねたように、3本の滝が迸(ほとばし)っていた。落差はおそらく100メートル近いのではないだろうか。真っ白く輝く奔流が岩と樹々の隙間から吐き出され、轟音とともに、水しぶきを巻き上げながら滝壺に流れ下ってゆく。滝壺は荒れ狂う海のように、泡立ち、白く波打ち、渦を巻いていた。みづきたちがいる側は比較的平らで、人が立てるようになっている。よくよく見ると、みづきたちが立っている斜面には細かな段差が刻まれていて、人が下に降りられるようになっていた。

「すごおい」

 佳南が歓声を上げる。

「滝行って、どの辺りでやるんですか?」

 女子大生の美香が慈海に問う。滝の音が激しくて、大きな声を出さないと互いの会話が聞こえない。

「修行僧は、中央の大滝を使います。体験の皆さんは、向かって左の小滝です」

 大滝の水量は凄まじい。あんなところで滝に打たれたら、人が潰されてしまいそうだ、とみづきは思った。対岸にいてすら、押し潰されそうな水の圧力を感じる。小滝も、大滝程ではないが激しくしぶきを上げている。体験というレベルではない気がする。それに、滝壺には人が入れるような場所がなさそうに見えるが……。

 そんなみづきの心の声が聞こえたかのように、慈海は言った。

「今日は水没していますが、大滝も小滝も、下に人が座れるほどの岩があります。普段は岸ももう少し広くて、そこの階段から降りて滝の真下まで歩けます」

 慈海は足元の崖下を指さし、そこから大滝までのルートを、すっと指先で描いた。今日は岸はほとんどなくなっていて、崖下に降りれば滝に落ちてしまいそうだ。なるほど。それで、増水で中止ということか。と、みづきは納得した。それなら、流れ落ちる水の量も、普段より多いのだろう。

 今立っている崖の先には、転落防止のためであろう、古びた木の杭と鎖が渡してある。とはいえ観光地化された滝とは違って、かなり簡素なもので、乗り越えるなり鎖の下をくぐるなりすれば、いとも容易に飛び込めてしまうだろう。人が飛び込んだりしたことはないのだろうか。みづきはそんなことを考えながら、柵の傍まで行った。

 滝壺が足元のはるか下にしぶきを上げている。どうどう、という轟音が絶え間なく耳を打つ。時折、細かい霧のようなものが顔に当たるのを感じた。上から覗き込んでいると、滝壺に引き込まれそうだ。

 もし、ここから飛び降りたなら……。

 ふと、恐ろしい想像がみづきの頭をよぎる。バカなこと。そう、考えても、渦巻く滝壺から目を離せない。ここから、飛び降りて……。

 そうすればもう、雅也のことを思い出さずに済むのだろうか。

 しがみつくのは、もう嫌だ。でも、忘れたいのに、どうにもならない。確かにここは日常から離れた異世界だけれど、いつかは日常に戻る日が来る。また、雅也は会社にやって来る。手放したい。忘れたい。でも、そんな風に思うだけでは、何も変わらなかった。それならば、いっそ……。

 すっと、柵と体の間に、腕が差し込まれた。あまりに突然だったから、みづきは危うく声を上げるところだった。いつの間にか、慈海がすぐ傍(そば)に来ていた。

「あまり前に出ると、危ないですよ」

 慈海はやんわりと腕を添えて、お腹に触れるか触れないかのところで、みづきを下がらせた。

「すみません……」

 みづきは素直に柵から離れた。慈海がじっとこちらを見つめている。みづきは目をそらそうとしたが、できなかった。しばらく、慈海と無言で見つめ合う。慈海の表情からは、何の感情も読み取れない。美しい双眸はまっすぐにみづきを捉え、動かない。強い目だと思った。まっすぐで揺るぎない、強い目だ。みづきは心中を見透かされたような気がした。

 今、自分が何をしようとしていたか、たぶん慈海は見抜いていた。

 だから、手を差し出したのだ。

 僧侶の勘?それとも……。

 やっぱり、この人は何だか怖い。

 けれどそれは、これまでとは違い、嫌な怖さではなかった。もし、今ここで、自分が囚われているものについて、慈海に打ち明けたなら、慈海はどんな言葉を返すのだろうか。ふと、そんな思いが頭をよぎる。

