面胴でもお突き合い!

@syatan

前半

 プロローグ


「ヤァァァァァァァァァァァァァ!」

 幾多の見物人が観戦席、あるいは道場の床に正座して見守る中、張りつめた物々しい空気感を破るように――目の前の相手は気合いを声と共に発した。

 しかし、俺の頭は極めて冴えている。いつもなら相手の気合いに呼応するところだが、今はただ竹刀の切っ先にのみ集中していたかった。

 試合時間は感覚的に残り一分半。開始二分ほどで三人の審判が同時に赤の旗を挙げ、俺は一本を先取した。つまり、俺には余裕があった。

 対する相手は、気合いを発することで自分を奮い立たせている。試合開始直後のような勢いは見られないし、こちらが仕掛けていってもただただ堅実に防御をするばかりで、カウンターに応じる訳でもない。おそらく、もう一本を追加で奪われて、直ちに試合終了することを怖がっているのだろう。

 ――もらった。試合がまだ終わってもいないのにも拘わらず、確かな手ごたえが俺にはあった。こちらはすでに一本先取している。こうして慎重に落ち着いて無駄打ちを無くせば、相手は自ずと痺れを切らして――

「ヤァァァァァァァァァァァァァ!」

 来る。相手の目線が、一瞬だけ俺の頭頂部に移った。

 俺は相手の竹刀の峰を自分の竹刀の切っ先でなぞるように掻き分けて、前方に跳躍した。

「ツキィィィィィィィィィィィィィィィィィィィ!」

 相手の面の喉元にある突き垂れに向けて、一直線に突きを放つ。腕が真っ直ぐに伸びたお手本のように綺麗な突きを繰り出すことができ、俺はやっとこの長い大会が終わったと思った。高校三年の最後を、男子個人優勝で飾ることができたと、そう思っていた。しかし、そうはならなかった――

 竹刀の切っ先は、相手の突き垂れを潜り抜け、喉を直接穿っていた。もちろん貫通はしていない。しかし、俺が繰り出した突きには、そう思わせるだけの勢いと感覚があった。

 声にならない声を上げながら、目の前の男は頭から倒れる。道場のどこからか、誰かの悲鳴が聞こえたような気がした。主審が旗を交差して試合を中断させる。俺が開始線に戻るよりも先に、試合をはたで見ていた初老の男性が駆け寄った。

 今思えば、あの男性は彼の父親だったのかもしれない。男性がいくら必至に名前を呼んでも、目の前の相手はずっとぐたりと倒れたままだった――

 それからのことはよく覚えていない。何が起きたのかずっと理解できずに、俺はただ虚ろにストレッチャーで運ばれていく彼を眺めていた。閉会式のときも、表彰のときも、ただずっと虚ろに空中を見ていた気がする。そう――俺は表彰されたのだ。     

 ずっと目標だった優勝旗を手中にしていた。前代未聞の形で終わりを告げた第三十二回清龍旗高等学校剣道大会の個人決勝は――俺、鬼山士気(キヤマ シキ)の勝利の扱いと審判団は判断した。

 今からそう昔でもない、二年と半年ほど前のこと。それから俺は竹刀に触れていない――


「「「先生、今までありがとうございました!」」」

 生徒たちは元気いっぱいにそう言いながら、教卓の前で目を丸くする俺に、派手に彩った寄せ書きを手渡してくれた。

「……これを俺に? あ、ありがとう。たった二週間だったけど、今までのことはずっと忘れないよ」

 恥ずかしさやら、慣れて無さやらで、そんな月並みなセリフが口をついてでてきた。

 県外の教育学科に身を置く俺は、この大学二年の六月に教育実習生として母校である桜ヶ丘南中、通称桜南で教鞭をとっていた。実際の教育現場で生徒に授業をすることで、自分が〝教える〟ということについて学ぶ――教員免許を取得するにあたって必要な条件である。

「先生、次来るときはもっと字の練習してこいよ! 先生の板書ってミミズがはったみたいな字で見にくいんだよ」

 ある男子生徒に背中をパンと叩かれながら、そんなことを言われた。

「うっせぇ。お子様にはまだ俺の字の味がわかんねぇんだよ。味が」

 強がってみせるものの、確かに俺にとって実習中の最大の課題は、字だった。

 ただでさえ普段から字が下手なのに、黒板にチョークで板書するとなれば、俺の字はまるでエジプトの石碑か何かだ。その上担当科目は国語。国語の先生なのに字が下手だというのは、なんとなくイメージが悪い。そのことについて、授業の後に本職の先生から注意されたことがこの二週間で何度もあった。

 その所為で軽くへこんでても、こいつら容赦ないんだもんなぁ……。授業中でも平気で、「せんせー、今描いてんのってもやしのダンスか何かっすかー? ((アハハハ!))」みたいなやり取りが行われる。全く、子供って無邪気で残酷だよな……。

「俺も頑張って字の練習するから……、君らも勉強に部活、頑張れよ。応援してるから」

 そんな毒にも薬にもならないことを最後に言って、半分お別れ会となったホームルームを俺は締めくくった。四十人の生徒全員が、俺が教室を出るまで拍手で見送ってくれた。


「士気くん、教育実習はどうだった? みんないい子たちだったでしょ?」

 職員室に向かう途中、俺が受け持ったクラスの担任の先生が話しかけてきた。

 淡い栗色の髪を肩ほどまで垂らした、二重瞼の垂れ目と穏やかな顔をした女性の先生だ。

 ちなみに俺もその特徴を色濃く次いで姉さんと似た顔立ちだが、目つきが悪い所為で何だかいつも眠そうにしているように他人の目には映るらしい。

 遺伝は同じはずなのに……、姉弟でこうも評価が違うと悲しい。

「そうだな……、久しぶりに結構楽しかったよ。大学の講義よりも全然。さすが姉さんのクラスだな」

 そう、この先生――鬼山涼香は、俺の五つ上の姉である。昔から面倒見がよくて、俺が喧嘩して帰ってきた日や親に怒られたときは、叱ってくれたし慰めてくれた。その上、人当たりがよく朗らかで、背の高いスラッとした美人だ。その姉が中学校の先生というのは、まさに転職だろう。生徒たちからの人気も信頼も厚い。

 ちなみに、俺の実習先にこの学校を薦めてくれたのも姉さんだ。

「もう……、何が講義よりも全然、よ。スキがあればそうやってすぐサボろうとするんだから。単位足りなくなっても知らないよ」

 ……小うるさいのがたまにキズだが。

「大丈夫だって。単位はちゃんと計算してるからさ。そのあたりは抜かりないよ。課題もほどほどに出してるしさ」

「ほどほどじゃなくてちゃんと全部提出してほしいんだけど……。生徒たちに申し訳ないわ、こんな弟で…‥」

 姉さんは呆れ気味にため息をついた。

 いやまぁ確かにそう言われると弱いなぁ。実習中は生徒たちに課題を提出させる側だったし…‥。俺のサボり癖を知っている人からしたら、どの口でと思うのも無理はない。

「相変わらず字も汚いし、寝癖は直さないし、教え方は上手だけど所々なんか雑だし、生徒に悪影響がないかずっと心配だったんだから……まったく」

 姉さんはぷんすこ怒りながらボヤく。顔が童顔なので怒ってもあまり怖くないのは昔からだが、それでも生徒たちは姉さんの言うことをしっかり聞いているのでやはりプロは凄い。

「悪かったよ。心配かけついでに今度またお詫びするからさ。一つ借りってことで……な?」

 そういって俺が平謝りすると、姉さんは言質をとったとばかりに、

「だったら一つお願いがあるんだけど……その借り、今返してくれないかしら?」

 と微笑んだ。そして、立ち止まってこちらへ向き直る。


「この学校の剣道部の、指導をしてほしいの」


 にこやかにそう言ってのけた姉さんとは対照的に、僕は唖然とその場に立ち尽くす。目の前の人が何を言ったのか、その言葉の意味をしばらく反芻したあと、ようやく理解した俺はいやいやと手を振って断った。

「剣道部って……、俺がしばらく竹刀握ってないの姉さんだって知ってるだろ?」

「うん、知ってるよ。だから暇だろうと思ってさ」

 さっぱりとした口調で姉さんは言い切った。

「……俺が剣道を辞めた理由、言おうか?」

「いい、それも知ってるから。知ってる上で士気くんに頼んでるのよ」

 ……思いつきや軽いノリで口にしたわけではなく、どうやら本気らしい。

 姉さんは珍しく真剣な顔つきで、俺の顔を真っ直ぐ見つめる。

「うちの剣道部……、今は私が顧問を受け持っているの。だけどほら、私は士気くんとは違って剣道はやったことないから……」

「そんなの別に珍しいことじゃないだろ。経験者の顧問がいなくてちゃんとした指導を受けられない部なんて、剣道部に限らずどこの学校にでも有り触れてるよ。姉さんの気にするようなことじゃない」

 俺が現役の剣道部員だったときだって、そんな学校はざらにあった。もちろん相手にならないような弱小だったけど、だからといって顧問がその責任を取らされるわけでもない。部員たちに本気で強くなる気があるのなら、地域ごとに活動団体なんていくらでもあるし、そこに入会するなりすればいい。桜南の剣道部だけが全てではない。

「他にことを急ぐような理由があるならともかく……。姉さんが気を揉む必要は無いよ」

 そう言って歩き出そうとする俺。普段なら話はここで終わりなのだが、今日の姉さんはいつもより強情だった。さっさと職員室に向かおうとする俺の肩をがしっと掴む。

「急ぐ理由は……、あるの。今日だけでもいいから、あの子たちの練習を見てあげてくれない?」

 ……重ねて言うが、今日の姉さんの雰囲気は何だかいつもとは違った。人当たりが良く朗らかで気のいい姉さんが、今日はいつになく強情だ。絶対に自分の言うことを聞いてもらうぞというそんな意思を強く感じる。

「……分かったよ。そこまで言うなら……一応、話だけは聞く」

 結局俺は不承不承、今日一日だけという条件で、姉さんの頼みを聞き入れてしまった。破れかぶれの気まぐれだったのだが、それが俺の終わったはずの剣の道に多大な影響を与えることになるとは――この時はまだ思いもしなかった。


「……懐かしいな、道場。随分古くなっちまって……」

  ここ桜南は俺の母校でもあるので、当然のことながらこの武道場にも馴染みがある。OBとして顔を出すことがなかったから、実に五年ぶりだ。

 あの頃に比べて、テラス状の入口にある下駄箱は錆びついているし、道場の鉄扉には傷が目立つ。たった五年だが、当時から年期が入っていたから今は余計にボロボロだ。雨漏りの修理で道場の半分くらいが使えなかった時もあったからなぁ……。

 とはいえ、いつまでも感傷にふけっていても仕方がない。俺が今日指導に入ることを、部員たちはすでに周知しているらしいし(俺の返事を聞く前に姉さんが勝手に伝えたそうだ)、逃げることはできない。だったらこうやって扉の前でうだうだしているよりも、思い切りよくいってさっさと終わらしてやった方がよさそうだ。

 部員たちには悪いが……、適当にあしらって今日は帰ろう。

「失礼します」

 そう一言、一礼しながら俺は道場に入った。道場に一礼は武道に通じる者なら当たり前の所作で、それは剣道を辞めてしまった今の俺にとっても同じこと。そういった細かな礼節が、武道を学ぶ上でとても大切なことなのだ。

 しかし剣道というものに触れることが久しぶりだった俺は、少し緊張していたらしい。小声だった所為か、道場内の部員たちは誰も俺に気づいていないようだ。

 いや、どうやらそれだけではないらしい。部員らが来訪者に気づかないのには、もう一つ理由があった。

「試合、やってるからか……」

 道場の床に張られた白いラインテープが、正方形になっている。その中央にバツ印とそこから二五センチほどの向き合った場所にお互いの開始線があるのが剣道の試合場。正方形は一辺九メートルほど、それがちょうど二つ入るくらいの大きさだと言えば、この武道場の全体が分かりやすいだろう。

