絲の檻(いとのおり)

蓮水凛子

第1話

「あ、良かった。コンビニあった!」

 橋野佳南(はしの かな)が明るい声を上げた。

 プレハブのような造りの駅の改札を出ると、目の前には田舎によくある、コンビニともスーパーともつかぬ小さな店がぽつりと営業していた。

「あたし、お茶、買ってきてもいいですかあ?」

 熊のマスコットのついたピンクのスーツケースを引きずりながら、佳南はリュックのポケットからタオルを取り出し汗を拭った。汗でマスカラが落ちたのか、目の下が少し黒ずんでいる。

「いいよ、行っといで」

 バスの時刻をチェックしながら、乙部日和(おとべ ひより)が答える。

「次のバスまで、時間あるからさ」

 コンビニに走って行く佳南の背中を見送って、今河(いまがわ)みづきは日和の隣に立って時刻表を覗き込んだ。日和の言う通り、次のバスまではまだ1時間近くある。平日昼間の時間帯は特にバスが少ないようで、1時間後に来るだけでもラッキーと思える状況だった。

 それにしても暑い。みづきはリュックからペットボトルを取り出し、温(ぬる)くなってしまったミネラルウォーターを飲んだ。この炎天下、あと1時間も待つのかと思うとぞっとした。といって、駅前にはバス停と佳南がさっき走って行ったコンビニがあるっきり。後は田畑と、まばらに家が点在するだけだ。山がすぐ目の前まで迫って見えた。

「あたしたちも涼みに行こうか」

 日和はメモ代わりに時刻表を写メに収め、みづきを振り向いた。化粧気のない日和の顔は点々と汗が吹き出し、目元や口元の皺が余計に強調されて見えた。白髪交じりの髪が帽子からはみ出て、こめかみや額に貼りついている。

「そうですね」

 2人は佳南の後を追ってコンビニに向かった。



 自動ドアが開くと、中の冷気が心地よい。コンビニ、とは言うが、全国的に名の知れたチェーン店ではなく、入ってすぐの棚にはナスやキュウリなどが生産者の顔写真とともに並べられている。地元で採れた野菜なのだろう。コンビニとスーパーの中間のような感じで、規模のわりに品揃えは良かった。

「あ、みづき先輩。日和さあん」

佳南がカゴをぶら下げて化粧品コーナーに立っていた。何やら熱心に選んでいるが、2人が入ってくるのを見るとニコニコと手を振った。

 日和はちょっとお菓子を見てくる、と言って奥へ入っていった。みづきは特に買う予定のものもなかったから、何となく佳南につられて化粧品の棚を覗いた。

「そうだ、虫よけ」

化粧品コーナーのすぐ隣は薬関係のコーナーになっていて、絆創膏や綿棒、そして季節がらか虫関係の品が並んでいた。これから目指す宿坊はかなり山奥だというし、持っていると安心だろう。みづきは携帯サイズの虫よけスプレーを手に取った。

他に必要なものは……と思ったが、これ以上荷物を増やしても、と思い直した。元々心配性なのだ。泊りがけの旅行となると、あれもこれもバッグに詰め込んでしまい、たいてい他のメンバーに呆れられる。今回だって、みづきのキャリーケースは日和の1.5倍くらいはある。

 佳南のピンクの巨大なキャリーケースに何が入っているか気になるところではあるが……。

 と、自動ドアの開く音がして、大きなリュックサックを背負ったカップルが入ってきた。出で立ちからして、登山客だろう。男女とも、20代後半か。みづきと同じくらいに見える。 2人は商品をあれこれ指さしながら、何やら楽しそうに盛り上がっている。

 みづきは思わず2人から目をそらした。男の方が、先月別れたばかりの元カレ、雅也(まさや)に似ていたからだ。いわゆるイケメンタイプで、甘い感じのする笑顔。……今思えばそれはいかにも薄っぺらで作り物めいていた気もするが、付き合っていた当時は彼に夢中だった。結婚だって……。

 来年30歳になるみづきにとって、そこは切実な問題だった。学生時代の友人たちは次々結婚していく。実家の両親からは、いい加減田舎に戻って見合い結婚をしろと事あるごとにせっつかれる。

 雅也と出会って、自分は何とか滑り込みセーフ。そこそこうまくやれたと思っていたのに……。

「みづき先輩?」

 佳南の甲高い声が、みづきを現実に引き戻した。

「どうしたんですかあ?」

 佳南が心配そうにみづきの顔を見上げる。まっすぐ切りそろえられた茶色い前髪の下に、綺麗に引いた眉と、マスカラをたっぷり使った愛らしい子猫のような目。グロスで光る唇からこぼれる、甘ったるく伸ばした語尾に、みづきは一瞬イラッとしたが、そんなことはおくびにも出さず、笑顔を返した。

「別に。他に必要なものなかったかなって考えてただけ」

「あー、分かります分かります!旅行の時って、後からあれ持って来てないとか気付きますもんね。あたしもいろいろ買っちゃいました。」

 佳南はそう言って軽快な足取りでレジへと歩いて行った。店備え付けの小さなカゴはお茶やお菓子、化粧品らしきものでいっぱいになっていた。

「佳南ちゃん、みづきちゃん、終わった?そろそろ行くわよ」

 棚の向こうから、日和の声が聞こえた。

「あ、はい」

 みづきは虫よけスプレーを持ったまま、佳南の後を追ってレジへと向かった。


 コンビニを出ると、刺すような日差しで視界が真っ白になる。せっかく冷房でいい感じに冷やされた体が、たちまち火照ってゆく。

 バスまではまだ少し間があったので、3人は駅の影に入って待つことにした。他にも数人、バス待ちと思われる人々がいて、先ほどコンビニで見かけたあのカップルも混じっている。他には夫婦と思われる登山客と、大学生くらいかな、という女の子3人組。彼女らは登山の装いはしていないから、同じ宿坊を目指すのかもしれない、とみづきは思った。