「あの、慈海様……」

 みづきが口を開きかけたとき、背後から佳南がぐいっと手を引っ張った。

「みづき先輩!みづき先輩!ほらあそこ。滝壺に、虹が出てますよ!」

 佳南はみづきの手を掴んだまま、弾けるような笑顔で大滝のあたりを指さした。

「あー、ホントだ。すごおい!美香!麻利絵、ほら!」

 女子大生の優美(ゆみ)の声。

「こらこらあんたたち。あんまりはしゃぐと、危ないわよ」

 日和がお母さんみたいに言う。そのくせ、日和もななめ掛けしたポシェットからスマホを取り出し、虹をバッチリ写真に収めていたが。

 結局、虹騒ぎに巻き込まれる形で、慈海に話そうと思ったことはうやむやになってしまった。

 スマホで滝の写真を撮って盛り上がっている佳南や女子大生たちからようやく離れて、再び慈海の方を見ると、慈海はさっきと変わらぬ位置でじっと滝を見下ろしていた。背後の女性陣の騒ぎを気にしている様子もない。みづきの位置からは、ちょうど慈海の横顔を見ることになるが、慈海はみづきの視線に気付く様子はない。その瞳は、まばたきもせず、滝壺の一点を見つめていた。

 何を、見ているんだろう?

 慈海の目線の先を追ったが、みづきには何も見えない。ただ、滝壺の逆巻く波と白いしぶきがあるばかりだ。何だか、声をかけるのははばかられた。崖の突端に佇み、滝を見下ろすその姿は、強く、美しく、それでいて、深い孤独を漂わせているように見えたからだ。

 慈海が、孤独?

 それは、こんな過疎地域の、しかも人里離れた山奥の寺で暮らしていれば、人との交流は少ないかもしれない。けれど、そんな単純なものではなく、もっと奥深い何かが、慈海の表情には込められているように思えた。と、慈海が振り向いた。ななめ後ろにいたみづきと目が合う。

「みづきさん」

「は、ははははいっ」

 いきなり慈海に名前を呼ばれて、みづきは思わず後ずさりしかけた。私、この人に名前、教えたっけ。ああ山門で挨拶した時……っていうか、何でいきなり下の名前!?

 が、慈海が何か言いかけるより早く、慈海の背後でピーピーとけたたましい電子音が鳴った。いきなり予想もしない音が鳴ったので、「みづきさん」に動揺していたせいもあり、今度こそみづきは飛び上がった。慈海は弾かれたように一瞬振り返ると、背負子(しょいこ)からトランシーバーを取り外し、スイッチを押した。

 トランシーバーから流れてきたのは、年配の男性の声だった。

「こちら登山口。各停留所応答願います」

 滝の音と、電波のせいと思われるザアザアという雑音で男性の声は聞き取りづらい。慈海は足早に滝から離れながら、トランシーバーに語りかけた。

「こちら中(なか)停留所、絲雲寺(しうんじ)です、どうぞ」

 慈海の澄んだ声は、滝の音が響く中でも、心地よく通る。

「こちら上(かみ)停留所、八号ロッジです、どうぞ」

 先ほどとは別の男性の声が、トランシーバーから聞こえた。こちらは50代くらいかな、という感じのしっかりした太い声だ。どうやら、3人が同時に通話しているらしい。

「こちら登山口、ただ今より荷上(にあ)げを開始いたします。各停留所はご準備をお願いいたします」

 最初に聞こえてきた年配の男性の声が言う。

「中停留所、了解」

「上停留所、了解」

 八合目ロッジの男性の声が慈海の後に続いた。慈海はいったんトランシーバーを切って顔から離し、全員を振り返った。

「すみません。そろそろ荷上げが始まります。30分程で戻りますので、皆さんはこちらでお待ちください」

「ロープウェイは近くですか?」

 女子大生の麻利絵が尋ねた。

「その茂みの向こうです。5分もかかりません」

 慈海が指さす方向。高い木に遮られ一見分かりづらいが、確かにロープウェイのワイヤーらしきものが覗いていた。

「じゃあ、一緒に行ってもいいですか?見てみたいわ」

 麻利絵が言った。友人の優美、美香も頷く。

「あたしたちも行こうか、みづきちゃん、佳南ちゃん」

 日和が問う。佳南が頷いた。みづきも、めったに見れるものではないのだし、興味はあった。

 慈海は特に迷う様子もなく「どうぞ」、と微笑み、「ついて来てください」と言って茂みの奥に入って行った。



 道というほどではないが、茂みには明らかに人が何度も踏み固めたような痕跡があった。時折草をかき分けながら歩いていくと、大きな鉄の柱が現れ、ロープウェイのワイヤーがすぐ頭上を通っているのが分かった。

 慈海は鉄の柱に取り付けられたさび付いたレバーを上げ、再びトランシーバーのスイッチを押した。

「こちら中停留所絲雲寺。準備完了いたしました、どうぞ」

 ザザ、ザザ、と雑音が聴こえ、登山口の年配の男性の声が入る。

「こちら登山口、了解。上昇開始」

 古びた金属がきしむような音が聞こえ、ワイヤーが小刻みに揺れ出した。ゴンゴンゴン、という音がかすかに聞こえ、それは少しずつ大きくなっていった。みづきが斜面の下をじっと見下ろしていると、遠くにポツンと何か黒いものが現れ、それがゆっくりとこちらに近づいてくるのが分かった。