 その試合場で、二人の剣士が竹刀を交えていた。他には、赤と白の旗を持った審判の子が一人、試合場の外に正座して見学している子が一人。ホワイトボードの前でスコアを付けている子が一人、どの子も紺色の胴着と面以外の防具をつけたままなので、全員が役割をローテーションして練習試合をしているのが分かる。部員の少ない剣道部にはありがちな光景だ。  

試合をしている二人は……、面をつけているから素顔は見えないけれど、体格的に女の子だろうか。他の三人の部員も女の子なので、ちょうど団体戦に出場できるチームではあるらしい。しかし俺の世代は同学年だけでも男女合わせて十人はいたので、かなり縮小化しているようだ。

 部員たちには声をかけずにしばらく試合を見守っていると、

「ヤアアアアァァァァァァァァ!」

 ――静謐な道場に、彼女の気合いが響き渡った。

 中学生の女の子とは思えないような、ビリビリと空気が震えるような気合いだった。あの小柄な体躯のどこからこんな声が出ているんだろうか。思わず身構えてしまった。

 それは彼女の相手をしていた子も同じだったのだろう。肩が跳ね、片足が半歩ほど下がったのが、遠目でも分かった。

 その隙を――彼女は見逃さなかった。

「めえぇぇぇぇぇぇぇん!」

 バシーンと、しなる竹刀が綺麗な高い音を立て、彼女の面が炸裂した。驚くほど鮮やかな、そしてしなやか、かつ豪快で見事な面だった。

 面は、剣道における基本中の基本の打突だ。打突には面以外にも、小手、胴、突き(高校生未満には禁止されている)と、さらにそれらの派生がいくつも存在するが、それら全ての根幹にあるものが面。ようするに面さえ綺麗に打突することができれば、他のどんな技であろうが完璧に使いこなすことができる。

 それを彼女は、ほぼ完璧と言っていいほどの完成度で、しかもそれを中学生でやってのけているのだ。〝驚き〟というよりも〝感動〟という感覚に近かったかもしれない。大袈裟だと思うかもしれないが、それほどまでに俺は度肝を抜かれたのだ。

 気づけば、彼女が礼を終えて試合場を退出するまでの間、俺の視線は彼女の釘づけになっていた。

「それじゃあ次は私の番ね。審判、変わってくれないかしら」

 審判を務めていた女の子が、そう彼女に声をかけた。

「うん! 今変わるよ!」

 面を外して返事をする彼女。頭に巻いた手ぬぐいで顔を拭い立ち上がろうとしたとき、ふと視線がこちらを向いた。目が合ったのだ。

「………………あ。あぁぁぁぁぁぁぁ………………!」

 しばらくキョトンと棒立ちしていた彼女だったが、すぐに俺に気が付いたようで、声にならない声をあげる。見る見るうちに顔がりんごのように真っ赤になっていった。

 立ち尽くしていた彼女を見かねて、先ほど審判をしていた女の子が駆け寄る。

「ちょっと、どうしちゃったの? あなたが審判してくれないと他の子が……」

「士気さんがっ……、先生が来てくれてるよ!」

 彼女の一声で、みんなの視線が俺に集まった。

「……えーっと。こ、こんにちは……」

 不意をつかれた俺の挨拶は、ついたどたどしくなってしまった。


「えー……どうも、桜南剣道部OBの鬼山士気です。教育実習ではお世話になりました。最後に、自分のお世話になった剣道部に顔を出そうかなと思って、お邪魔しました」

 もっとも担当した学年が違うのか、この子らの顔は始めて見る。

 おそらく主将である〝彼女〟の号令で集められた部員たちは、俺の挨拶を受けてみんなそれぞれ違った反応をしていた。初めてのOBに目をキラキラさせて「おー……」と唸る子、見分するように丸いスポーツメガネのツルを正す子、怪訝そうな視線で長い髪を指で巻く子、マイペースにただじっーと俺を見る子、そして先ほどの〝彼女〟――

「あのっ……! りょうか先生から聞きましたっ! 私たちの指導をしてくださるんですよね?」

「あはは……。とりあえず今日のところは、ね」

 露骨に肩を落として「そうですか……」とガッカリする彼女。罪悪感が凄いな……。

「ま、まぁ俺まだみんなのことよく知らないし、まずは自己紹介からお願いしていいかな?」

 いけないことをしたような気分をごまかすように、俺は提案する。今日一日指導するだけで自己紹介は大袈裟だとも思ったが、彼女らのことを何も知らないというのも具合が悪いと考えてのことだ。

 すると、はいはーいとショートカットで栗色の髪をした女の子が真っ先に手を挙げた。さっきまで目をキラキラさせていたスポーティーな子だ。

「先鋒の貫初(ヌキ ハジメ)です! ハジメって名前だけど女子です! よろしくお願いします!」

 先鋒というのは、団体戦で戦う順番のことだ。五人でチームが組まれ、初めから先鋒、次鋒、中堅、副将、大将と呼ばれる。ちなみによく混同されがちだが、剣道において主将と大将は意味が違う。主将は部のキャプテン、大将は団体戦のトリ。

まぁどっちもやってるやつが大半だから、あまり違いはないけれど。

「貫さんね、よろしく――」

「ハジメって呼んだください! 貫ってなんか変なんで好きじゃないんです」

 ――お願いしますと言い終わるよりも前に、そう訂正された。

 ヌキか、二文字の苗字って確かに呼びにくいけど、別に変じゃないと思うけどなぁ……。この年の女の子の気持ちは複雑だ。

「じゃ、じゃあハジメさん。よろしくね……」

「さんはいらないですよー。他人行儀なんだからぁ」

「いや俺ら会ったばっかでしょ……」

 元気いっぱいでいいことだと思いながらも苦笑いして、俺はその隣にいた眼鏡の子に目を向ける。すると声をかけるよりも先に挨拶してくれた。

「えっと、水止明(ミズドメ アカリ)です。次鋒です。剣道は主将に誘ってもらって初めて……、まだまだ弱いですけど頑張ります! よろしくお願いしますです」

 まんまるメガネをかけた三つ編みのいかにも委員長って感じの真面目そうな女の子。後で姉さんに聞いてみたら、本当に委員長だった。おまけに学業も優秀だそうだ。

「みずど――」

「あのっ、私も名前で呼んでいただいて結構です!」

「あ、ああ、分かったよ。よろしくアカリ」

 食い気味に詰め寄られて少し戸惑う俺。真面目そうだが、ハジメにも負けない積極性があるみたいだ。

「じゃあ次、お願いできるかな?」

 言うと、さっきから訝しげに俺のことを睥睨している女の子が、先の方でぴょんと癖がついた長い髪をバサッと振り払いながら答えた。

「……息供自由(オキトモ ミユ)よ。団体戦では大体中堅」

 ………………それだけ? 何とも素っ気ない自己紹介である。

「人見知りしてるのか? 大丈夫、俺は何も怪しくないから」

「女子中学生の部活黙って覗いてんのが怪しくないわけないでしょ? 不審者に教えることなんて何もないわよ」

 ふんと、そっぽを向いてしまうミユさん。こちらは先ほどの試合で審判をしていた女の子だが、多分俺の存在に気づいていたのだろう。試合の途中だったので何も言わなかったらしいが、彼女の眼には俺がよほど変に映っていたらしい。

 初めて会う女子中学生にいきなりこうも嫌われてしまうと悲しい以上に、何だか新鮮だ。一周まわって変な気分になっても無理からぬ。いやダメだろ。

「……ミユちゃんは大きな会社のお嬢様なんです」

 罵られることで新たな扉を開きかけた(あくまでまだ開いてない、はず)俺に、アカリがこしょっと耳打ちしてくれた。……なるほど、どうりで高飛車なわけだ。

「ま、ミユさんは追々話してくれたらいいよ」

「ちょっ……、何よその呼び方! なんで私だけさん付けなのよ! しかも私は名前で呼んでいいなんて言ってないわよ! せめてどっちかになさいよ!」

 お嬢様に対する畏敬の念とからかいを込めた呼び方だったのだが、どうやらミユさんはお気に召さなかったらしい。が、先ほど不審者と言われてしまった仕返しで無視してやる。

「じゃあ次、お願いします」

 何やら不服そうに文句を言いながらぴょんぴょん跳ねるミユさんを余所に、例によって次の子が挨拶してくれた。マイペースそうな、所謂ジト目の女の子だ。

「……ん、不動こころ(フドウ ココロ)、です。副将やってます。さっき主将と試合してたの、です。背で分かったと思いますけど」

 その言葉の通り、前髪にシャギーのかかった微おかっぱヘアーのこの子は、みんなに比べてかなり背が高かった。他の子は俺の胸かそれよりも下ぐらいに目線がくるのだが、こころとは頭一個分ぐらいしか変わりがない。俺が一八〇近いから、一六五から一七〇の間ぐらいだろうか。女子中学生にしてはかなり大きい。最近の子は発育がよろしいようだ。

 ちなみにこころの発育がよろしいのは身長だけではないのだが、それを知るのはまた後の話だった。防具をつけていると体のラインが出ないからね。

「副将ってことは、こころはこの部の副キャプなのか?」

 聞いてみたものの、剣道において副将は特別強いという立ち位置ではない。寧ろ、先鋒や中堅の方が強いケースが多い。団体戦で四番目に戦うポジションをただ副将と呼ぶだけだ。強さはあまり関係ない。

 ただ、こころの身長が高かったので、学年がみんなよりも上なのかと思ったのだ。つまり、大将と副将が先輩で、それ以外の子たちが後輩だと思った。

 しかしそんな俺の予想は間違っていたようだ。こころの横で黙って聞いていたミユさんが、ふんと鼻を鳴らした。

「……ん、ここはヒラです。ヒラ部員。副キャプはミユがやってます。……キャプはもちろん――」

 そう言って、こころは〝彼女〟の背中をぽんと叩いた。

 彼女は、先ほどの試合で唖然とするほど見事な面を見せてくれた子だ。

「ちょ、ちょっとここちゃん……! えっと、その……。ひ、戸破守(ヒバリ マモリ)ですっ……! みんなからはヒバって呼ばれてます! よろしくお願いします!」

 そう言ってなぜか両の手を差し出す彼女。戸惑いながらもそれに応えると、彼女は「はわぁぁぁ」と耳まで真っ赤にした。まるでアイドルにでも握手してもらったかのような反応だ。

 自分が赤面していることに気付いたのか、彼女は慌てて手を放し、前髪を止めていたカチューシャを外した。そして、片目が隠れるほどの前髪で顔を隠してしまう。

 その姿を、不覚にもかわいいと思ってしまった。……ちょっと? 相手は中学生ですよ? 

 慌ててそれが顔に出てはいまいかと周りの目を気にするが、よかった悟られてないようだ。ミユさんの俺の見る目がキツイのは最初からだしきっと問題ない。

「あ、あのっ……! お久しぶりです士気さん! 私のこと覚えていらっしゃいますでしょうか?」

 長い前髪をくしくし揉みながら訪ねるヒバこと戸破守主将。先ほど試合をしていたときの気合いはどこへやら、今の彼女はさながら小動物だ。

 しかし、はて……? お久しぶりとは、覚えていますかとはどういうことだろう?