「あ、バス来たみたいよ」

 女子大生グループの一人が言った。つられて皆、彼女が指さす方を見る。ゆらめく陽炎から立ち現れるかのように、小さなバスがゆっくりと近づいてくる。車体はすすけて、かなり古そうだ。大きなエンジン音を響かせながら、バスは駅前を半周してバス停に停まった。行先には「雲居山(くもいやま)登山口」と書かれている。雲居山はこれから向かうお寺がある山の名前だ。

「お待たせいたしました。雲居山登山口行です」

 運転手のアナウンスとともに、後ろのドアが開く。人々は待ちかねたようにぞろぞろと乗り込んだ。

「整理券を、お取りください」

 エンジンの振動で小刻みに震えているバスのステップを上がると、見計らったかのように、機械的な女の声が流れた。



 窓の外を、静かな山間の風景が流れてゆく。大きなカーブを通過するたび、家や田畑は少しずつ減ってきて、やがて完全な山道になった。

 折り重なった山々。ガードレールもない曲がりくねった雑木林の道を、バスはひたすら上ってゆく。舗装はされていたが落石でもあるのか、時折激しく車体が揺れる。

 前の席では日和と佳南が楽しそうに話し込んでいる。佳南が最近友達と行ったという、おいしいパンケーキの店についておおげさな身振りで語っていて、日和がこれまたおおげさな身振りで相槌を打つ。賑やかな話に加わる気にもなれなくて、みづきは窓ガラスにもたれかかった。

 バスに乗り込む前はあれほどカンカン照りだったのに、山を登ってゆくにつれ、白い霧が立ち始めた。霧は次第に灰色に変わり、細かな水滴が窓ガラスに浮かんだ。山の天気は変わりやすいと言うが、雨が降るのかもしれない。青々と入道雲を浮かべていた空は、いつの間にか陰鬱な灰白色の雲に塗りつぶされていた。ガラスに顔を近づけると、ねっとりとした湿気を感じた。

 やっぱり、来るんじゃなかった……。

 誘ってくれた日和には申し訳ないが、みづきはこれから山の上で過ごす数日がたまらなく嫌なものに思えて、今すぐにでも帰りたくなった。だが帰って独り暮らしのアパートにこもったところで、より一層惨めになることも分かり切っていた。



 山奥のお寺での、修行体験。宿坊に泊まって、3泊4日で精進料理や修行僧の生活を体験……といっても座禅や写経など観光客向けのマイルドな内容らしいが……。今回の旅行に誘ってきたのは、乙部日和だった。

 日和とみづき、そして今、前の席で日和と盛り上がっている橋野佳南は、ともに都内にある清掃関連の会社に勤務している仲間だった。イベントや施設などに清掃員を派遣する事業を行っている小さな会社で、20名ほどの社員の他に大勢のパート清掃員を雇っている。日和はその中でも最古参のパートで、先代社長の頃から20年程勤めているらしかった。年齢は55歳。一昨年、ガンで長年闘病生活を送っていた夫を亡くし、2人の息子は20代で、既に独立し家を離れている。夫を亡くし一人暮らしになってからは、旅行……特に寺社仏閣などパワースポット巡りにハマっているらしく、よく会社の皆にお土産を買ってきてくれた。見た目はどこにでもいるぽっちゃりした普通のおばさんだが、ベテランの仕事ぶりと面倒見の良い性格で、会社では頼りにされる存在だった。

 みづきたちの会社では、パート清掃員はいったん朝、オフィスに出勤し、その日の作業割り当てを確認して、各自の現場へ散ってゆく。清掃作業が終われば、またオフィスに戻ってきて、日誌やタイムカードを記録して退社する。そんな感じで朝と夕方、必ずオフィスに顔を出すから、日和もみづきや佳南のような事務員と自然に話す機会があり、毎日他愛もない話をするうち親しくなった。年齢は親子ほども離れているが、いや、離れているからこそ、みづきにとっては何事も気兼ねなく打ち明けられる存在だった。実家の母親があまり話を聞いてくれるタイプではなかったから、余計にそう思うのかもしれなかった。

「……ですよねえ、みづき先輩!」

 突然、佳南がくるりと後ろを振り向いて大きな声を出したから、みづきは危うく飛び上がるところだった。

「え?あ、ああごめん。ちゃんと聞いてなかった」

 佳南は子供のようにぷうっと頬を膨らませる。

「もうっ。日和さんもみづき先輩も。宿坊に、かっこいいお坊さんいたら嬉しいなって言ったんです!」

「はあ?かっこいいお坊さん?佳南ちゃん、お坊さんとか好みなの?」

「好みっていうかあ、素敵じゃないですかあ。ストイックな感じで」

 両手を組み、うっとりと斜め上を見上げ、佳南は少女漫画の主人公のように瞳をキラキラさせている。

「佳南ちゃんは若いわねえ」

 日和が苦笑する。半ば呆れている様子だが、口調は優しい。

「お坊さんって、確か女人禁制なんでしょ?さすがにヤバいでしょ、ってか、エロ坊主じゃん、それ。佳南ちゃん、そんなんでいいの?」

 みづきは日和と違って、オブラートに包むのが苦手だから、ついつい呆れた気持ちが言葉に出てしまう。

「でも、みづき先輩。何ていうか、そういう禁断の関係って、素敵じゃないですか?」

「……そうかなあ」

 ちっとも素敵とは思えなかった。とはいえ反論する気にもなれない。まだ、白馬の王子様を夢見ていられる……悩みなど欠片もなさそうな佳南が心底うらやましいと思っただけだ。