「わあ、来た!」

 佳南が子供のような声を上げる。斜面すれすれ、地面をこすりそうな高さで、すすけてさびついた鉄の箱が迫ってくる。見た目は普通に人が乗ってもおかしくないロープウェイだ。かなり年代物であることを除けば、だが。

 ロープウェイはゴンゴンと大きな音を立て、激しくワイヤーを軋ませながら、鉄の柱のすぐ傍に来て、つんのめるように停車した。ガゴンっと大きな音が鳴り、完全に停車しても車体は小刻みに震えている。

 慈海は胸元からスマホを取り出し一瞬何かを確認して、再び戻した。トランシーバーのスイッチを入れる。あ、慈海様スマホ持ってるんだ、とみづきは思った。じゃあ、ラインが聞きだせるかどうかは、佳南の腕次第だろう。まあスマホを持っているからといって、必ずラインをやっているとは限らないが。

「こちら中停留所絲雲寺。14時31分到着いたしました」

 さっきスマホを見たのは、時間を確認していたようだった。

「登山口、了解」

「上停留所、了解」

 登山口の年配の男性と、八号ロッジの男性の声が続けてトランシーバーから聞こえた。

 慈海はトランシーバーを戻して背負子を地面に下ろすと、ロープウェイの扉の閂を外した。キイイっと金属同士がこすれ合う嫌な音が聞こえて、みづきはちょっとゾクッとした。見た目は普通のロープウェイだが、さびついた鉄の扉を開くと、中に座席はない。人の代わりに、段ボールや封筒など、大小様々な荷物がぎっしり詰まっている。慈海は慣れた様子で、荷物についた札を確認して、てきぱきと荷物を下ろし始めた。みづきはただそれを突っ立って見ているのも申し訳なくて、

「あの、私たちも、何かお手伝いを」

 と言ってみた。

「お気持ちはありがたいですが、力仕事ですし、お客様にお手伝いいただくわけにはまいりません」

 荷上げを見せてはくれても、あくまでみづきたちは体験ツアーのお客様。そこは、しっかり線引きをしている様子で、慈海はきっぱりと言った。みづきがちょっと残念に思っていると、日和が口を挟んだ。

「あら、だって、修行体験でしょう?これも、修行と思えば。丹海さんや覚善さんもなさっているんでしょう?あたしだって、普段は結構力仕事してますから。腕力なら、負けませんよ」

 日和が力こぶを作って見せた。実際、清掃パートは現場によってはかなりの重労働だ。20年、様々な現場経験を積んできただけあって、Tシャツから覗く日和の二の腕には、たくましい力こぶが盛り上がっていた。慈海は笑って、

「頼もしいですね。では、お願いいたします」

 と言った。

「2番の札のついている荷物を、下ろしてください」

「任せて」

 日和は慈海に笑顔を返すと、ペットボトル6本が入った段ボールを2箱まとめて持ち上げた。

「おばちゃん、すっげえ」

 女子大生の優美が唖然としている。1箱10キロはあるはずだ。みづきはさすがにそこまではできないので、札を一つ一つチェックしながら、持てそうなものを丁寧に下ろして、地面に並べた。佳南も封筒や通販の箱など、こまごましたものまでチェックしては仕分けている。

 ひととおり、、荷物を下ろすと、慈海は2番の札が残っていないかロープウェイ内に残った荷物をひとつひとつチェックし、窓際の棚に置かれた「郵便」とマジックで書かれた緑色のプラスチックケースを手に取った。ダイヤル錠を回して開錠すると、中に入っていた封筒を取り出した。そして今度は背負子に結び付けてきた同じデザインのケースを開け、中に入っていた封筒と入れ替えた。背負子のケースから取り出した封筒をロープウェイの中のケースにしまうと、ダイヤル錠をかけて番号をくるくる回してロックした。そこまでをてきぱきとやってしまうと、慈海はロープウェイから降り、扉を閉めて元通り閂をかけた。そして、ちょうど鉄の柱の傍に立っていたみづきに、

「みづきさん、そのレバーを、下にさげていただけますか」

 と言った。

「あ、はい」

 言われて、みづきは柱の方を見た。ロープウェイが到着したとき、慈海が上げた鉄のレバー。結構高い位置にある上に、足元がボコボコしていて踏ん張れないが、みづきは思い切り下向きに押した。

「あれ」

 さっき慈海が軽々上げていたからそんなものかと思ったが、実際やってみると、想像以上に重くて固い。しかも、さび付いていて、無理やり押してもギイギイと引っかかっているような感じでびくともしない。