 しばらく考える俺の返事を待たずに、彼女は続ける。

「以前、剣共会に所属していらっしゃいましたよね? 私も小学生からずっと通っていて……」

「ああ、剣共会の」

 剣共会とは、桜ヶ丘市で活動している小学生から大人まで幅広い層の人が集まる剣道教室だ。俺もそこに小学生低学年のころから通って、剣道の基礎力を養った。

 どうやらそこで顔を合わせたことがあるらしい。

「教室は週に二回で君が小学生のときからだから……、結構な頻度で会ってるな……」

「普通に知り合い以上の関係じゃない! それを忘れるなんて最低ね! ありえないわ!」

「ヒバちゃんちょっとかわいそうです……」

 ミユさんとアカリに指摘されてギクリとする俺。「は、はは……」と乾いた笑いでごまかす。

「……えっと、ヒバ。ずっと覚えててくれたのに悪かった。俺ときたら無神経に……」

 自分で自分のデリカシーの無さにげんなりしていると、ヒバが「あっ、いえ」と庇うようにフォローをしてくれた。 

「私が入会してひと月ほどで士気さんは退会されたので……。覚えていらっしゃらないのもご無理は……」

「ああ、そうだったかもなぁ。高校では部活に専念したかったから……。どうしても足が遠のいちゃったんだよな」

 もう何年も前の話だ。誰にも言われなければずっと思い出さなかったかもしれない。そんな昔のことを、俺のことを、名前まで性格に覚えていてくれたとは……。

「よっぽどヒバにとって印象的だったんだろうなぁ……」

 訳知り顔でうんうんと頷くハジメ。意外におませさんみたいだ。可愛らしい。

 ハジメに「このこのー」と茶化されてヒバは、さらに顔を赤くする。そして、言うか言うまいか少し迷ったような表情で、伏し目がちに話した。

「剣道を始めたばかりで何も分からない私に、凄く丁寧に教えて下さって……それで……。あのっ、士気さんの大会を何度か見に行ったこともあるんですっ……! 最後の試合も……、私ずっと見てました……」

「最後の試合っていうと……、清龍旗か……」

 俺が剣道を辞める原因となった試合だ。試合中の事故で、相手の選手は意識を失ってしまった。それ以来俺は、試合場で一対一で相手と向き合うと、どうしても手が震えてしまう。竹刀の切っ先が相手の喉を抉る感覚が指先に蘇ってきて、平静を保てないのだ。そしてついには、竹刀を構えることもできずに、無防備な体制となってしまう。これでは打たれ放題だ。

 そんな状態でまともに試合なんてできるはずがない。ほどなく俺は、剣道そのものを辞めてしまった――

「……あ、あのっ士気さん?」

 心配そうに、俺の顔を下から覗くヒバ。昔のことを思い出して、少しぼっーとしてしまっていたらしい。

 呆れたように、ミユさんがため息をついた。

「ちょっと、呆けてないで何とか言いなさいよ。……全く、こんなのがコーチで大丈夫なのかしら」 

「そんな言い方……、ひどいよミユちゃん。士気さんは最後の試合でっ――」

 庇ってくれるヒバの言葉を、しかし俺は黙って制した。

 心配してほしくないから――とかではない。単に恥ずかしかったからだ。どんなスポーツでも武道でも、試合中に事故を起こすことは珍しくない。だからこそ、たかがそんなことで臆病風に吹かれている自分をみんなに知られたくはなかったのだ。

 ヒバは申し訳なさそうにぺこっと頭を下げる。そんな彼女の頭をぽんと叩いてやて、俺は話題を変えようとみんなに話を振ってみた。

「ところでさ、君たちは剣道を初めてどれくらいになるの? ヒバと一緒で、やっぱり小学生のときから剣道をやってたのか?」

 尋ねると、みんなはキョトンとした顔をする。

「アタシら、ほとんど剣道初心者ですよ? ね? 二人とも?」

「ですです」

「……ん」

 ハジメに言われてうんうんと首を縦に振るアカリとこころ。

「元々、この剣道部は四月の時点での部員は私だけだったんです。それで何とか部員を増やすためにとクラスの友達に声をかけて、ハジメちゃんとアカリちゃん、ここちゃんの三人が集まったんです」

「つまりヒバが入学するまでこの剣道部には部員が誰一人いなかったのか……、二、三年生含めて」

 ヒバに教えてもらって、やっと理解する。

 俺がこの学校を卒業してからそんなことになっていただなんて……。昨今の剣道人口の減少は著しいというが、ここも例に漏れずその煽りを受けていたようだ。

  ふと、疑問に思ったことがあったのでヒバに聞いてみた。

「ハジメとアカリとこころの三人……ってことは、ミユさんは違うのか?」

「ミユちゃんは転校生で、みんなよりも少し後に入部したんです。聞いてみたら、ミユちゃんも小学生のころから剣道をしていたみたいで……、前の学校でも剣道部に入部したらしいんです。それでお願いして……」

「中学に上がって早々、お父様の会社の都合で引っ越しが決まってね。こっちに来たのは四月の終わりごろかしら。人がいないって聞いて正直入部するつもりはなかったのだけれど……、ヒバがどうしてもって聞かないから」

「ちょ、ちょっと! その話はもういいでしょっ! 士気さんの前でっ……!」

 呆れたようにくすりと笑うミユさんの言葉を、ヒバは恥ずかしそうに上擦った声で制した。

「ヒバったら、私がここで剣道を辞めるわけにはいかないの! 私が剣道部を立て直さないといけないの! って言って聞かなかったんだから。凄い必死の形相で……、私ちょっと引いちゃったもの」

「………………言わないでって言ったのに、もう」

 ヒバはふいっとそっぽを向いてしまう。そんな彼女にミユさんは「ごめんごめん、ついね」と手を合わせて謝る。

 ミユさんはこして来たばかりだというが、その関係は非常に良いみたいだ。まるで昔からの友達のじゃれあいを見ているかのようだった。

「……そっか、この場所を守るために、今までヒバは頑張ってくれていたんだな……。ありがとう」

「‥…ふぇっ? いえっ、私はそんな……」

 またぞろ前髪をくしくしといじりながら、顔を赤くするヒバ。どうやらそれが、彼女の恥ずかしがっているときの癖のようだ。

「他の子たちも、同い年のヒバやミユさんの言うことをしっかり聞いて、今まで続けていただけでも凄いことだよ。始めたばかりで、そこまでモチベーションを維持するのは楽なことじゃない。きっと、五人の関係が良かったからこそできたことなんだと思う。ここは俺がかつて汗を流した思い出の場所でもあるから……。OBとして、礼を言わせてくれ」

「士気さん……」

 ぽんとヒバの肩を叩いて言う。すると、ヒバの眉がみるみるうちにハの字になって、ついには目を潤ませてしまう。

「士気さんにそう言っていただけで私はもう……」

 ヒバはそっと肩においた俺の手を握る。その表情には、まるで朝露に反射する斜光のような微笑みが湛えられていた。ともすれば消えてしまいそうな、そんな彼女の微笑みに、俺は少しの罪悪感を覚えてしまった。彼女たちが今置かれている状況、それを考えると、期待を持たせてしまうような自分の行為を少しだけ後悔したのだ。

 ――そう。今、この桜南剣道部には、見ず知らずの俺のような者に頼らなければいけない事情がある。仄暗い雲霞が、彼女の小さな光を覆い隠そうとしていた。   

「ちょっとヒバ! 何満足したような顔をしてるのよ! 大事なのはこれからのことでしょう! その剣道部が無くなろうとしているんじゃないの!」

 気つけするように「しっかりしてよ!」とぷんすこ怒るミユさん。その言葉でみんなハッとさせられたようで、その表情には陰りが見えた――


「武道場、取り壊されるらしいの」

「……え?」

 ――俺が武道場を訪れる前に、姉さんからそんな話を聞かされて寝耳に水だった。

「正確には改修工事らしいんだけど、今よりも規模を大きくして第二体育館として使うことになっているらしいの」

「なんだ、名前が変わるだけじゃないか。別に、剣道場としても使えなくなるわけじゃないんだろ?」

 姉さんは黙ってかぶりを振る。どうやら、単に武道場がキレイになって使いやすくなるといったことではないようだ。

「細山先生って知ってるでしょ? あなたがまだここの剣道部員だったときの顧問の先生」

「……あぁ細山、……先生ね。素人の癖にあれこれエラそうに指図されてうっとおしかったのをよく覚えてるよ。俺の命令を聞けない奴は部にいらないって感じの、典型的な勘違い顧問だ。……確かあんとき三〇後半ぐらいの歳だったから、今はもう四〇過ぎてんのか」

 当時俺はあいつに目を付けられ、一時団体戦のレギュラーを外されたことがある。ムキになった俺は個人戦であてつけのように無視できないほどの結果を出して、言外に抗議したが、あいつはそれすらも「今日は調子が悪かったな」と一蹴した。

 結局、外部から指導に来て下さっていた高段者の先生(実質的な当時の部のコーチ)の推薦もあって否が応でもレギュラーに戻させたが、それもあって昔から因縁の相手だ。

 その細山は未だにこの学校で教務を続けていて、俺が職員の皆さんに教育実習でお世話になる挨拶をしたときも、嫌味ったらしい笑いと言葉で俺を出迎えてくれた。

 ……まぁようするに、どこの学校にでもいるような嫌な先生なわけだ。

「細山先生って、元はバレーの選手じゃない? だから今はバレー部の顧問をなさっているんだけど……。そのおかげかどうかは分からないけど、去年のバレー部が最後の大会で全国までいっちゃって……」

 ……なるほど、なんとなく話は見えてきた。

 俺の世代のバレー部は全国なんてとてもじゃないが目指せるようなチームじゃなかったし、その後の世代もきっと似たりよったりだろう。それがたまたま自分が顧問になった年にいきなり全国レベルのチームになったものだから、調子に乗ってしまったのだ。

 ……まぁ確かに、あいつが顧問になったことでチームに転機が訪れレベルアップの一助になった可能性は大いにあるし、バレーの指導者としては実績も少なからずあるらしいから、それも無理な話ではないんだけど。

 ただ細山の場合、その調子の乗り方が最悪だったようで……、

「それで細山先生ね、新しく改築した第二体育館をバレー部専用で使わせてほしいっておっしゃったの」

「第二体育館を? それじゃあ剣道部の子たちはどこで練習したらいいんだよ?」

「今の体育館……、武道場の改築が決まったら第一体育館ってことになるんだろうけど、そっちはバスケ部や卓球部が使ってるし……。全国大会出場の実績でバレー部への入部希望者が増えたこともあって、もう使えるスペースが無いから……」

「……実質的な廃部になるわけか」

 俺が呟くように言うと、姉さんは黙って首肯した。

「でもそれじゃあ、剣道部員の子たちはどうなるんだよ? せっかく今まで練習してきたっていうのに、全く関係ないバレー部のためにそれを諦めないといけないってのか?」

 他人の練習環境を確保するために、自分たちの部活を有無を言わさず犠牲にされるなんて――そんなのまるで……、生贄じゃないか。

「……元々部員が少ないっていうのと、ここ最近の実績が無いっていうのもあって、ね。完全な廃部ってわけじゃないんだけど、練習できる場所の目途がつくまでフィジカルトレーニングで我慢しろってことみたい……」

「フィジカルトレーニングって……、剣道部だぞ? 確かに体力作りは大事だけど、防具をつけて稽古ができなきゃ意味ないだろ」

 練習で竹刀を握らせてくれないなんて、実質的な廃部じゃないか。そんな環境で実績だなんて、望むべくもない。

 きっとそのまま有耶無耶にして、部員が完全にいなくなるのを待っているんだろう。子供を教育するはずの立場の人間が、実に汚い真似をする。

 怒りでつい拳に力が入り、ぎちぎちと音がするほど握りしめてしまう。

 細山は、当時からそういった陰湿な手を厭わない奴だった。

「もちろん、私は職員会議で猛反発したんだけど、バレー部には全国出場っていう分かりやすい指標があるからね……。あっちの意見の方が通り易くて……」

 姉さんはため息をつきながら頭を抱える仕草を見せる。そして、こう続けた。

「どう説得したものかって悩んでたら、細山先生がこう提案されたの。『そう言えば、近々地区大会があると聞きました。そこで剣道部のみなさんが一勝でもできたのなら、こちらが便宜を図りましょう』って」