 橋野佳南はみづきの4年後輩にあたる。短大卒での入社だから、まだ23歳だ。都内の実家で、両親、弟と暮らしている。小柄で色白で、愛らしいお人形のような顔だちをしていて、男性社員の受けは抜群だった。みづきが新卒で入ったとき、2年上に先輩がいたが辞めてしまい、その後は佳南が入社するまで新卒採用がなかったから、事務員の中では佳南がいちばん年齢が近かった。みづきとしては、佳南の23歳という年齢を考えても子供っぽいしゃべり方や仕事のミスの多さなど、いろいろ思うところはあったが、それでも毎日一緒に過ごすうち、まあそれはそれで可愛いか、と思えるようになった。多少は、だが。

「そうですよお。みづき先輩も、リベンジですよ。リベンジ」

 ファイト!と両手の拳を握るポーズをして見せる佳南。

 先月、みづきが雅也と別れたことは、佳南も知っている。悪気はないのだ。本気でみづきを励ましてくれているつもりなのだ。おそらく・・・。けれど、こういう空気を読めない、というか、もっと悪く言えば無神経というか。そういう部分に、時折イラッとさせられる。当人は人を傷つけているという認識がないから、仮に指摘したとしてもキョトンとされるだけだろうが。

「こらこら佳南ちゃん。ダメよ、そういう煩悩は。あたしたちは修行に行くんだからね」

 日和が明るく笑いながら言った。

「はあい」

 分かっているのかいないのか、佳南が甘えたような声で頷く。日和がリュックからタブレットを取り出して、今向かっている宿坊のホームページを佳南に見せ始めた。

「精進料理って、美味しそう!」

 佳南が歓声を上げる。佳南のはしゃいだ様子を後目に、みづきは再び車窓に目を移した。

 バスはスピードを上げ、山道をひた走る。途中何か所かの停留所が見えたが、誰も乗り降りする人はいない様子で、バスはそのまま通過した。過疎化が進んでいるのか、廃屋めいた家が目立つ。

 外はすっかり灰色に染まり、タタタ、タタタ、と細かな雨粒が窓ガラスを叩いた。やがてバスは右に大きくカーブし、開けた場所に入ってきて停車した。



 バスを降りると、広々とした駐車場だった。とはいえ舗装はかなり剥げていて、割れたアスファルトの隙間から雑草が生え、駐車スペースの白いラインもガタガタになっていた。「雲居山登山口」と書かれたバス停と、ベンチが2つ。その向こうは売店とレストランになっていて、窓ガラス越しに蛍光灯が灯っているのが見えた。奥には山小屋らしき大きな建物があり、ロープウェイが通っているのか、霧に紛れ込むように細いワイヤーが山頂に向かって伸びていた。周囲は霧に包まれ、何もかもが茫漠と白かった。雨とも霧の一部とも分からぬ細かな水滴が髪や体に蜘蛛の糸のようにまとわりつく。

 バスの運転手の説明によると、車が入れるのはここまでで、ここから先、山の中腹にある寺院までは徒歩で行くしかないとのこと。

 運転手が指さした先には「絲雲寺(しうんじ)」と書かれた古びた木の札が立っていた。未舗装の道が頼りなく曲がりくねりながら山の中へ続いていた。登山口は反対側だが、この天候のせいか人影はほとんど見当たらない。バスで一緒だったあの夫婦やカップルの登山客も状況を見て迷っている様子で、カップルは山小屋の方へ向かい、夫婦はバスの運転手に何やら話しかけている。女子大生グループは食事を済ますことにしたのか、レストランの看板を覗き込み、そのまま中へ入っていった。

「私たちもお昼、済ませちゃいますか」

 もう2時を過ぎているから、昼というには遅かったが、空腹のまま山を登る気持ちにはなれなかった。みづきはレストランを指さした。

「そうね」

 日和も頷く。

「はあー、良かったー。あたし、お腹ペコペコでしたもん」

 佳南は大げさにお腹をさすって見せた。



 レストランで簡単な食事を済ませ、3人は絲雲寺へ向かう山道を登り始めた。一本道で、時折看板が出ているから、迷う心配はない。とはいえ道は未舗装でボコボコしていて、ひどく歩きづらい。お寺の人たちは普段の買い物とか、どうしているのかしら、と他人事ながらみづきは心配になった。

 周囲にはみづきたち以外、人の気配は全くない。女子大生グループは先にレストランを出て行ったから、もう着いた頃だろうか。カーブを曲がると集落らしい家々が現れたが、どの家もいつまで人が住んでいたのかも分からないくらい、朽ち果て、崩れかけていた。どうやら廃村らしい。荒れ果てた墓地らしき場所が、灰色の霧と樹々の間に見え隠れして、みづきはゾッとした。

 標高が上がったからか、天候のせいか、体が急激に冷えてくる。やがて行く手に、「絲雲寺」と刻まれた巨大な石碑が現れた。古色蒼然とした門のような入口があり、奥には石造りの階段がずっと上まで続いている。ここから、目指す寺院の敷地ということなのだろう。ひび割れ、黒ずんですり減った石段は、今まで無数の人々に踏み固められてきた歴史を物語っている。

「この上ね」

 日和が石段を見上げる。日和に続いて、みづきも山門をくぐった。

 刹那、背筋に冷たいものが走るのを感じた。先ほどから寒さを感じてはいたのだが、それとはまた別の感覚だった。

 山門から一歩中に入った途端。境界を越えた感じ、とでも言おうか。

 空気が、変わった……。

 そうとしか言いようのない違和感を覚えたのだ。

 みづきはそれほど迷信深い方ではない。日和はパワースポットとか、スピリチュアルとか、かなりこだわっている方だが、みづきはそういう事に特に関心を持っていない。雅也との関係に悩んでいた時も、恋占いすら頼ったことはなかった。それだけに、今一瞬感じた違和感が気になった。