「こちら中停留所、ただ今荷下ろし完了いたしました」

「登山口、了解」

「上停留所、了解。準備完了いたしました」

 慈海はトランシーバーの通信を続けながら、さくさくと芝生を踏み分け、みづきの傍に立った。

「中停留所、了解。上昇開始」

 そして、目でみづきに手を離すよう伝えると、軽々とレバーを押し下げた。ロープウェイは軋みながらゆっくりと上昇を始め、やがて小さくなって木々の向こうに見えなくなった。

「すみません、結構固くて」

 みづきはレバーの件を慈海に詫びた。

「いえ、こちらこそ、失礼いたしました。ご協力ありがとうございます」

 慈海はみづきに微笑を返すと、並べられた荷物を背負子に積み込み始めた。かなりの量だ。

「後は、これをお寺に持ち帰れば、今日の荷上げは完了です」

 ロープウェイはこの後上停留所……雲居山八合目ロッジへ向かう。その後は上停留所と登山口とのやりとりでロープウェイを登山口まで戻すが、戻りは中停留所は通過となるため、中停留所での作業はここまでだという。

「冬場は八合目ロッジが閉鎖になるので、戻しまでやらないといけませんが」

 と慈海は付け加えた。

 積雪のため、毎年11月上旬から翌年の4月下旬までは雲居山の登山道が冬期閉鎖となり、それに伴い八合目ロッジも休業となる。そのため、ロープウェイは絲雲寺と登山口との間での運行となる。積雪で到着も遅れがちな上、ロープウェイが登山口に戻ったという連絡を受けるまで作業が完了しないため、余計時間がかかる。さらに、冬期は宿坊も休みのため、荷物量自体は減るが、積雪の中斜面を登って停留所まで行くのはかなり大変で、結局、冬期の方が重労働になるという。

 絲雲寺ではこの荷上げ作業を、住職を除く全員、慈海、修行僧の鈴村丹海、新田覚善、そして30年程寺で働いている寺男の松木信三(まつき しんぞう)の4人の当番制で回しているそうだ。今日の当番は、本来であれば新田覚善であったが、ちょうど滝にみづきたちを案内することになったため、当番を交代したという。

「さて。では、戻りましょうか」

 慈海はてきぱきと背負子に荷物を括りつける。みづきは改めて、下ろした荷物を見回した。2リットル入りのペットボトル6本が入った段ボールが3つ、畑で採れたと思われる野菜、こまごました日用品、通販の箱、大判の冊子が入っている様子の封筒……。相当な量だ。宅配の荷物が目につくのも、宅配の車が登山口までしか来られないからだろう。そして、束ねられた新聞。荷上げが週に2回なので、3日分くらいか。もはや、新聞の意味がない気がする。だが慈海は、これでも今日はまだ少ない方だと言う。普段はこれ以上の量を背負って、あの急斜面を寺まで帰っている、というのが、みづきには信じられない。凄い生活だ。

「あの。あたしたちも、荷物、運びます」

 佳南が言った。「ええ?」と、慈海がちょっと困ったように笑う。来た時とは違い、今度は斜面を下りなくてはいけない。しかも、小柄で華奢な佳南が言うと、助かるというより心配の方が勝るのだろう。案の定、慈海は少し強い口調で言った。

