後半

――そして、試合当日。試合会場は桜ヶ丘市立武道交流館。何の因果か、剣共会で使われていた体育館である。その為、そこらじゅうに知った顔があって正直気まずい。声を掛けられないように、俺はみんなの荷物が置いてある二階の観覧席からなるべく動かないで目立たないように努めていた。

 本当はもっとみんなの近くで見守ってやりたいところだが、桜ヶ丘の子たちにも俺は面が割れているので顔を合わせるのはバツが悪い。だから監督の代わりは姉さんに任せて、俺はここからみんなを陰ながら応援することにした。

 幸い、試合の開始時間まではまだ余裕がある。それまでの間にみんなを集めて作戦の振り返りをすれば、俺のここでの役割は終わりだ。剣道の試合にはタイムは無いし、試合中に不用意に声を掛けることも禁止されているから、ひとたび試合が始まれば、あとはもう俺にできることはない。ただ、みんなを信じるだけだ。

「この時間、もどかしいったらないわね。竹刀検量なんて面倒なもの無くせないのかしら」

 隣で退屈そうに足を組んで座っていた愛が出し抜けにそんなことを呟いた。

 愛はついさっき俺と一緒にここを訪れたばかりで、姉さんの運転する車で一緒にやってきた。何のきまぐれか昨日の夜、突然電話をよこして、「私もつれていきなさい」とのたまったのだ。

 「不正な竹刀やひび割れて危険な竹刀を弾く為にやってんだから、そんなわけにはいかねぇよ」

 会場の隅の方に竹刀を抱えて並んでいる選手たちを遠巻きに見つめながら、俺は言った。

 選手は試合前の所定の時間に、審判に竹刀の重さや状態を検査してもらう必要があるのだ。それを竹刀検量という。ちなみに、検量を通過していない竹刀を使うと即刻その試合は負けになる。その所為で団体戦に負けてしまった高校を昔何度か見たことがあった。検量を通過した竹刀は鍔元にマジックペンで線が引かれるので審判には一目瞭然だから、ごく稀にそんなことがあるのだ。

「それは分かってますけど、とっとの試合始めりゃいいのに、検量だの開会式だのかったるいったら……」

 愛は今日の試合のために相当早起きしたのか、眠そうに「ふぁ……」と大きな欠伸をしている。俺も昨日の夜は興奮やら緊張やらでよく眠れなかったので、いつにも増して目のクマがひどい。さっきミユさんと顔を合わせたときなんて、「ひっ……」と小さな悲鳴をあげて引かれてしまったほどだ。……俺はゾンビかっての。

 しばらくして竹刀検量が終わると、すぐに開会式が始まった。選手たちはそれぞれの竹刀を自分の防具と一緒に道場の隅に置いてから、すみやかに学校ごとに整列する。整列の号令は、桜ヶ丘中学校の主将である鎬木さんが務めていた。前年度の優勝校が号令をかけるのが通例らしい。後に選手宣誓や優勝旗の変換なども行っていて、その姿が非常に様になっていた。何とも堂々たる風格である。

 開会式のプログラムは、大会長挨拶、来賓挨拶、来賓紹介、審判長注意と滞りなく進められ、最後に閉式の辞で締めくくられた。

 大会事務から諸連絡が述べられたあと、各学校の主将がそれぞれ集合の掛け声をあげた。道場内のところどころに円陣が組まれ、各学校ミーティングが始められる。

その中には当然、桜ヶ丘の選手たちの姿もあり、交告先生が何やら厳かな雰囲気で話をしている姿が見受けられた。

 その様子を敵対心や後ろめたさがないまぜになった複雑な感情で眺めていると、ほどなくして姉さんがヒバたちと一緒に戻ってきた。しばらく姿を見せなかったのでどこへ行ったのかと思ったが、どうやら姉さんは、他の学校の先生方に挨拶をしたあと、そのまま開会式の様子を見ていたらしい。

「それじゃ、うちもミーティングを始めましょうか。みんな、士気くんの前に集合して」

「「「はい!」」」

 大きな返事と共にみんなは素早く俺の前に集まると、

「礼!」

「「「お願いします!」」」

 ヒバの号令に続いて、部員たちの頭が下げられた。

 俺は会場の時計を見て時間を確認する。現時刻は午前九時三○分。試合は今から十五分後。さほど時間に余裕があるわけではないが、だからといって慌てる必要は無い。

 俺は少し深呼吸してから、ゆっくりと話し始めた。

「さて、いよいよこの日がやってきた。みんな、調子はどうだ?」

「絶好調だぁー!」

「私も、昨日は早めに寝て体調を万全にしてきました!」

「そっか。そりゃ頼りがいがあるな。三人はどうだ?」

「変わりないわ、いつも通りよ」

「私も、少し緊張していますけれど、大丈夫です!」

 ハジメとアカリが元気よく声をあげると、それにミユさんとヒバも続いた。四人ともプレッシャーを感じさせない良い笑顔だ。だけれど、こころだけは何やら浮かない顔をしている。もともと表情に乏しいこころではあるが、今日は特別気落ちしているように見えた。

 しかし、それも無理はない。ヒバたち経験者組と違って初心者組のこころは練習試合の経験こそあるものの、公式戦は今回が初めてだ。しかも相手は全国クラスの強豪である桜ヶ丘。その上、今回の作戦において、こころはもっとも肝心な役割を担う。重荷に感じて当然だろう。

「こころ、あんまり固くなるなって。楽にやろう。肩の力を抜いていけ」

「……ん、頑張ります」

 口ではそう言ううものの、こころの目線は下を向いている。相変わらず体は強張ったままだ。見かねた俺はこころの肩をぽんと叩いて、そして言ってやった。

「いいか? 剣道は野球やサッカーみたいにチームワークを競う競技じゃない。自分の試合が始まれば、一対一の真剣勝負、そこに他人が入ってくる余地はない」

「………………はい」

 叱咤されていると勘違いしたのか、こころの返事は非常に小さいものだった。

「だけど、これは団体戦なんだ。お前一人が責任を負うわけじゃない。お前が失敗したってチームが負けなけりゃそれでいいんだ」

「……ん、でも、それだとみんなの負担が大きくなる。やっぱり、ここが負けるのはダメです」

「だったら自信を持とう。この二週間、こころはずっと一つのことだけを、何回も何回も、ただひたすら繰り返し稽古してきた。その事実が何よりお前の背中を後押ししてくれるはずだ。……大丈夫、小手抜き面だけなら、桜ヶ丘の子たちよりもこころの方がずっと上手になってる。俺が保証するよ」

「先生……。ん、ここ頑張ります」

 こころはどうやら立ち直ってくれたみたいで、ぎゅっと胸の前で両手を握りしめた。気合十分、不安も少しはマシになったはずだ。あとは、作戦通りに事を進めるだけ。稽古の成果を、みんなに、相手に、そして会場にはいないがどうせ俺たちが負けると高をくくっているはずの細山に、見せつけてやるだけだ。

「よし、それじゃあポジションの確認だ。先鋒……」

 本来なら、先鋒はハジメのポジションだが、

「不動こころ!」

「……はい!」

「次鋒、貫始!」

「はいっ!」

「中堅、水止明!」

「はいです!」

「副将、息供自由!」

「はい」

「大将、戸破守!」

「は、はい!」

 名前を呼ばれ、各々が自分を奮い立たせるように腹から声を出して気合いの入った返事をする。その真っ直ぐなみんなの目を見ていると、何だか逆に俺が勇気づけられるようだった。

「いつもと違う組み合わせで慣れないと思うが、事前に話していた通り今回はこのポジションで行く。各自、与えられた役割を試合前に思い返して復習しておくこいと。いいね?」

「「「はい!」」」

「いい返事だ。俺からは以上。……姉さん、何かあるか?」

 話を振ったことで、みんなの視線が俺の後ろに立っていた姉さんに集まった。

 すると姉さんは「それじゃあ……」と、こほんと咳払いをしてから話し始めた。

「……みんな、今日までよく頑張った。突然受けた理不尽に耐えて、ひたすら一つのことに打ち込んで、良くやり遂げた。相手が強いからって気後れすることないよ。今の桜南は、心も、剣道も、どっちだって負けないくらい強い。胸を張って試合してきなさい」

「「「はい!」」」

 姉さんの言葉でより勇気づけられたのか、みんなの声が一層大きくなる。さすがは現役教師、今の言葉は試合中のみんなの精神的な支柱になるに違いない。

「愛からは何かあるか?」

「え、私?」

 まさか自分の番が回ってくるとは思っていのか、愛は自分を指さして驚いた顔をする。少し考えた後、照れくさそうに一言、

「………………ま、せいぜい頑張りなさい」

 と、それだけ言った。……ほんと、素直じゃないやつ。

 苦笑しながら道場に掛けられている時計を見やると、試合開始時間まであと五分ほど。いよいよこの時が来た。

 俺は一度みんなの顔を見回して、ゆっくり息を吐き出してから言った。

「……さ、泣いても笑ってもいよいよ本番だ! みんな、しまって行こう!」


 ――そして、試合開始。道場を半分に割って向かって左側が俺たちの試合、反対側では男子の団体戦が行われる。

「正面に、礼!」

 主審の号令で、試合場に整列した桜南と桜ヶ丘の両校の選手たちが、道場の上座に掛けられている国旗に向かって礼をする。こころとその相手選手の木崎さんだけ面を被った状態で整列をしているが、これは先鋒の試合が礼をしてすぐに行われるからだ。

 ちなみに、桜南が向かって左側で旗が赤、桜ヶ丘が右側で旗が白だ。桜ヶ丘の方には交告先生と、補欠の選手や後輩たちが応援の為、脇に控えている。

「互いに、礼!」

 正面礼を終えて、次に選手同士が礼をする。この礼を以て、満を持して戦いの幕が切って落とされるのだ。

 先鋒であるこころを試合場の脇に残し、控えのみんなは下がる。その際に、「ファイトー!」と、それぞれすれ違いざまにこころと拳を合わせた。

 そして待機位置に一列で正座して、顧問の姉さんと一緒に試合を見守る。次鋒であるハジメが面を付け始めて試合の準備にかかった。

「いよいよ、か。頼むぞ……、こころ」

 握りしめた手にじわじわと嫌な汗が滲むのが自分で分かった。

 ……やばい。さっき俺、こころに固くなるなって言ったけど、今になって自分も緊張してきた。現役剣道部員のときだって、こんなに緊張してなかったのに、今は心臓がバクバクと音を立てている。

 そんな俺の様子を見かねたのか、愛がわざとらしくため息を吐いて、

「ちょっと、あんたがそんなんでどうすんのよ。もっと、どーんと構えてなさいな」

 と、ジト目でそんなことを言われてしまった。

「そ、そうだな。俺の考えた作戦でみんなは試合をするんだ。俺が信じなくてどうする」

 俺は深呼吸して、一度気持ちを落ち着かせる。大丈夫、俺の経験と、何よりみんなを信じるんだ。

「一発かましてやれ、こころ」

 先鋒の両選手が試合場に入った。

 桜ヶ丘市地区大会団体戦第一試合、桜南対桜ヶ丘の、先鋒戦がついに始まった。


「やぁぁぁぁ!」

 先に声を上げたのは相手の木崎さんだった。こころも負けじと「イヤァァァァァァ!」と普段からは考えられないような大きな声を試合場に響かせる。後手に回ってしまったが、気力では十分負けていない。さっきまでの緊張が幾分マシになっているようで、ひとまず安心する。

 木崎さんは一歩二歩と素早いすり足で詰めながら、カチカチと威嚇するようにして剣先を擦り合わせる。意識しているかどうかは分からないが、おそらくあれには、相手の竹刀を弾いたり、注意を逸らす効果がある。それで打突の機会を掴んでいるのだろう。

 木崎さんは、一足一刀の間まで詰めるとすぐに動きを見せた。

「めぇぇぇぇぇぇぇん!」

 木崎さんが選んだ技は正面打ち。しかし、これは竹刀が面金の部分にあたって真を捉えることができなかった。審判の旗は三本とも上がらず、有効打突とはみなされない。

 そのまま二人の間合いは体がぶつかる距離まで詰められ、鍔迫り合いに入った。

 自分の打突が一本にならなかったと見ると、木崎さんはすぐに次の攻撃の姿勢に入る。右へ左へと素早くフットワークを織り交ぜ、相手をかく乱する。鍔迫り合いの体制から相手と距離を離しながら技を放つ、引き技を狙っているようだ。

 しかしそれにも何とかこころは食らいつく。自分の体を絶えず相手の方に向けて、隙を見せない。横に回られてしまうと、面や小手ががら空きになるのがしっかり分かっているのだ。

 それがじれったくなったのか、木崎さんは無理筋の引き小手を放つが、これも決まらない。木崎さんの打突は、こころの鍔元に当って弾かれた。すり足で後ろに下がる木崎さんを、今度はこころが追いかける。

 そして再び、両者竹刀を合わせて一足一刀の間に入った。

「……さぁ、ここからが頑張り所だ。俺が打倒先鋒戦の為に打ち出した秘策、見せてやれこころ!」

 俺の思いが通じたのか、こころが仕掛け始めたのが遠目で見ても分かった。

 相手が竹刀を弾くようにして擦り合わせてくるのに対して、こころは自分の剣先に力を入れて押し返そうとする。剣先の延長線上に相手の喉元が来るように、体の中心に構えを合わせているのだ。中心を取りさえすれば、相手から打突を決められることもない。相手の竹刀が邪魔で踏み込めないからだ。

 ただ、そんな程度のことなど経験で勝っている木崎さんは重々承知している。寧ろそれを利用して、一本を奪うことを狙っていた。

 今、両者の剣先はお互いに押し合って力のつり合いが取れている状態だ。そんな状態で、片方がふっと力を抜いたら、竹刀を上げて相手の剣先を逸らしたら、どうなるか?

 そして、俺の予想通り、木崎さんの竹刀は振り上げられた――それまで力の掛かっていたこころの剣先は、支えが無くなって左に大きく逸れてしまう。小手のガードがなくなった。

「こてぇぇぇぇぇぇぇ!」

 待ってましたとばかりに跳びかかる木崎さん。隙だらけになったこころの小手を見逃さない。普通なら、木崎さんの策は上手くハマって小手有りの一本となっていただろう。

 しかし、そうはならなかった。

「めええええぇぇぇぇぇぇん!」

 木崎さんの打突は空を切り、空振ったことによって姿勢が崩れ、体が前に倒れる。気づけば隙だらけになっていたのは、こころではなく彼女の方だった。

 相手の小手打ちを、腕を振り上げることによって躱し、そのまま振り下ろして――『小手抜き面』が放たれた。

 バッと、審判三人の白い旗が上がる。面有り一本、先制したのは、こころだった。


 試合場の傍にはホワイトボードがある。そこには一枚の紙が掲示されていた。両選手の名前が試合順で横並びに向き合っている物で、両選手の間には縦二×横五のマスがある。そこにお互いの有効打突が記録されるのだ。

 係員が、こころの方に『?』と書いた。言うまでもなく、これは面が一本ということだ。ちなみに、丸の囲いは最初に決められた一本にのみ書かれる。

「よしっ、これで桜南の一歩リードだ! よくやったぞこころ!」 

 思わず立ち上がってガッツポーズをしてしまう俺。剣道において選手が喜びの感情を素直に出すことはマナー違反とされるが、正直そんなことどうでもいいくらい素直に嬉しかった。

 控えているヒバたちも割れんばかりの拍手で今の一本をたたえる。こうして声を出さず、拍手で選手を応援することは認められている。

「驚きました……。本当にあなたの言った通りになりましたね」

 俺と一緒に二階の観覧席で試合を見学している愛が、珍しく驚きの表情を浮かべ、ぼそっ呟いた。

「いやぁ……、しかしほっとした。これで俺たちの作戦が桜ヶ丘にも通用することが分かった。これでこころにも自信がつくはずだ。他のみんなも、試合を上手く運びやすくなる」

 俺が事前にこころに説明していた作戦とは、つまりこういうことだった。


 俺が稽古に参加して二日目――桜ヶ丘の稽古を見学した次の日、俺は昨晩練った作戦を、選手それぞれに説明した。防具をつけてもらった後、稽古を始める直前にみんなを集合させる。

「いいか、こころ。今回の試合、お前には先鋒をやってもらう」

「……ん、でも先生。ここ、前の練習試合では副将だったよ?」

「今回は特別だ。相手の先鋒を倒すためには、こころの力が必要なんだ」

「……?」

 自分を指さしてきょとんとするこころ。他のみんなと顔を合わせて「なんでだろう?」と言いあっている。

「桜ヶ丘の先鋒の選手は、手数で攻めてくる先手必勝のスピードタイプだ。並の相手なら三分の時間を使い切る前に、二本勝ちで試合を終わらせてしまう。ましてや初心者なんて翻弄されて、普通なら相手にならない。……だけど」

 ――だけど、こころなら、そうはならない可能性がある。

「実はこの相手の先鋒、木崎さんって言うんだけど、桜ヶ丘の子たちの中でも一番小柄な選手なんだ。ヒバよりもちょっとだけ低いくらい、140半ばぐらいかな」

 こころは、ちょうど自分の隣に立っていたヒバの目線ぐらいに手を合わせて、「これくらい?」と尋ねてきた。ハジメがそれに、「うーん、もう少し上? いや下?」と首を捻っていた。

「身長差はスポーツにおいて有利不利がとてもはっきりする要素だ。それは剣道も同じで、特にそれが顕著に表れる場面がある。何だか分かるか?」

 問われて考え始めるみんな。少し間を置いてから、ヒバがそっと手を挙げた。

「もしかして、面打ちですか?」

「その通り! さすがヒバだな」

 面打ちは、竹刀が相手の頭頂部に当たって初めて有効とみなされる。それが、身長差があると、竹刀が相手の面がね部分でつっかえて届かないのだ。これが、剣道において高身長の選手が有利とされる所以。

「こころの高さがあれば、簡単には面を打たれないはずだ。そのうち木崎さんは、面を技の選択肢から外してしまうと思う」

 打突は何も面ばかりじゃない。小手も胴も、それらを応用した応じ技だってある。

その中からわざわざ狙いにくい面を選択する道理はない。

「となれば、相手の打ってくる技は小手と胴のどちらかに限られてくるわけだが、更にもうちょっと工夫する。まず、応じ技を打たれないように、こころは自分から絶対に攻めないようにする」

 そこまで言ったところで、アカリが「あっ、もしかして」と何か閃いたように手をぽんと叩いた。

「引き分けを狙うんです?」

「うーん、惜しいんだけど、引き分けを狙うのはこころじゃないんだ」

 団体戦は五対五、経験者組のヒバとミユさんが勝ったとしても、残り三人が負けてしまえばチーム全体の負けになってしまう。であれば、初心者組は引き分けを背曲的に狙っていくのが真っ当な作戦なのだが、しかし相手は強豪桜ヶ丘。そう簡単にはいかないだろう。四月から剣道を始めた初心者集団が、県内トップ全国クラスの桜ヶ丘相手に一本も取られないなんてまず不可能だ。

 ――であれば、少し大胆な作戦を取ってでも、せめてあと一人勝ちを狙える選手が欲しかった。それが、こころだ。

「そして、自分からの攻めを封じるのに加えて、更にもう一つ工夫しよう。こころはわざと剣先を左向きに竹刀を構える、もしくは中心の取り合いを積極的にするんだ」

「……なるほど、小手をわざと隙だらけにして、誘導するわけね」

 俺の考えに気づいたらしいミユさんが、思案顔で口を開いた。

「そう、身長差で面が決まらない、仕掛けて来ない所為で応じ技もできない。そんな状況下で小手が空いていれば、これを狙わない手は無い。木崎さんなら、いや、例え相手が誰であったとしても、決め技には小手を選択するはずだ」