「……まるで最初からそのつもりだったって感じだな」

 普通、バレー部の顧問が剣道部の地区大会なんて興味があるはずもなければ、それを耳にする機会なんてないはずだ。事前に大会の日程を調べておいたに違いない。

 更に言えば、〝一勝でも〟というところが肝だ。たった一回勝てばそれでいいのだからハードルが低いように思えるが、桜ヶ丘には毎年県大会で上位を勝ち取るレベルの高い中学が別にある。

 桜ヶ丘中学校――うちは桜ヶ丘〝南〟中学校だが、あちらはそのまま桜ヶ丘。

 名前は似ているがその校区は全く別で、こちらは名前の通り市の南にある山に囲まれた住宅街にその所在を置いているが、あちらは市内のド真ん中に学校を構えている。昔から剣道の強い学校で、藩士七段のベテランの先生が外部から指導に来ているそうだ。

 当然俺も何度も試合をしたことがあるわけだが、その実力は疑いようのないものだ。基礎地盤がしっかりとした、地に足の着いた剣道をする連中。中学生にしてそんな老獪な剣道をする珍しい学校だったから、印象に残っている。

 当時からそのスタイルが変わっていないのだとすれば、彼らに勝つことはとてもじゃないが無理だろう。

 加えて、桜ヶ丘市はそれほど大きくはない町だ。中学校は六つしかない。そのうち、女子チームが組めるほど部員のいる剣道部は限られているだろうから、実質的にはもっと少ない。つまり大会と銘打たれてはいるが、初戦から桜ヶ丘中と試合をする確率はかなり高いのだ。それを知っていて、細山はこの必勝とも言える賭けを提案したわけだ。

「……ねぇお願い士気くん、悔しいの。細山先生だって昔は剣道部の顧問だったはずなのに……、そんな簡単に潰そうとするだなんて許せない」

 姉さんはすがるように俺を見つめる。普段自分の感情をあまり表に見せない人だから、こうやって他人に不満不平を他人に訴えるのは珍しい。俺の手を両手で握り頭を下げる姿に、俺は少し呆気にとられてしまった。

 姉さんが俺に頼みごとをするのはいつぶりだろう。小さな頃から俺の我儘を聞いてもらったことはあっても、その逆は……覚えている限りでは無い。

 だから少し――揺らいでしまったのだろう。

 積もり積もった借りを姉さんに返す。

 因縁の相手である細山の鼻を明かす。

 昔、世話になった武道場を守る。

 理由や動機は十分すぎるくらいある。

 今度は選手とは違う形で、また剣道に触れてみるのも悪くはないかなと思ってしまった――


 稽古の最後には正座をして整列し、先生と武道場に対して感謝の気持ちを示すのが剣道の慣例だ。

 この日は俺が顔を見せたこともあって、俺が道場の上座に座り、向き合うようにして下座に彼女らが座っていた。

「「「ありがとうございましたっ!」」」

 みんなの一礼に応じて、俺も例を返す。それから道場の中心にある床の間に向けて振り返り、今度は全員で黙礼をした。ここまでの礼法を終えて、稽古は初めて終了となるのだ。

「あの、今日はありがとうございました。士気さんにご指導いただけて、とっても刺激になりました」

 稽古を終え、防具を外してから、着替えるために道場に併設された更衣室に三々五々向かうみんな。そんな中、ヒバが俺の方にとてとてと駆け寄ってきて礼を言った。

「いや、改めて礼を言われるようなことじゃないよ。みんなの試合稽古の続きを見ていただけだし……、俺が教えたのは基本的なことばかりだから、きっといてもいなくてもそう変わらなかったじゃないかな」

「いえ、そんなこと! 私たちとは違った目線で意見をいただける機会は貴重なので……、とても助かりました!」

 ヒバはこう言ってくれているが、実際俺の教えたことなど大したことではない。

 途中参加だったうえに自己紹介もあったから指導できる時間は限られていたし、それに俺が教えたことは基本中の基本のようなことばかりだ。剣道初心者であるハジメ、アカリ、こころを中心に基礎的な地盤作りのための、所謂コツを教えただけだった。

 剣道の基本動作――構え、足捌き、素振り、体捌き。

 いずれも普段の練習の甲斐あってか、初心者組三人のそれは大きく逸脱したものではなかった。きっとヒバやミユさんの教え方が上手いんだろう。俺が教えることは最低限で済んだ。

 それにヒバとミユさん。こちらは経験者ということもあって土台からしっかりしていた。

 ミユさんは技のボキャブラリーが豊富でしかも応用も利く。それに加えて勘が鋭いようで機転が効く。団体戦の時にはチームの変化球的な役割を担ってくれるはずだ。

 そしてやはりもっとも注目すべきだったのが、ヒバ。彼女の打突はどれも中学生とは思えないほど洗練されていて、なかでも面打ちは随一だ。その速さは大人の俺でもドキッとさせられたし、フォームに至っては文句の付けようがない。身長に比べて跳躍力があるのは足がいいからだろうか? 足捌きも鋭い。

 ヒバの面打ちは、とにかく完璧だ。ここまでの面が打てる中学生なんて全国探したってそうはいないはずだ。いや、いないと断言できる。

 一級の速さと正確性を併せ持つヒバに、絡め手の得意なミユさん。この二人がいれば、強豪相手でもいい勝負ができるのではと最初は思ったが……。

 しかしあくまでそれは、二人に限っての話だ。桜南には三人の初心者がいる。

 剣道の団体戦は五人で戦うものだから、例え二人が勝てたとしても残りの三人が負けてしまえばどうにもならない。

 試合までの短い期間――姉さんから聞いたところによると、試合は来週の土曜日にあるらしい。経験者組のヒバやミユさんがいるとはいえ、それまでに十分戦える段階まで育てるというのは言うまでもなく厳しいことだろう。

 ……俺なんかに、彼女らの指導者が務まるのだろうか。その不安が拭いきれなかったから、期待するだけさせて落とすような真似をしたくなかったから、とりあえず今日一日だけという条件を出した。ひとまず様子を見て、地区大会で一勝するという条件が達成可能かどうかを判断したのだ。

 だがしかし、これは……はっきり言って難しい。

「……あの、士気さん? どうなさいました……?」

 考え込んで眉間を押さえる俺に、ヒバは心配そうに声をかけてきた。

 ……いかんいかん。ここで俺の不安を悟られてしまっては、ヒバの気まで余計に落としてしまうことになる。無駄な期待をさせてしまうのも良くないが、それ以上にやる気や自信を削いでしまうのはもっと良くない。

 だから俺は心配させまいとして、殊更に明るく振舞おうと――

「いや、なんでもないよ。少し考え事してた……だけ……、だったんだけど」

 ――したのだが、道場の鉄扉の外に見知ったいけ好かない顔を見かけて言葉が詰まってしまった。

「やあ鬼山先生。やっぱりここにいましたか。……相も変わらず眠そうな顔で、生徒の相手はやはり退屈でしたか」

「元からこういう顔なんです。……細山先生」

 男の癖に長く伸ばした髪を後ろで纏めた、うさんくさい髪型。嫌味ったらしい銀縁の眼鏡。通勤は大型のバイクでレザーコートを羽織って来るという謎にオシャレなファッションセンス(当然生徒の前ではスーツだが)。目に入ってくる情報の全てが、何かもう……ウザったい。視覚だけで胃もたれさせられるような男だ。

「……お疲れ様です。僕に何かご用でしょうか?」

 相手は形の上では目上の人間なので、一応の敬意を以て俺は対応する。

 そんな俺の態度を一瞥して、細山はふっと鼻を鳴らす。それから武道場を見回すような仕草を見せた。

「どうだ、久しぶりの武道場は? いい加減古くなったと思わないか? お前がここにいたときからガタは来てたが……、もう限界だろ」

 細山は俺の顧問だった当時を意識してか、あえてくだけた話し方で言った。

 押し黙る俺に細山は目を細め、続ける。

「ここを使うのは剣道部員だけじゃない。普通の生徒だって体育の授業で利用するんだ。生徒の為を思ったら、大雨の度に雨漏りするような施設を使わせられないだろ?」

「……さぁどうでしょうか。だからといって剣道部員から練習する場所を取り上げる理由にはならないと思いますが」

「……はっ、やっぱりお前の耳にも入ってたか。いくら姉弟だからとはいえ……、内々のことを余所に喋らないで欲しいなぁ」

 姉弟だからとはいえ――姉さんのことを言われて、俺は少しカチンと来てしまった。

 いくら目上だからといって、身内を悪く言われて腹が立たないわけがない。ただ、

それを表情に出すのも癪なので、あえて何でもないというふうを装った。

「優しい人ですからね。詐欺師みたいなやり口を黙って見てられなかったんでしょう」

 そして皮肉気味にそれだけ言ってやると、細山は黙って眉根を寄せる。それをごまかすように眼鏡のズレを直したが、舌打ちの音が僅かに聞こえてきた。

 ――傍から見れば、一触即発の空気だったのだろう。ヒバの顔がみるみるうちに青ざめていくのが分かった。おっかなびっくり、何かを声に出そうとしては躊躇して飲み込むのが、あわあわとした表情から度々伝わってくる。

「……ヒバ。練習で汗だくだろうから、いい加減着替えてきな。もうすぐ下校時間だし、遅くなってもいけないから」

 それは言外に、『しばらく更衣室で待っていろ、長くは掛からないから』という意味だった。大人のしょうもない口喧嘩に、子供を突き合わせては可哀そうだ。

 しかし、ヒバはその場を去ろうとしなかった。

「………………ヒバ?」

「すっ、すみません……! あの、ご迷惑でしょうが……その、私もここの部長なので……一緒に……」

 この部の代表として部の存続に関わる大事な話(実際はただの口論なのだが)に自分が席を外すわけにはいかないと、ヒバはそう言うのだ。

 大の大人が言い争う空気感は年端のいかぬ少女には酷だろうに……、何と健気な献身なのだろうか。気まずいのを我慢して、怖いのを我慢して、ヒバは部長として自分に課せられた責任を果たそうとしている。

 彼女の頑張りの為にも、ここで俺が頭を冷やして一歩下がるべきだろう――

「じきに無くなる部活の為に……、見上げた根性だ。しかし肩肘を張る必要は無い。ときには根性ではどうにもならないこともある。諦めも肝心だぞ戸破」

「どの口で言ってんだよ! この性悪ロンゲ!」

 ――無理だった。

 あわや掴み掛らんとするすんでの所で、ヒバが「だめです士気さんっ」と止めてくれたが、彼女の静止がなければどうなっていたか分からない。

 下した血がまた頭まで一気に登ってくるような感覚が自分でもはっきりと分かった。やっぱり俺はこいつにたいして冷静になんてなれない。……天敵だ。

 俺の語気が荒ぶるのを聞いて、細山はしてやったりとばかりにニヤリと笑う。

「……やっぱりお前はあの頃から何も変わっとらんな。自分の立場も理解せず、よくもまぁ目上の人間にそんな口を聞けたもんだ。……ガキのままだな」

 わざと相手を逆なでするような真似をして自滅させるのは、細山の昔からの手口だ。あの頃から何も変わらないのはこいつも一緒だった。

 そして不本意ながら、俺と同じく頭に血が上りやすいのも一緒。だったら俺もその弱点を突く為、この舌戦に付き合ってやるしかない。

 ……ヒバには申し訳ない限りだが、このまま言いくるめられては剣道部の沽券に関わる。

「ガキっぽいのはお互い様だろ。子供相手に下らない賭けして恥ずかしくないのかよ。……歳、考えてください」

「……減らず口を」

 細山は平静を装おうとしているが、内心では業を煮やしているのだろう。顔が少しずつ赤くなっている。ややともすると、青筋が浮かんできそうな勢いだ。

 ……まぁ傍から見れば、俺も同じ表情をしていたのかもしれないが。

 あくまでベテランの教師である細山は、大人の余裕を見せようとしてか、冷静に振舞おうと言葉少なになる。さっきの俺と同じでクールダウンを図っているのだろう。

「そもそも地区大会の初戦で一勝するって条件は愚策だったとしか思えないな。こんなに才能のある子たちが揃ってんだから、ちょっと稽古すれば十分すぎるくらい通用する。……見る目がないのは昔からだな、先生」