 何だろう。何だか怖い。

 宿坊など初体験だから、緊張しているだけかもしれないが……。

 みづきは石段をゆっくり踏みしめながら、違和感の正体を探ろうとした。何が、怖いのか。何が……。

「いやーん、虫、虫怖あい」

みづきの思考は佳南の甲高い声でかき消された。

「どうしたの、佳南ちゃん」

「変な虫がいたんです」

 虫が苦手だという佳南は半べそ状態だ。

「みづき先輩、虫よけ貸してくださいー」

「持って来てないの?」

「朝慌てて用意したから、いろいろ忘れちゃってて」

 旅行の用意なんて、当日の朝急いでするもんでもないだろう、とみづきは呆れたが、佳南のおかげで奇妙な違和感はすっかり薄らぎ、ホッとした部分もあった。

「ほら。使いな」

 みづきはジーンズのポケットから、麓のコンビニで買った虫よけスプレーを取り出して佳南に手渡した。佳南は首や腕、そしてショートパンツから伸びた細い足にも、つま先まで念入りにスプレーしている。その動きにつられ、ふと、佳南の足元を見たみづきはさらに呆れた。

「佳南ちゃん……。山歩きにその靴はないんじゃない?」

 佳南の足元は、ヒールこそないものの、山歩きにおおよそふさわしくない白のラインストーンの付いたサンダル。大体、服装にしたところで、白レースの胸元が大きく開いたカットソーにかなりミニのショートパンツ。素足にサンダル。一つに束ねた髪には、ピンクの花を象った髪留め。別に必ずTシャツジーンズスニーカーでなければいけない、というわけではないが、一応行先はお寺なのだし、修行体験なのだし、限度というものがあるだろう。

「だって、服に合うのがこれしかなくて……。足が痛くてもう限界ですう……」

「ちょっと、休もうか。佳南ちゃん足痛めるとあれだし」

 背後の会話を聞いていたらしく、日和が立ち止まって2人を振り返った。

「事前にスニーカーでって言っとけば良かったわね。」

 そう言う日和は全く疲れた様子も見えない。石段に腰を下ろし、タオルで汗を拭うと、リュックから飴を取り出してみづきと佳南に手渡した。

「ほら、疲れた時は甘いものよ」

「ありがとうございます」

 みづきは包みを解いて、オレンジ色の飴を口に入れた。

 飴をなめながら石段に座っていると、強い土のにおいを感じた。霧は相変わらずで、時折湿った風が顔に当たる。みづきはリュックから薄いカーディガンを取り出し、Tシャツの上に羽織った。どこかで虫が鳴いている。麓で大合唱していた蝉の声は、ここでは全く聞こえてこない。山の上はもう秋が始まっているのかもしれない。と、虫の声に混じって、遠くからかすかに聞こえてきた音があった。低く、重く、灰色の雲が唸りを上げている。

「雷ね。まだ遠いけど」

 日和も気付いたらしく、じっと遠い空を見つめた。

「行きましょうか。夕立が来るかもしれないわ」

 大雨が降り出す前に、お寺に着いた方がいい。そう日和に促され、みづきも急いで立ち上がった。

「ほら、佳南ちゃん。立てる?雨、降るかもだって。」

 佳南はまだ足が痛いのだろう。アヒルのように口元を尖らせ、泣きそうな顔でみづきを見上げた。

「頑張りますう……」




 石段を登り切ると、巨大な瓦を戴いた山門が聳えていた。門柱には「絲雲寺」と大書された木の板が掲げられている。門は開け放たれ、そこに一人の僧侶が佇んでいた。

 その僧侶の姿を見つけた途端、みづきは思わず後ずさりしかけた。

 すごい、綺麗なお坊さんがいる。

 僧侶は、この世の者とは思えないほど美しかった。とはいえ、いわゆるイケメンタイプではない。本当に、「美しい」としか表現しようのない顔だちだった。白くつるりとした、面長の輪郭。漆黒の張りのある双眸。すっと通った鼻筋。鋭利な薄い唇。柔らかな襞を描く黒の法衣と暗い黄色の袈裟(けさ)に包まれた僧形が、その姿を一層清楚に際立たせている。背は、かなり高く、175センチはあると思われた。肩幅が広くどちらかというと体格も良いほうだが、身長があるのでマッチョには見えない。背筋がしっかりと伸び、立ち姿も美しい。

 とはいえ、みづきは彼に心惹かれたわけではなかった。むしろ、恐怖と、いくらかの嫌悪感すら覚えた。綺麗すぎて、何だか怖い。まるで精巧に作られた生き人形だ。完璧過ぎるのだ。それゆえ、感情が見えない。何を考えているかよくわからない……。

 そんなみづきの心中など知るはずもなく、僧侶はみづきたちを認めるとすっと一礼した。

「ようこそお越しくださいました。私(わたくし)は絲雲寺副住職、為永慈海(ためなが じかい)と申します。」

 読経で鍛えているからか、僧侶は良く通る張りのある声をしている。声もまた、美しかった。

「乙部日和と申します。宜しくお願いします」

「……今河みづきです」

「橋野佳南です」

 日和は一瞬たじろいだ風だったが、その後は特に緊張した様子もなく普通に挨拶を返した。みづきもどうにか平静を装う。慈海はみづきの動揺になど気付く様子もなく頷き、

「お部屋へご案内致します」

 と踵(きびす)を返した。

 衣(ころも)の裾から覗く、白足袋に包まれた足首はキュッと細くて、ぞっとするような色香を感じた。袖から出た手指は真っ白で、細長くて、絡みついてきそうだ。先ほどからみづきが後ろ姿をじろじろ見ているのを感じたのか、慈海がちらりとこちらを振り返る様子を見せた。みづきは慌てて慈海から目をそらした。

「どうぞ、こちらへ」

 慈海の後ろについて、みづきたちは歩き始めた。砂利を踏みしめる足音が響く。修行の成果なのか、動きも美しく無駄がない。彼が動くたび、心地よい衣ずれの音と、お香のようなにおいを感じた。