 ましてや相手選手は無名校の一年生で、しかも剣道初心者だ。それがまさか罠だなんて思うまい。

「そうなれば、あとはもうこっちのもんだ。相手の打つ技が分かってるんだから、その応じ技を打てばいい。……剣道において一番の隙は打突の瞬間、いくら相手が桜ヶ丘の先鋒と言えども、咄嗟に対応するのは不可能だ。こころがきれいに応じ技を決めることができれば、一本先取は間違いない」

 

 ――それからは毎日、ひたすら小手抜き面の稽古。本番で作戦を必ず成功させられるように、技の最適化を繰り返して今に至る。 

「……木崎はあなたの作戦にまんまと嵌められたってワケね」

 審判の「二本目!」という号令で再開された先鋒戦。それを遠目に眺めながら、愛は言った。

「卑怯な手だけどな。事前に稽古を見学させてもらえなければ、練れなかった作戦だ。……ほんと、お前には感謝してるよ」

「お礼は勝ってから言ってください。試合はまだ終わっていないんですから」

 おっと、そうだった。試合はまだ先鋒戦。それも始まったばかりだ。試合時間はまだ二分程残っている。これだけあれば一本取り返すことだってできるだろうし、二本取られて逆転負けも有り得る。気を引き締めなければ……。

 しかし、そんな俺の心配はどうやら杞憂だったようだ。

 試合が始まってすぐに、相手の木崎さんに変化が見られた。

「木崎の足、さっきまでに比べて止まってるわね。……決め技を返されてパニクってんのかしら」

 普段、戦法とか駆け引きとかを考えない愛にでも一目で分かるぐらい、木崎さんに動揺が見られたのだ。あれだけ手数と軽やかなフットワークで攻めていた彼女の足の動きが、まるで重りでもつけられたように鈍っていた。

「木崎さんにしてみれば、こころは格下も格下だからな。当然、油断はあったはずだ。だから、今のこの状況が上手く呑み込めないんだろう」

 この小手でまず一本、そう思っていたはずなのに、逆に自分が一本奪われてしまい、一瞬頭が真っ白になったんだ。だから今、どこで自分がミスを犯したのか考えている。普段は手数で攻めていくスピードタイプの木崎さんが、言い方が悪いが、頭を使ってしまっている所為で体が動いていないのだ。

「剣道は野球やバスケのようにタイムアウトが存在しないし、試合中に声を掛けることは禁じられている。だから傍目では明らかなことでも、チームメイトや監督が伝えてやることができない。一人でこの状況を打開しないといけないんだ。……だけど、いつも押せ押せで試合する木崎さんはそれに慣れていない。時間にも限りあるし、当然このままじゃ負けるわけだから、内心かなり焦ってるはずだ」

「……前から思っていましたけど、相当性格悪いですね、あなた。何というか……こう、小賢しい。姑息よね」

 若干引き気味で、普通にひどいことを言われてしまう俺。

 ……でも、こちとらその性格の悪さが売りの剣道をずっとしてきたんだ。そう言われても、勝ちに行くための手段はこれしか教えられない。

「お褒め頂いたところ悪いんだけど、俺の性格の悪さはまだこんなもんじゃないぜ?」

「……はい?」

 おっしゃる意味が分かりませんとばかりに眉を引きつらせて聞き返す愛を横目に、俺は道場の時計を確認する。試合時間は多分一分を切った。

 さっきから木崎さんは、お茶を濁すように、正面うちと鍔迫り合い、そして引き技を繰り返している。当然どれも一本にはならず、何とも煮え切れない攻めをしている。

 交告先生の表情が険しくなっているのが、この距離からでも分かった。

「……木崎さんは先鋒だ。それも、いずれば全国優勝を狙うような強豪の先鋒を任されている。チームの流れを作る能力を買われてそのポジションについたはずなのに、このまま悪い流れを次に回すことは絶対に許されない」

 だから、今の木崎さんは大きなプレッシャーを感じているはずだ。新チーム最初の大会、しかもたかが地区大会で一年生相手に何もできずに敗北という失敗を犯してしまえば、最悪スタメン落ちだって考えられる。先鋒としての信頼を失ってしまうことになりかねないのだ。

「強豪故の、シビアなところだな。控えの選手は同級生にも後輩にもたくさんいるから、スタメンの奪い合いは熾烈なはずだ。少しでもヘマをすればこの大会中にでも入れ替えをされるかもしれない。……当然そうはなりなくない木崎さんは、ここで勝負にでるしかない」

 試合時間は残り三〇秒――

 ここで膠着状態だった試合に動きが見られた。

 こころが小手を大きく開けたのだ。わざとらしく、周りから見れば明らかな罠だとはっきり分かるぐらい、自分の小手を隙だらけにした。

 木崎さんが少しでも冷静だったなら、ここで安易に小手を打つようなことはしなかっただろう。だけど、今の彼女には焦りがある。どうしてもここで一本取り返して、最低でも引き分けにして次へ回さなければという、使命感にも似た感情が自分の心を支配しているはずだ。

 ――大丈夫。さっきの小手抜き面はまぐれだ。たまたま私が小手を打った瞬間に、相手が面を打とうとして偶然一本になってしまっただけだ。そうとしか考えられない。だって相手は去年まで部員のいなかった無名校の、それも一年生なのだから。

 ――と、そんなことを思っているに違いない。いや、思うしかないのだ。そうやって自分をごまかして勇気づけなければいけないぐらい、今の木崎さんは臆病になっている。

 そしてついに。木崎さんの足が跳ねた。

「こてぇぇぇぇぇぇ!」

 小さく振り上げられる竹刀。構えの状態から最短距離で放たれる文句なしの綺麗な小手。しかしそれでも、こころの小手を捉えることはできなかった――

 

「勝負あり!」

 二人の選手が、試合場から下がった。次の試合の為に、試合場の傍で立っていたアカリが、すれ違いざまに何やら短く声を掛けている。

 きっと、こころの大健闘を称賛しているのだろう。俺もできることならば、大金星をあげ戦いから戻ってきた彼女に、よくやったと声を掛けてやりたかった。

「……これでひとまずは一勝ね。このリードをどれだけ守れるかに掛かってる、ってところかしら」

「そういうことだな。その為に、次鋒戦と中堅戦は奇を衒ってまで一本を狙うようなことはしない。堅実に、守りに入ろうと思う」

 いつだったか、稽古中にアカリに説明したと思うが、『一本を狙うよりも、一本を取られない剣道』というのがこれだ。こころの作ったリードを、経験者組二人の試合が回ってくるまで守りきることこそ、次鋒・中堅戦の要だ。

「欲張って差を広げようとするよりも、こっちの方が気も楽だろ。あとの二人が気持ちよく試合できることだけを考えて、決め手は任せてしまえばいい」

 試合場では、ハジメが蹲踞の姿勢で開始の合図を待っている。一方入れ替わりで戻ってきたこころは、ようやく肩の荷が下りて安心したのか、全身から力が抜けてしまったようにゆっくりと面を外していた。試合場を挟んでその対面には、別の意味で力が抜けてしまっていた木崎さん。最初の余裕そうな表情とは打って変わって、今は顔面蒼白だ。彼女が試合を終えて戻ったときに交告先生が声を掛けるような様子もなかったので、それが余計に圧だったのだろう。

 ……木崎さんには悪いことをした。せめて次に戦ったときには、正々堂々とした勝負ができるようにと心に誓う。

「始め!」

 そんなことを考えているうちに、次鋒戦開始の号令がかけられた。


「「やぁぁぁぁぁぁぁぁ!」」

 二人の気合いが試合場に響く。反対側の男子の試合の声にも負けていない。特にハジメの元気いっぱいな声は、試合に対するプレッシャーを微塵も感じさせないので、見ていて非常に安心させてくれる。

「今回は次鋒を任せてるけど、やっぱハジメは生粋の先鋒タイプだな。あの快活さがチームのみんなを引っ張ってくれる。ヒバの見る目は正しかった」

「……でしょうね。初対面の私に、あれこれしつこく話しかけてきたの、あの子ぐらいなものだもの。後輩の桜ヶ丘の連中だってそんなに慣れなしくなかったわよ。ほんと、怖いものなしというか何というか……」

 うんざりしてるのか照れくさいのか微妙な表情で、愛は苦々しげに呟いた。

 あの愛相手にそこまで言わせるハジメ……、以外に大物かもしれない。というか、自分で自分を怖いものとか言っちゃうのか……。

「ん、あの子、仕掛けにいくみたいよ」

 試合場の方を顎で指す愛。言われてハジメの足をよく注視してみると、右足を浮かしながら前に出して、距離を詰めている。相手に悟られにくい間合いの詰め方として、俺が教えた方法だ。

 そして、十分に詰められた間合いから放たれるのは――

「こて、めぇぇぇぇぇん!」

 アカリと一緒に練習した『小手面打ち』だ。ハジメはこの技を打っては離れ、そしてまた近づいて打つということを何度も繰り返している。この一連の動作は、要は打突される機会を極力少なくしているのだ。

 小手面打ちは、他の技に比べて打突の際にカウンターの応じ技をもらうことが少ない連続技。一足一刀の間に入ってすぐに自分から攻めていけば、相手から攻められることもない。まさに、一本を取られない剣道をするのには打ってつけの技だ。

 ただこの作戦には、問題なことが一つだけあって……、

「さっきから足が動きっ放しだけど、あれで体力持つワケ?」

 訝しげな顔をして、愛が率直な疑問を俺にぶつけてきた。

「……厳しいだろうな。だから、鍔迫り合いにできるだけ時間をかけるようにしている。そこで体をできるだけ休めるんだ。ボクシングのクリンチみたいに」

 しかしこれにも限度があって、あまりにも鍔迫り合いが長続きした場合、試合に積極性が無いとみなされ反則をとられることもある。中学剣道では明確な決まりはないが、高校剣道だと十秒でアウトということになっている。

 ちなみに、反則は二つ取られると相手に一本取られた扱いとなる。時間空費以外では他に、場外や、竹刀を落してしまうと反則になる。

「まぁ二つで相手に一本ってことは、要は一回まではセーフってことだ。どうしても苦しくなったときは、反則をもらってもいいぐらいの気持ちで休めとは言ってある。……当然、これもあまり真っ当とは言えない手段だけど」

「ホントよ……。今頃あのオヤジ、はらわた煮えくり返ってんじゃないの?」

 愛は交告先生の方をチラリと一瞥して、呆れ顔でため息を吐いた。

 いや、冗談でなく、ホントに愛の言う通りである。交告先生は正々堂々という言葉が人の形をしているような、現代の武人といってもいいような方なのだ。

 そして、そういった卑怯というか小賢しいというか、行儀の悪いことを忌み嫌う人でもある。俺も何度か指導をして頂いたことがあるが、交告先生との地稽古でそんなことをすれば、即刻係り稽古十分とかの刑に処されることだろう。十分間動きっ放しで、ずっと面だの小手だの走り回されるのだが、これがとてつもなくキツい。普通の係り稽古の目安が約三〇秒でそれでも息が切れるほどなのだから、果たして十分がどれだけのものか想像に難くないはずだ。

「交告先生の係り稽古ほどじゃないにしても、三分間動きっ放しの試合は中学生の女の子には体力的に厳しい。いくら鍔迫り合いで時間稼ぎしたところでな。ただ、あの子に限ってはその心配は無いと思う」

 足を休めることなく果敢に攻めるハジメの姿を見守りながら、俺は言う。

 これはヒバたちから聞いたことだが、ハジメはもともとスポーツ万能で同級生の中でもトップクラスの運動神経を持っているらしい。小学生のときはマラソン大会で男子を抜いていつも一位だったそうだ。剣道部に入部する以前に、陸上部からスカウトの声がかかったこともあるらしい。

 現に今、休むことなく攻め続けている彼女を見ると、それも納得だ。相手はハジメの素早い足捌きに付け入る隙がない。反撃しようにも小手面打ちしかしないものだから、どう応じたらいいのか判断がつかないようだ。

 前傾になって喰いつくように試合を見ていると、不意に愛が言った。

「あの子に限ってはって……、他に不安要素があるみたいな言い方ね」

「不安ってほどじゃないけど……、どちらかと言えばそうだな。心配なのはアカリの方だ」

 アカリの方を見やると、次の自分の試合に向けていそいそと面を付け始めるところだった。

 ハジメの健闘もあって試合時間は残り一分を切った。この調子で行けば、次鋒戦はリードを保ったまま切り抜けることができるだろう。

「アカリは、剣道を始めるまではどちらかというと文系少女だったらしい。スポーツとは縁遠い生活をしてたみたいだ」

 学校が終わった後は習い事の塾にピアノの稽古、絵に描いたような優等生タイプで、あまり外に出て遊ぶようなことはしなかったらしい。体育のドッジボールなんかはひたすらボールから逃げ回っていたそうだ。同じように球技が苦手な俺とはしては、何とも親近感の湧く話である。さすがに逃げるほどでは無かったが。

「まぁそういうワケで、さっきの鍔迫り合い云々の話も、ハジメよりはアカリに言って聞かせたつもりだ。試合の序盤で体力を使い切って、最後の最後で二本取られるんじゃ意味がないからな。なるべく無理しないように伝えてある」

「のらりくらりと茶を濁すってこと?」

「そこまで分かり易い時間稼ぎでもないが……、まぁハジメに比べて間を取ることを意識するようには言ってある」

 この場合の間ってのは間合いの意味もあるし、攻めと攻めの間の時間という意味でもある。試合の流れ、テンポを見て、交戦が起こらないであろう要所要所でなるべく時間を使う、そういうことだ。

「つっても、そこまで難しい言い方はアカリにはしなかったけどな。あの子は頭が良いから大丈夫だとは思うけど、あまりいろんなことを意識しすぎると頭がこんがらがるから」

「ふーん。ま、それでいいんじゃない? 私も長い話されたってほとんど聞いてないし、覚えてもないですから」

 ふぁあと退屈そうに大きな欠伸をする愛。……勘だけで剣道をしてきたやつはやはり言うことが違う。今のセリフを交告先生に聞かせてやりたいぜ、まったく。

 はははと乾いた苦笑を浮かべていると、試合場から機械的なアラーム音が鳴り響いてきた。見ると、ホワイトボードの隣の長机で、係り員が専用のブザーを掲げ鳴らしていた。

「……やっとか」

 これは、試合終了を審判に告げる合図だ。それに合わせて、主審が赤白両方の旗を上げ「止め!」と選手に号令をかける。

「引き分け!」

 主審が上げた旗を交差させて、次鋒戦終了を宣言する。

 三分間、こころが作ったリードを、ハジメは見事に守りきった。

「見てる側だと三分でも長いな……。自分が試合してるとあっと言う間なんだけど」

 はぁーと長いため息を吐いて、俺はそっと胸をなでおろした。


 試合場から下がる彼女を、桜南一同拍手で迎える。待機していたアカリが、すぐに試合場の傍まで行ってハジメと入れ替わった。

 すれ違い様に、ハジメが拳を突き出して、「ファイトー!」と、出陣するアカリを鼓舞する。それにアカリも拳を合わせて応じた。

「頼むぞ、アカリ。次に繋いでくれ」

 相手の選手が試合場の反対側に立ったのを見て、アカリが粛々と入場する。

 中堅戦――桜南対桜ヶ丘の団体戦は、いよいよ折り返し地点までやってきた。ここまで試合は全て順調。流れはこちらに向いている。悪いムードが漂っている桜ヶ丘に対し、桜南のみんなは先鋒のこころの奮闘もあって良い雰囲気だ。これならアカリも戦い易いだろう。

 変に気負わず、がっつく必要は無い。ただなるべく一本を取られないようにするだけ。たったそれだけ、頑張ってくれ、アカリ――

 

「始め!」

 主審の号令と共に、中堅の二人がおもむろに立ち上がった。

「ぃやぁぁぁぁぁぁぁ!」

 先手は譲らないとばかりに大きな声で気合いを発するアカリ。そんな彼女とは対照的に、相手の井上さんは冷静で、まるで様子を見ているかのようにだんまりだった。……いや、実際に様子を見ているんだろうな、さすがに先鋒次鋒と続けてへんてこな試合の仕方をしていれば、警戒されるのは当然か。

「こて、めぇぇぇぇぇぇん!」

 アカリは手筈通り小手面打ちで攻める。残心の体当たりも教えた通りしっかりと決め、相手に隙を与えない。残念ながら有効打突にはならなかったが、集中的に何度も稽古をしただけあるキレイな打突だった。

 次に、鍔迫り合いに入ったアカリは右へ左へと足を捌き、ギリギリまで時間を稼ぐ。井上さんはやや大振りの引き面で無理やり間合いを取ろうとするが、アカリはこれを問題なく防ぐ。予備動作が大きかったおかげで、アカリの目にもはっきりと技の起こりが見えたようだ。

 井上さんは、素早い足捌きで試合場の端まで離れていく。アカリはそれを緩やかな動きで詰めていく。そして、二人はコート際で再び構えを交えた。井上さんが、場外に背を向けている形だ。

「こてぇ、めぇぇぇぇん!」

 逃げ場のない井上さんに、アカリはすぐさま仕掛けていった。後ろに下がれない井上さんはこのままの状態で鍔迫り合いに持ち込まれるのを嫌い、何とか小手抜き面で応じようとする。小手を透かされヒヤッとしたが、通常の小手打ちとは違って小手面打ちは二歩踏み込んでいるので、間合いが詰まって井上さんの打突は竹刀の根本の部分で決まって無効。お互い頭の上でかち合った竹刀を胸元まで下ろし、結局また鍔迫り合いの形になる。

 状況的にはこちらがかなり優勢。井上さんは二、三歩でも後ろに下がれば場外で反則を取られる位置にいるから、下手に仕掛けることができない。

 しかし、そこはやはり経験の違いが物を言う。コート際でのやり取りは井上さんの方に遥かに分があった。場外を狙いぐいぐいと押してくるアカリに対し、井上さんはすっと力を抜いて後ろに受け流した。

「……あっ!」

 そんなアカリのしまったという声が聞こえてきたような気がした。

 アカリは前方に倒れかけるが、何とかすんでのところで右足で踏ん張って耐えきる。しかし、ここで井上さんがダメ押し。アカリの背中を、竹刀を握った両腕でぐいっと力一杯に押した。

 そしてとうとうアカリは、こけるように場外に押し出されてしまった。

「止め! ……反則、一回!」

 審判によって試合が中断され、アカリに一回目の反則が宣告される。係員によって、試合表のこころ側のマスに『△』が記された。これを二つ書かれると、相手側の一本になってしまう。

「これは……、なかなかツラい状況になったな」

 渋面で腕を組みながら、俺は時計を見た。ここまで一分とちょっと。残りの時間、アカリは下手な時間稼ぎができなくなった。

「どうすんの? 真っ当な試合の仕方は教えてないんでしょ?」

「……それどころか試合稽古自体してないからな」

 一応、相手の目線で仕掛ける瞬間が何となく察せるとは教えている。起こりが分かれば防御ができるし、先に小手面打ちで攻めることもできるから、何とか凌げるとは思うが……。しかし相手は桜ヶ丘の中堅、そう簡単にはいかないだろう。

「始め!」

「ぃやぁぁぁぁぁぁ!」

 試合が再開されてすぐに、井上さんが気合いを上げた。先ほどまでの冷静さとは打って変わっての攻めっ気にアカリがたたらを踏んでしまう。

 しかし、すぐにそれではいけないと思い直したのか、アカリも負けじと声を張り上げた。そして意外なことに彼女は、自分から大きく間合いを詰め攻めに転じたのだ。

「こてぇ、めぇぇぇぇぇん!」

 不意を突かれて驚いたのか、足が止まってしまう井上さん。しかし、アカリが詰めた距離がやや近かった為、一本には至らない。アカリは体当たりをして井上さんの体を突き押そうとするが、彼女は動じない。やむなくアカリはまた鍔迫り合いに入る。先ほどまでとは違い、今のアカリは反則を一つもらっている。ここであまり時間を使いすぎると反則二つで一本取られてしまうので、それはできない。