 たっぷりの皮肉をつめたバラエティセットに熨斗をつけてお送りさしあげる俺。

 すると向こうもさすがに我慢ならなかったようで、切り札とばかりにある一枚の四つ折りにされた紙を上着の胸ポケットから取り出した。

 細山は生徒の手前怒号を上げるようなことはしないが、無言で高圧的に、俺の胸をどんと突き押すようにしてその紙を手渡す。二、三歩よろめいた俺に、ヒバが支えるようにして手を添えてくれた。……ホント、巻き込んで申し訳ないです。

「相も変わらず口だけは達者なガキだっ……! しかしこれで、その小憎たらしい口も少しは閉じるだろ」

 乱暴にされて少しシワの寄ってしまった紙を、俺は開いてみる。

  ――『桜ヶ丘地区剣道選手権大会 中学生女子の部』と、そのA4用紙の見出しに記載されていた。

「知り合いの先生から頂いた再来週の地区大会の試合表だ。女子中学生の部は参加チームが四つだけで今年は総当たりになるそうだが……、お前らの初戦は――」

 ――桜ヶ丘中対桜ヶ丘南中となっている。

 屈んで隣のヒバにも見せてやると、その双眸が見開かれた。彼女は自分の胴着の裾をぎゅっと握りしめ、深刻そうな表情を浮かべる。

 分かっていたことではあるがこうして実際に目の当りにすると、より絶望感が増す。

「……それにしても総当たりか、あんたやっぱり対戦相手が何処か分かっててふっかけてきたんだな」

 細山は答えないが、ニヤリと嫌らしく笑って応じた。

 各学校総当たりの大会は俺の代でも珍しくなく、特に女子の試合ではよく行われていた。チーム数が少ないのは昔も同じだったわけだ。その際、試合順はリーグ戦のようにランダムではなく、決まって桜ヶ丘と桜ヶ丘南からとなるのが通例だった。

 おそらく、五十音で試合順が決められているのだろう。結局全ての学校と対戦するのだから、普通なら順番なんて適当に決めてしまっても問題無いから。その結果、桜ヶ丘と桜ヶ丘南、名前の似ている二つの学校の試合が毎度組まれる。

 かつて剣道部顧問だった細山は、それを知っていた――

「……狡猾で、卑劣だ。どうしてこんな真似ができるんだ。あんたも昔はここの顧問だったろ。何か気に喰わないことでもあんのかよ……、剣道に」

「いいや無い」

 悪びれず、即答する細山。

「……だったら――」

「――無い、が。今は俺のバレー部の為にできることをやっているだけだ。練習場所が欲しいのは、飽和気味のうちだって同じだからな」

 ……ゾッとした。もしかしてかつて剣道部の顧問だったときも、こいつはこんな武道の名に泥を塗るような真似をしたのだろうか? だとしたら部員だった俺は、間接的にこいつの加担をしたことになる。

「そもそも第二体育館とバレー部の練習場所の件は去年度の時点ですでに立案されていたことだ。そこに後から入ってきたのが、戸破たちなんだよ。それをお前、姉からちゃんと聞いてたのか?」

 ……初耳だ。多分、姉さんにとっても耳が痛いことだったに違いない。

 黙っていたのは……、俺に剣道部を勝たせてやることだけに集中して欲しかったから、か。せめて職員室の政治的な事情だけでも、姉さんは顧問として責任をもって解決したかったのかもしれない。

 確かにその言い分は真っ当だ。去年から計画が決まってきたというのであれば、その話をバレー部員にもしているだろうし、それを聞いてきっと喜んだだろう。全国大会へ駒を進めたご褒美にも感じたかもしれない。だのに、今更それを取り上げるのは酷なことだと思う。

 でも、だからといって――

「だからといって、彼女たちから居場所を奪う理由には断じてならない」

 そんなのは詭弁だと、そう言外に訴えたつもりだった。

「なるんだよっ、分からん奴だなっ……!」

 しかし俺の反論は、声を荒げた細山に真っ向から否定されてしまう。

「部員がいない。指導者もいない。実績もない。今の剣道部はもぬけの殻だ! 実態の無い部活が淘汰されるのは普通だろうが!」

「………………っ」

 その指摘は顧問としてだけではなく、学校運営の目線から考えても真っ当な意見だった。それだけに俺はすぐには言い返せず、押し黙ってしまう。……情けない。

 確かに細山の言っていることは正論だ。実態の無い部活に裂けるほど部費や場所が余っているはずもない。ましてや、人並み以上の努力をしてその結果実績を挙げた者たちが優先されるべきなのは当然だ。

 ……だけれど、人としてはやっぱり駄目だろう。子どもを育てるはずの機関が、子どもを無理やり追い出すなんてのは。

 たまらず歯を食いしばる俺。何か言わなければ剣道部側の主張はこのまま封殺されてしまう。しかしそんな意志とは裏腹に、歯噛みする力がただ強くなるだけだった。

「――もぬけの殻なんかじゃ、ないです……」

「………………あ?」

 俺と細山の間に割って入る、小さな声があった。

 小さいが、それは確かにはっきりと、水たまりに落ちた雫のように、俺の耳に届いた。 

「もぬけの殻なんかじゃないんです。おっしゃる通り、今の今まで活動がなかったかもしれません。少し休憩していたかもしれません。……でも、確かにそこにはかつての思いがあって、努力があって、良いことばかりじゃなくて苦労や挫折もあるけれど、今は……今は私たちの希望があるんです」

 自惚れだと思う。自意識過剰だと思う。だけど俺には、ヒバの吐露した言葉が、俺自身にも向けられている気がした。

「確かに細山先生のように外の人からすれば休んでいるように見えるかもしれません。ひょっとしたらサボっているようにも……。でもそれは違うくて、充電だったんです」

「……充電だぁ?」

 もう取り繕うことは一切せずに、細山が片方の眉をくわっと上げて聞き返した。

「そうです。私たちと、この部と、そして士気……先生。みんなが出会うまでの充電期間。たっぷり元気を蓄えて、これからはそれを爆発させるときなんですっ……!」

「……充電したものが爆発したらそれは過充電だな」 

 細山のそんな無粋なツッコミは、まるでお茶を濁しているようにも思えた。

 ……そういえば担当教科は技術だったか。昔から揚げ足取りが大好きなやつなんだこいつは……。

「あぅ、でっ……でもそうなんですっ! 私たちがこれから火付け役になるんです! もう充電できたよねって、元気いっぱい貯まったよねって、じゃあこれから頑張ろうって、手を引っ張ってあげるんです!」

「いったい何の話をしてるんだお前は……」

 呆れたように、あるいは少し気圧されたかのように、細山はそんな言葉を漏らした。

「だからその……、えっと、ほ……」

 ほ?

 少し迷うような顔で、しかし怯えを消すように、ヒバは少しずつ内股を開いていって、震える指をぎゅうっと握りしめる。さっきまでの彼女が嘘のような、勇ましい仁王立ちだった。

「ほ、ほ、ほ………………細山っ!」

 どくんと心臓が跳ねた気がした。

 まるで道場が助太刀をしているかのように、ヒバの声が周囲にエコーした。

 あのヒバが、いや、今日一日一緒に過ごしただけで『あの』というのはおかしいが、それでもヒバが良い子だということぐらい俺にも分かる。まして、教師を呼び捨てにしたことなど今まで一度も無いだろうということは、想像に難しくない。

 そのヒバが、敵愾心を露わにして、そう啖呵を切った。わざわざここまで出向いて喧嘩を売りに来た細山に、牙を向いたのだ。さながら、この道場を守る番犬のように。

 敵を作りやすい性格をしている細山は、生徒に面と向かって反抗されたことなど今までいくらだってあったはずだ。現に俺だってその一人なのだから。そんなこいつにとってはヒバの威嚇など子犬も同然だろうが、しかし度肝を抜かれたはずだ。   

 案の定、細山は愕然として、時が止まったかのように瞬きすらしない。

 畳み掛けるように、ヒバは垂れネーム(垂れを覆って付ける袋状の名札)からカチューシャを取り出し、前髪を上げて気合いを入れる。指先は少し震えているが、その目は真っ直ぐ細山を捉えている。

「黙って聞いていれば……、私たちがさも簡単に負けてしまうみたいな言い方でっ! 見てなさい! さっきまでの威勢のいい憎まれ口を後悔させてやるんだからっ!」

 どこかで聞いたような口調で、ヒバはびしっと細山に指を突き立てる。その相手はと言えば、もはや腹を立てるよりも純粋な驚きの方が強いようで、完全に調子を狂わされていた。まさにヒバが一本取ってやった形だ。

 それでも辛うじて、細山は言葉を絞り出す。

「……ふっ、ふん! 口だけでは何とでも言えるだろうが、相手は強豪だ。お前たちのような付け焼刃で敵うもんか」

「勝てますよ」

 返答したのはヒバではなく俺だった。このまま彼女だけに良い恰好をさせたままでは、俺がただ挑発に乗ってキーキー喚いてただけの人になる。

「僕が、指導するんですから」

 ――彼女ら桜南剣道部をね、と内心で付け加えて、俺は宣言した。

「よく言ったわ!」

 どんと更衣室の扉が力強く開け放たれたかと思えば、そんな賞賛の声がそこから響いてきた。

 ミユさんだ。他の子たちも彼女の背中に隠れるようにして、こちらを覗いている。

 どうやら今までのやり取りにずっと聞き耳を立てていたらしい。

「よくぞ私たちの言いたいことを代弁してくれたわねっ、ヒバ! 剣道をしているとき以外は少し頼りないと思っていたけど……、さすがじゃない! それでこそ部長だわ!」

 ミユさんはそんなことを言いながら、こちらにぱたぱたと駆け寄ってきた。他のみんなもそれに続いて、「カッコよかったよ!」とか、「凄い迫力でした!」とか、「……ん。合格」とか言ってヒバを取り囲む。