 本堂らしい建物の脇を抜け、「客殿」という札のかかった建物の奥へ進むと、2階へ上がる階段があった。

 2階は長い回廊のようになっていて、手前側は僧侶たちが暮らす「僧坊」と呼ばれる部屋、奥が来客用の部屋になっていると、慈海は説明した。 回廊は灯篭のような形の照明が等間隔につりさげられ、薄暗い。左側は古びて黒ずんだの手すりで、霧に包まれた雑木林が見え、はるか彼方まで山並みが連なっている。右側に並んだ障子からは、明かりが漏れていて、人がいる気配があった。

 低く、遠雷が唸り続けている。回廊は突き当りで二手に分かれている。慈海はそこを右に折れ、さらに奥へ進んだ。並んだ障子のうちの一つを静かに開け、みづきたちを促した。

「こちらが、皆さまがたのお部屋です。夕餉まではしばらく時間がございますので、どうぞお寛ぎください」

 一通り、風呂場や手洗いなどの場所の説明をした後、

「お風呂は沸いておりますので、ご随意に」

 と言い残して、丁寧に一礼し、慈海は去って行った。

 タン、と障子を閉め切る音に続き、さらさらという足音が遠ざかってゆく。3人だけになると、みづきはホッして、ようやくリュックをおろし座布団に座った。ああ、肩に力が入っていたんだ、とはっきり分かるくらい、一気に力が抜けた。 部屋には、慈海の残り香が・・・白檀に似たお香のにおいがかすかに漂っていた。

「すっごい、綺麗なお坊さん。なんか怖い」

 思わず本音が漏れる。

「そうね。綺麗すぎて怖いかな。明日からの修行も、あの人に習うのかしら。何だか緊張するわね」

 日和もみづきと同じような感想を抱いたようだ。とはいえそこは年長者。さほど気にしている様子もない。

 そういえば、佳南はかっこいいお坊さんがどうこう言っていたけれど・・・と、みづきは佳南を振り返った。

「さすがにあれ、佳南ちゃんの守備範囲外かな……佳南ちゃん?」

 みづきが声をかけても、佳南は返事をしない。ぼうっと、部屋の一点を見つめている。

「慈海様、素敵……」

 漫画ではないが、佳南の両目が完全にハートマークになっていた。少なくとも、みづきにはそう感じられた。

「あーあ、春が来ちゃったよ、この子は」

 日和が笑った。みづきは呆れてものも言えなかった。

 どんだけ惚れっぽいのよ、あんた。てか、誰でもいいのか?そう、言いたいのをすんでのところで飲みこんだ。気軽に好いた惚れたと言える佳南が正直、うらやましくもあった。私はもう、男なんて信じられない……。

 忘れたいのに。忘れたいのに。私は本気で、雅也を愛していたのに……。




 一通り、荷物を整理すると、みづきたちは夕食前にお風呂を使うことにした。先ほどの慈海の説明によると、天然の湧水を利用したお風呂があるらしかった。霧雨で何となく体が湿っぽいし、美味しい料理を食べる前にすっきりしておきたかった。だが、日和とみづきが支度を整えても、佳南はまだキャリーケースの中をごそごそ探っている。

「佳南ちゃん、大丈夫?」

 日和が声をかける。

「すみません。保湿クリームが見つからなくってえ。お2人、先に行っててください」

「そお?じゃ、先に行ってるわね。行きましょ、みづきちゃん」




 みづきと日和が脱衣所で着替えていると、バタバタと足音が聞こえ、佳南が半べそで飛び込んできた。

「みづき先輩、日和さあん……」

「どうしたの、佳南ちゃん?」

 日和が尋ねると、佳南は目をうるうるさせながら

「部屋に、おっきい蜘蛛がいたんですう……」

 と言った。

「もう怖くて、走って逃げて来ちゃいました」

「そりゃ、蜘蛛くらいいるよ。山の中だもん」

 みづきが呆れて言うと、日和があはは、と豪快に笑った。

「可愛いわねえ、佳南ちゃんは」

「だって、本当に、すっごく大きかったんですよ。このくらい、大きかったんですから」

 佳南は両手の親指と人差し指で、直径10センチくらいの円を作った。

「アシダカグモかもしれないわね」

 日和が脱いだ服を綺麗にたたみながら言った。

「アシダカグモ?」

「うちのね、死んだ旦那の実家が田舎でね。よく天井に貼りついてたもんよ」

「えええ……怖あい」

「見た目は怖いけど、アシダカグモはゴキブリを食べてくれる益虫だから、殺しちゃダメなのよ、佳南ちゃん」

 ゴキブリ、と聞いて、佳南はますます怯えた表情になった。

「ここ、ゴキブリ、いるんですか?」

「古そうなお寺だから、いるかもしれないわね」

 日和がしたり顔で頷く。

「ええ、嫌ですよお……」

「チャンスよ、佳南ちゃん。もしゴキブリが出たら、慈海様にキャー、怖あい!ってやってみるとか。女子らしさをアピールするといいかもよ」

 日和が慈海の名を出すと、佳南の顔がぱっと輝いた。泣いたり喜んだり、感情が豊かだ、とみづきは感心した。

「それにしてもさ」

 と日和がみづきに言う。

「もしゴキブリが出たら、慈海様はどうなさるんだろうね」

「え?」

 首をかしげるみづきに、日和は続けた。

「坊さんって、殺生禁止でしょ。」

「ああ……そういえば、そうですね」

 不殺生戒(ふせっしょうかい)か。あの美僧がゴキブリ退治をするところが、みづきには想像できない。というか、彼がそういう人間らしい行動をするところが想像できない。お風呂とか、トイレとか、……いやまさか。美しいというだけで、慈海だって普通の人間だ。お風呂も入るし、トイレにも行くし、ご飯だって食べるはずだ。妖怪じゃあるまいし。みづきは自分の変な妄想に苦笑した。