 だからアカリは、今度は時間稼ぎをすることなく、竹刀を真っ直ぐ相手に突き立てながら、ゆっくり離れた。こうすれば、相手が攻撃してきたとしても竹刀が喉元でつかえて前に出れず一本にならない。所謂、中心を取った状態だ。

 そしてアカリは竹刀の剣先が離れるまで距離を開くと、すぐにまた間合いを詰め、小手面打ちを仕掛ける。

「アカリは時間稼ぎがもうできないと見て、攻めに転じたみたいだな。残り二分ちょっとなら凌げる可能性も十分あるし、正しい選択だ」

「……そう上手くいくかしらね。同じ手が二度も通じるとは思えないけど」

 愛が顔を曇らせて何やら不穏なことを言う。こいつの勘は大抵当たる。あまり不吉なことを言わんで欲しい。

 しかし、愛の言ったことはもっともだ。小手面で攻め続け引き分けに持ち込むというこの作戦、次鋒戦においては相手が初見だった為に上手くいったが、中堅戦はそうではない。相手の動きをじっくり観察できるだけの時間があった。この試合が始まった直後の井上さんの冷静さも考えると、何か対策を立てられていてもおかしくは無い。

 ――それからアカリは休みなく攻め続け、残り時間は残り一分を切った。ここまでくればあともう少し。このまま中堅戦を引き分けで終わらせれば、初心者組の試合は全て終わり、リードを保ったまま経験者組の試合を迎えて団体戦の後半に臨むことができる。あとはヒバとミユさんのどちらかが勝てば、二勝二分で桜南の勝利。 

 つまり、俺たちは王手を掛けるところまで迫れるのだ。

「頼むぞ……、あともう少しだけ耐えきってくれよ……」

 しかしそんな俺の祈りとは対照的に、アカリの動きには徐々に変化していった。

 アカリは肩を激しく上下させて息を荒げている。打突した直後なんかは、前のめりになって、まるで引きずるようにして竹刀を重そうに構えるのだ。

 残り二分間なら体力の少ないアカリでも何とか耐えきれるかもしれない――そう思っていたが、アカリが攻めで凌ぐスタイルに切り替えた時点で、やはり井上さんも自らの戦い方を変えてきた。

 まず井上さんは、アカリの打突を受け止めるのではなく、場外に押し出したときのように受け流すようになった。竹刀で打突を防御したのち、体をひらりと躱す。

 打突した方は近い距離で振り返ってしまうとその隙を相手に打たれてしまうから。十分に間合いを取らないといけない。間合いを取るということは、その分走る距離が増えるということだ。当然、追い着かれれば打たれるから、ゆっくり走ることもできない。かと言って少しでも休むような仕草を見せれば、井上さんはそこをすかさず打つ。そしてアカリが鍔迫り合いで時間を使えないことを利用してわざと先手を取らせ、また走らせる。……悔しいが、実に俺好みの嫌らしい戦法だった。

 おかげでアカリの体力はもう尽きる寸前だ。技を出し切ったあとの残心も、徐々にぎこちない動きになっていく。

 当然、その隙を見逃すような井上さんではない。アカリが打突して走り抜けた後、残心で振り返るその瞬間を井上さんは狙った。

 アカリが構え直して受けの体制を整えるよりも先に、井上さんは竹刀を振り被り力強く踏み込んだ。

「めぇぇぇぇぇぇん!」

 竹刀が面を叩く高い音が鳴り、審判三人が旗を挙げた。面有り一本。試合時間残り三十秒、あと僅かというところでついに先手を取られてしまった――

「……ちょっと、マズいんじゃないの。一本取られちゃったわよ」

 今まで涼しげな顔で試合を見ていた愛が、珍しく動揺した表情でぼそっと零す。

 かく言う俺も、旗が上がるのと同時に立ち上がってしまった。「ああっ……!」とかいう情けない声が出てしまって少し恥ずかしい。

 俺は自分を落ち着かせる意味を込めて、愛に説明する。

「……いや、一本だけならまだセーフだ。総本数でまだこっちの方が多いからな。桜南のリードは変わらない」

 剣道の団体戦は両校の勝者数が同じだった場合、取った一本の数で勝敗が決まる。桜南は先鋒戦で面を二本取っているから、実質的なリードはまだ保っている。万が一、ここで二本負けしたとしても勝負は五分だ。こちらが圧倒的に追い詰められるということはない。

「ただ……、副将戦のことを考えると、ちょっとでも相手より先んじていた方がいい。何とかあと少しだけ……、ツラいだろうけど、アカリには踏ん張ってもらいたい」

 副将戦の作戦は桜南がリードしている前提で組んでいる。その作戦というのは引き分けでも実行できないこともないが、成功率を考えるとやはりここで二本奪われるのは避けたいところだが……。

 ――二本目は、いきなり井上さんが仕掛けてきた。

 審判の号令がかかるやいなや、井上さんは一足一刀の間合いまでずいっと接近し、その勢いのまま面を狙って跳びかかる。アカリはこれをすんでのところで防御するが、井上さんの動きは止まらない。

 井上さんは、体当たりでアカリの体を押しのけた。竹刀を振れるだけの空間を作る為だ。そして素早く左足を後ろに下げ、右足を引き付けると同時に、鍔迫りの形から剣先を落とすように竹刀を振り下ろす――『面体当たり引き面』、小手面打ちと同じ連続技。一度目の面で相手の体制を崩したところを、引き面でとどめを刺す技だ。

 虚を突かれたアカリの防御はワンテンポ遅れてしまい、井上さんの攻撃を完全に防ぎきるのには間に合わなかった。井上さんの竹刀が、アカリの面を捉える。

 主審の右腕、赤い旗が上がる。思わず、また立ち上がってしまう俺。上がっている旗の数は――一つ。よかった……、辛うじて有効打突には至らなかったみたいだ……。

 どうやらアカリは寸前に体を逸らし、首を後ろに倒して、相手の打突をずらしたようだった。その結果、竹刀が面金に当たり有効打突にはならなかった(と、判断した審判がいた)。

 試合終了まで残り二十秒――十九――十八、刻一刻と近づいて来る。

 残り僅かの時間だが、アカリの体力はもう限界に達している。井上さんが一本を取るのにはそれで十分な時間だろう。固唾を呑むような展開に立ち上がったまま手を握りしめる俺。考えることを止め、ただこの瞬間だけ乗り切ってくれることを祈ってばかりだった。

 すると、その祈りが通じたのか……どうかは分からないが、幸か不幸か、ここに来てアカリに一つのアクシデントが発生した。

 井上さんはアカリに止めを刺す為、足を止めずに続けざま面を仕掛けようとする。

彼女が踏み込んできた瞬間――アカリは、尻もちをついて転んだのだ。

 転倒したアカリの位置は井上さんのちょうど足下。井上さんは避けようとするが前進の勢いを相殺できず、アカリの体に足を巻き込んで彼女自身も転んでしまった。

「アカリっ……!」

 思わず観覧席の柵ギリギリまで身を乗り出して駆け寄る俺。

 井上さんがアカリの真上に覆いかぶさっている――試合中の転倒事故でけがをすることは稀ではあるが、決してありえないことではない。アカリに井上さんの体重がモロに掛かっているから、打撲とか骨折とか……何か大きなけがをしたかもしれない……。

「止め!」

 すぐに審判の号令で試合が中断される。周りから女子の第一試合を見学していた人たちのざわつきが聞こえてきた。

「立てますか?」

 主審が片膝をついて選手二人に声を掛けた。先に井上さんが「……大丈夫です」と答え立ち上がった。

「あなたはどうですか?」

「あたた……。すみません、私も大丈夫です」

 お尻を擦りながらぺこりと頭を下げ、アカリもまた立ち上がった。

 よかった……、大きなけがは無いようだ。

 俺はほっと一安心して「ふぅー……」と息をつく。その様子を愛が、何やら物言いたげにジッと見ていたので「なんだよ?」と睨み返してやった。

「……あんな何もないところで独りでにすっ転ぶわけないでしょ? わざとよ、わざと」

「わーってるよ、そんなことは。でも心配だろ? ちゃんと受け身とれてないかもだし」

 愛の言った通り、相手に体当たりされたわけでもないのに転ぶようなことは普通はない。試合場は板間だし躓くような物もない。自分の袴の裾を踏んで転ぶこともあるが、アカリの袴の丈はあっているのでそれもない。ということは、アカリは自分でわざと転んだ意外にない。

 その目的は単純明快、時間稼ぎだ。残り数十秒の僅かな時間を耐え忍ぶ為、アカリが練り出したアドリブだったというわけだ。そしてそのアドリブは見事に功を成した。

 審判の「始め」が掛かり、試合が再開される。――が、選手二人が動き出すよりも先に試合終了のアラームが鳴った。

「止め! 勝負あり!」

 長かった中堅戦、そして初心者組の試合がようやく終了。桜ヶ丘側の白い旗が上げられ、両選手退場した。

「……土壇場でよく思いついてくれた。さすがはアカリだ」

 これで桜南は当初の作戦通りリードしたまま副将戦を迎えられた。 

 桜南の勝利まであと一歩というところまでついに来た……。王手は少しだけ遠のいたものの、残りの試合二つとも引き分け以上でこの団体戦に勝つことができる。

負けてしまったとは言え、アカリは理想の形でバトンを繋いでくれた。

 試合はいよいよ後半戦に差し掛かった――

 

「ごめんです……。一本取られちゃいました……」

「いいのよ。相手はもう何年も剣道やってる熟練なんだから、実質こっちの勝ちみたいなもんよ。……あとは任せなさい」

 試合場脇でミユさんはアカリとそんなやり取りをしてから、いざ出陣。実に堂々とした立ち居振る舞いで悠々と入場した。

 相手が礼をするのを待って、続いてミユさんが立礼する。まるで自分の方が立場は上だと言わんばかりだ。気圧されないように殊更そうしているのか、ただ彼女が無礼なだけなのかよく分からない。

 ただ、事ここに限ってはそんなミユさんの態度が頼もしい気がした。  


 副将戦――相手は、ミユさんと同じく後の先を得意とするタイプの高町さんだ。

 俺が桜ヶ丘の稽古を見学していたときには、地稽古で相手の出方を窺い試合の中盤から後半で詰めていくような剣道をしていた。そういう意味でも、ミユさんとは似かよったタイプの選手だと思う。ミユさんも、ガツガツ攻めていくよりかは、相手の弱点を探す戦い方をする。

 そしてその俺の予想は当たっていたようで、開始数十秒間は相手に目立った動きは見られなかった。

 高町さんは、最低限の攻め、最低限の動きで、ミユさんの動きを観察する。彼女は竹刀をカチカチと擦り合せて中心を奪い、ときにはフェイントを織り交ぜて何とか相手の隙を作ろうとする。しかし、これにミユさんは全く動じない。

 考え方が似ているからだろうか? 高町さんに攻める気が無いことが感覚的に分かっているようだった。

 当然、そうしている間にも時計の針は進んでいる。このまま時間を使い切れば副将戦は引き分けで終わり、試合は動かずそのまま大将戦。そして、そうなると困ってしまうのは桜ヶ丘だ。

「さっきも言ったけど、桜ヶ丘には強豪なりのプライドや立場があるからな。地区大会の第一試合なんかで苦戦してられないんだ。ましてや、負けるなんてありえないこと。だから彼女たちにしてみれば、どうにかこの悪い流れを断ち切りたいはずだ」

 試合に勝つだけならば、例え副将戦が引き分けだったとしても、大将戦で勝てれば二勝一敗二分で問題ない。しかし無名校相手に序盤劣勢、ようやっと辛勝となれば後の試合や大会に響きかねない。最悪、現スタメンの評価が下がり、レギュラー総入れ替えを食らう可能性だってある。となれば、高町さんとしては多少無理をしてでもここはリードを掴みたい場面だ。

「……自分たちの積み上げた実績が仇になるとは、まさか思ってもみないでしょうね」

 愛は顎に手をやって何やら考えるような仕草をする。

 今まで感覚的に試合をしてきた彼女にとって、今のこの状況は特異に映るのかもしれない。自分の評価がどうとか、相手がどうだとか、そんなことは愛にとって些末なこと、いや……眼中にすらなかったろう。

 ただ試合だから相手をする、そして勝つ。それ以上の余地は無い。最強のメンタリティだ。しかしそこまで割り切った性格をして、尚且つ実力を持ち合せた人間など、例え全国クラスの強豪にだって愛以外にはそういない。

 それは高町さんも例外ではなかったようで、時間が経つにつれ、最初の様子見の剣道から一転して無理攻めが目立ち始めた。

「やぁぁぁぁ! めぇぇぇぇぇん!」

 高町さんは駆け引きを諦め、竹刀を構えてすぐに面を打つ。そして矢継ぎ早に引き面、ミユさんが間合いを詰めてきたところをまた面と、立て続けに攻撃を仕掛ける。

 一方ミユさんは、冷静にそれら全ての攻撃を一つまた一つとテンポ良く受けていく。攻め方がワンパターンだから次の相手の行動を読みやすいのだろう。

 次第にそれを高町さんも察したようで、少し毛色の違う攻め方を見せ始める。

 鍔迫り合いから高町さんが引き面を打つ――と見せかけて、引き胴を打つ。面を防ごうと腕を上げると胴が空くので、そこに打突するフェイント技だ。

 でもこれはミユさんが試合でよく使う技の一つでもあった。だから竹刀を振り下す軌道で始めの面がフェイントだと察し、脇を閉めて胴を防いだ。竹刀が右肘に当たってミユさんの動きが一瞬止まる。よほど痛かったのだろう。しかし、当然肘は打突部位ではないので、有効打突にはならない。痺れるように痛む右手を振りながら、ミユさんはゆっくりと間合いを詰めていった。

 残りの試合時間は一分二〇秒余り。そろそろ、相手の焦りも良い具合で高まってきた頃だろう。仕掛けるならこの辺りか。

 ミユさんもちょうど同じことを考えていたらしい。構えを合わせてすぐに動きがあった。

 竹刀の剣先が交わった瞬間、ミユさんは飛び込むように面を打った。

 ミユさんは今まで積極的に攻めることをしなかった為に、攻撃を警戒されていなかった。高町さんは不意の打突に虚を突かれ足が止まる。すんでのところで防ごうとするが、これは――

 バサッと副審の旗が一つ挙げられた。「やった……!」、俺は思わず拳を握るが、しかし他二人の審判が両旗を手元で左右に振る。今の打突は無効――そう判断されたようだ。

「っ……、少し浅かったかな。惜しいなぁ今のは」

 声と体、そして竹刀がキレイに一致した良い面だったが、仕掛けたタイミングが早かった為に間合いが遠かったようだ。

「あれだけ際どい面打たれたら、肝冷やすでしょうねー」

 愛は何気ない感じでぽつりと呟くが、実際その通りだと思う。

 この一撃でミユさんは受けるばかりの剣道だけでなく、攻めることもできるということが相手の意識に植え付けられた。

 相手の取る行動の選択肢が増えたということは、それだけ読みが難しくなったということだ。そして読みに時間を使えば使うほど、この一戦で巻き返しを図る桜ヶ丘には一層不利な状況になる。

「今の高町さんは考えることが多すぎてきっと混乱しているはずだ。そうなると自然に足が動かなくなるから、そこに隙ができる」

 愛みたいに直感で剣道をするタイプならまだしも、彼女は頭を使うタイプだから余計にそうだろう。

 ――試合時間が残り一分を切った。

 高町さんの足捌きがふら付くようにあっちへこっちへ揺れる。きっかけが掴めない所為で攻め倦んでいるのだろう。その迷いがそのまま足捌きに表われているのだ。

 そして、そのサインを見逃さないのが、我らがミユさんだった。

「こてぇぇぇぇぇ!」

 ミユさんの小手打ちは高町さんの鍔元でガチャンと当たる。当然一本にはならないが、技の成否を判断する前にミユさんは二歩目を踏み出していた。

 連続技だ――そう俺が思うよりも先に、高町さんは竹刀を上げて防御の姿勢を取っていた。次鋒戦、中堅戦と、目の前でしつこいくらいに見せられた連続技の小手面打ち。それを嫌でも意識していた高町さんにとって、次の面を防ぐことは容易だった。

 ――が、竹刀の軌道が斜めに逸れた。ミユさんの踏み込んだ足、体が右に逸れた。

 面じゃない。ミユさんが狙ったのは――胴だ。

「どおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」

 手応えがあったのだろう。手元の感触で一本を確信したミユさんは、ここぞとばかりの声量で発声した。

 当然と言うべきだろうか。面の防御の為ガラ空きになった胴に決められた見事な打突に、瞬時に赤旗が三つ挙げられた。

「胴有り!」

 審判の号令と共に、試合表に丸に囲まれたドの文字が刻まれた。先制一本、これで桜南はますます優勢になり桜ヶ丘をつけ離した。

 ミユさんの頑張りに桜南のみんなは大きな拍手でたたえる。遠くから見ていてもその喜びようが伝わるくらい大袈裟な拍手だった。

 一方、高町さんはというと『やってしまった』感がすごかった。審判の号令が掛かっても、しばらくその場でうな垂れているくらいだった。

「……この試合はもらったかな。ちょっと悪い気もするけど、あれはしばらく立ち直れないだろう」

「残り時間が少ないこのタイミングで一本取られちゃあ痛いでしょうね。止め、刺しちゃったんじゃないの?」

 自分の後輩に向かってなかなか冷たいことをさらりと言い放つ愛に若干引き気味になる俺。才能にあふれた奴ってのは、こうもドライになれるもんなんだなぁ……。

 しみじみとそんなことを考えていると、桜ヶ丘陣営が何やらザワついているのに気が付いた。剣道では試合中のタイムアウトも選手交代も認められていないから、こうして控えに動きがあるのは珍しい。

 いったい何なのだろうかと思い目を細めて注視してみると、動きがあったのは選手の方ではなく監督の方だった。

「……? 何やってんのかしら、あいつ」

 愛は怪訝そうに顔をしかめているが、それも無理はない。交告先生は、なんと自分の学校の試合中にも拘わらず、その席を立ったのだ。選手たちの試合を見守ることを放棄して、試合場どころか道場から出て行こうとしていた。

 そしてそれに一番愕然としていたのは、他でもない桜ヶ丘の選手たちだった。

 黙っていきなりその場を離れる顧問に、選手たちはビクッと体を跳ねさせて驚いていた。先鋒の木崎さんが追うか追うまいか、他の選手に困った顔で視線を送った。

 それがまるで伝染するかのように、補欠や後輩の子たちもみんなお互い顔を見合わせて不安そうにしている。試合中の高町さんも、茫然とその場に立ち尽くし交告先生の背中を見つめていた。

 試合場周辺にしばし騒然とした異様な空気が流れる。審判ですら、しばらく高町さんに声を掛けるのをためらうほどだった。特に主審の先生は若い方だったから、ベテランの交告先生の意外な行動に桜ヶ丘の子たち同様ギョッとしたようだ。

「これじゃあホントに止めになっちゃうぞ! なんであんな酷なことを!」

 桜ヶ丘の子たちほどではないが、俺もかなり面食らって隣に座っている愛の肩をぶんぶん揺らす。すると愛は、揺れながら「知らないわよ……」とウザったそうに答えた。

「……もしかして、発破かけてる、とか?」

 愛が俺の顔を押しのけながら、思いつきみたいにそんなことを言った。

「発破ぁ?」

 意味がよく分からなかったので聞き返すと、愛は「今に分かるわよ」と珍しく意味深なことを言う。

 その言葉に従ってしばらく様子を窺っていると――


 パァン! と、大きな破裂音が会場内に響いた。

 