「これから斜面を下るので危険です。先ほどは皆さんに助けていただきましたが、今度こそ、お気持ちだけで結構です。私は、慣れていますので」

「さすがにペットボトルは無理ですけど」

 と、女子大生の美香が言う。

「こんだけ人数がいるんだし、ちょっとずつ持てば、いないよりマシっしょ」

「だよねー」

 優美が頷く。

「わあい。皆でやりましょー」

 佳南が言った。年齢が近いこともあり、いつの間にか、女子大生たちと意気投合したようだ。

「でも佳南ちゃん、気をつけてよ。こけて荷物ひっくり返さないでよ」

 日和が笑いながら言う。

「大丈夫ですよお、日和さん。こけて顔面ムケムケになっても、荷物は守りますから」

 皆がどっと沸いた。慈海は少し考えている様子だったが、やがて頷いた。

「ご協力、ありがとうございます。しかし、ご無理はなさらないでください」

「はあい。あ、これとか軽そう。みづき先輩、これもいけそうですよ」

「じゃあ、佳南ちゃんと私で、これとこれ……この封筒は、日和さんかな」

「この箱意外と軽いよ。麻利絵、これとかいけんじゃね?」

「優美はそっち持って」

 わいわいと、手分けして荷物を持つと、慈海を先頭に、一列になって茂みを抜け、滝まで戻る。慈海はかなりの荷物を背負っているのに、足取りはまったく重そうに見えない。

「では、戻ります。皆さん、お気をつけて」

 結局、かなり時間はかかったが、誰一人斜面でこけることもなく、絲雲寺の通用門まで戻って来た。

 長い一日が終わり、みづきたちが部屋に戻る頃には、既に夕闇が迫り始めていた。



「今日は楽しかったわねー。なかなか体験できないわよ、あんなの」

 部屋に帰ってくると、日和は汗だくになったTシャツを脱いで、扇子で仰ぎながらペットボトルの麦茶を一気飲みした。

「そうですねー」

 みづきもお茶を飲みながら頷く。全身に心地よい疲労感がある。とはいえ、明日筋肉痛になりそうな予感はあったが。

 朝のお勤めから座禅、そして滝、荷上げのお手伝い。今日は本当に、盛りだくさんだった。なかなか、バラエティに富んだ一日だった。

「だけど、大変ですよね。荷上げ。あれを、交代とはいえ週2回やるんですから。しかも今日は少ないって慈海様言ってましたし」

「そうねえ。山奥とはいえ、まさかあんなことしてるとは思わなかったわ。まあ、お寺の人たちにとってはあれが日常なんでしょうけど。それにしても、みづきちゃん。慈海様、話してみると意外といい人だね」

 日和に言われて、そういえば、今日初めて、慈海と普通に会話を交わしたな、とみづきは思った。確かに、話してみると思ったほど怖くはない。緊張はするけれど。それに……。

「いきなり、みづきさんって呼ばれてハイ?ってなっちゃいました。まさか下の名前だとは思わなかったから」

 あはは、と日和は笑った。

「あれじゃない?修行僧の2人。丹海さん、覚善さん、だし。その流れでみづきさん、なのかも。癖というか、習慣みたいなものじゃない?」

「あ、なるほど」

 確かに、修行僧2人は名前で呼ばれていた。寺男も、信三さん、と呼ばれているのを一度聞いたし、ここではそういうやりとりが普通なのかもしれない。別に、みづきとしては嫌ではない。むしろ、普段から「みづきちゃん」「みづき先輩」などと呼ばれることが多いので、改まって「今河さん」と呼ばれると緊張する。

 そこまで考えて、ふと、みづきは、佳南が部屋に戻ってこないことに気付いた。荷上げから部屋に戻る途中、トイレに行くと言っていたが……。トイレにしては、長い気がする。

「そういえば、日和さん。佳南ちゃんは?」

「戻るとき、トイレ行くって言ってたけど……遅いわね」

「まさか迷子になってるとか」

「あの子なら、ありえるわね。ちょっとあたし、見てくるわ。ついでにあたしもトイレ」

 日和が出て行くと、みづきは何となく手持無沙汰になった。しんとした部屋の中に、時計の音がやけに大きく響く。部屋の時計を見ると、まだ、夕食までは間がある。だが今日は、部屋に戻るのが遅かったから、昨日のように先に入浴を済ますほどの余裕はなさそうだった。

 みづきはリュックからスマホを取り出した。何となく、絲雲寺のことでも調べてみようかな、と思ったのだ。ネットで検索してみると、過去に訪問した人が書いたのであろう、お寺の歴史をまとめたサイトを見つけた。



 ネットの記事によると、絲雲寺は、室町時代後期の僧、仁海(にんかい)により創建されたらしい。

 1433年(永享5年)に河内国(現在の大阪府東部)の荘官(しょうかん)の子として生まれた仁海は、幼名を阿智丸(あちまる)といい、幼くして両親と死別した。わずか3歳で叔父に伴われ上洛し、京都の清瀧寺(せいりゅうじ)に預けられそこで仏教を学んだという。

 1460年(寛正元年)、師僧仁円(にんえん)の死に伴い、仁海は若くして清瀧寺住職となるが、応仁の乱により清瀧寺は焼失。長引く戦火により京都での活動に見切りをつけた彼は清瀧寺住職を辞し、一修行僧として諸国を遍歴した。

 たまたま通りかかった飛騨国蜘蛛居(現在の岐阜県高山市)の地で、仁海は村人に一夜の宿を乞うが、泊めてくれた家の人から、山に棲む巨大な女郎蜘蛛の化け物の話を聞く。太古の昔より「山の神」として畏れられてきた蜘蛛。糸で人間を絡め取り、生気を吸って殺してしまうという。

 その夜、仁海は不思議な夢を見る。

 夢で十六善神から長刀(なぎなた)を授けられた仁海は、村人たちを苦しめる化け物を封じ込め、滝に沈めたと伝えられている。(本来であれば蜘蛛を殺すこともできたが、仁海は封印するに留めた。この理由には諸説あり、村人が山の神の祟りを恐れたからだとも、仁海が殺生を極端に嫌ったからだとも言われている。)