「み、み、見られてたんだぁ……。ふぁう……」

さっきまでの威勢はどこへやら、ヒバは気の抜けるような声を出しながら、顔を赤くしてしまう。

「あなたも! 以外と根性あるじゃないの、見直したわ! ……ほら、追い出してやりなさいな、こんなヤな奴!」

 しっしっと細山に向けて手を払いながら、ミユさんは俺をけしかける。

 当然のことながら、女子中学生にここまではっきりと嫌われては気の毒だ。……自業自得だが。

「そういうわけです、先生。お引き取りを」

「………………覚えていろよ鬼山」

 そんな小物くさいことを吐き捨てながら、細山は扉に八つ当たりするようにして外に出て行った。これにて幕引きとはいかないが、一端の嵐は去ったろう。

「……ふぅああ。やっと行ってくれたね」

 まるで萎む風船のように息を漏らしてぺたんと座り込むヒバ。勇気を振り絞ったといえど、やはり彼女には荷が重たかったようだ。緊張が解けて腰が抜けたらしい。

「…………………つい、言っちゃったな」

「……はい。あまり強い口調が思いつかないから、ミユちゃんの真似をしてみたんですけど……ドキドキでした」

「へ? ちょっとどういう意味かしら?」

 素っ頓狂な声を上げて聞き返すミユさんだったが、これ以上追及してはヒバが可哀そうだから、「頼りになるってことだよ」と肩を叩いてごまかした。

「言っちゃったってのは、俺のことだよ。つい、指導するって言っちゃった。とりあえず一日だけって断ってたはずなのにな」

 姉さんに話を持ちかけられたときはそんなつもりはなかったのに。ヒバに触発されて口走ってしまった。……恰好つけてしまった。

「もう逃がさないから」

 したりとばかりに口角を上げて微笑むミユさん。どうやら言質を取られてしまったようだ。

「よっしゃあ! 最強の味方がついた! これで怖いもんナシだ!」

 元気いっぱいに拳を高く突き上げるハジメに、アカリとこころも続いて拳を上げる。

「慢心はできませんけど……、大会まで精いっぱい頑張りますっ!」

「……ん。ここも頑張ります」

「当然だわ。ここまで見得を切ったんだから、もう後には引けないわよ」

 気合い十分に胸の前で小さくガッツポーズをする二人に、ミユさんもバサァと長い髪を描き上げて応じる。

 どうやら触発されたのは俺だけではなかったみたいだ。ヒバの覚悟を見せつけられて、この子たちの決意や絆は更に磨きがかかったらしい。原石が、一つ輝きを増した。

「ヒバ、立てるか?」

「あっ……、すっ、すみません。ありがとうございます……」

 ぺたっとほぼ放心状態で座っていたヒバに手を差し出す。控え目に手を取った彼女は、しかしすぐには立ち上がろうとしなかった。

「……あのっ、もしご迷惑でしたら、その……断っていただいても構いませんから……」

 突然ヒバがそんなことを言ったものだから、他の子たちはぎょっとして目をぱちくりさせた。何かを言いかけたミユさんの口を、俺は慌てて塞ぐ。

「……どうしてそんなことを言うんだ?」

「ぐもももっ、むぐぅ」

 腕の中でミユさんがじたばた暴れているが、ここで聞いておかないときっと後悔する気がした。

「だって士気さんは、剣道を……その、お休みしていらっしゃるから……」

「…………まぁ、そうだな。うん、確かにそうだ。気を使わせてごめん」

「いっ、いえ、そんなことは……!」

 暴れるミユさんにひじ打ちやら足を踏まれたりやらされながら、俺は少し考える。

 俺が剣道にトラウマを抱えていることを、ヒバは直接言葉にこそしないが、知っている。だからこそ、そんな俺に自分たちの剣道の指導をさせることを、嫌でも剣道を直視させることを、負い目に感じているのだろう。

「……それに、士気さんは私たちが今抱えている問題とは無関係の人ですから、巻き込んでしまうは……やっぱり申し訳ない気もして」

「関係ない、か。まぁ確かにそうなんだけど。……おっと、ごめんごめん」

 腕をタップするミユさんに気づいて手を放す。どうやら観念したようだ。

 ぷはぁと息を吐き出してから、ミユさんは俺をキッと睨む。一応苦しくないようにはしてたから大丈夫みたい。

「関係は無いけど、でもメリットはある。俺がヒバたちの手助けをするように、ヒバたちだって俺の抱えている問題を解決する手助けをしてくれるかもしれない……」

「士気さん……」

 そっとまた差し出した手を握り返す力は、今度は確かに力強かった。

「だから頑張ろう! みんなでさ!」

 そう言って引き上げると、ヒバは微笑みながら頷いて、寄り添うように立ち上がった。

 ……柄にもないなこういうの。でも、悪くない。


 翌日――

 大学で教育実習期間につけた日誌を提出した後、俺は『ある人物』との待ち合わせの為、真っ直ぐ地元に戻った。通っている大学は県外で電車通学をしているのだが、地元の位置が運よく県境にあるから、帰宅にそう時間はかからない。しかし、電車の発車時刻もあるのでのんびりはしていられなかった。

 電車にのって六駅、おおよそ二〇分ほどで自宅の最寄り駅まで到着する。しかし今日はいつもと違って、とある場所に用事がある。更にここから一区間先の駅を降りたところから歩いて一〇分ほどの所のとある場所――そこに案内してもらう為に、昨日のうちから先述の『ある人物』と連絡をとって待ち合わせをしたのだ。

 ――目的の駅で降車。定期区間外の乗り越し精算の為、自動券売機から切符を購入。そのまま改札を過ぎると、駅に併設されたコンビニの前にその人物はいた。壁にもたれながら、退屈そうにスマホをいじって暇をつぶす少女。

 交告愛(こうこく あい)。外跳ねショートの切れ長な目をした端整な顔立ちの女の子だ。生まれつき色素が少ないのか、肌は驚くほど真っ白で髪は鮮やかな金色。そのスラリとしたモデルのようなスタイルもあって、知らない人なら彼女を外国人だと勘違いするかもしれない。現に俺は、彼女と初めて出会ったときの挨拶で、「は、はろ~」とか言ってひどく恥ずかしい思いをしたのを今でも忘れない。当時俺が小学四年生、彼女が小学二年生、彼女が剣共会に見学で訪れたときの話だ。

 そう俺は、彼女とは昔からの付き合いだった。実は高校も同じで、俺が三年の四月から六月頭の引退までの短い期間ではあったが、同じ剣道部で稽古したこともあるつまるところ後輩だ。

「おっす。待たせたか、愛」

「………………遅い」

 スマホをいじる手を止めて、ギロッとこちらを睥睨する愛。遅いって、まだ待ち合わせの時間よりも十分程度の余裕があるはずなんだけどなぁ。俺の腕時計が遅れていたのかとスマホのホーム画面と照らし合わせて確認してみても、午後四時二○分にgh相違ない。

「それに何ですかその恰好。寝癖もついてだらしない。女と待ち合わせをする身だしなみじゃありませんね」

 どうやら今朝遅刻しそうになって慌てて家を出たのが原因らしい。服は適当に目についた白いストライプ柄の襟付きシャツとベージュのチノパンを選んだし、寝癖を直す暇もなかった。仕方ない、昨日は色々ありすぎて心身共に疲弊していたのだ。寝過ごすのも無理からぬ(普段から遅刻常習犯だが)。

「というか、身だしなみに関してはお前も人のこと言えないじゃん。制服着崩してるし」

 なんだ、その膝上まで上げたスカートは。……パンツ見えんぞ。見てやろうか。

 ただでさえ夏服で薄着なのに胸元は大胆には開いていて、首から下げたシルバーアクセもあってかより一層強調されている。その双丘は、いや双峰は噴火寸前だ。うーんこれは登山日和ですね。

 ……そう、こいつは所謂ギャルなのであった。いや、そのキツい眼光と人当たりはヤンキーともいえるかもしれない。肩に掛けた学校指定の鞄はペラペラで、学業へのやる気のなさが窺える。

 とにかく品行方正とは無縁の存在で、我が道を突き進むタイプの人間。身だしなみを指摘される謂れなどない。

「スポーツ推薦がほとんど決まってるとはいえ……、お前は受験生なんだから周りの目をもっと気にしろよ。ただでさえ目立ち易いのに……全く」

 俺はそうため息をつき、愛の胸元のボタンを一つ留めてやる。普通ならセクハラでお縄を頂戴されてもおかしくないところだが、俺たちは言ってみれば幼馴染。気心が知れた中なので、愛も別段抵抗する様子はない。めんどくさそうにふんとそっぽを向くだけだった。

「………………普段は、もう少し大人しくしてるわよ」

 聞こえるか聞こえないか微妙な音量で、ぼそっと愛は呟いた。だったら俺の前でも気を使ってくれませんかね、ええ。

 こんな派手派手な女子校生が素肌を晒して男と一緒に歩いていたとなれば、変な噂が立ちかねない。愛は昔からその容姿の所為で、良い意味でも悪い意味でも目立つ女の子だったから、教師や先輩から目をつけられることは少なくなかった。

「誰が見てるか分からないんだから、しっかりしてくれよ」

「……っさいわね。ここまでわざわざお小言を言いに来たわけ?」

 愛は拗ねたように俺を放って先に歩き出した。慌てて俺もその後ろに着いていく。

 俺がヒバたちの指導をすると言った昨日の今日で、愛との予定を入れたのには、ちゃんとした理由がある。本当ならすぐにでも彼女たちとの練習に加わりたかったところだが、その前にこの目で確かめておきたいことがあったからだ。

 それは――対戦相手の実力。強豪と名高い桜ヶ丘中の剣道の強さの所以を、一日使って分析したかった。それから大会に向けての練習方針を固めて、明日改めてヒバたちと合流するのが一番望ましいと思ったのだ。

 その為には愛の協力が欠かせない――

「……全く。突然連絡を寄こしてきたと思ったら……、やれ女子中学生がどうだの、研究をしたいだの、ついにトチ狂ったかと思ったわよ」

「その言い方は激しく語弊があるな……」

 ちらりとこちらに冷ややかな視線を向ける愛。彼女のセリフからはそこはかとない悪意が感じられる。

「だから! 成り行きで中学校の剣道部の外部指導員をやることになったんだって! お前の父親と一緒!」

「ふん、どうですかね。ますます、うさんくさいわ」

 愛の父親は桜ヶ丘中学校で外部指導員をしている。しかも俺のような急場しのぎとは違って学校公認の正式なものだ。藩士七段、自身の残した成績もさることながら、育てた有名選手は数知れず。かつては県警でその腕を振るっていた、この道で知らない人はいないほどの達人なのだ。……娘との仲はあまり芳しくないみたいだが。

 そんな桜ヶ丘剣道部で最も権力を持つ人の娘であり、更にかつて自身もその場所で腕を振るっていた愛に、俺が協力を願った理由はもう言うまでもないことだろう。彼女に桜ヶ丘中学校を案内してもらう為だ。

 しかし当の本人ときたらいまいち乗り気ではないようで、昨晩、電話したときからずっとにべもないご様子。申し出を断られたわけではないが、どうにも不機嫌である。

「なぁ、何か怒ってる?」

「別に、怒ってません」

 そうは言うが、その足取りはますます速くなるばかり。こちらを振り返りろうともしない。

 駅前のロータリーを真っ直ぐ抜けると大通りにでる。その両脇にはコンビニや二階建てのテナントビル、ハンバーガーショップなどが連なっていて、駅前ということもあり交通量は多い。まだ帰宅ラッシュ前だというのに、車が目まぐるしく入退場している。振り返ると、駅に隣接した大きな市営駐車場から車が二、三台続けて出ていくのが見えた。そのうちの一台が俺たちを追い抜いていく。

「悪かったよ。しばらく顔を見せなくて」

「………………」

 放っておいても愛は機嫌が直りそうにもないので、思いついてことを口にしてみた。すると、愛が立ち止まる。といっても俺と歩調を合わせようとしたわけではなくて、目の前に交差点があってその横断歩道の信号が赤だったからだ。それでやっと俺は彼女に追いついた。

「俺、剣道ぐらいでしかお前と接点なかったからさ。他に何の話をしたらいいのか分からなかったんだよ。……ごめん」

 例の試合以来、剣道を辞めてしまった俺に、愛は気を使って何度も連絡をくれた。

 あのつっけんどんな愛が、SNSやメッセージアプリで逐一声をかけてくれていた。まだ立ち直れなかった俺はそのどれにも無言を貫いたけど、愛はめげずに俺と関わりを持とうとしてくれていた。

 その結果折れたのは俺の方だ。長いこと誰とも話す気にはなれなかった俺が、愛とはたまにやりとりをするぐらいには心が落ち着いた。……ただ、やっぱり実際に会うとなると、どうしても剣道のことが、あの日のことが話題にでるだろうから、それだけは頑として避けていたのだけれど。

「俺から連絡するのは珍しいからきっと驚かせたと思う。しかもその内容が剣道に関することで……、いきなり指導をすることになったとか言われて、きっと訳わからんかったと思う。でもお前しか頼れる人がいなかったんだ」

 部活は引退、剣共会は退会、当然剣道で接点があった人との関わりは愛を除いて全て途絶えた。

 そんな折、故あって俺は桜南剣道部の指導を務めることになったわけだが、ここで問題になるのが二年と少しのブランク、そして俺が今も尚、過去のトラウマを払拭しきれていないということだ。最初のうちは、ごまかしごまかしやっていくこともできるかもしれないが、長期的に彼女らの指導者を務めるのであればそれは無視できない課題である。勝たせると言った以上、期待を持たせてしまった以上、中途半端なことはできない。

 その為には、唯一残されていた俺と剣道との接点である愛の力を借りる他に手はないのだ。俺にはヒバたちを指導することはできても、彼女たちの試合相手として実践の中で技術を学ばせてやることはできない。

「俺一人の力だけじゃあいつらを勝たせてやることはできないんだ。……一度、挫折してしまった俺だから。だから、お前に力を貸して欲しい、愛」

「………………そうですか」

 信号が青に変わる。素っ気ない返事をする愛は、また早足で歩き出した。

 ……やっぱりまだ怒ってるか。そりゃそうだ。今までずっと彼女に甘えっぱなしで碌にその礼もできていないというのに、またその手を煩わそうとしている。都合の良いことを言っているのは自分でも分かっていた。

「何をしているんですか」

 先に横断歩道を渡ろうとしていた愛が、不意に振りかえった。

 どうやら俺は考え込んで立ち止まっていたらしい。

「行きますよ。……少しでも、時間は惜しいんでしょう?」

 少し頬を染めて伏し目がちに、愛は呟くように言った。

 どうやら俺の謝罪を聞き入れてくれたらしかった。


 少し歩くと、校門から学生たちが出てくるのが見えてきた。『桜ヶ丘市立中学校』と刻まれたレリーフが、俺たちを恭しく迎える。向かって右側に見えるグラウンドで、野球部とサッカー部が練習しているのが見えた。校舎の方からは、吹奏楽部の途切れ途切れの音色が聞こえてくる。反復練習だろうか? 