 その音は、おもむろに立ち上がった鎬木さんが、両の手を打った音だった。騒然としていた会場内が、水を打ったようにしんと静まりかえる。

「な、なんだいったい……?」

 交告先生の後を追うのだろうか? しかし鎬木さんは大将だから、次に試合が控えている。追うにしたって他の人の方が良いだろう。補欠の選手とか後輩とか。

 しかしそんな俺の予想と反して、鎬木さんの取った行動は、審判の先生方にぺこりと頭を下げただけだった。

「お騒がせしました」

 そうひとことだけ言って、鎬木さんは実に堂々とした仕草で座り直してしまった。

 それを受け、主審の先生が思い出したようにこほんと一つ咳払いをした。

「……試合を再開します」

 促されてミユさんは構えを正す。しかし高町さんはすぐにそうしようとはせず、「あの……」と控えめに手を上げて主審に伝えた。

「面を付け直してもいいですか?」


 試合場の端まで下がり、高町さんはそこに正座して面を脱いだ。溜まっていた熱気が解放され、彼女は頭に巻いていた手拭いで涼しげに汗をぬぐう。

 そして高町さんは――パァンと、自分の頬を叩いたのだった。鎬木さんがしたように。鎬木さんが両手を打って周りを鎮めたように、彼女は自分の焦燥感を鎮めた。

「これが……お前の言ってた発破の意味か」

「多分ね。ここまで良いようにやられて黙ってられるような行儀の良い人じゃないですから……、あのオヤジは」 

 さすがは何年も直接指導を受けた弟子でもあり、実の娘でもある愛だ。交告先生のことを感覚的によく分かっている。

 交告先生は、あの場を去ることで一度高町さんのメンタルをリセットさせたのだ。

 不甲斐ない選手たちに怒った、或いは呆れたように見せて、高町さんの頭の中を真っ白にさせた。その上で、彼女が立ち上がるかそのまま萎縮するか、交告先生は前者に賭けた。

「下手したら彼女はもっと動揺してしまっていたかもしれない。ひょっとしたら、今後の選手生命にも関わるトラウマになっていたかも……」

 しかし高町さんは、そうはならなかった。冷静に場を鎮めた鎬木さんの姿を見て、交告先生がなぜ道場から去ったのか、その真意を考えた。

 鎬木さんは狼狽える桜ヶ丘の選手たちを嗜めることで、『追う必要はない。先生は私たちを見捨てたワケじゃない』と言外に伝えた。

そして交告先生のあの行動は、高町さんの頭を一度冷やさせるための手段だった。

「剣道にタイムは無い。そして外から声を掛けることも許されていない。……交告先生のあの行動は、この二つの規則を守りつつも高町さんにメッセージを送るためのものだった、ということだな」

「ま、出たとこ勝負で思いつきを試してみたら、たまたま鎬木が後押ししてくれたおかげで上手くいった。……ってのが、ホントのとこでしょうけどね」

 愛はハッと吐き捨てるように言うと、「あのオヤジが、そこまで考えてたとは思えないですから」と付け足した。交告先生には悪いけど、それには俺も同感だった。

「ただ、これで状況はひっくり返された、……とまではいかないけど、五分に戻されたわけだ。得点的にはリードはあるけど、先鋒戦から苦労してお膳立てした『桜南の流れ』は消えた」

 高町さんが、キュッキュッと傍まで音が聞こえてきそうなほど、面紐を固く結び終え、そして立ち上がった。その場で立礼し、開始線の位置まで戻る。その歩みに淀みや迷いは見られない。

 試合時間は残りたったの三〇秒だが、この僅かな時間を乗り切れるか、分からなくなったかもしれない……。

「始めぇ!」

「「やぁぁぁぁぁぁ!」」

 審判の号令とほぼ同時に気合いを上げる二人。その闘志は互角、と言いたいところだが、僅かに高町さんの声量、迫力が勝っているような気がした。

 すぐに間合いを詰めに掛かるミユさん。出鼻を挫かれたと感じているのは、彼女も同じだったらしい。気力で後れを取るものかと、殊更に攻めっ気を見せる。

 対する高町さんは、やはりと言うべきか至って冷静だ。不用意に竹刀を動かそうとはぜずに、相手の喉元を剣先で捉えたまま、あくまで中心を外さない。

「これってもしかして……、さっきまでと立場が逆転した?」

 本来のスタイルとは違った攻めの剣道をするミユさんと、ブレずに自分の受けの剣道をする高町さん。試合開始の状況が、そっくりそのまま入れ替わっている。

 もちろん偶然だとは思うけど、俺が高町さん対策で考えた作戦をやり返されてしまっているのだ。

「つっても、もう時間は無いでしょ? 高町だって悠長には構えてられないじゃないの?」

「そのはずなんだろうけど……」

 高町さんは慌てることなくどっしりと構えている。その不敵な佇まいは、何か策でもあるのだろうかと余計なことを勘ぐってしまう。

「……ただ、今のこの状況はミユさんにとっては攻め時でもあるんだ」

「……は? どういうことですか?」

 何言ってんだこいつみたいに眉を寄せて、愛が聞き返してくる。……張り倒してやろうか。

「いいか? 今、桜南は一勝一敗一分、勝本数が二つだ。つまりミユさんが追加で一本取れれば、桜南の勝ち。桜ヶ丘が例え大将戦で二本負けしたって勝本数が足りないからな。……こんなとき、お前だったらどうする? 相手が急に攻めるのを止めて、かつ残り時間か少ないこの状況でだ」

「どうするって、そりゃダメ押しするでしょ。あとたった一本取れば勝ちなんだから。やり返されるリスクも少ないし」

「それが攻め時ってこと。……お前はわざわざ教えてやらなきゃ、勝本数なんて気にもしてなかったけど、ミユさんはかしこいからな。その辺りのことはちゃんと理解しているはずだ」

 皮肉気味に言ってやると、愛はムッと頬を膨らませる。

「じゃあ別にいいじゃないですか。立場が逆転したってピンチでもなんでもないじゃない」

「そうとも言えない。……問題なのは、それに相手が勘付いているかもしれないってことだ」

 ミユさんが、剣先で相手の構えを崩そうとしている。相手の中心を外して攻撃するタイミングを計っているのだ。

 しかし高町さんはあえて好きなようにさせている。わざと中心を外して隙を作っているのだ。これは、こころが先鋒戦でとった作戦と同じ……。

「まずい! ダメだミユさん!」

 俺は思わずそう声に出してしまった。……が、当然その声が試合場のミユさんに届くはずがなく、彼女はすでに右足を踏み出していた。

「めぇぇぇぇぇぇぇん!」

 果敢に面を狙いにいくミユさん。

 しかしそれとほぼ同時に、高町さんの竹刀が跳ねた――

「こてぇぇぇぇぇ!」

 ミユさんの技の起こりを狙って放たれた小手――出鼻小手が、面を打つために振り上げられた腕を捉えた。

「小手あり!」

 白旗が三つ、瞬時に上げられた。 


 残りの数十秒のどちらが一本取るでも無く、そのまま試合が終了した。

 副将戦は引き分けに終わった。つまり、この試合の勝負の行く末は大将であるヒバに委ねられたわけだ――

「………………ごめん。ちょっと欲張っちゃった。楽させてあげるつもりだったのに……」

「ううん、そんなことない。いい試合だったよ!」

 申し訳なさそうに頭を下げるミユさんの肩をぽんぽんと叩いて励ます。

 それを受けてミユさんはふっと微笑すると、「頑張ってきなさい」とそれだけ言ってヒバの背中を小さく押した。

「うん。必ず、必ず勝つよ」

 ヒバは振り向くことはしなかったが、試合場へと歩みを進めながら小さく頷いた。

 そして試合場の脇で、向い側に立つ相手の大将と対面する。

 ……いったいどれほどのプレッシャーだろうか。

 ヒバの双肩には桜南剣道部の存続が懸かっている。その上、鎬木さんの放つあのオーラだ。女子中学生とは思えないほどの体躯、そして先ほど交告先生が離れたときに見せた敢然とした様。彼女がどういった選手かはこれまでの稽古で伝えてきたが、今ここで初めて試合相手として向き合って感じる威圧感は凄まじいだろう。

 俺は観覧席の柵に寄りかかって、試合場にぎりぎりまで近づく。本当はすぐ傍で応援してやりたいのに……、歯痒い。

 これから雌雄を決する戦いに出陣するヒバに、何かせめてものエールを送ってやれないかと逡巡していると――ふと、彼女と目が合った。道場からヒバが俺を見上げているのだ。

 面越しだし、距離もあるしでヒバの表情はこちらからでは窺えない。だけれど、それが彼女のサインであることが俺には分かった。

 ……震えているんだ、ヒバは。みんなの期待を背負って戦うことに怯えている。

 ヒバは細山の挑発に喰ってかかった。今度の試合で勝てたら俺と稽古させてくださいと直談判してきた。面をひとたび被ればみんなの先陣を切る立派なリーダーだった。

 だけど、そんなヒバだって、顔には出さないけどやっぱり心細いんだ。主将だから気張っていたけど、彼女はまだ十三才の女の子だ。不安になるときだってもちろんある。ましてや、こんな大事な試合で緊張しないわけがない。

「何か言ってあげたら? まだ試合も始まってないし、審判もうるさくは言わないでしょ、たぶん」

 俺の考えていたことそれとなく察したのか、愛が後ろから声を掛けてきた。

「……そうだな。それじゃあ……」

 俺は親指を立てた手をぐっと突き上げ、

「ファイトォー? まもりぃー?」

 と、目いっぱいの大声で声援を送った。それはもう目いっぱいだ。

 残念ながら俺は、多感な年ごろの女子中学生に気の利いたことが言えるほど人生経験を積んでいるわけではない。だから『ファイト』とたったそれだけしか言ってやることができないが、できない分は声量で補った。滅多に見せない曇りの無い笑顔で、表情に出した。ヒバが気持ち良く試合ができるように、自分の元気を全部彼女に届けた。

 すると、ヒバは少し驚いたような仕草を見せたが、すぐに手を上げて俺の声に応じてくれた。そして、ぱんぱんと自分の面を両手で叩いて気合いを入れ直す。

 もう彼女の様子からは、怯えや迷いは消えていた。

 よかった、何とか勇気づけられたみたいだ。

「何か言ってあげたらとは言ったけど……、周りの目が気になるからここから試合見てんでしょ? 目立ってどうすんのよ……」

 ……うっ、そういえばそうだったか。確かに周りの目が少し痛い気がする。少し隣で静かに試合を見ていた父兄さんたちが少し引き気味だった。

「……まぁいいよ、俺なんかのことは。あの子たちが気持ち良く試合できれば、後のことは些末な問題だ。特にこの試合は桜南の命運が決まる大勝負であり、大トリだ。ヒバには気持ちに余裕をもって、力を出し切れる試合をして欲しい。……できるだけ桜ヶ丘の子たちには顔を見せたくなかったけど、その為には仕方ない」

 泣いても笑ってもこの試合で最後だ。

 ……ヒバ、結果的に一番辛い役割を任せることになってしまったけれど、お前ならきっと大丈夫だ。

 俺が初めてみんなの稽古に参加したときに見た、お前の正面打ち。今から思えばあの面は、剣道を諦めていた俺に強く訴えかけるものだった。

 あの面をもう一度見たい、あの面を打ちたい、あの面を打てる選手と稽古がしたい。そう思わせるほど見事なものだった。

 正直、あの面に比べたら桜ヶ丘レベルの技なんて相手じゃない。鎬木さんの技だって、体と身体能力に物を言わせた、言ってしまえばゴリ押しに過ぎない。技術力で言えば、お前は相手に圧倒的な差をつけているんだ。

 俺があのとき見惚れてしまった正面打ちを、今またここで見せてくれ。


「……始めぇ!」

 最後だからか、主審の号令が先ほどまでよりも気合いが入っているように感じられた。

 蹲踞の体制からゆっくりと立ち上がる大将二人。まず目立つのが、その体の大きさの違いだった。

 身長差もそうだが、鎬木さんの構える様は、まるでどっしりとそびえる山のようだ。大人の俺から見てもその体制を崩すのは容易ではない。

 鎬木さんの攻略は、この隙の無い構えをどうたって攻め崩すかの一点に掛かっている。中途半端な打突では相手に届かせる前に応じ技を決められてしまうだろう。

 ヒバは慎重に一歩ずつ間合いを詰める。そうすることで相手の射程圏内を確かめているのだ。迂闊に間合いに入ってしまえば瞬く間に正面打ちが飛んでくる。気づいたときには一本取られていましたでは遅い。

 対する鎬木さんは、特に変わった動きは見せていない。間合いはヒバのペースに合わせた詰め方だ。

 お互い向き合った状態のまま、真っ直ぐと相手へと進んでいる。中高の剣道にありがちな右へ左へ動くようなフットワークは見られない。左右方向への足捌きは急な相手の攻めに対応できないからだ。前にも後ろにも進めないから、応じ技を仕掛けることも逃げることもできない。

 のっけから無駄な動きが一切省かれたレベルの高い試合展開に俺は息を呑む。いや、この試合に注目している選手、あるいは審判陣や観客みんながこの異様な雰囲気を感じ取っているはずだ。桜南は、もはや油断できるような相手ではない。

「やぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 お互いの剣先が交わるよりも先に、鎬木さんが気合いを発した。腹の底に響くような低い声が会場内に反響する。

 そしてヒバはそれに敏感に反応した。気合いというのは自分を奮い立たせると共に、こっちはいつでも仕掛けられるぞという相手への意思表示でもある。つまりは、鎬木さんの射程圏内までヒバが侵入したのだ。

 当然遠間から一方的に打たれるのは圧倒的不利なので、それを察知したヒバは一気に竹刀が交差する距離まで詰めた。身長が低いヒバは、逆に相手の懐に潜り込むほど有利になる。長すぎるリーチは、近間の打突では竹刀が深すぎて一本にならない。

 ただ、そのことは鎬木さんにとっても承知の上だったようだ。鎬木さんは自分の竹刀でヒバの竹刀を上から封じ、かつ喉元を押さえて中心を外さない。

 ヒバは何とかして面を仕掛けにいこうとするが、相手の竹刀がつっかえて邪魔で上手くいかない。やむなく、再び間合いを取ることを強要されるヒバ。

 両者、竹刀の縁が切れるまで後ろに下がる。

 一歩――二歩――そしてお互いの剣先が離れる三歩目のすり足で、ヒバが仕掛けた。鎬木さんの引き際を狙い、正面打ちを放ったのだ。

 しかし、このタイミングでの攻撃を鎬木さんは予見していた。彼女はその場で右足を踏込み、向かってくるヒバに対して真っ向から『面』で対抗する。

ヒバと鎬木さんの正面打ちがほぼ同時に決まった――

「相面だ! ……どっちだ?」

 慌てて審判三人の旗を確認するが、赤と白そのどちらも上げられていない。

審判的には今の相面は両者無効ということらしかった。

「……鎬木の面が先に当たっていたような気がしましたけどね」

 目を細めて見分するような仕草をしながら、愛がそう言った。

「先に当たっていたのは確かに鎬木さんだろうけど、竹刀が深すぎて一本にならなかったんだ」

 相面は後手に回った方が深間になりやすい。仕掛けたときには相手が前進し始めているから、その分詰まってしまうわけだ。ましてや、鎬木さんは腕が長いからなおさら。

 鎬木さんはそれも考慮して踏込足を前ではなくその場で行ったみたいだが、計算していたよりもヒバの跳躍力が高かったらしい。その結果、深間になってしまったというわけだ。

「……しかし、いくら身長差があるからといっても、ヒバ相手に後手から先に面を当てられるのは脅威だな」

 相面のコツは、相手の未来位置に向かって打突することだ。多少計算違いだったとはいえ、踏込足の調整も含めて鎬木さんの相面の技術力は相当高い。

 それに加えて先に言ったようなリーチがあるわけだから、彼女に面で打ち勝つのはかなり難しいだろう。

「でも逆に言えば、それだけ面に自信があるってことだから、そこが狙い目でもある。面の起こりを捉えて出小手や抜き胴を狙うのが真っ当な戦い方だろうな」

「……そりゃそうだろうけど。でもあいつはそんなタイプじゃないでしょ。初めて試合したときは、見かけによらずガツガツ来るからちょっと意外だったわ」

 愛がヒバの方に視線を向けながら、呆れるようなうんざりするような微妙な表情を浮かべる。

 ……そうなんだよな。基本的にヒバは、例えばミユさんや高町さんとは違って応じ技を積極的に狙うタイプではない。常に自分から、ハングリーに相手を攻め立てる先の先タイプだ。タイプの違うヒバがそれを下手に真似したところで上手くいくとは思えない。

 無論、ヒバなら応じ技だって完璧に近い形で打てるとは思うけれど(今まで応じ技の稽古をずっとしてこなかったわけじゃないだろうし)、しかし相手は鎬木さんだ。慣れない攻め方をしてここぞというタイミングを逃せば、逆にあっと言う間に一本奪われてしまうだろう。

「……この二週間の稽古でも、だからヒバには応じ技で打ち勝つ方法はあえて教えなかった。付け焼刃が通じる相手じゃないからな」

 俺の大将戦の作戦は――作戦は、……正直分からんかった。

 いや、分からんかったというよりも、ヒバのポテンシャルでは副将戦までに使ったような小手先の小賢しい手段は、彼女の実力に水を差すようなことになりかねない。

 それよりも愛のような格上の選手と試合をさせて、目と感覚を慣れさせ自力を伸ばした方がいいと俺は思った。

「早い話、丸投げしたってわけね」

 何やら意地の悪い微苦笑を浮かべて愛が責めてくるが、何もそういうわけじゃない。

 当然だけど、試合稽古ばかりさせて何も技術的指導をしないんじゃ俺が稽古に参加している意味がないからな。

「ヒバにはとにかく、試合で打つ面のコツを教えたんだ」

「試合で打つ、面? そりゃあ試合で使う以外に他に無いでしょうよ」

 愛が、「はぁ?」とばかりに片方の眉を吊り上げて指摘してくる。頼むから話を最後まで聞いてください……。

「いくら稽古でキレイな打突ができたとしても、試合でも同じようにできるとは限らないってことだ。そして、例えそれができたとしてもそれを相手が素直に打たせてくれるとは限らない。現に今だって、鎬木さんは自分の有利な間合いをずっと維持しているから、ヒバはまだこれといって攻めきれていない。そういうその時々の『状況』が関わってくるから、試合で打つ面……というより技だな、試合で打つ技と、稽古で打つ技は違うんだ」

 ヒバに教えたことは大きく分けて三つ。

 一、防御を崩してからの面。

 二、出鼻面。

 三、相面。

 これら三つの機会を制するためのコツをヒバには教えた。

 試合で面が決まる機会というのは大体この三つに絞られる。

 相手の受けの意識外から打つか、相手の起こりを捉えるか。そして相手の面に合わせてそれに打ち勝つか、だ。

 適当に速さを押し付けて一本を取るような手法は必ずどこかで限界が訪れる。

 その為には今挙げた三つを意識しないと、熟練者相手に面で一本を取ることは難しい。

 そこへ行くとさっきのヒバの相面は際どかったけど、教えたことは守れていたように思う。

 相面のコツは、相手の中心を割ることだ。頭のど真ん中を打つ技なんだから、より中心に近い方が打ち勝つのは当然。

 打突の瞬間に構えを中心に抑え、相手の竹刀を逸らす。そして踏み込む足を前ではなく、左前に出す。ちょうど右足のかかとと左足のつま先が一直線になるように。

そうすることでど真ん中に差し込むような面が打てるのだ。

 ただお互いに詰め合う相面の場合、ほとんど腕を伸ばしただけで竹刀が打突部位まで届いてしまう鎬木さんの方が圧倒的に有利である。くどいようだけど身長差ってのは、剣道に置いてそれほど大きなアドバンテージなのだ。