「まあでも、いくら美形ったって、つまるところ田舎の坊さんだからね。案外平気で、新聞紙丸めてぶっ叩いたりして」

 日和が言った。

「ええ……慈海様は殺生なんてしませんよお、きっと」

 あくまで慈海の味方をしたいらしい佳南が、不満そうに唇を尖らせ、大きな目で日和を睨む。

「……じゃあ、逃がす?手づかみでポイ?」

「それは嫌かも……不潔だし」

「あはは。明日、聞いてみたら?慈海様に。ゴキブリ出たらどうしますか?って……」

「嫌ですよお。アホだと思われます」

 脱衣所に日和の笑い声が響いた。




 夕食の時間になったので、階段を下りて客殿へ向かう。障子を開けたとたん、みづきたちは賑やかな笑い声に包まれた。バスで一緒だった女子大生3人組が既に来ていて、先に並んで食事を始めていたのだ。みづきたちが入ってくるのを認めると、軽く会釈をしてくれたが、その後は自分たちのおしゃべりに興じている。

「てかさ。ヤバくない?あの坊さん。マジ綺麗すぎるんだけど」

「美香(みか)、ああいうのタイプじゃん。行っちゃいなよ」

「無理無理。そんな勇気ないって。てかそれって、煩悩じゃん。明日座禅でぶっ叩かれんじゃん」

「美坊主にぶっ叩かれてー」

「ドMかよ」

「あはははは」

 話題はあの慈海のことらしい。佳南に限らず、年頃の若い娘の考えることはみんな同じか、とみづきは思った。恋をたくさんしても、まだ切実ではないのだ。

 3人が席に着くと、見計らったかのように、入口の障子が開いた。慈海が入って来るかと、みづきは思わず身構えたが、入って来たのは作務衣(さむえ)姿の初老の男性と、同じく作務衣姿の修行僧らしき2人の若者だった。1人1つずつ、朱塗りの膳を捧げ持っている。3人は無言で、膳をみづきたちの前に並べ、一礼して去って行った。タン、と障子を閉める音が響いて、みづきはホッと肩を落とした。

 改めて目の前を見ると、つややかな朱塗りの膳の上には同じく朱塗りの碗や小皿が並べられ、お粥や漬物、和え物のようなものが彩りよく盛り付けられている。

「わあ、綺麗」

 佳南が歓声を上げ、早速リュックからスマホを取り出して写真を撮っている。それを横目で眺めつつ、みづきは碗の蓋を取った。昆布だしのような芳醇な香(かおり)がぷんと立ち上る。湯気の中にオクラや豆腐、わかめが浮かんでいた。精進料理を食べるのは初めてで、最初は肉や魚がないと味気ないだろうな、と期待していなかったが、実際口にしてみるとなかなかのものだった。特にゆず豆腐やごま豆腐といった豆腐料理は絶品で、これなら毎日食べても飽きないかも、と思った。量は決して十分とは言えなかったが、健康には良いだろう。雅也と別れてからはついつい料理もさぼりがちで、コンビニ弁当やスーパーの脂っこいお惣菜ばかり食べていたから、いいデトックスになりそうだった。食欲ないなあ、などとと思っていたわりに、みづきはしっかりと器を空にしていた。




 食事が済んで部屋に戻ると、特にすることもない。部屋にはテレビすらないのだ。明日は5時から朝のお勤めらしい。その後は座禅と、午後からは天気が良ければ滝行もあるようだが、この雨模様だと微妙だな、とみづきは思った。

「さっさと寝ましょうか」

 日和が押し入れを開けた。中には3人分の布団が綺麗に重ねられている。荷物とテーブルを部屋の隅に押しやり、スマホをいじっていた佳南を無理やり立たせて、みづきと日和は3人分の布団を並べて敷いた。佳南はどうやら誰かにラインを送っている様子だが、「明日早いんだから」と日和に促され、しぶしぶ布団に入った。けれど布団に入っても、まだラインが途中だったらしく、しきりとスマホで文字を打っている。

「佳南ちゃん。ラインなんて明日にしなさいよ。明日、起きれなくなっちゃうよ」

 みづきが言うと、

「ああん。後ちょっと。これ送ったら終わりますからあ。」

 と、佳南が甘えた声を出す。

「もう、仕方ないなー。」

 みづきは肩をすくめ、電気の紐に伸ばした手を引っ込めた。佳南はようやっとラインを送り終わったらしく、スマホを充電器に差し込みながら、

「慈海様とライン交換とかしたいなー」

 と呟いた。

「はあ?」

 みづきは耳を疑った。本気であの美僧にアタックするつもりなのか。

「やめときな、胡散臭いから」

 思わず本音がもれる。言って、しまった、と思ったが、いったん出てしまった言葉は取り消せない。案の定、佳南は不機嫌になったようで、子供のようにぷうっと頬を膨らませた。

「胡散臭いってどういうことですかあ」

「あたし、基本イケメンは信用しないの」

 茶化したつもりだったが、逆効果で、佳南の顔がますます険悪になる。

「それって。単に宮下(みやした)さんのこと言ってるだけじゃないですか。慈海様関係ないし」

 宮下さん、というのはみづきの元カレ、雅也のことだ。みづきたちの会社に出入りしているOA機器メーカーの営業社員だから、佳南も面識はある。みづきと雅也が付き合い始める前、佳南が雅也を割と好みのタイプだと言っていたのを、みづきは聞いたことがあった。イケメンは信用できない。確かに、一瞬雅也を意識した言葉ではあったが、それ以上に会ったばかりのよく知りもしない男……ましてやあの謎めいた美僧に平気で関わろうとする佳南が、火中の栗を拾う子供みたいで見ていられないと思ったのだ。