 教育実習のときにも感じたことだが、この放課後の雰囲気はとても懐かしく感じられる。

「着いてきなさい」

 そんな俺の郷愁などどこ吹く風に、愛はずかずかと遠慮もなしに突き進む。生徒用の昇降口や来訪者用の玄関がすぐそこにあるが、そちらからは入らないらしい。

 おそらく桜の木であろう植え込みのある車回しを抜け、校舎の左側へ裏手に回ると、三面のテニスコートがあった。ただ手前のコートだけネットが外されていて、そこでテニス部員らが筋トレやフォームの確認などをしている。ちょうどランニングを始めたばかりの部員が、俺たちの後ろを走り抜けて行った。

 そこを過ぎると、よく聞き慣れた音が聞こえてくる。竹刀が防具を叩く弾けた音に、腹に響いてくるような発声。板床を踏みしめる音。それらの発生源である武道場は、すぐに見えてきた。こちらは最近改築されたのか桜南の武道場よりも小奇麗だが、大きさ自体はそう変わらない。愛に続き一礼して中にお邪魔するが、内装にも大した違いはなかった。構えや素振りのチェックをする為に使う備え付けの姿見鏡に、打ち込み台(防具を着せることができる人形)などと、練習用の器具は標準的なものばかり。どうやら強豪だからといって、施設が優遇されているわけではないらしい。分かっていたことではあるが、強さの秘密は道具や場所ではなく、やはり指導者にあるようだった。

 部員たちはというと、全員でちょうど二〇人。二人一組で正面打ちの練習をしている。隣に竹刀がぶつからないように十分横に広がってスペースを取っているので、道場はかつかつだ。

「ここで待ってなさい」

 俺はひとまず入口付近で待たされる。愛は練習の邪魔にならないように部員たちの脇を抜けていくと、奥の方で正座して胴の紐を結んでいた初老の男性に声をかけた。男性は俺に気づくと、ぐっと立ち上がる。そしてすぐに愛を連れて俺の方へと駆け寄ってきた。

「おお久しぶり鬼山くん! よく来てくれたなぁ!」

「交告先生、どうもご無沙汰していました」

 「がはは!」と笑いながらばんばん俺の背中を叩く交告先生。この人歳の割にガタイが凄まじいから、そのたび体が吹っ飛びそうになるのを堪えないといけない。

 交告先生は180の俺より上背があるし、何より筋骨隆々で胴着がぱんぱん。その所為か、心ない人間(主に娘)に筋肉ダルマとか剣道馬鹿ゴリラとか、ちょっと汗臭いから近寄らないでとか揶揄されている。……もはやただの悪口である。

「娘から話は聞いてる。リハビリの為にうちの剣道部を見学するんだろう? 君とは長い付き合いだし、愛も普段から世話になっている。遠慮なく、見学していってくれ」

「はい。是非そうさせてください」

 リハビリの為、というのは心苦しいが嘘。もちろん真の目的は地区大会を勝利するための傾向と対策だ。だけれどそれを馬鹿正直に伝える訳にはいかないので、俺のリハビリの足掛かりということにして、それを愛に伝えてもらった。

 嘘をついてまでスパイ行為をするのは仮にも武道を嗜む者としてどうなのかとも思ったが、しかしそうは言ってられない状況なのだ。ずるいやり方かもしれないが、多少の粗相はヒバたちの為に許して欲しい。

「まぁとりあえず座りなさい。右隅の教官室にパイプ椅子があるから」

 そう言って促されたのは三畳ほどの小さな部屋。指導員の休憩や着替えに使われる場所で、簡単な机と剣道雑誌が並べられた本棚があった。言われた通りパイプ椅子を部屋の前に二つ出して、俺たちはそこに座った。しかし、俺は腰を掛けてすぐに、あることに気がつく。

「………………おい」

「何よ?」

 俺の視線の先には、短いスカートの所為で露わになった大腿部。しかもこいつ足を組んでやがるから、いろいろと際どいことになっている。……こいつ俺の集中力を削がせる為に桜ヶ丘中から送られたスパイか何か?

 せっかくセコい真似までして試合相手の研究をするチャンスを掴んだというのに、今日一日の記憶が愛の下半身に念を送って角度をズラして中身を覗こうとしていたことでは、ヒバたちに合わせる顔がない。

 名残惜しさを感じなくもないが、このままでは示しがつかないので俺は愛に注意する。

「足、行儀悪いぞ」

 部員たちが一生懸命に稽古をしている中、パンツ見えますよと言うのも何だか不正実な気がして憚られたので、あくまで作法の面から俺は指摘する。決してエロい目で見ていたことを悟られたくなかった訳ではない。

「……っ、馬鹿じゃないの。キモッ……」

 エロい目で見ていたことを悟られてしまった。椅子の距離を開けられて少しショックを受ける俺。

「アホなこと言ってないで、目の前に集中してください」

 投げ出した足の上に両肘をついて頬杖をする愛。それは上気した頬を隠す仕草にも見えた。

 これ以上よそ見をしてまた彼女の機嫌を損ねるのは本意では無いし、何より当初の目的のため、俺は稽古に視線を戻した。

「小手面打ち!」

「「「はい!」」」

 ちょうど上座中央で練習をしている主将によって号令がかけられたところだった。主将を中心にして部員たちが右にずれるようにして練習相手を入れ替える。

 小手面打ちとは、名前の通り小手から面へと二歩で打ち込む連続技。それを二人組で三本打つごとに受け攻め交代、三セットで相手を入れ替え。特に代わり映えのしないスタンダードな練習方法だ。

 どこの学校でも誰でもやっているような練習方法、だが――

「……練度が高い。速さがあって、体もしっかり前に出ている。打突は竹刀の物打ちで正確に部位を捉えているし……、まだ中学生だから粗さはあるけど、何より迫力がある」

「……ふーん、そう。ま、確かに中高のうちは変に形に拘るよりもそっちの方が大事かもね」

 愛の言う通り、中学生で完璧なフォームでの打突を求められるような場面は少ない。それよりも、相手に臆さずいかに自分のペースを保てるか、いかに自分の剣道を相手に押し付けられるかがポイントだ。

 その点において桜ヶ丘の部員たちは実に技術がある。声は大きくてよく通るし、どっしりと構えていていかにも強そうだ。剣道は、この強そうという印象が与える影響が他の武道やスポーツに比べて圧倒的に大きい。それだけで相手の攻めや足を鈍らせることができるのはもちろん、審判に対してアピールができる。

 剣道の一本の基準は簡単なセオリーはあるものの、明確な基準が無い。その上、陸上競技のようにビデオ判定もないから、選手がほぼ同時に打突を決めたりなんてしたら、最終的な判断は先に挙げたようなどちらが強そうかというその一点になる。高校生以上の一般の試合であれば技術的な要素、例えばどちらがより基本に沿った打突ができているかなども加味されて判断されるだろうが、中学生レベルの試合でそれは要求されない。

 そもそも、中学生に基本を押さえた剣道なんて土台無理な話だからだ。それほど、剣道の基本動作、構え、足捌き、素振り、切り返しの奥は深い。六〇歳を超えるようなおじいさんの先生だって頭を抱えているのに、初めてたった数年でマスターできるわけがない。だからこそ、ヒバが初対面のときに見せつけた、あの美しい正面打ちには驚かされたのだが……。

「結局、剣道は説得力なんだよ。自分がいかに相手よりも強いかを、審判に説明する競技なんだ。そこをしっかり押さえられているから、桜ヶ丘は強い」

「まぁパ……、あのオヤジが普段から口うるさいですから。腹から声だせだの足をもっと動かせだの」

 こいつ、今パパって言いかけたか? ヤンキーみたいな見た目のクセに随分可愛いとこがあるんだなと思ったが、突っ込むと怒られそうなので黙っている俺。触らぬ神に祟りなし。

「ま、基本練習をちょっと見た程度の感想だから何とも言えないけどな。他に強さの秘密があるかもだけど。……でも、特にあの主将の子……鎬木(しのぎ)さん。あの子なんかは体格も良いし、左足のバネもあって踏込みが鋭いから強そうだ。俺の代にいたら脅威になったかもな。リーチのある相手、俺苦手だし。足の力弱くて前に跳べないから」

 筋力が全く無いわけではないが、それでも他の大会上位勢に比べると見劣りする。

だから俺は、どちらかというとじりじり攻め込んで充分な間合いから攻撃を仕掛ける立ち回りに徹した。それだけに、遠間から遠慮無しにガツンガツン打ってくるやつは苦手だったのだ。どうにもそういう剣道には付き合いきれないし、真っ向勝負をすると競り負けてしまう。

 もし自分があの子の相手をするならどうするか。どうやって相手の得意な間合いを封じるか。頭の中で俺対鎬木さんのマッチングを組み立てようとしていると、愛がまるで何でもないことかのように表情を変えないでぼそっと零した。

「女子よ、アレ」

「………………マジか」

 言われてみれば、少し声が高いような気がする。でも肩幅が広いし、身長はこころほどではないが同世代に比べてかなり高い。比較的背の高い選手が揃っている桜ヶ丘の中でも一つ抜きん出ている。ガタイの良さは男子並、いやそれ以上だ。

 主将を務めていたこともあって男子だと勝手に勘違いしていたが……、いやはや恐れ入る。あの恵まれた体躯にあの鋭い踏込みだ。まともに力勝負を仕掛けて勝てる相手がいるのか果たして怪しい。

「力勝負で無理なら……、頭脳戦か。こりゃなおさら俺がしっかり作戦立てない

と勝負にすらならないな」

「でしょうね。……そもそも、初心者の方が多いようなチームで挑もうってのが無理な話なのよ。これはうちに限った話じゃないけれど、この時期は三年の最後の大会が終わって、チームは代替わりしたばっかりですから」

「張り切ってるだろうなぁ。なんたって初めて自分たちだけで挑む大会なんだから。ここで優勝できれば勢い付くし、チーム初めての功績にもなる。……いや、何度考えても分が悪いなぁ」

 安請け合いをしたつもりはない。引き受けた役割は責任もってやりきるつもりだ。

 そうかと言って、根拠の無いポジティブシンキングはただの願望、思考放棄に他ならない。

「……ちょっと大丈夫なの? あんたが弱気でどうすんのよ。しっかりなさいよ」

 大きな溜め息をついてから、愛が俺を励ましてくれる(こう言うと愛は、きっとムキになってそれを否定するだろうが)。

 意外にも俺を心配してくれる彼女に少し驚いた。

「桜ヶ丘はお前の母校で、鎬木さんたちは後輩だろ? こっちの肩入れしていいのかよ」

「……ご生憎様、現役のころから仲間意識は低いのよ私。……というか、ここまで連れて来させたクセにどの口で言ってんのよ」

「まぁ、そりゃそうだけど」

「そもそも、あなた自身が言ったでしょ。桜ヶ丘はこれでもかってぐらいに有利な条件なの。ホントならハンデでもつけてやってもいいぐらい。それを私がちょっとそっちをエコヒイキしたぐらいで負けるんだったら、その程度ってことよ」