「だからやっぱり、相面よりかは出鼻面で勝ちたいところなんだけど……」

 今、ヒバは相手の予備動作を捉えようとしている。十分な間合いから。相手が攻撃に転じるその起こりに面を打てば、ヒバの速さがあればまず確実に一本が奪える。

 その為に相手が足を動かした瞬間をヒバは果敢に攻めていこうとするのだが、やはり間合いが遠くて一本には届かない。

 かと言って近間まで詰めようものなら、先ほどのように中心を押さえたり、くの字防御と言われる(右の小手を見せながら腕と竹刀でくの字を作る)防御法を使って打たせない。そうしながら逆に間合いを自分から詰めて行って、ヒバからも打てないような間合いになったら、相手から距離を取らせる。徹底して近間での交戦を避けているわけだ。

 遠間からでは届かない、近間ではそもそも攻めてこない所為で出鼻も何もない。

こうなると出鼻面も使えない。

「まずいんじゃない? まるで自分の剣道をさせてくれてないみたいだけど」

「……そうかもな。いつも活発に攻めていくヒバが抑え込まれてる。このままヒバが受けに回ってしまうようなことがあれば、一気に試合が動いてしまうかもな」

 無論、悪い方向に。

 ただヒバだって何も万策尽きたわけじゃない。出鼻面も相面も鎬木さんとは相性が悪そうだけど、まだ試せることはある。

 ヒバの攻めの手が緩んだのを見て、鎬木さんが面を仕掛けてくる。ヒバはこれに対して面を受けて返し胴を打とうとするが、鎬木さんの前進量が大きい所為か、それともやはり使い慣れていない所為か、手元で詰まって打突が深くなりすぎた。胴は打突後に相手の右側に逸れるように走り抜けて残心をする必要があるということもあって、当然一本にはならない。そのまま二人は鍔迫り合いに移行した。

 鎬木さんはヒバの体制を崩そうとするが、ヒバがそれに必死に耐える。激しい押し合いにも負けじと食らいつくヒバを厄介に思ったのか、鎬木さんの方から間合いを取った。

 互いの竹刀が相手の喉元に触れるぐらいまで下がると、鎬木さんはヒバの面垂れを突いて更に後ろに下がらせようとする。先ほどのような引き際の面を警戒してのことだろうか。先に当たっていたのは鎬木さんのように思えるが、彼女にとってもまた肝を冷やさせる相面だったらしい。

 反抗して竹刀を体でぐいぐい押し返しても間合いは詰まったまま拉致があかないので、ここは素直に後ろに下がるヒバ。しかし下がり過ぎてはまた鎬木さんの得意な間合いになってしまうので、一足一刀の間から一、二歩程度後ろに留めたようだ。

 なるほど。確かにこれぐらいの間合いなら、鎬木さんの得意な遠間とは言えず、かつ完全な近間とも言えないので勝負がしやすい。

「もしかして、ヒバは鍔迫りを利用してこの間合いまで誘導した……?」

 さっきの胴は一本にならないのを見越した上で仕掛けた。その上で鍔迫りに持ち込み、先に鎬木さんの方から離れるのを待って、安全にこの間合いまで入り込んだ。

 その方が遠間から詰めていくよりも、断然打たれる心配がないからだ。

 ……と、いうことは、ヒバはここで勝負を掛けようとしている?

 そう俺が勘付いたときには、すでにヒバは動きだしていた。鎬木さんがこの間合いすら嫌って、あくまでも自分の間合いである遠間に徹しようとする前に。

 ヒバは竹刀を下段に下げた。そうすることで、相手に竹刀の下を潜ってくる小手を意識させたのだ。

 鎬木さんは自身の小手を庇い手元を引いてしまう。右手を胸の前に引き寄せ竹刀の左側面でヒバの打突を受けようとしているのだ。そうすることで、返し面に転じることができるから。

 しかしそれこそがヒバの罠。小手の防御、あるいは小手返し面を狙ったその受けは、狙い撃ちするあまり他の技に対しては無防備だった。

 瞬間、ヒバの左足が跳ねた――

「めぇぇぇぇぇぇん!」

 ヒバの竹刀が、鎬木さんの面を捉えた。


「よっしゃぁぁぁぁ! これでヒバの先制だ!」

 興奮して隣の愛の背中をばんばん叩く俺。何やら不機嫌そうに顔を歪めているが、ヒバの快挙を前にそんなことは気にならない。

「このまま試合が終われば二対一で桜南の勝ちだ!」

 そして、例え一本取り返されたとしても引き分けなら得本数でこれまた桜南の勝ち。ヒバの圧倒的有利な状況だ。

 絶望的だった強豪桜ヶ丘への勝利が現実味を帯びてきた。

「そう簡単にはいかないと思いますけどね。……って、いい加減うざったいったら!」

 俺の腕を跳ね除けながら、愛が眉をしかめて何やら不穏なことを言う。そして、こうも続けた。

「うちのオヤジが言ってたけど、鎬木を桜ヶ丘の大将に選んだ理由は、打たれ強いかららしいわ」

「打たれ強い?」

「そ、例え相手に先手を取られても動じないことが気に入ったらしいわ。去年、三年に混じってレギュラー入りしていたときも、不利な状況からあいつが持ち直して逆転勝ちってことがよくあったらしいし」

 ま、当然そのときは大将じゃなかったんだけど、と愛は最後に付け足した。

「油断は禁物ってことか。ヒバに限ってそんなことはないだろうけど……」

 気になって試合場の鎬木さんを見やる。確かに慌てている様子は微塵も感じられない。相手からすればかなりの危機的状況なはずなのに、たった今一本を奪われたばかりのはずの鎬木さんは、堂々とゆっくり開始線に戻っていた。

「……愛、一ついいか?」

「何ですか、珍しく神妙な顔つきで……」

 言うか言うまいか迷っていたが、どうしても気になることがあったので俺は愛に尋ねた。

「俺の前では交告先生のこと、パパって言っていいんだぞ?」

「………………シネ」

 愛がぼそっと物騒なことを呟いたと思うと、肩を思いっきりどつかれた。


 アホなやりとりをしている間に、試合が再開されていた。

 結論から言うと、その後の鎬木さんの試合の仕方は愛が教えてくれた通りだった。

 鎬木さんは先手を取られたからといって特に変わったことをするでもなく、今までと同様に間合いを保ちつつ適度に攻めて適度に守る戦い方だ。

 不利な状況でも自分のスタイルを貫き通すその様は、彼女の風格も相まってまさに『武人』。リードしているのはこちらのはずなのに、彼女のプレッシャーは俺に嫌な予感をよぎらせる。

 そしてその予感は俺だけのものではなかったらしく、ヒバも感じ取ったようだ。

 先手を取ったからといってこのまま時間が経つのを待つだけでは、いつ寝首をかかれるか分からない。だから受けではなく攻めに回る方を選択したようだが……。

「やぁぁぁぁぁ!」

 ヒバは継ぎ足で一気に一足一刀の間まで攻め込む。いきなり仕掛けることで相手の虚を突き、対応される前に近間から面を打つ――構えた『静』の状態からいきなりの『動』。普通の選手ならその緩急に惑わされて足が竦んでいただろう。

 しかし――鎬木さんは至って冷静だった。鎬木さんはヒバの一歩目、打突に転じるための継ぎ足に合わせて、自身も技を仕掛けにいったのだ。

 仕掛けた技は『正面打ち』。つまりこれは――

「相面だ!」

「「めぇぇぇぇぇぇぇん!」」

 二人の竹刀が交差する。先に打突が決まったのは――

「ヒバだ! 今のは絶対ヒバが決めたろ!」

 興奮で思わず叫んでしまう俺。……だが、そんな俺の昂ぶりとは裏腹に、審判の上げた二本の旗は――『白』だった。

「はぁぁぁぁぁ? なんで? おかしいじゃん!」

 思わず立ち上がって審判を指さしてしまう俺。剣道家としては実にはしたない行為ではあったが、そうせずにはいられなかった。

「ちょっと! 止めなさいったら! 悪目立ちしてどうすんの!」

 愛が肩を押さえて俺を制する。もう少しで試合場まで乗り込むような勢いだったが、そのおかげで若干我を取り戻す。……が、やはり納得がいかないものはいかない。

「あるんだよ……、こういうことがときどき! 剣道の審判ってのはハイレベルな戦いになってくるとどうしても強豪校にひいきがちになる。相面なんて特にそうだ。お互い打突が速いと高段者の審判でもどっちが先に打ったかなんて見えないからな」

 だから打突の先後よりも、機会や気合い、深さや姿勢など他の要素で判断されることが多い。そしてその他の要素の一つの中に、その選手自体の強さがどうしても関わってくるのだ。審判だって人間だから、際どいときには審査に先入観が入り混じってくることだってある。

「でも、それはあなたにだって言えることでしょう。あの子が身内の人間だから、ひいき目で見てしまっているじゃないですか?」

「いや、それは……」

 愛が珍しく妙に鋭いことを言うので、俺は口ごもってしまった。

 ……確かに、俺がヒバの面を完璧だと思っているあまり、審判が見逃さなかったヒバのちょっとしたミスに気が付かなかったのかもしれない。あるいは、ヒバ以上に鎬木さんの打突が洗練されているという事実に目がいっていないのかもしれない。

 剣道は他の野球やサッカーといったスポーツと違って明確に一点入る基準が無い分、ジャッジが難しい。『今の打突は間違いなく一本だった』という判断は所詮個人の主観でしかないから、百人の剣道家が見て百人が一本と答える打突は存在しないし、その逆も同じことだ。

 ただ俺にとっては、今の相面は間違いなくヒバの一本だったのだ。だからそれが原因になってこの試合に負けてしまい桜南剣道部が廃部なんてことになれば……、やりきれない。

 審判にとってはただ旗を振るだけの作業かもしれないが、彼女たちにとっては今後の人生が掛かっていると言ってもおかしくはないんだ。

「そう怖い顔するようなことじゃないでしょ」

「……は?」

 先ほどの判定に唖然としていた俺に、愛がしれっと言い放った。

「確かに一本は取られましたけれど……、上がった白旗は二本。しかもあとの一本は赤が上げられています。それがどういうことか分かりますか?」

「……いや」

 愛の言うことの要領を得なかったので、俺は首を横に振る。すると彼女は、呆れ顔でため息を吐いた。

「思い出してください。さっき一本を取られた相面、そのもう一つ前の相面。鎬木の打突が深かったおかげで一本にはなりませんでしたが……、タイミング的には遅れを取っていました。……それが、あともう一つで一本になるところまで来たんですよ? 何を悲観することがあるんですか?」

 愛は俺にビシッと人差し指を突き立てると、更に捲し立てる。

「だいたい一本取られたぐらいでなんですか? 熱くなったかと思えば急に黙りこくったり……、あんたはあの子たちの『先生』なんだからシャッキとなさいな! もっと堂々としなさい! 堂々と!」

 珍しく声を荒げる愛の姿に最初のうちは唖然としていた俺だったが……、彼女の言葉を聞いているうちに、はっと目を覚めさせられた。

 そうだ、『どーんと構える』んだった。俺にできることはヒバたち桜南のみんなを信じることだけ。

 だというのに、今の俺はたった一本の面だけで悪い予感が脳裏をよぎってしまった。ヒバがみんなの期待と希望を一身に背負い身を削っている中……、俺は最悪の結末を想像してしまっていた。

 愛の言った通り、今の俺は一人の剣道家である前に『先生』なんだ。俺が信じてやれないでどうする。

「ありがとう、愛。……ちょっと冷静になった。そうだよな、俺が慌てたんじゃヒバだって落ち着いて試合できない」

 愛が桜南の稽古に参加してくれたあの日――俺は愛に地稽古に付き合ってもらったが……、無様にも竹刀をしっかり構えることすらままならなかった。

 でもヒバは、そんな俺の情けない姿を見たのにも拘わらず、俺を先生として今日まで指導を仰いでくれたし、その上俺が再び試合できるようになるまで稽古してくれるとまで言ってくれた。

 ヒバが俺を先生として信頼してくれているのなら、当然俺もそれに応えなくてはならない。

 ……俺にできることは、ヒバを、ヒバたち桜南のみんなを信じてやることだけ。

 そして――


× × ×


 鎬木さんから一本を取られたばかりだというのに、私は妙に落ち着いていた。


 残りの時間はどれくらいだろう……。ここちゃんの試合が始まってからもう随分と経っている気がする。時間にすれば三分の試合が五回、それも二本勝ちの試合もあるからたった十分ちょっとのはずなのに、全校集会の校長先生の話よりも時間の流れがゆったりとしている気がした。特にこの試合なんかは、ゆったりというよりも、ぬめりと淀んで自分の体に重々しく纏わりついているような気さえする。

 こんなに時間を気にする試合はいつぶりだったっけ……? 部内で試合稽古するときは勝ち負けにこだわることはなかったし、小学生大会もかなり前のことだし……、長いこと忘れていた感覚だ。

 現状、私と鎬木さんも一本ずつ取っている五分。だけど、団体戦的に考えれば勝本数で桜南が勝っているから、このまま時間稼ぎをして大将戦を終わらせれば私たちの勝ちになる。

 ……ようやくだ。ようやくここまできた。始めはあの桜ヶ丘中学校相手に勝つなんて雲を掴むような話だったけど、士気さんのおかげであと一歩、もう目の前というところまで来れた。そしてその一歩も、私がヘマをすることなく時間を消費できれば……届く。

 たぶん、私が受け身になればこの試合は八割、いや九割方勝てると思う。

 確かに鎬木さんの跳躍力は脅威だ。今まで同じ女の子と戦ってここまで遠間から打ってくる子はいなかった。だから試合の始めは間合いが上手くつかめなくて際どい打突を何本かもらっちゃったし、ついには一本取り返されてしまった。

 だけど、それはあくまで跳躍力に限っての話だ。愛さんに比べれば速さ自体は反応できないほどじゃない。無理に反撃を狙うようなことをしなければ、防御やいなすだけなら十分できる。

 愛さんはそれすらも簡単にはさせてくれなかったから、結局最後まで圧倒されたままだったけど……。

 ――よし、と心の中で呟いて、私は唇を結んだ。

 ここまで構えを合わせてきて分かる。相手に奥の手はない。たぶん鎬木さんも私と同じタイプなんだと思う。変わったことは苦手なんだ。相手の裏をかくことよりも、ただ面を打つだけの方が分かり易くていいんだ。だったら、試合の流れは今までと変わらない。鎬木さんの攻めの機会は、得意距離の遠間と私の打突の瞬間。機会さえ分かっていれば、あとは簡単だ。

「めぇぇぇぇぇぇん!」

 互いの剣先がぎりぎり触れないくらいの遠間から、鎬木さんが面を打ってくる。

 私はそれを竹刀で受けながら、左に右に体をいなして捌いた。

「……………でも」

 でも、本当にそれでいいのだろうか?

 このまま逃げの一手で試合に勝ったとして、士気さんに胸を張って「私、頑張りました!」と言えるだろうか。

 確かに強豪の桜ヶ丘相手にここまで喰いつけたのは士気さんの作戦あってのことだし、今さらそれを無駄にするようなことはできない。受けに回るのは何も恥ずかしいことじゃないし、勝つためにはそれが必要なことだってある。

 何よりも、私たちには負けられない理由がある。この試合には桜南剣道部の存続が懸かってる。私の個人的な感情で、みんながやっとの思いで積み上げてきたものを壊すことはできない。

 ……だけど、私は何か腑に落ちないでいる。

 このまま時間を稼いで試合を終わらせることに、喉の奥で何かが引かっかかるような……、不快感ではないんだけど、何かをしなければいけないような……そんな気がする。

「こてぇ、めぇぇぇぇぇぇん!」

 おそらく残り数十秒、鎬木さんの動きが心なしか機敏になる。もう無駄遣いできるような時間は無いということを肌で感じているのかもしれない。

 私も、あと少しでこのわだかまりの正体を掴めないまま試合を終えてしまう。

 ふと、私は気になって視線を上げた。

 士気さんが……、観覧席からいつの間にかいなくなっている。どうしてだろう?さっきまで私たちの試合を見守ってくれていたのに……、どこへいってしまったのだろうか。

 試合場の周辺を軽く見回して士気さんの姿を探すが…‥、どこにも見当たらない。

 私の試合、桜南剣道部としての私の最期になるかもしれない試合だから、士気さんにはずっと見守っていて欲しかったのに……。

 と、そんな私の一瞬の気の乱れを、鎬木さんは見逃さなかった。

「やぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

「あっ……!」

 そのまま突っ込んくるのかと身構えてしまったけど、鎬木さんは手首をくるりと回転させて、自身の竹刀を私の竹刀に巻き込むようにした。私の竹刀は円を描くような軌道で中心から外れてしまう。

 巻き技……! 鎬木さんは最後の最後で自分の戦い方の拘らないことを選択した!

「めぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇん!」

 ――このままでは負ける。

 直感で確信した私は、決死の覚悟で自ら前に出ることを選択した。逃げるのではなくて、逆に前に出る。相手の竹刀の根本まで潜り込む。

 鎬木さんの体当たりを真っ向から受け止めた私は、その衝撃に耐えられずふっとばされてしまった。

 それと同時に、がちゃがちゃんと、いくつかの音が聞こえてきた。一つは防具が防具とぶつかる音。もう一つは竹刀が床に転がり落ちる音。

 そして私は、尻もちをついたままの姿勢であることに気づく。鎬木さんの手元にあるはずのものがない。鎬木さんは、自分の竹刀を床に落としてしまっていた。


 剣道で反則を取られる行為はいくつかある。場外、時間空費、相手の竹刀を触る等……、そしてその中の一つには、自分の竹刀を落すことも含まれている。

「反則、一回!」

 審判に宣言されて、鎬木さんはぺこりと頭を下げた。

 ……どうやら、私が不意に前に出た所為で、体の一部が鎬木さんの竹刀に引っかかったみたいだ。

 ラッキー……、だったのだろうか? 鎬木さんが竹刀を落していなければ、今の巻き上げ面は有効になっていた?