「とにかく、危なっかしいからやめときな。大体、お坊さんがラインなんてやってるの?」

「そりゃ、今時、お坊さんだってラインくらいしますよ。スマホくらい持ってるだろうし。みづき先輩、偏見強すぎですよ」

「まあまあ2人とも。寝る間際に喧嘩しないの。いいじゃない、ラインくらい。大体みづきちゃん。今日会ったばっかりで、胡散臭いかどうかなんて、分からないでしょ。いくら何でも、慈海様に失礼よ。」

 日和が見かねたらしく、少し強い口調で言った。

「すみません」

 さすがにみづきも言い過ぎたと思った。沈黙の後に訪れた気まずい空気を振り払うかのように、日和が明るい口調で言った。

「さ、とにかく今日は長旅で疲れたわ。もう寝ましょう。消すわよ」

 日和が天井から下がる紐を引くと、カシャン、という音とともに、部屋が真っ暗になった。しばらくガサゴソと音が聞こえ、やがてしんと静まり返る。

 みづきは布団を顎まで引き上げて、じっと暗闇を見つめた。

 1人じっと横になっていると、今更ながらひどい自己嫌悪に襲われた。日和の言う通り、胡散臭いは確かに失礼だ。別に、慈海に何をされたわけでもない。出迎えてくれて、部屋まで案内してくれて、説明だってとっても丁寧だった。顔が綺麗だから、人形めいて冷たく見えるからといって、それは別に慈海のせいではなく、生まれ持ったものだ。美しいから信用できない、と言われても、慈海だって困るだろう。顔の美醜と人格なんて、そもそも無関係なのだし。本心が分からないと言ったって、向こうにとっては仕事で、みづきたちは宿坊のお客さんだ。営業用の顔は見せても、本心など見せないのが普通だろう。第一印象が良くなかったからと言って、いつまでもそれに囚われるのは良くないな、とみづきは反省した。

 それに佳南だって、仕事の上では後輩だが、23歳の成人だ。佳南が誰とライン交換をしようが付き合おうが、1人の大人の女性として、最終的に判断するのは佳南自身だ。口を出し過ぎてもうっとうしがられるだけだろう。いや、実際、うっとうしがられている。彼女のためを思って、と言ったところで、当人が望まぬのであれば、それはお節介というものだ。ちょうど、みづきが両親に対してそう感じていたように。

 お父さんと、お母さん。

 そういえば、せっかく夏休みが取れたというのに、今年も帰省しなかった。両親からは何度もラインが来ていたのに、会社の人と旅行の約束をしたから、と冷たく断ったのだ。唯一の味方と言ってもよかった祖母が5年前に亡くなってから、帰りたくない気持ちは以前にも増して募っていた。



 みづきは兵庫県南部の町、三木市(みきし)の出身だ。父親は地元中学の教師をしていて、母親も同じ学校の音楽教師だったが、結婚を機に退職して専業主婦になった。

 一人娘ということもあって、父親も母親も、みづきの一挙手一投足にまでうるさく口を出した。さほど大きくない町のこと。地元でも「今河先生のお嬢さん」として、みづきは真面目な優等生のイメージを半ば押し付けられるようにして育った。小中と生徒会役員をやったし、成績も優秀。ピアノやバレエ、習字。習い事もたくさんさせられた。

 けれど、父の勧める高校に進学した頃から、少しずつ、そんな生活に息苦しさを覚えるようになった。いつもいつも先回りして、両親や周囲の人たちの期待の応えられるようにしてきた結果、みづきは自分自身が本当は何を望んでいるのか分からなくなった。自分で何かを選択したという経験がなかったからだ。部活動や付き合う友達といった、本来自分の意思で決めていいことですら、両親や周囲に反対されることが恐ろしかった。

 高校2年になり、進路を決める時期が来た時、みづきは東京の大学への進学を希望した。とにかく両親からも、生まれ育った町からも離れたかった。当然、両親、特に父は猛反対した。しかしみづきの意思が固いことを知った父は、最終的に、父が納得する大学に進むのなら、と東京行きの許可を出してくれた。みづきは猛勉強し、無事現役で、名門と呼ばれる都内の私立大学へ進学した。

 東京で一人暮らしを始めて、最初は両親から離れた解放感で幸せいっぱいだった。けれど、何事にも真面目で全力で、手を抜けない。手の抜き方が分からない。そんな性(さが)は、両親がどうと言うより、みづきの生まれ持ったものらしかった。「みづきは、真面目で堅物だから。」周囲の友達からよくそんなことを言われた。普段はやや敬遠気味でも、テストの前だけ、人気者になる。ちゃんと授業に出て、ノートを真面目に取っているからだ。知らない人からノートを貸してくれと声をかけられたこともある。もちろん、冷たく断った。要領よく手抜きできる人間がうらやましくもあり、そして、いつしか、憎たらしくも感じるようになっていった。

 真面目な優等生。それは学生時代であれば、有利に働いたかもしれないが、就職するとそんなものは何の役にも立たないとみづきは実感した。いや、真面目が悪いわけではない。仕事は真面目にやって当然だ。だが、適度に手を抜くことを知らないと、自分が辛い。

 すぐ下の後輩として、最も仕事上関わる佳南は、要領の良さを絵に描いたようなタイプで、プライベート優先、仕事もミスが目立った。仕事モードとそれ以外の切り替えがなく、ミスをきつく注意すれば半べそ。もしくは可愛く茶化そうとする。ランチタイムとかならともかく、仕事ではイライラしっぱなしだった。「みづき先輩、全力すぎて怖いですう」などと言われると、なおのことイラ立った。そして……。恋だって。雅也から最後に言われた言葉は、「お前、重すぎてウザい」だった。2歳年下の雅也は、まだ全然結婚する気なんかなくて、ただ気軽に女と楽しみたいだけだった。そして、どうやら他に女がいるらしかった。浮気に気付いたみづきが雅也を問い詰め、大喧嘩の末、その言葉を吐き捨てられ、フラれたのだ。