 仁海は封印石として、蜘蛛居の地に小さな座禅堂を建て、これが絲雲寺の礎(いしずえ)となった。

 以後、仁海は絲雲寺を拠点に多くの弟子を育て、蜘蛛居山は修行僧の道場として発展した。

 晩年、仁海は絲雲寺を弟子の慈照(じしょう)に託し、自らは故郷である河内国の誓願寺に入り、1511年(永正8年)、同寺で遷化(せんげ)した。77歳没。仁海が用いたとされる長刀が、現在も絲雲寺に伝わっている……。

 文章の末尾には、絲雲寺の写真と、どうやって見せてもらったものか、赤い布にくるまれた長刀の写真も添付されていた。

 女郎蜘蛛の化け物。

 みづきはスマホから目を離した。巨大化した女郎蜘蛛なんて、想像するだけでも気持ち悪い。山に女郎蜘蛛がたくさん生息していることから生まれた伝説なのだろうが……。化け物退治はただの伝説としても、絲雲寺は室町時代の創建。かなり由緒がありそうだ。それにしても、仁海という僧は、何故蜘蛛を殺さなかったのだろう。祟りを恐れたというが、むしろ生かしておく方が祟られそうな気がするが。それなら、やはり殺生したくなかったのか。化け物とはいえ、殺すことにはためらいがあったのか。慈海は不殺生戒を完全に守るのは不可能、と言っていたが、やはり同じ僧侶でも、考え方にはいろいろ違いがあるということか。

 あれこれみづきが考えていると、いきなり障子が開いた。ネットの記事に集中していて足音に気付かなかったから、みづきは危うく飛び上がりそうになった。

 入って来たのは蜘蛛の化け物……ではなく(それならご丁寧に障子を開けないだろう)、日和だった。

「おかしいわね。佳南ちゃん、どこにもいないのよ」

「ええ?」

 みづきは部屋の掛け時計を見上げた。夕食の時間が迫っている。さすがに、勝手に出かけたとも思えないが……何もない山奥だし、熊がいるらしいし。

「お風呂ですかね。汗かいたから」

「そう思って、お風呂場も覗いたんだけど、いなかったのよね」

「電話してみようかな」と日和がズボンのポケットからスマホを取り出した時、障子の向こうでぱたぱたと足音がして、佳南がニコニコしながら部屋に入ってきた。

「佳南ちゃん。どこ行ってたの。そろそろ夕飯の時間よ」

 日和がお母さんみたいなことを言うと、佳南、「へっへー」といたずらっ子みたいな笑い方をした。

「美香ちゃんと、荷物片付けるお手伝いをしてきたんですー」

 美香ちゃん、とは、あの女子大生の美香のことだろう。どうやら佳南は、美香と一緒に、荷上げの荷物を倉庫に入れたり片付けたりする手伝いをして来たらしい。

「じゃあ、慈海様のところ?」

 とみづきが問うと、佳南は頷いた。

「私と美香ちゃんと、あと寺男の信三さんも一緒でしたけど。……くり?では丹海さんと覚善さんが、ご飯作ってました」

「へえー」

 いつの間に。みづきは感心した。そして、佳南がスマホを手にしているのに気づくと、

「もしかして、慈海様のライン聞けた?」

 と尋ねた。佳南はニヤニヤしている。普通なら気色悪い笑い方だが、佳南がやると可愛い。

「内緒ですう」

「さては聞いたわね」

 慈海もよく教えたものだ。

「いろいろ、聞いちゃいました。意外と、あっさり教えてくれましたよ」

「いろいろ?」

 日和も会話に加わった。

「はい。慈海様、今33歳なんですって。このお寺には、赤ちゃんの時からいるって言ってました」

「赤ちゃんの時から?」

 ここが実家ということだろうか。みづきはお勤めの時に見た、厳格そうな老僧を思い出した。では、やはりあれは父親か。

「でね。今朝、お勤めの時に、怖そうなお爺ちゃん、いたじゃないですか。あの人、ここの住職さんなんですって。慈海様のお父さんですかって聞いたら、あの人はお師匠さんなんだって。それで……」

「佳南ちゃん。あまり、立ち入ったこと伺っちゃだめよ」

 得意げにしゃべり続ける佳南の言葉を遮るように、日和が口を挟んだ。

「小さいときからお寺に預けられるなんて、事情のあるご家庭かもしれないし」

 日和の言葉で、みづきはさっき読んだばかりの寺の開祖、仁海の記事を思い出した。

 幼い頃両親と死別して、寺に……。

 慈海が同じだとは限らないが、あの老僧が父親でないとして、赤ちゃんの時に寺に預けられる、となると、やはりそれなりに事情があってのことだろう。佳南もさすがにそのあたりの事情までは聞いていないようだった。