 考えても仕方のないことだけど、あったかもしれない可能性に背筋がヒヤリとしてしまう。

 たった一瞬気を取られただけで、こうまで追い詰められてしまう。四の五の考えずに、やっぱりこのまま時間を稼いで試合を終わらせるべきなのだろうか。

 目を伏せて考えていると、ふと自分の竹刀が気になった。

 中結いが千切れている……。いつの間に切れてしまったんだろう? 試合中は相手に集中しているから、気がつかなかった。

 このまま試合を続行するわけにはいかないので、私は手を上げて審判の先生に竹刀の交換を進言する。

 認められ、試合場から下がろうとすると、すぐにミユちゃんがパタパタと駆け寄ってきた。どうやら、私の竹刀を代わりに持ってきてくれたみたいだ。

「ほら、これ! あんたの竹刀袋から持ってきてあげたわよ!」

 竹刀をずいっと私に突き出すミユちゃん。私はお礼を言ってから受け取ると、今まで使っていた方の竹刀の柄から鍔と鍔止めを外した。そしてそれを受け取った竹刀につけ直そうとすると、

「ちょっと待った! いつまでもそんなボロっちいのじゃカッコがつかないでしょ」

「あっ、ちょっと!」

 そう言ってミユちゃんは私の鍔止めをひょいと取り上げる。

 この革製の黒い鍔止めは小学生のころからもうずっと長いこと使っている。その所為で確かに縫い目のほつれが目立っていた。それでも慣れ親しんだ物でもあるから、ボロっちいと言われるとちょっと悲しい。

「預かってるものがあるから、こっちを使いなさい」

 そう言って手渡されたものは、同じ革製のえんじ色に黄色いトンボの柄が入った鍔止めだった。

「これって………………」

 見覚えのある色、そして柄。私はこの鍔止めと、これを使って試合をしていた人のことをよく覚えている。

 ふり返ると、そこには――ぐっと親指を立てる士気さんの姿があった。

「あいつ……、目立ちたくないとか言って結局下に降りてきたんだから。だったら最初から傍にいとけばいいのに。ホントゆーじゅーふだんなんだから」

 ミユちゃんは呆れているようで少し嬉しそうな、微妙な表情で悪態をつく。

「この鍔止めって、士気さんが現役のときに使ってたやつだ……。私、覚えてる。最後の試合のときも、これを使って戦ってた……」

「らしいわね。縁起が悪いからって渡せずにいたみたいだけど……、でもやっぱり俺にできることはこれしかないからって、さ」

 縁起が悪い、というのはたぶんあの決勝での出来事だろう。私にとってはそんなこと些細な問題なのに……。

「自分の使ってた鍔止めをお守り代わりだなんて、自惚れすぎてて正直引くけど……。ま、ヒバにとってはちょうどいいかもね。私だったらソッコー捨てちゃうけど!」

 そんなツンデレさんみたいなことを捨てゼリフに言って、「じゃ、そういうことだから!」とミユちゃんは試合場脇に戻っていった。

「……そっか。士気さんが見守ってくれているんだ……」

 当然、士気さんは今までだって観覧席でずっと応援してくれていたんだけど……、こうしてより近い距離で感じて改めて思う。

 私は受け取った鍔止めをぎゅっと握った。

「……やっぱり、逃げるだけじゃダメなんだ。前に、前に出なきゃ!」

 鍔止めにあしらわれているこのトンボの模様。これはトンボが後ろに飛ばない様を受けて、後退しない、決して逃げないという意味が込められていると、以前えらい先生に聞いたことがある。

 士気さんは、きっとそこまで考えてこの鍔止めを私に託したワケではないだろう。

 でも、ここにきて士気さんのエールが、私にすべきことを指し示してくれたような気がする。

「ただ勝つだけじゃダメだ。士気さんが、士気さんがもう一度剣道をやりたくなるような、そんな試合じゃなきゃ!」

 新しい竹刀に鍔と、士気さんから受け取った鍔止めを通し、私は帯刀する。相手と主審の先生に一礼してから、私は試合場に改めて入った。

「士気さんが、私に剣道をするきっかけを与えてくれたように……」

 私が剣道を始めた理由は――

「士気さんが、私たち桜南剣道部を守ろうとしてくれたみたいに……」

 ――小さいときに体育館で見た、ある中学生くらいの男の子。

 その子が試合で決めた、面打ち一本がカッコ良かったからだった。

「今度は私が、士気さんに……!」


「「やぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」」

 審判の号令を皮切りに、私たち二人の気合いはまるでせき止められていた水流のように轟いた。

 試合時間はおそらく残り数秒程度。勝負は一発、一回きり。そしてお互いが速さでぶつかり合う……相面。ここで決めなきゃ後は無い。

 今この瞬間に、今までで最高の一本を決める――!

 跳ぶんだ! 相手よりも前に! より高く! より先に!

 そして気持ちは万倍込めて!

 

「めぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇん!」

 

 相手の声は聞こえなかった。

 私の気合いの方が大きかったからか、単純に相手が声を発していなかったからか、それともそんなこと気にならないくらいに集中していたからか、理由は分からないけれど、ともかくしばらく無音の状態が続いていたように私は感じた。

 面を打ち、互いが交差して、走り抜け、そして今ようやく残心を終えた。

 たったこれだけの動作、たった数秒が、何十倍何百倍にも膨れ上がって全部がスローになったような不思議な感覚だった。

 私の頭は、正直に言うと真っ白になっていた。

 残心後は気を抜いてはいけない。相手に攻め込む隙を与えるから。でも今の私は誰がどう見ても脱力しきっているだろう。

 前髪を止めていたカチューシャがずれてしまい、視界が半分ほど隠れている。その上、額から流れ出る汗の所為で目が霞んでいた。

 だから私は見間違えをしているのかと思って、何度も何度も目を凝らす。

 しかし何回確認してもそこには――赤い旗。

「私の旗って……赤? 赤、だったよね……?」

 集中力が切れ、不安からか思わずそんなことが口からこぼれ出た。

 私の呟きに返事をしてくれる人はいない。しかし、鎬木さんが開始線まで戻るのを見て私はようやく確信を得た。

「面有りぃ!」

 主審も副審も全員が同じ赤い旗、私の側の旗を挙げている。私の面は、紛れもない有効打突と認められたのだ。

「かっ……た? 私が……、桜南が……?」

 しばらくそこで呆然と立ち尽くしてしまう私。意識がぼっーと遠のいて宙に浮くような感覚の中、私は一つ気が付いたことがあった。


 ――そうか。私は……この瞬間のために、剣道をしているんだ。


 エピローグ

 

 あれから三日ほど経って――ちょうど祝日だったこの日に、みんなで祝勝会として武道場の前のちょっとした広場でバーベーキューをすることになった。

 祝勝会と言っても、地区大会全体の戦績としては、桜南は全四戦中一勝三敗の惨敗。付け焼刃の戦法では初戦をごまかすことはできても、それ以降の試合では対策され放題のボコボコだ(ちなみに優勝は当然、桜ヶ丘だった)。

 とはいえ桜ヶ丘に勝つという当初の目的を果たし、桜南は見事廃部という危機を免れた。大人の意地の悪い策謀に負けずに奮闘しきったみんなを称える意味で、この祝勝会を開くことを俺が提案したのだ。

「……しかしまぁ、バーベキューだなんて……いくらなんでも浮かれすぎじゃないですかね? この様子を桜ヶ丘の連中が見たら、悔しさやら情けなさやらで卒倒するかも」

 後ろから、そんな愛の皮肉のような呟きが聞こえてきた。

 振り返ると、愛は武道場の軒下のテラスにだらんと腰かけて、呆れ顔で紙皿に盛った肉を突っついていた。

 本来彼女は桜南の関係者ではないが、先の大会で桜ヶ丘を破るきっかけを作ってくれたのは彼女だし、他にも色々と手を貸してくれたから俺が招待したのだ。

「そういう言われ方をすると弱いけど……、まぁ大目に見てやってくれよ。やっとあの子たちの肩の荷が下りたんだ。少しくらいハメを外してもバチは当たらないさ」

 それに祝勝会といっても部活動の範囲内で規律を守ってやっている。その証拠にみんなはいつもの体操服姿だし、愛にも制服で参加してもらっている(おかげで汚さないようにする手間が増えたらしく不本意そうだが)。

 コンロの上の肉を何枚かひっくり返して俺は言う。

「ま、俺も正直乗り気じゃなかったんだけどな。アウトドアって得意じゃないし。祝勝会の提案をしたのは俺だけど、どうせならバーベキューをしようって言い出したのは姉さんだ」

 チラリと姉さんの方に目をやると、数台並べられたコンロの上から手際よく肉や野菜を更に盛り付けてみんなに配っていた。

 姉さんはこういうことを大学のサークル内で頻繁にやっていたから慣れているらしい。ステンレス製の三角柱や黒いレンコンみたいなのを用意して何をするのかと思えば全部バーベキューの道具だというのだから驚いた。

 機材のセット、火起こしや食材の下ごしらえは全部一人でやってしまい、俺はと言えば長机や椅子を運ぶような力仕事ぐらいしかやることがなかった。それが終われば後はただ見ているだけ。結局姉さんはほとんど自分一人でバーベキューの用意をみんなが来る前に終わらせてしまった。

「確かにあなたにはこういうリア充っぽい雰囲気の趣味は柄じゃないわね」

 俺の顔を見てケタケタと笑いだす愛。……何がそんなに嬉しいんだこのやろう。

 いったいなんて言い返してやろうかと考えていると、脇からハジメがひょこっと顔を出し、俺の皿の肉をフォークでひょいと刺して自分の口に放りこんだ。

「へへへー、ふひあひー!」

 まだ少し熱かったのかはふはふと息を吸いながら、俺から強奪した肉を味わうハジメ。まだいっぱいあるんだからゆっくり食べなさいって……。

「あっ、こらお前。肉ばっかり取ってるだろ。ちゃんと野菜も食べないと偏るだろ。育ち盛りなんだから」

「あー、ちょっと! 勝手に私のお皿にピーマン入れないでください!」

 ハジメの訴えを無視して俺は、周りのコンロから焼いていた野菜をとにかくハジメの皿の上に盛りに盛ってやった。ピーマン、カボチャ、玉ねぎ、なす、ついでに肉に巻く用のレタスもそのまま、おかげでもう肉は見えない。

「ヤギやウサギじゃないんですからこんなに草ばっかりいりませんって! そんなに言うんだったら先生がどうぞ!」

 ハジメはぶーたれた顔をして草原と化した自分の皿を俺に押し付けようとする。

「ばーか、俺はもう大人だから育ち盛りとか関係ないの。そんなの気にしなくてもいいんだよ」

 やいのやいの言い合いながら押し付け合っていると、その様子を見かねたらしい姉さんが、

「ちょっと! 食べ物で遊ばないの! 火だってついてるんだから騒ぐのはほどほどにしなさい!」

 怒られてしまった……。

 仕方なく俺とハジメは押し付け合っていた皿を近くのテーブルにひとまず置き、並べられた椅子に座って二人でつまんで消化する。

「ねぇ先生」

「ん? どうした」

 自分で盛った大量の草の山をもしゃもしゃとはんでいると、ハジメがいつになく落ち着いた感じで声を掛けてきた。

「ありがとうございました。あたしたちの場所を守ってくれて」

 ……思わずハジメの方を向いたまま固まってしまう俺。まさかいつもやんちゃな彼女の口からそんな改まったお礼の言葉を聞くと思っていなかった。

「えへへ……、びっくりしました? 急に真面目になるから」

「そりゃまぁな……。そういうのはどっちかっていうとヒバとかアカリの役割じゃないか?」

「む、そうはっきり言われるとちょっと複雑ですね」

 ハジメは拗ねたように頬を膨らませる。突っついてやると、ぷひゅーと風船のように空気を吐き出した。

「俺は何もしてない……わけじゃないけど、ヒントをみんなに与えただけだよ。実際に剣道部を守ったのはお前たち自身だ」

「まーた柄にもなくカッコつけちゃって。せっかく感謝してやってんだから素直に受け取りなさいよ」

 そんな高飛車なセリフが聞こえてきたので後ろを振り返ると、そこいたやはりというべきか、やっぱりミユさんだった。

 お嬢様らしく? 服が汚れないように紙エプロンを首から下げているのだが、その姿は何だか逆に子供っぽい。

 ミユさんは俺の隣、ハジメとは逆側の椅子を引いてそこに腰かける。強い口調でなじってくるのでちょっと不機嫌なのかなと思っていたのに、急に隣に来るものだから少しドキリとしてしまう。

「私、転校生って話はしたっけ?」

「ああ、そう言えばそんな話をヒバから聞いたっけな。前の学校でも剣道部に入部したって」

「そ、でも転校のタイミングが悪くて数回しか行けなかったんだけど」

 そうか、時期的にはまだ一年生の六月だからそれ以前に転校してきたとなると、前の剣道部には確かにそう何回も通えるほどの時間はない。おそらく、四月に入部届を出して顔合わせをして……そこからすぐに転校、今に至るといった感じだろうか。

「これから新生活って思った矢先の転校で、さすがの私も少しナイーブになったわ。おまけに桜南中の子はほとんど同じ小学校からそのまま上がってきた子たちばかりだから、もう関係ができあがっちゃってるのよね。だから私、ちょっと浮いちゃって……」

 ミユさんは自嘲気味に苦笑して、言った。

 確かに桜南の校区であるこの住宅街には小学校もある。街自体が山に囲まれているために他から桜南に通う子は少なく、ほとんどエレベーター式といってもいいぐらいに同級生の面子は変わらない。それは俺たちの頃も同じだった。

 子供とはいえ六年という時間で形成された関係は強固なもので崩し難い。ましてこれから多感な時期になってくる女の子ではなおさらのことだろう。なかなか会話に入っていけないという気持ちは分からなくもない。

「でもそんなあるときに、ヒバが剣道部員の勧誘で私のクラスにやってきたの」

「ヒバが?」

聞き返すと、ミユさんはこくりと小さく頷いた。

「よっぽど切羽詰まってたみたいね。何かの弾みで誰かが、そう言えばミユちゃんって剣道やってたんだよね? って言ったの。そしたらすごい形相で私の方に迫ってきて……そのときのヒバの必死さったら……ね?」

「あー……、そうだね。私が、うーんどうしよ入ろっかなー? ってなんとなく言ったら、凄い怖い顔で詰め寄られたもん」

  ミユさんはぷぷぷといたずらっぽい笑みをハジメに向ける。それにつられてハジメも、何かを思い出すようにたははと困ったように笑った。

 普段は大人びた振る舞いをするミユさんだが、その表情は年相応の子供じみたものだった。

「それからの私の生活はそれなりに充実してたわ。剣道部のみんなは何と言うか……人懐っこくて、途中参加の私にも居場所をくれた。部活以外でもお昼を一緒に食べたり、どこかに出かけたり、きっかけができたおかげでクラスの子たちとも仲良くなれた。……たったの二か月かそこらの関係だけど、剣道部の子たちは私にとって大切な友達なの」

「………………そうか、だってさハジメ。良かったな」

「いやぁー……そんなに正直に言われると照れますなぁ。……ツンデレ?」

「茶化すなって!」

「ぐぉっ!」

 ごすっと、脇腹に衝撃を感じる。これがツンデレお嬢様の照れ隠し幼女パンチ……! 俺が言ったんじゃないのに……。

 不意の鈍痛に感銘と苦痛がない交ぜになった複雑な感覚に陥る俺。決してやましい意味ではない。

「だから! そんな場所を守ってくれたアンタにはそこそこ感謝してるって、そういう話なの! 理解できた?」

「………………重々に」

「そ、ならいいの」

 ミユさんは少し満足げに頷くと、

「ほら、あんたたちも言いたいこと言っときなさい」

 と、近くで姉さんと話していたヒバに向かってちょいちょいと手招きした。不思議そうに首を傾げるヒバ。それにつられて一緒に話し込んでいたこころとアカリもなんだろうと顔を見合わせる。

「ヒバったら大会の日からずっと、士気さんがー士気さんがーってノロケてんの」

「なっ……? ちっ、ちがっ……違います!」

「違わないでしょ。いい加減、ウザったいから思ってること吐き出しちゃったら?」

 慌ててパタパタとすがり付いてくるヒバに構わず、ミユさんは呆れた顔で言い放つ。

「ヒバ、顔真っ赤。ヤカンみたい」

「今にも沸騰して湯気が出てきそうですね……」

後から着いてきたこころとアカリにもからかわれ、ヒバは「うぅ……だってぇ、ホントに嬉しかったんだもん……」ともごもご唸る。

「だったらそれを私らに伝えても仕方ないでしょ! ……ああ、もう重いったら! 寄りかかるならそっちになさい!」

「きゃっ!」

 ヒバがミユさんに跳ね除けられて、俺の方に跳び込んできた。咄嗟に抱えこむようにして受け止める。

 ぽすんと腕の中に入ってきた彼女と、不意に目が合った。

「……っと。大丈夫か?」

「え、あっ、そ、その……だっ、大丈夫です! ですからその……、は、放していただけると……」

 ヒバは前髪をくしくししながら、俯いて言う。

 しまった。年頃の女の子にデリカシーが足りなかったか。

「あっ、すまん! 気安く触っちゃって……」

 俺は慌てて立ち上がり、彼女から離れる。

「いや、そんなこと! ただ、その、心の準備が……」

 もじもじと両のひとさし指をつくヒバ。何かもごもごと呟いているが、小さな声なので聞こえない。かと言って聞き返し深みにはまると教育者を目指す者としてマズい気がするので……、よしておこう。

 はははと乾いた笑いでごまかし、俺は元いた席へ座りなおそうとする。

 すると、

「ヒバが嫌なら私が」

 ぽんと、俺が座った拍子に、こころが膝の上に腰をかけてきた。

「はっ、な、何やってるのかな? こころ、ちゃん……?」

「ん、ヒバが遠慮してるので。私が」

「おっ、おう。そうか……」

 あまりに堂々と言うので何か納得してしまう俺。

 こころは身長が高いので当然座高も高い。だから傍目には中学生の女の子を膝に乗せてるヘンタイというよりも、何だか超合金ロボットの合体途中のような異様な光景になっている。その所為かいつもこういう場面で茶化すハジメも「お、おぉう……」と引き気味である。

 その代わりなのかなんなのか、さっきから俺たちのやりとりを後ろからぶすっとした表情で見つめていた愛が、何だか更に不機嫌そうな顔になっている。が、何だか怖いし下手すると大ケガしそうなので気づかないフリをする俺だった。

「先生、私、言いたいことがあるの」

「お、なんだ急に?」

 こころが俺の膝の上に座ったまま、何やら含むような言い方をする。

「……私、初めて先鋒を任されてすごく不安だった。けど、先生が試合前に励ましてくれたおかげで、自分の役割をしっかりと果たすことができた。ありがとう」

「こころ……」

 不覚にもぐっときてしまう俺。こういう感情を教師としての『やりがい』というのだろうか。俺は今、学生の身分でとても貴重な体験をしているような気がする。

 ……女子中学生を膝に乗せて言うのもなんだが。

 このままの状態ではせっかくの感慨もなんだか不浄なものに思えてくるので、ひとまず彼女をを膝から下ろす。

 すると、傍で肉をほうばっていたハジメが、

「そんなのアタシだってそうだよ! 相手の人、ガツンガツンめっちゃきてヤバかったんだから!」

 ガバッとこちらを向いて言った。そして「ほらあげる!」と肉をお礼とばかりに突出す。その肉、焼いたのも買ってきたのも姉さんなんだけどね……。

「私も……! 負けちゃいましたけど、何とか後に繋ぐことができたのは先生のおかげなのです!」

 アカリも座っている俺の肩に手を掛けて、なぜか競うようにアピールをする。

 他の四人に比べて賢い印象のある子だが、以外と幼い一面もあるんだなぁ……。

 やいのやいの言い合っている三人の輪の外で、ヒバが落ち着かない表情でこちらを見つめていた。そしてそんな彼女の傍で、ミユさんは何だか呆れ顔をしている。

「ちょっとヒバ、モジモジしてないで言いたいことがあったらちゃんと口に出さないと……、どうにもならないわよ?」

「えっ? あ、な、何の話カナ……?」

「何の話? じゃないわよ。そんな羨ましそうな顔して……。よく言うわねまったく。アンタはすぐ顔に出るからバレバレだって自分で分かってる?」

「そんなこと言われても……こんな人の多いところだと、ちょっと……、かなり、恥ずかしいし……」

「告白するわけでもなしに何ワケの分からないこと言ってんのよ」

「そう………………かもしれないけど」

「なに……、その間? まさかアンタほんとに……、まぁいいわ。とにかく、行ってきなさい!」

「わっ、とと……」

 何やら秘密の談合を終えたらしい彼女たち。ミユさんにぽーんと背中を押されたヒバが俺の座っている椅子の傍までやってきた。

「あの……、士気さん。ちょっといいですか?」

「ん、どうした?」

 尋ねると、ヒバは言いにくそうに体をもじもじと捩らせながら、

「ここじゃ少しなんですから……」

 と、視線で武道場の中を差した。……賑やかすぎるからだろうか? きっと真面目な話なのだろう。俺は襟元を正す気持ちでスイッチを切り替える。

「分かった。行こう」

 着いて来ようとするみんなを制し、俺はヒバと共に武道場へ入った。


「落ち着いて話すために座ろうか。教官室に入ろう。あそこなら机も椅子もある」

「は、はい。お願いします」

 扉を開いて中に誘導すると、ヒバは少し緊張気味の面持ちで恭しく入室した。あまり生徒に馴染みの無い場所だから、だろうか?