 真面目で堅物で、重くてウザくて……最悪じゃん。救いよう、ないじゃん、私……。

 ふっと哀しくなって、涙がにじんだ。涙はみるみる溢れて、生ぬるくこめかみを伝い、枕にこぼれるぽたぽたという音が聞こえた。

 バカみたい、私。

 頑張ってきたのに、何一つ報われないなんて。



 ふと、みづきは目を覚ました。

 考え事をしながら、いつしか眠りに落ちていたらしい。部屋の中はしん、と静まり返り、佳南の寝息がかすかに聞こえてきた。うつ伏せになって枕元のスマホをそっと覗くと、3時少し前だ。スマホの光で、部屋がうっすらと明るくなる。佳南はぐっすり眠っているようだ。反対隣を見ると、日和も少し口を開けて眠り込んでいる。スマホを戻し、みづきは再び仰向けになった。まだ起床時間までは間があるから、再び眠ろうと目を閉じたが、どうも眠れない。眠りに落ちる前の思考が、まだ頭のあちこちに残っているようだ。学生時代のこと、両親のこと、雅也……いろいろな記憶がごちゃまぜになって、頭の中をぐるぐる回る。無理やり目を閉じてはみるものの、眠ろうとすればするほど、どんどん目がさえてきてしまった。しかも、悪いことに、トイレにも行きたくなってしまったのだ。

「嫌だな」

 部屋にはトイレは付いていない。長い回廊を進んだ先……僧坊の近くにあるのだが、正直、怖い。風呂の前や寝る前にみんなで行ったが、1人でトイレに行くのは初めてだったし、回廊も右へ左へ分岐していて夜中に行ったら迷子になりそうだ。

 とはいえ朝まで我慢できる自信もない。しばらく布団の中でガサゴソして、みづきは観念して半身を起こした。寝間着替わりに着ていたTシャツのずれた首回りを直し、髪を手櫛でとかす。子供じゃあるまいし。まさかお化けが出るとかでもないだろう。古くて不気味で、お化けが出そうなお寺ではあるが。

 みづきは布団を抜け出し、隣で寝ている佳南を起こさないように、足音を忍ばせて枕元を通過した。音を立てないように、と思っても、障子を開くスーッという音が、思いがけず大きく聞こえてギョッとした。

 廊下は常夜灯替わりに灯篭の明かりが一つおきに灯されていて、ほのかに明るい。空気はひんやりしていて、むっとするような土のにおいにお寺特有の線香っぽいにおい、そして古い木のにおいが入り混じっていた。回廊の手すりに濡れた跡があるから、深夜に雨が降ったのかもしれない。

 みづきは障子を閉め、真っ暗な外を眺めた。高い木々に囲まれて、本堂らしいシルエットが黒々と見えている。どこからか、フクロウらしき鳴き声が聞こえた。常夜灯があるとはいえ、光の届かない回廊の奥は真っ暗闇だ。何か得体の知れないものが潜んでいそうで、みづきは身震いした。歩くたび、板張りの廊下がギシギシ嫌な音を立てる。とにかく、さっさと行って戻ろう。みづきはなるべく足音を立てないように注意しながら、それでも足早に、回廊を進んだ。



 トイレを済ませ、部屋に戻ろうとしたみづきは、ふと、あるにおいに気付いた。

 廊下に漂う、白檀のようなにおい。

 あの、慈海のにおい……。 トイレを出て、右に曲がればみづきたちの泊まっている部屋。左に少し行って、回廊を左に曲がれば、僧坊だ。おそらく、慈海の部屋もそこにあるのだろう。僧侶は朝が早いから、既に起床していて、手洗いや洗面を使ったのかもしれない。鉢合わせるのは何だか嫌だった。胡散臭いと言ってしまった手前……いや別に、そのことを慈海が知っているはずはないのだし、鉢合わせたところで普通に挨拶をすればいいだけなのだが。

 ……挨拶をする勇気がない。

 顔を見た瞬間、緊張して逃げ出す自信がある。

 小学生か、と、我ながら呆れた。

 僧坊は、明かりが点いているだろうか。

 みづきはそっと角から、僧坊の並ぶ回廊を窺った。灯篭の明かりがやはり一つ置きに灯されているが、みづきたちのいた部屋より、何となく薄暗く感じられた。半ば闇に覆われた中に、障子がぼんやり白く浮かび上がって見える。奥の方のの障子がひとつ、開いていて、そのすぐ傍(そば)に何か白いものが見えた。みづきはじっと目をこらす、

 人だ。誰かが、こちらに背中を向けて座っている。

 みづきは心臓が一瞬、波打つのを感じた。

 慈海だ。

 灯篭の光がどうにか届く位置で、部屋の中も間接照明か豆球が点いているのだろう。橙色のほの暗い光の中、慈海の頭部が黒々と見え、その下にうなじから肩にかけてのラインが真っ白く浮かんでいる。と、かすかに衣擦れの音が聞こえた。衣を脱ごうとするかのように、慈海は左手で、右肩の襟を滑らせた。肩と背中の右上半分が剥き出しになる。 みづきは目を見張った。慈海の、右肩から背中にかけて、そこに見えたのは白い肌ではなかった。

 刺青(いれずみ)!?

 明かりが暗いので、目をこらしても柄(がら)はぼんやりとしか見えない。赤っぽくて、青っぽい色も混じっていて、何か黒い……。

 何なの、あれ……。

 みづきは本能的な恐怖を感じ、後ずさった。廊下がギッと音を立て、ハッと我に返る。

 やばい。慈海に見つかったかもしれない。

 みづきはくるりと踵(きびす)を返し、半ば転がるように、部屋へと逃げ戻った。






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