 みづきは滝で見た慈海の表情を思い出した。

 幼くして両親と離れて……。

 両親とは、会えるような状況なのだろうか。

 慈海は案外、寂しい人生を送ってきたのではないか。

 だからといって、別にどうということではないが。みづきたちは、ただの宿坊のお客。数日泊まって東京に帰る旅人に過ぎない。東京に戻れば、もう慈海と会うこともない。来年また来るとかならともかく、それだけの関係だ。慈海の人生がどうだろうと、それこそ背中に刺青があろうと、みづきたちには関わりのない話だ。元々、住む世界が違うのだ。何となく、気になるというだけで……。

 ふとみづきが掛け時計を見上げると、5時だった。日和もつられて時計を見た。

「そろそろ行きましょうか」

 日和が貴重品を入れたポシェットをかけ、立ち上がったので、みづきと佳南も続いた。



 その夜、みづきは早めに布団に入った。今日はいろいろなことがあり過ぎて、やはり疲れていたらしい。お風呂から戻ると、もう眠くてたまらなかった。それは佳南や日和も同じだったようで、さっさと明かりを消すことにしたのだ。

「じゃ、消しまあす」

 佳南が軽く背伸びをして、「えいっ」と電気の紐を引いた。カシャン、と軽い音がして、部屋が真っ暗になる。皆のゴソゴソやる音が収まると、しんと静まり返った。障子の向こうから虫の声が聞こえる。明日は写経があるんだっけ。みづきはそんなことを考えながら、いつしか眠りに落ちていた。

 どれくらい、眠っただろうか。ふと、目が覚めた。ギシ……と何かが軋む音が聞こえた。

 音のした方を見ると、障子の傍で、何か動くものがある。

 やがて、スッと障子が開いた。外の常夜灯の光でぼんやり照らし出されたのは、佳南の背中だった。

 ああ、トイレ行くんだ、とみづきはぼんやり思ったが、特段変なことでもない。再び目を閉じた。枕元で冷蔵庫のモーター音が聞こえて、何だか気になる。体は疲れているはずなのに、目は妙に冴えてしまった。たぶん、1日いろいろあって頭が情報過多になっているのだろう。こういう時はたいてい、変な夢を見る。みづきは目を閉じたまま何度か寝返りを打った。



 次に目を覚ました時、みづきは自分が回廊に立っていることに気付いた。板張りの廊下。ほのかに浮かび上がる真っ白な障子。常夜灯代わりの灯篭が、奥までずっと灯されている。

 ああ、これは夢だわ、と、みづきは朦朧とした頭で考えた。だって、回廊に出た覚えはないから……。 と、斜め前の障子がスッと開いた。

 出て来たのは佳南だ。寝間着用にしているらしい白っぽいTシャツとハーフパンツ姿で、スリッパも履いていない。

「佳南ちゃん」

 とっさにそう呼びかけても、佳南は気付く様子もない。みづきがすぐ目の前にいるというのに、佳南はどこか気の抜けたような表情で、しばらく廊下に佇んでいた。そしてそのまま右に折れると、ふらふらと回廊の奥へ歩いてゆく。

 どこに行くんだろう。

 トイレなら逆方向だ。みづきは佳南の後をつけた。どこかで、これは夢なのだ、という思いがあったから、特に怖いとは思わなかった。



 佳南は操り人形のようなどこかぎこちない足取りで、ゆっくりと廊下を進んでゆく。時折廊下がきしむギシ、ギシ、という足音が、ほの暗い空間に薄気味悪く響いた。

 みづきは自分の足音で佳南に気付かれやしまいかとヒヤヒヤしたが、佳南は振り返る気配もない。操り人形のようだ、とは思ったが、まるで本当に何かに操られているかのごとく、佳南は淡々と廊下を歩いている。

 やがて、静まり返っていた回廊の奥から、何か得体の知れない音が聞こえ始めたことに、みづきは気づいた。

 重く、低く、だがかすかな抑揚を伴って聞こえる音……いや、声だ。

 それがお経だと分かった時、みづきはゾッとした。お寺だからお経を読むのは普通だが、こんな夜中に……。しかも、朝のお勤めの時に聞いたものとは違い、呪文めいていて、背中に冷たいものが走るのを感じた。

 佳南の後をついてゆくにつれ、謎のお経は少しずつ大きくなってきた。誰が読んでいるのかは知らないが、奥に誰かいる。そして、その人物に、近づいている。それが誰であるにせよ、まともだとは思えない。