 桜ヶ丘の武道場にもあった教官室は、ここ桜南の武道場にも例外なく設置されている。内装は概ね向こうの物と同じ。剣道雑誌がいくつか並べられているのも同じだった。ただ、こちらは日当たりが悪い所為かまだ昼間なのに薄暗い。

「ほら、そっちの椅子に座って」

「失礼します……」

 ヒバがそっとパイプ椅子に腰かけると、ギィと油の足りていなさそうな音が響いた。その音にヒバがビクッと肩を震わせる。

 なぜだかその様子に罪悪感を覚えてしまう俺。別に気を使う必要はないはずなのだが、俺は殊更静かに椅子に座る。

「それで、何の話なんだ?」

「………………」

 俺の問いかけになぜかヒバは俯いて黙ったまま。

 ……よく考えればこの構図は、閉所に女子中学生を軟禁しているように見えなくもない。自分が扉側に座っていることで出口を塞いでいる形になっているのが、この罪悪感の正体なのだろうか……? いらぬ圧力を彼女に与えているかもしれない。相手がヒバだからよかったようなものの、これがミユさんなら然るべき機関に即通報。立派な輪っかのアクセサリーを手首に飾っていたことだろう。

 しかしこのままでは話も進まないので、何とか会話の糸口になる物はないかと教官室の中を見渡してみる。

 馴染みの物があるかと思い目線だけで少し探ってみるが……、最近になって掃除されたのだろうか? 戸棚、本棚、隅の竹刀立てには、思い出話をしてやれそうなものは残っていなかった。

 どうしたものかとポリポリ頭を掻いていると、ヒバは俯き気味だった頭をすっと持ち上げて、

「……ごめんなさい。いざ口に出そうとすると緊張しちゃって……」

 と眉をハの字にしてぺこりとまた頭を下げた。

 それに俺は言外に気にするなと首を振る。

「それで……何なんだ、話って?」

 あえて俺の方から聞いてやると、少し困ったような顔で言い淀みながらも答えてくれた。

「……その、大会前に二人で約束したこと……覚えてますか?」

 俺とヒバで約束――というと、一つしかない。もちろん忘れているはずがない。

 あれがあったから、試合までの期間、指導にますます力が入ったようなものだ。

「俺が剣道家として復帰するための稽古を……、ヒバが手伝ってくれるって話だったよな?」

 こくりと首肯するヒバ。それから、訥々と話し始めた。

「私は……、今回の大会で凄く可能性を感じました。半分以上が初心者だらけの始まったばかりのチームだけど、でもこのメンバーで……何と言うかその、上手く言えないけど、いけるって手応えを感じたんです!」

 ヒバのその言葉は途切れ途切れでで拙いものではあったが、俯いたままだった顔が徐々に上げられ、その視線はしっかりとこちらを向いている。それが彼女の真剣さを如実に伝えていた。

 実際、ヒバの言う通りだと思う。ここ数週間ほど桜南剣道部の指導について驚いたのは、彼女らの『吸収力の高さ』だ。

 若さゆえ、初心者ゆえ、未熟だからこそ俺の教えたことが混じりっ気なく吸収されるのだ。確かにこと成長率というものは最初こそ高く後から落ちていくものだが、それにしても彼女たちには秀でているものを感じられた。それはあの桜ヶ丘剣道部に、ハッタリとはいえ勝利したことからも明らかだ。

 このままいけば三年の最後の大会の頃には、今度は実力で桜ヶ丘に勝つこともできるかもしれない。

 そして、もう一つ。それはみんなの性格の違いにある。

 ハジメは活発。

 アカリは勤勉。

 ミユさんは冷静。

 こころは寡黙。

 そしてヒバは…‥、根っからの負けず嫌い。

 みんなそれぞれキャラがあって部内での役割も違う。お互いが良い刺激になって伸び幅も上がるはずだ。無論、団体戦での強みにもなる。

 ただ、それは良い指導者に恵まれた場合の話である。いくら素材が良くとも料理人が素人同然では意味がない。ダイヤの原石でも研磨が雑なら台無しなのだ。

 この場合の料理人はつまるところ俺。高校で剣道を辞めてしまったただの学生だ。

 指導資格があるわけでもなければ、その資格を取れるようになる条件の剣道四段にすら届いていない。現在俺は三段まで取得しているが、それはやる気があれば高校生でも簡単に取れる段位だから誇れるようなものじゃない。

 その上、今の俺は彼女らに直接稽古をつけてやることもできないのだ。事実だけ見れば、決して良い指導者とは言えないだろう。

 桜南剣道部の存続が懸かった試合までの緊急措置としてならそれでも良かったのかもしれないが、今後とも彼女らが剣道を続けていくともなれば無責任なことはできない。ここの地域を少し探しただけでも俺よりも腕のある、それどころか高段位者の実績と経験のある剣道家はたくさんいるはずだ。その人たちにでも正式な外部コーチになってもらって指導してもらう方がどう考えたって彼女たちのためになる。

「ヒバの言いたいことは分かるよ。……だからこそ、この先のことはちゃんと考えた方がいい。俺の稽古に付き合ってくれるのは、それはもちろん助かるけれど‥…、本当に桜南剣道部を強いチームにしたいなら、誰かちゃんとした人にお願いした方がいいと思う」

 約束を反故にするようで正直心苦しかったが、俺はそう口にした。

「そんな……、せっかく勝てたのに……」

 みるみるうちに眉尻が下がっていくヒバ。スイッチの切れた電球みたいに顔色が露骨に変わったので、良心の呵責がマッハでヤバい。

「もちろん、それでも俺はここに来させてもらう。OBとして俺にできることはさせてもらうよ。ただ、今までと立場が違うってだけさ」

「………………そう、ですか」

 慌ててフォローするが、それでもヒバの表情は変わらない。どうやら納得できたわけではないらしい。より一層不服そうな感じが強まったような気さえする。

 どうせなら子供っぽくワガママを言うヒバの姿を見てみたい気もするが、そんな俺の邪念はこの真面目な状況にはそぐわないので捨て置く。

 瞑目して無我の境地で邪念を振り払っていると、

「……でも、それじゃあ、意味が無いんです」

 ヒバが細々と振り絞るように言った。

「私の言った可能性は、士気さんが先生でこそ初めて成り立つんです。……士気さんは私たちみんなに目を向けてくれてました。みんなの性格を考えて、細かいフォローまでしてくださいました」

 話すにつれてその語気が強くなっていく。

 やがて熱が入り始めたのか、ヒバはすくっと立ち上がると俺に詰め寄ってきた。

 電球のスイッチがまたオンになったらしい。

「たった二週間でそこまで心を通わせてくれる先生は他にはいません! こう……何と言うか、私たちの良いところを引き出してくれるのは士気さんしかいないって、そんな気がする……!」

 熱弁しすぎて何か変なスイッチも余計に入ってしまったのか、ヒバは興奮気味にぐぐぐっと近づいて俺の手を取った。

 いや、そこまで言われるとさすがに恥ずかしい…‥。というか、そんな期待した目でこんな距離で迫られるのも恥ずかしい。

「お、お前の熱意はわかった……! だからとりあえず落ち着け、な?」

 カメレオンばりに目を泳がせながらも諭す俺。落ち着いてないのは俺だった。

 するとヒバはハッとしたような表情を浮かべ手を離し、すごすごとたたらを踏んだ。

「ごっ、ごめんなさい。また私ったら……」

 ヒバは伏し目がちに赤面しながら手をさする。そんな表情をされるとこっちがなぜかいたたまれない気持ちになってくる。

「……俺にも桜南の活躍を見守りたいって気持ちはある。ただ、それとこれとは話が別だ。ヒバたちのことを思えばこそ。俺は身を引くべきなんだよ……」

「………………」

 今度のヒバは、彼女にしては珍しく返事をすることもなかった。俯いたまま、こちらを見ることもない。

 今度は俺が立ち上がり、ヒバの傍まで近づいていく。彼女の前に屈んで落ち込んだ視線と目を合わせた。

 ……本当はもっと教えたいこと、やってほしいことがあった。でも、ここら辺が潮時なんだろう。

 俺は黙ってヒバの手を取った。

「代わりの先生は俺が何とかお願いして見つけるよ。それまでの間は俺がお前らの面倒を見る。それでいいか?」

「士気さん……」

 無言のまま、無音の空間で、幾ばくかの時が経つ。たった数十秒の時間なのに、俺たち二人はどこかに取り残されて、世界が止まっているようにも感じられた。

 いっそこのままずっとこの時間が続けばいいのにと、そんな取り留めの無いことが頭に過ぎった。

 かすかに、彼女の小さな唇が揺れた。

「………………わ、私は――」

 ――ドン! と、そのとき、教官室のドアが開け放たれた。

「待ちなさいヒバ! 結論はまだ早いわよ!」

 扉の先には――ミユさんが仁王立ちをしている。そしてその後ろには、ハジメにアカリ、姉さんとちょっと後ろで壁にもたれ掛っている愛。要するに、全員揃い踏みだった。……さっきまでのやり取りは、ずっと扉の外で聞かれていたわけだ。

 前にも似たような光景を見たことがあるなと、俺は思わず呆れ気味に息を漏らす。

 どうやらミユさんは、五人の中で矢面に立つ特攻隊長的な役割があるようだ。

「エラそうに溜め息なんてついてる場合じゃないわよ! さっきから黙って聞いていれば四の五の御託並べて男らしくもない……。一度引き受けたことは最後まで責任持ちなさいな!」

 ビシッと人差し指を突き付けて不遜に言ってのけるミユさん。その後ろでハジメがうんうんと大きく頷き、アカリはあわあわと戸惑った顔で口を押えていた。

「せっかくアタシら桜ヶ丘に勝てたのに……、先生が辞めちゃうんだったら意味ないじゃん! アカリもそう思うよね?」

 急に肩を叩かれてアカリは肩をびくっと跳ねさせる。うーんと少し考えて、遠慮気味に頷いた。

「……はい。私もできることなら先生にはご指導を続けて欲しいです……。先生から教えて頂いたことは初心者の私でもすっと理解できてとても助けになりました」

「みんな……」

 思わずうるっときてしまう俺。このまま流されてもいいかなと少し思ってしまう。

 だが、やはり教育者を目指すものとして、そういうわけにもいかない。彼女たちを勝たせてしまった責任があるからこそ、軽はずみに引き受けることはできない。

 ましてや、未だに試合場に立つことのできない俺だ。そんな俺が偉そうに高説たれても、為になるとは思えない。

「……何を躊躇してるのよ?」

「え?」

 今まで黙って傍観していた愛が、ぼそっと呟くように口を開いた。それでみんなそっちの方に振り向いたので、愛は「うっ……」と少し恥ずかしそうに言葉を詰まらせる。ごまかすように一つ咳払いをしてから、愛は続けた。

「そいつらの為って思うからいまいちやる気になれないのよ。自分の為って思いなさい」

「自分の為……」

 愛はそれを殊更に説明することはしなかったが、それでも言わんとしていることは伝わった。桜南のコーチとしてみんなを指導することで、ひいてはそれが自分自身のトラウマの克服に繋がるということだ。それは、俺が初めに地区大会までの二週間の指導を引き受けた理由でもある。

「自分の為にそいつらを利用してやるってぐらいの気持ちでやれば、別にそんなくだらない責任感じる必要ないでしょ」

「くだらないって……、それがこいつらの人生を左右するかもしれないんだぞ? せっかく才能があるかもしれないのに、俺がそれを食い潰すようなマネできるわけないだろ」

「くだらないでしょ、実際」

 俺の反論を愛は何食わぬ顔で一蹴した。それがあまりにあっけなく言うものだから、少々調子が狂ってしまう。

「たかが中学の三年間で稽古するようなことなんて基本中の基本でしょうが。それが初心者相手ならなおさら。誰が教えたって変わらないわよ。……それよりも、その教えをすんなり受け入れられるような相手かどうかってのが、一番大事なんじゃないの?」

「……そう、かもしれないが」

 珍しくまともなことを言う愛。これまた意外だったので咄嗟に返す言葉が思いつかない。……なに? こんなに思慮深いこと言うようなキャラだったっけ? 俺の知っているお前はもっとトンチンカンなはずだ……。

「もし、アナタだけじゃ力不足ってんなら……、私もときどき手伝います」

「「「え?」」」

 愛の言葉に、その場にいるみんなが顔を見合わせて素っ頓狂な声を出した。

 ――しばしの沈黙が起きる。愛が「何なのよこの空気……」とバツが悪そうにする中、ひっそりと手を上げる者がいた。

「それって……、愛さんも稽古に参加してくれるってこと、なのです……?」

 おっかなびっくりそう質問したのはアカリ。

 その問いに、愛はやや口ごもりながらも、

「まぁ……、そういうことよ」

 気恥ずかしいのかそっぽを向いて赤面しながら答えた。

「本当ですか? それって……すごく素敵です! お二人にご指導いただければ無敵です!」

「……私はそうでもないけどね」

 目をキラキラさせて仰ぐようなしぐさをするヒバ。ちょっと大げさすぎるんじゃないかと思ったのはどうやら俺だけではなかったみたいで、ミユさんも呆れ気味にため息をついた。

「……少し癪だけど、ときどきうちの父親にも頼んで特別指導とか、練習試合とかも都合つけられるかもしれない。……それでも実を結べないようなら、指導者がどうこうの話じゃないわ。……違いますか?」

「違いません! 全国有数の選手のお二人と交告先生にご指導いただけて、その上桜ヶ丘との練習試合まで取り計らってくれるだなんて……、こんなこと滅多にありませんよ!」

 なぜだか俺の代わりに返事をしたのは興奮気味のヒバだった。

 相変わらず目を輝かせて、まるで子が親に物をねだるときのような表情をしている。

 正直、そこまで無条件に信頼を寄せられると少し怖い気がしないでもない。

「お願いです、士気さん! どうかもう一度、私たちに力を貸してください!」

「そう言われてもなぁ……。ヒバには悪いけど……」

 どう説得したものかと考え倦んでまたぞろ頭を掻いていると、

「それだけ言われてまだ悩んでるの? しょうがないわね……」

 どうやら見かねたらしい。黙ってことの成り行きを見守っていた姉さんも、ついに口を出してきた。

「これだけみんなが後押ししてくれているのに、まだ不満があるの?」

「不満があるわけじゃない。……繰り返しになるけど、俺にはその資格がないんだ。ついでに……うまくやれるって自信もない」

「この子たちの力になってあげたいって気持ちもない?」

「それは……………」

 ある。でも……、俺の気持ちは関係ない。俺がかつてのトラウマに縛られたままでは、本当の意味で彼女たちの役には立てない。

「……じゃあ、こうしましょう」

 黙る俺に対し、姉さんは提案した。

「とりあえず士気くん、あなたは桜南の指導者を引き受けなさい」

「引き受けるって……、話聞いてた? 俺じゃ荷が重……」

「そうじゃなくて、仮よ仮。仮の指導員になるの」

「……仮?」

 要領を得なかったので聞き返した俺。その場にいたヒバたちも意味が分からなかったのか、「?」と揃って首を傾げている。

「あなたの言う通り、いずれ桜南はちゃんとした指導員としての資格をもった先生にお任せすればいい。でも相手方の都合もあるし、引き受けてくれる人を見つけられるまで時間がかかるだろうから……。だからそれまでの間は、あなたが面倒を見てあげなさいってこと」

「……なるほど。それなら、どっちの言い分も通るわね」

 説明を受けて、ミユさんがこくりと頷いた。他の子たちも一様に「おぉー」と納得した声をあげる。  

「もちろん、その間はこの子との約束も守りなさいよ」

 そう言って姉さんは、ぽんとヒバの頭に手を乗せた。急に自分に矛先が向いたヒバが、びっくりして目をぱちくりさせる。

「そんなことまで聞いてたのか……」

「ちょっと……、恥ずかしいですね……」

 呆れ顔の俺に、ヒバはえへへと照れ笑いを向ける。そんなふうにされるとこっちまで恥ずかしくなってくるのでやめてほしい……。

「……で? どうなのよ結局。引き受けるワケ?」

 なぜか若干イラついたふうに愛がぐぐっと詰め寄ってきた。それが顔が間近まで迫ってくるような距離間なので、胸ぐら掴まれるかと思って少し怖かった……。

 愛は腰に手をあて、下から覗き込むような不遜な態度で俺を睨みつける。

「そういうことなら……、引き受けさせてもらっても……いい。都合つけていただくのにも時間がかかるだろうしなぁ実際。……ただ」

「ただ?」

 俺の態度を煮え切らないと感じたのか、愛は更に不機嫌そうに顔を歪める。そんな彼女をどうどうと宥めて、俺は言った。

「俺がその仮の指導員を引き受けるのにあたって、一つ条件がある」

「は? 条件? アンタが……?」

 不躾に聞き返す愛。ってかその言い方だと、ここまで譲歩してやってるのにお前程度がどの口で条件なんか出してんだって意味に聞こえるんですけど……。

「とりあえず……、なんだ。あんまり人がいるとなんだから、ヒバと二人きりにしてくれるか」

「「「えっ……?」」」

 その瞬間、室内の空気が一気に変わった気がした。キャッキャッと騒がしかったみんなが、時が止まったように静止して、水を打ったようにシーン……としてしまった。

 あれほど詰め寄っていた愛がぎょっと身をのけ反らせている。姉さんは滅多に見ないしかめっ面を浮かべていて、反対にミユさんを除いた子供たちは小声でわぁー……と色めき立った声をあげていた。

「士気、あのね。戸破さんが可愛いのはわかる。でも、みんなの前でそういうことを口に出してしまうのは良くないよ。こういう時代だし……」

 ……叱られてる、もしかして? 愛とミユさんは完全にゴミを見る目だし、なんか勧誘されてたムードが一気にどっかに行った気がするんだけど……。

「先生、二人きりだなんて大胆です……」

「ん? いやっ、え? あっ、ゴメン! そう意味じゃないって……!」

 何を勘違いしたのか赤面してそんなことを言うアカリに、俺は尋常じゃないぐらい動揺してしまった。もう手が取れて飛んでくんじゃないかってぐらい手首を振って、慌てて訂正するが、しかし三人のシラッー……とした視線は依然途切れることはない。ちなみにこの三人とは姉さん、愛、ミユさんのことである。

「……あの、私、そういうことはまだちょっと早いというか心の準備ができてないというか……、少し困っちゃいますぅ……」

「……例の約束に関わることだよ」

 ヒバがいじらしい感じで何やら不穏なことを言うが、俺はそれを聞かなかったことにして話を進める。

「俺が出す条件ってのは至極単純だ。……今ここでヒバと立ち会いをする。それだけさ」

「立ち会いって、誰がよ?」

「俺」

 未だに怪訝そうにしている愛にそっけなく言うと、今度は豆鉄砲を食らったような顔をした。他のみんなも顔を向き合わせて意外そうな顔をしている。

「いや……でも、大丈夫なワケ? その、いろいろとさ……」

 珍しく気を使ってくれたらしく、愛は言葉を濁す。

「だからあんまりみんなに見られたくないんだよ。……仮とはいえ、こっから先もみんなに剣道を教えるんであれば、せめて基本練習ぐらいは俺も参加できるようにならないと話にならない。だから、ここで俺自身を試させてほしいんだ」