「佳南ちゃん、戻ろう」

 前をゆく佳南の背中が白く浮かび上がって見える。みづきはそう呼びかけたつもりだったが、なぜか声がうまく出せなかった。

 ずっと右側に並んでいた障子は途切れ、回廊が終わり、土壁に囲まれた暗い廊下が続く。土壁には小さな明かりが等間隔に取り付けられ、濃いオレンジ色の光をほのかに放っていた。化け物屋敷に紛れ込んだかのような、得体の知れぬ薄気味悪さを感じて、みづきは身震いした。低く、暗く、お経はまるで幽霊の唸り声のように暗い廊下に漂っていた。

 やがて佳南は廊下を左に折れ、突き当りの巨大な木の扉の前で立ち止まった。

 何なの、ここは。みづきは薄暗い空間にじっと目をこらした。

 天井近くまである大きな、古びた重々しい木の扉。すぐ傍(そば)の土壁に明かりがあるので、その異様な様子はみづきの位置からでも何とか確認できた。表面に無数の御札が貼り付けられている。中には朽ちかけて紙がささくれだったように見えるお札もある。その上に、さらに新しいお札が何枚も隙間なく貼り付けられ、ほぼ木の部分がないような状態だった。真黒な閂(かんぬき)が取り付けられていたが、今は外されていた。

 お経は、確実に、この不気味な扉の向こうから聞こえてくる。だが佳南はためらう様子もなく、観音開きの扉を押した。ギギギ……と嫌な音がして、扉はゆっくりと開いた。

 明かりの筋が廊下に伸びた。お経の声が一気に大きくなる。



 みづきは扉の影に隠れて、中の人物からは自分の姿が見えないように注意しながら、そっと部屋の内部を窺った。

 10畳ほどの板張りの部屋。ちゃんと明かりは点いていて、中の様子ははっきりと見える。正面の壁には襖。何だか時代劇っぽい。お城なんかの描写で、襖を開けたら部屋があって、また襖……という感じだ。

 佳南は襖の前に立ち止まり、何をするでもなくじっと突っ立っている。その体が、天井から糸でつられているかのように、時折ふわふわと揺れていた。お経は変わらず続いているが、ふと、みづきは覚えのあるにおいを感じた。あの、白檀のにおい。

 慈海だ。慈海のにおいだ。 慈海が、この部屋にいる?

 と、お経がぴたりと止んだ。スッと衣ずれの音が響いて、扉の向こうのちょうどみづきからは見えない部分で、ギシギシと足音らしきものが聞こえた。 

 扉の向こうから、慈海が、ゆっくりと姿を現した。

 その横顔は無表情で、白く冷たく、初めて会った時に感じた恐ろしさをみづきは思い出した。

 慈海はすぐ近くにいる佳南に話しかけるふうでもなく、無言で襖を左右に開いた。襖の向こうに何か、黒々とした大きなものが置かれているのが見える。

 何だろう、あれ。石?

 最初は、巨大な岩かと思った。黒くて、所々黄色っぽくて、苔むした汚い岩かと思ったのだ。だがその岩はギギ、ギギ、と何かを引っかくような不気味な音を立てている。

 やがて、岩の前方がいきなり盛り上がった。岩の中央付近で、琥珀色に光るボールのようなものが現れた。

 岩が、生きている?

 やがて、それの正体を知ったとき、みづきは全身に冷や水を浴びせかけられたかのように凍り付いた。

 蜘蛛だ。

 恐ろしく巨大な、女郎蜘蛛。

 琥珀色に輝くボールのようなものは、開かれた蜘蛛の目だった。足ががくがくと震えて、みづきは扉に沿うようにへたり込んだ。

「か……佳南ちゃん……」

 逃げて、と言おうとしたが、口元がわなわなするばかりで、声が出ない。

 慈海はまっすぐ背筋を伸ばし、佳南の傍(そば)に座っている。目の前に得体の知れない化け物がいるというのに、全く動じる様子もない。

 再び、お経が始まった。読んでいるのは、慈海だ。お勤めの時の透き通った美しい声ではなく、慈海の見た目にはおおよそ不釣り合いな重く、低い声。女郎蜘蛛の琥珀色の目と目の間が、細く光った。見る間に、それが大きくなってゆき、やがて球体となった。第三の目、とも呼ぶべき巨大な目が、不気味な光を放った。その目の光と呼応するかのように、佳南がゆっくりと蜘蛛のいる部屋に入ってゆく。

「佳南ちゃん、駄目よ!行っては駄目!」

 みづきはそう叫んだつもりだった。もはや慈海に見つかろうと構わない。佳南を止めなくては。

 だが自分でも悲しいくらい、声が出ない。もれるのはかすかな吐息ばかりだ。

 やがて蜘蛛は真っ白な糸を吐き出し、佳南を包み込んだ。蜘蛛は目の下の巨大な、口と思われる穴に、真っ白な繭のようになった佳南を引きずりこんでいった。声にならない声で、みづきは悲鳴を上げた。

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