「そうは言いますけどねぇ……」

 愛は腕を組んで少し考えるように眉をひそめた。どうやら彼女なりに心配してくれているようだ。

「お前の言いたいことは分かる。前にお前に頼んだときのこともあるからな」

 愛が俺の提案に難色を示すのも無理からぬ話だ。大会前、それこそヒバとの約束をしたその日、俺は愛と試合稽古をして情けない姿を見せてしまった。始まってすぐに動悸がしてパニック寸前の状態で試合を中断した。またあの時の二の舞になることを心配して愛はいまいち賛成しかねているのだと思う。

 しかし俺も考え無しにこの条件を出したワケじゃない。

 地区大会とそれに向けた練習期間を経て、俺はもう一度剣道というものに対して向き合う機会を得た。そしてヒバたち桜南の部員たちと出会い、不条理で一方的な制約を強いられながらも、それぞれ強くなろうと必死になっている彼女たちと触れ合ってきた。その姿を見て何も感じないほど俺は情熱を失っていたワケではない……らしい。彼女たちの指導をして初めて分かったことだが。

 だから彼女たちの努力が形となって念願報われた今ならば、俺ももう一度人と向き合って竹刀を構えることができるんじゃないかとそう思うのだ。彼女らに大金星をあげることができたのなら、俺にだってできる。いや、できなけりゃ俺に彼女たちを育てる資格は無い。

「だったらまた私が相手してあげますよ。わざわざ改まって頼み込む必要ないじゃないですか」

「確かにそうなんだけど……、ヒバとは約束があるからな。またお前に手間を掛けさせるのも気が引けるし……、今回はヒバに頼むよ」

「そう、ですか……」

 愛は少し切なそうな表情をすると、そう返事したきり黙ってしまった。

 手間を掛けさせたくないと言った反面、彼女には再開してからずっと世話になっているから、手間ならもうすでに十分すぎるくらい掛けてもらっている。それなのにも拘わらず今さらにべもなく断ってしまったから、逆に悪いことをしてしまったかもしれない。

 どう声をかけたものかと考え倦んでいると、

「……だったら、私たちはジャマね」

 俺よりも先にとうの愛本人が先に口を開いた。しかも、愛はミユさんとハジメの襟を片手でひっつかまえると、「ボケッとしてないで行くわよ」と無理やり連れて行こうとするのだった。

「ちょ、ちょっと、服、服がのびちゃうでしょうが! 離しなさい!」

「わわわっ! 愛さん意外にバカぢか……あ、痛っ! 何も叩かなくても……」

 てんやわんやに暴れるミユさんを無視して、愛は二人を連れて教官室の外に出て行こうとする。いきなりのことであわあわしているアカリには、「……ん」と顎で指してついてくるように示した。

「……悪いな愛、気ぃ使ってもらって。毎度のことだけどさ」

「それは……言わない約束でしょうが」

 ニィとニヒルに笑って愛は去る。なんか知らんがカッコいい……。今度、俺もマネしてみようかな。使う機会があればの話だけど。


 すぐに姉さんも外に戻って、みんなはキャンプの再開をしたようだった。外から和気藹々とした声が聞こえてくる。特にミユさんがさっきの愛の強行について未だ抗議しているようだったが……、あの感じだと愛は適当にあしらってまともにとりあっていないらしい。

 なんだかそれがおかしくて、お互い着替えを終えて防具を付けている最中に、俺とヒバは顔を合わせて苦笑いしてしまった。

「ごめんな。つまらないことに付きあわせてさ」

「そんな、つまらないだなんて……! 私からお願いしたことですから」

「そう言ってくれると助かるよ」

 後ろの胴紐を結び終わり、それから赤い手拭いを巻いて面を付ける。面紐を結ぶこの瞬間が、やはり一番気が引き締まる。

 ヒバが面を付け終わるのを待って、俺は立ち上がった。

「なんだかちょっと……、緊張しますね。えへへ……」

「何本か軽く受けてくれるだけでいいよ。試合するってわけじゃないから、あまり身構えないでいこう。あくまで気楽に、さ」

 それは自分に言い聞かせるためのセリフでもあった。一番緊張しているのは他でもない俺なのだから。意識しすぎると、愛とのときみたいに余計なことを思い出して辛くなってしまう。だからリラックスして肩の力を抜いて挑むのが一番だ。

「それじゃ、頼むよ」

「はい! お願いします!」

 俺が下座、ヒバが上座で試合場の両端に立つ。相手への礼などの作法は本来ただの練習であれば省いてしまってもいいのだが、気持ち的にしっかりしておきたいと思って俺から頼んで最初からやってもらうことにした。

 互いに三歩ほど進み、九歩の間合いで立礼する。まだたいして動いてもいないというのに、すでに心拍数が上がっている。明らかな体調の変化に嫌でも意識してしまう。あの大会での出来事が――脳裏に、よぎってしまう。

「あの……、士気さん? 大丈夫ですか?」

 ヒバにそう声をかけられて、俺はハッとした。余計なことを考えて少しぼっーとしていたようだ。

「……ごめん。気楽にやろうって言ったばかりなのに……」

「い、いいんです! 私は別に気にしませんから! ゆっくり、ゆっくりいきましょう!」

「……悪いな」

 ヒバは優しい。優しいから、ついその優しさに甘えたくなってしまう。……このままその優しさに身を委ねてしまって、自分自身を甘やかしてしまいそうになる。

 ――ただ、それじゃあいけない。ヒバたちぐらいの年頃の子の時間は貴重だ。それはここ二週間の彼女たちの吸収力を見れば明らかだろう。その貴重な時間を俺が浪費するわけにはいかない。本当に彼女たちを育てたいという気持ちがあるのなら、その覚悟があるのなら、俺がここで膝を折るようなことは決してないはずだ。

 ……ただ数回、面を打つだけ。最初はそれだけでもいい。だけどせめて最初の一歩だけは、絶対に躓きたくはない。

  二、三度深呼吸をして、気持ちと鼓動を落ち着かせる。大丈夫、いけると判断してから、俺は竹刀を強く握りしめ、こくりと頷いた。

 それを言葉にぜずとも察してくれたのか、ヒバは黙って頷き返し立礼をやり直した。それに俺も応じる。

 一歩――二歩――三歩と確かに歩みを進めながら、俺はしっかり前を見ることを意識する。視線を上げると、面越しなのにヒバの顔がぐっとよく見える気がした。

 蹲踞をしながら、ふと初めてヒバと会った日のことを思い出した。

 あの日……ヒバはとても女の子と思えない、空気を震わせるほどの気合いで俺を出迎えた。そして、俺が見てきた中で間違いなくもっとも鮮やかでしなやかな面を見せてくれた。

 ――なら、俺は。本当の意味で桜南の一員として始まるこの瞬間に、どう応えればいいのだろうか。

 立ち上がり、竹刀を交える。興奮からか、恐怖なのか、体が震えてくる。この震えを取り払うには、やはり気合いを入れるしかない。

 ヒバの気合いと面を見たとき俺は、自分の深層に封じ込めようとした『思い』に光明が指したような気がした。放っておけば暗闇の中で風化していたはずのものが、あのとき確かに息を吹き返したのだ。あれがなければ、今自分はこの場に立っていることもなかっただろう。あのときヒバが与えてくれたものを、今度は俺が返してやる番だ。

 深く深くゆっくり息を吸い肺に貯め込む。また前のときみたいに過呼吸になってしまわないように。焦らず、気を込め、そして吐き出せ。俺の覚悟をヒバにぶつけて示すんだ。


「ィヤァァァァァァァァァァァァァ!」


 ――無我夢中だった。酸欠で胸が苦しくなるまで叫び倒した。気合っていうよりももっと品が無い、雄叫びみたいなものだったと思う。それでも俺は息の続く限り、頭が焼けそうになるまで気合いを発し続けた。

「士気さん……、やっと……」

 そのヒバの一声で我に返る。

 気分は……悪くない。寧ろ清々しいくらいだ。まるで体中に貯まった毒素を全部出し切ったような気分で、体温が徐々に上がってくる感じがする。震えもない。視界は澄み切っている。

 ようやく、ようやくだ。俺は……スタートラインに立つことができた。 

「当たり前だけど……、初めてだな。こうやってお前と向き合って稽古するのは。もうずっと長いこと一緒にやってきたような気もするのに……」

「……ふふ、ホントですね。私も……なんだか不思議な感じです」

 ヒバはなんだか自分のことのように感慨深そうに、微笑みながら言った。

「じゃあ………………いくぞ、ヒバ」

「はい、いつでも来てください……!」

 ヒバの返事に俺は無言で頷き返し、竹刀をギュッと握り直した。

 前は声を出すことすら不可能だったのに、それが今はこうして竹刀を構え合いながらちょっとした会話なんかしちゃっている。……これは今までの俺には考えられなかったことだ。それもこれも全部、桜南の子たちのおかげだろう。彼女たちがいなければ、俺はこうしてまた面を被ることなどなかったはずだ。

 ……そう思うと、感謝してもしきれない。そしてその反面、プレッシャーでもある。俺は、果たして彼女たちがしてくれたこと以上のことをしてやれるのだろうか? 自分自身に、再三問う。同じような問答をこれまでも幾度となく繰り返したが、堂々巡りで答えは出ない。

「………………自信」

「え?」

「自信、持ってください! 士気さんはご自分で思っていらっしゃるより凄い方です!」

 俺が逡巡しているのをヒバは感じとったのか、ふいにそう切り出してきた。

 構えを正し、キュッと眉根を上げて訴える彼女の姿は、真剣そのものだ。

「なんせ初心者同然だった私たちを、強豪桜ヶ丘のレギュラーに勝たせてくれたんですから!」

「それは俺よりも選手の頑張りがあったからで……」

「当然、みんな頑張りました。私も鎬木さんとの試合は、今までで一番緊張しましたし、一番力を出し切れました。……でも、その力を引き出してくれたのは他でもない士気さんです」

「ヒバ……」

「あっ、その、なんだかエラそうなことを言っちゃってすいませんっ……! 私みたいなのが……。で、でも、ただ闇雲に頑張るしかなかった私たちに、正しい頑張り方を教えてくれたのが士気さんなんです。上手く言えないですけれど……、それはとっても凄いことだと思います。……だから、自信持ってください! きっとそうすれば、士気さんのしたことはすぐにできちゃうと思います!」

「自信…………か」

 思えば俺は、剣道を辞めたあの日から自信というものを忘れていたかもしれない。選手だったころはそれこそ傲慢とも思えるくらい過剰に自信を持て余していたほどだ。それで部員、先生問わず反感を買ったことすらある。

 それが今はどうだろうか? ヒバたちへの指導、対桜ヶ丘への作戦、正式な指導者としての誘い、それから……今も。全部、理詰め理詰めで保険をかけてばかりだった。あの頃の、言い知れぬ自信、勢いみたいなものは失って、できなかったときのことばかり頭の中でリフレインするようになってしまった。

 剣道の理念とは本来、精神面を修練し己に打ち勝つことである。肝心なのは理屈ではなく、心だ。心が弱ければ、剣に迷いが生じる。

 ……イメージだ。イメージするんだ、自分に打ち勝つ自分の姿を。昔みたいに自身と勢いに満ち満ちた剣道をやる自分を。

 全国区でも通用するぐらい強く、しかもそれだけじゃない。お互いが切磋琢磨しあい、辛く苦しいときには手を取り合う、試合のときには一対一ではなく他の四人が背中を支えて一緒に戦うというぐらいの絆を持った、そんなチームの――桜南を、ハジメを、アカリを、ミユさんを、こころを、ヒバを……、五人の姿を。

 他でもない、俺がやるんだ。

「それが俺の……したいことだ」

 下がり気味だった剣先をゆっくりと持ち上げる。肩の力を抜き、肘を開いて、左足のつま先に力を入れる。重心は腰に、視線は真っ直ぐ、気持ちを前に。

 俺なら……できる!

 勢いよく地面を蹴り、竹刀を振り上げ、俺は跳び出した――


「めぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇん!」

 

 感覚で分かった。最後に打った面はもう随分と前のことであの決勝以来だとおもうけど、間違いなく今までの剣道歴で一番洗練された面だった。

 上手く打ち出せたときの正面打ちには、体のパーツがまるで精巧な機械みたいに潤滑に連動するような……、そんな感覚がある。今のがまさにそれだった。

 剣先はキレイに面を捉え、頭の頂点の布地を叩いた音が高らかに響いた。

 手応えには爽快さすら覚える、そんな面だった。

 ――遂に俺は、長年のトラウマを乗り越える第一歩を踏み出せた!

 あとは残心を決めるだけ……なのだが、そこでちょっと問題が起きた。

 ヒバが俺の体当たりを真っ向から受けようとした。同年代を相手にした稽古ならそれでもいいのだが、俺は大学生、対するヒバは中学生の女の子でその中でも身長が低い方の部類に入る。このまま思いっきりぶつかってしまえば、まず間違いなくヒバは勢いに耐えかねて吹っ飛んでしまう。

 これではさすがにマズい! そう思った俺は咄嗟に急ブレーキをかけた。しかし勢いよく飛び出した体は急には止められずに、時すでに遅し。

「あっ、やべっ……」

「きゃっ……!」

 俺とヒバの体がぶつかってしまった。ヒバは受け身を取っていたものの、そのまま後ろに倒れてしまう。竹刀を捨てて何とか腕を回して支えようとするが間に合わず、二人ともそのまま転んでしまう。

「痛ッ…………。だ、大丈夫かヒバ? ケガとか……」

「わ、私は大丈夫です。それよりも……」

「‥…? それより?」

 視線を上げると、ヒバの顔が面を挟んで目の前にあった。地面についた俺の腕の間にヒバがすっぽりと収まっている。倒れて尻もちをついたヒバの上に、俺が覆い被さってしまっているのだ。

 いつになく近い距離に、心臓がドキリと跳ねた気がした――

「す、すまん……。すぐどくよ」

「あっ……、えっと、その、待ってください。すぐじゃなくても…………、いいです」

 離れようとする俺の腕をぐっと両手で掴んで、ヒバは俺を捕まえた。

「……お疲れ様でした。そして……お帰りなさい、士気さん。素晴らしい面でした……!」

 転んだ拍子でうやむやになってしまったが、ヒバに言われてふつふつと実感が湧いてきた。

 そうか、俺……ついにやったのか。高校最後の大会、その決勝戦以来ずっと燻ぶり続けてきた俺が、こうして約二年ぶりにちゃんとした剣道をすることができた。

 それもこれも全部、彼女たちのおかげだ。

「さっきの面は……ヒバ、お前の打ち方を参考にしたんだ」

「私の……?」

「ヒバにはまだいろいろ教えてやりたいことがある。攻めの駆け引きとか、相手の弱点の見極め方とか……もっとある。でも正面打ちだけは俺から教えてやれることがない、理想形なんだ。……だから最近は、頭の中でずっとヒバの打ち方を思い出してイメトレしてた。つまり、お前から教わったことなんだ」

「私が、士気さんを……」

「お前だけじゃない。ハジメやアカリ、こころやミユさんにだって教えられたことはたくさんある。ついでに、愛にも。……これから先も、きっとそうなるんだろうな」

「士気さん……! じゃあっ……」

「ああ。桜南のコーチ……といっても仮だけど、俺でよければ引き受けさせてもらうよ」

「あ、ありがとうございます……!」

 ヒバはいそいそとその場で正座して、深々と頭を下げた。

「えっ、あ……いやいや、こちらこそ、お願いします」

 少々大袈裟すぎる態度に圧倒されて、俺も思わずつられて正座で礼を返す。頭を上げると、ちょうど同じタイミングで礼を終えたヒバと目が合った。

 それがなんだかおかしくて、

「ふっ、ふふふ……」

「はっ、はははは!」

 二人とも顔を合わせて笑ってしまった。くすくすと口元を隠して微笑むヒバ。しばらくして、ふぅと一息つくと、何かを確信したように頷いた。

「……うん、私、決めました!」

「えっ、決めたって何を?」

「目標です! ……私、この一年で必ず大きな大会で優勝します! それで、士気さんが何の心配もなくご指導できる桜南にしてみせます!」

「一年って……これまた大きくでたなぁ……」

 一年生しか部員のいない桜南がこれから相手にしていくのは、当然ながら桜ヶ丘のような二年生がレギュラーの学校ばかりだ。十代の一年はとても価値のあるものだ。その差を埋めるのは一筋縄ではいかないだろう。

「どうしてそんなに急ぐんだ? 中学だけでもまだあと二年以上はあるんだ。すぐに結果を出そうとしなくたって……」

「それはそうなんですけど、でもその方が士気さんも安心して私たちの指導についていただけると思うんです。一年生の私やみんなが、大きな大会で常に勝ちあがれるほどになれば、士気さんの指導力が本物だって証明できます!」

「それは俺がどうこうってよりもお前らの力じゃないか……?」

「そうかもしれませんが……でも少なくとも、自信はつくかと思います! さっきおっしゃってた、才能を食い潰すなんてことはないって証明できます……!」

「気にしてたのか……」

「ごめんなさい、少しだけ……。でも、それなら仮じゃなくて本当のコーチになっていただけると思います!」

「そりゃあ、それができればなぁ……」

 ……一年のうちからそんな大きな目標を立てるだなんて、いくらなんでも俺のことを買いかぶりすぎだ。どんな立派な先生だって、いくらヒバたちに才能があるからって、先んじて稽古に励んできた先輩たちを出し抜くなんてことは容易ではない。

地区大会は一回限りの勝負で桜ヶ丘にだけ勝てればよかったから、あんな裏ワザみたいなマネが通じた。しかし、大会で上位入賞、それも県以上のレベルとなってくるとそうはいかない。将来的にそこに食い込む余地はあるかもしれないが、一年以内にとなると……、生半可な覚悟ではそれを成し遂げることはできない。

「本当にその覚悟があるのか? お前に。主将としてみんなを牽引していくのは大変だぞ?」

「もちろん、承知の上です!」

「そっ……か。だったら俺も水を差すようなマネはできないな」

「それじゃあ……!」

「ああ。お前のその覚悟に答えてやれるように……、俺も頑張るよ」

「士気さん……!」

 未熟な俺が、仮とはいえ桜南のコーチを任されるのは正直怖い。それはこの二週間も同じことで、俺の指導如何によっては桜南剣道部が無くなってしまうというプレッシャーは常に俺の肩に重くのしかかっていた。

 でも、それ以上に楽しくもあった。ヒバが大将戦で最後の面を決めたときは、自分のどの大会で優勝したときよりも嬉しかったし感動した。

 こうして、ヒバやみんなのおかげでトラウマを乗り越えた今――今までで一番剣道がしたい。俺も桜南の一員として、みんなと時間を共有したい。そんな思いが、さっき面を決めたその瞬間からどっと湧いてくるのだ。そしてそれは、エネルギーに変換される。

 俺では力不足だという懸念は尽きないけれど、それでも挑戦したいというやる気が出てきた。あとはそのやる気を――どこまで信じてやれるかというだけ。

 俺はゆっくりと立ち上がった。さっき倒れたときに捨て去った竹刀を拾い直す。

見ると、鍔止めにはトンボの柄が入っている。大将戦のときにヒバに貸した鍔止めだ。トンボは武士の象徴。トンボの後ろには飛ばない様を受けて、後退しない、決して逃げないという意味が込められている。……俺は一度逃げた。でも――今度は逃げない。

 ヒバに手を差し出した。彼女はぺこりと頭を下げると、その手を支えに立ち上がる。

「そうだ、ヒバ。今度はお前が打ってくれないか? 今までお前の正面打ちを傍で見ることはあっても、実際に受けることはなかったから試してみたいんだ」

「ええ、ぜひ!」

 

 ふと、思った。また剣道を初めてよかったと思える理由の一番は、こうしてヒバの正面打ちを受けられることなんじゃないかと。

 そして、それはきっとこれからも変わらない。

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