「……意外にシビアだよな、お前」

 言ってやると、愛は「そりゃそうでしょ」とさして気にも留めない様子だ。確かに、相手は県内有数の強豪校。全国出場の経験が何回もあるような由緒ある学校だ。

その程度の気概、覚悟はあって当然。そういうことだろう。


 それから一時間後――基本稽古、応用稽古、それから五分の休憩を終えて、今部員たちは地稽古に取り掛かっている。地稽古とは、平たく言えば勝敗をつけない試合稽古のようなもの。それぞれ散り散りになって行うから試合場は使わない、審判もいない。四分ほど試合形式で立ち会いをしたのち、互いの良かった点悪かった点を指摘するミニ反省会を開くのが特徴だ。当然、立場の上の者にお相手をして頂いた場合は、目下の者が一本的に教えを乞う形になる。

 俺が今日この学校を訪れたのは、ほとんどこの地稽古が目的だったと言ってもいい。普段の試合の立ち回りが一目瞭然だし、試合において交告先生がいつもどのようなアドバイスをしているかが窺えるからだ。

「あの木崎って子が女子団体の先鋒、峰が次鋒、井上が中堅、高町が副将。大将は……まぁ分かるわね、鎬木」

 愛が一人ずつ指を差して教えてくれる。なるほど、地稽古の様子を見ている限り、彼女たちの立ち居振る舞いはそれぞれのポジションのイメージとよく合っている。

 先鋒はよく動けて勢いがあり、チームに流れをもたらす選手。

 次鋒は良い流れを必ず次に繋ぎ、悪い流れをそこで絶つ、絶対に負けられない粘りのある選手。

 中堅は前二人が勝っていればそこで試合を決められるここぞというときに勝負強い選手。

 副将は試合の状況を見て自分のすべきことを判断できる冷静な選手。

 大将は信頼が厚くリーダーシップのある選手。そして、自分が勝たないと負けるというプレッシャーに耐えられる精神力を持った選手。

「木崎さんは小柄だが、それを補って余りあるスピードと手数がある。峰さんはしっかりと攻める一方で、隙を作るような無駄打ちがない。井上さんはオールランダーでどの技も上手いから、相手の苦手を確実に突いていける。高町さんは……、老獪だな。最初の数秒は相手に好きなだけ攻めさせておいて、相手の動きを良く見ている。鎬木さんは、さっきも言ったけど、長いリーチで強引に攻めるタイプだ」

「……たった数十分地稽古を見ただけでそこまで断定できるわけ?」

「今まで俺が見たことある選手と照らし合わせて類推してみたんだけど……、違ったか?」

「あんた、ちょっと変なんじゃないの?」

 訝しげな視線を俺に向ける愛。どうやら大体正解しているらしい。数年のブランクはあるものの、俺の勘は鈍っていないようだ。

「散々講釈垂れといてなんだけど、俺自身は勢いのある剣道ってのが苦手なんだ」

「相手にしたくないってことですか?」

「や、自分のスタイルの話。自慢じゃないけど、俺剣道以外の運動ってほとんどダメだからさ。足遅いし体力も無いし、基本的に運動オンチなんだよ。球技とかてんでダメだし」

「大会であんたに負けたやつらに聞かせたら発狂しそうなセリフね。……知ってる? 謙遜も程度によれば嫌味に聞こえるのよ」

「ホントなんだって! だから俺は、頭を使う剣道を目指したんだ。技の速さは筋力じゃなくて効率化で上げる。試合では駆け引きを大事にして、自分の得意な技じゃなくて相手の苦手な技で攻める。この二つを意識して稽古をしてた」

「それで相手を見る力がついたって言いたいわけ?」

「そういうこと。人を見る目が無いと駆け引きはできないからな」

「……ふーん。小難しいこと考えてんのね」

 愛はさして興味も無さそうに適当な相槌を返す。もともと君が話を振ったんでしょうが……。

 しかし愛がそういうのも無理はないかもしれない。彼女と俺は真逆のタイプだから。というか、愛と似ている剣道をする人間なんて全国探したってそうは見つからないだろう。愛は、「多分ここで打ったら一本になるんじゃないの?」の何となくの感覚だけで勝ち上がった超天才だからだ。同じように基本動作だって、何となくだけでそれなりに綺麗な所作ができている。

 これでは頭を使った剣道(笑)を自称している俺の立つ瀬がない。俺から言わせてみれば、愛の方がよっぽど嫌味なやつだ。もし剣道の大会に優勝者へのインタビューがあったなら、「その強さの秘訣はズバリ何ですか?」の問いに、愛は「分かりません。適当にやったら勝てました」とノータイムで答えるだろう。

「……ま、とにかくこれで桜ヶ丘の選手たちの特徴は分かった。あとはポジションごとに作戦を練って、対策用の練習をするだけだ」

「さっきは分が悪いって言ってたじゃない? 何か考えはあるわけ?」

「当然このままだと俺らが勝てる可能性はほぼ0%だ。だけど、50%にする方法ならあるかもしれない」

 それは、この場を凌ぐだけのごまかしにすぎない。例えそれで桜ヶ丘に勝てたとしても、本当の意味で強くなったとは言えないだろう。武道家としての心得にも背く姑息なものだ。

 だけど俺たちはどんな手を尽くしてでも、まず勝たないといけないんだ。負けてしまえば、強くなるならない以前に、俺たちの剣道が損なわれてしまうんだから。

 ――そう、『俺たち』の。俺自身が剣道ともう一度向き合うためには、ここで勝つのが大前提だ。


 桜ヶ丘の稽古が終わった後、交告先生に挨拶とお礼をしてから桜ヶ丘中学校を後にした。そのまま直帰してもよかったのだが、ちょうど晩飯時だったこともあり、明日からの練習メニューの作戦会議も兼ねて、愛とファミレスで飯を食った。メニューを見ながら俺は「今日は助かった。お礼に奢るから好きなもん頼めよ」と何気なく口にした。すると、「ファミレスで済ますんだから安上がりでいいわね」と皮肉られてしまった。確かに年頃の女の子に返すお礼としてはショボい。しかし大学生ってのは金欠なもんなんだ……、分かってくれ。

 そして次の日――俺は作戦会議(愛はデザートを片っ端から食ってただけだが)の末考え出した練習法を引っ提げて、万全の状態で再び桜南の武道場を訪れた。

 武道場の傷だらけの厳めしい鉄扉を開くと、すぐにみんなの「こんにちはー!」という元気な挨拶が聞こえてきた。

 ハジメに、アカリ、ミユさん、こころ、そしてヒバ。よし、全員揃ってるな。この土壇場の病欠は痛いから、体調にだけは気をつけてもらわないといけない。

 五人はすでに胴着に着替えている。しかし防具を付けていないところを見ると、これからウォーミングアップのストレッチと素振りを始めるところだったようだ。

 そして今日は顧問も練習に参加するようで、

「おはよう士気くん。よく眠れた?」

 紐付きのホイッスルを首から下げた赤いジャージ姿の姉さんが、声をかけてきた。

 おはようという言葉に俺はドキッとする。なんせ俺の目が覚めたのはついさっき。

起きた勢いでそのまま家を跳び出てきたのだ。

 俺と姉さんは共に実家暮らしだ。常日頃の不摂生は知られている。加えて昨日は夜遅くまで桜ヶ丘の試合動画をネットで探していたから、それを知っていて鎌を掛けたのかもしれない。桜ヶ丘は全国レベルの有名校だからもしかしてと思ってかなり遅くまで粘って……、結局見つからず仕舞い。ついに眠気に耐えられず、そのままパソコンの前に突っ伏して寝てしまった。

「寝癖、ついてるわよ」

「あっ」

 慌てて頭に手をやると、確かに乱れている。手入れをする時間が無かったから、顔を洗っただけで家を出てしまったのだ。

「せんせー、あたま鳥の巣みたいになってます」

 ハジメが俺の頭を指さしてそう教えてくれる。裸足でぺたぺたと間の抜けた足音を立てて近づいて来る姿はペンギンを思わせた。それに続いて他のみんなも自然に俺の方へと集まって、ちょっとした群れができあがる。

「昨日は徹夜で桜ヶ丘の対策を考えてたからな。多少は目をつぶってくれ。……その代わりってわけじゃないけど、時間を使っただけの成果はあったから」

「ということは、画期的な練習方法を思いついたんです?」

 アカリが小首を傾げてポツリと言った。そのセリフでみんなは、おおっと身を乗り出すようにして俺に期待の眼差しを送る。ただ、ミユさんを除いてだが。

「……いまいち信じらんないんだけど。決して悲観するわけじゃないけれど、たった二週間足らずで飛躍的に私たちの技術を上げる練習なんてあるのかしら?」

 疑心からかミユさんは、目を細めてそんなセリフを口にした。

 その疑問はもっともだろう。冷たい言い方かもしれないが、桜南は初心者レベルの子を三人も連れ、その上一年生だけで構成された弱小チームだ。それを全国大会クラスの桜ヶ丘レベルまで引き上げる方法が存在するのであれば、誰だってそれを試すはずだろう。初戦突破すらできない弱小チームなんてこの世から存在しなくなるはずだ。

「……そうだな。確かにみんなの剣道の技量を上げるには、たった二週間の短い期間では不可能かもしれない。これは剣道に限った話じゃないけれど、物事の上達に近道なんて無いからね」

「ほら……、やっぱりそうなんじゃないの」

 ミユさんは強気な言葉を使いながらも、どこか気落ちするような表情を見せる。

 彼女だけじゃない、他のみんなも俺の言葉を聞いてがっくりと肩を落とした。

「でも勝負ってのは、単なる技術比べじゃない。駆け引きがあるし、運だって絡んでくる。そりゃ長期的な勝率だったら君たちは桜ヶ丘の子たちに及ぶはずもないだろうけど、今一番大事なことは二週間後の地区大会だ。たった一回、その試合だけ勝つだけなら、桜南にだって十分にチャンスはある」

 俺の言葉で、みんなは伏せていた顔を上げた。

 その表情を見て、姉さんがぱんと手を叩く。

「ほら、みんな気合い入れていこう!」

 更にその背中を後押しするように、姉さんはぎゅっと握った拳を高く突き上げた。

「強豪がなんぼのものですか! 打倒細山先生、みんなで力を合わせて頑張りまししょう! えいえいおー!」 

 珍しく大きな声を張り上げる姉さんに釣られて、みんなは戸惑いながらも「おー!」と負けないくらい大きな声で掛け声をあげた。

 ……実際に試合で戦う相手は細山ではないんだけどな。普段表に出さないだけで、姉さんも相当溜まっているものがあったようだ。

 とはいえ、これでみんなの顔からは不安の色が消え去った。

 気持ちの準備は整っている。後は、少しの技術だけ。

 

「それじゃあみんな、今言ったようにペアを組んでくれ」

 みんなにはとりあえずいつも通りのウォーミングアップのメニューを済ませてもらった後、すぐに防具を付けての練習に入ってもらった。

 稽古の開始の挨拶である立礼、帯刀、蹲踞の一連の流れを見届けて、それから俺は今日の練習の方法と大会での作戦を大まかに説明する。

 本来であれば一セットごとに交代する練習相手を、今日から二週間のあいだ固定する。その組み合わせは、ヒバ、ミユさん、こころの三人組。そして、ハジメ、アカリの二人組だ。こうする理由は主に二つある。

 一つ目は至極単純、それぞれ練習内容を分けるので一緒くたにしてしまうと混乱するだろうから。

 二つ目は、こころの練習方法が少し特殊だったから。レベルの高い二人にその相手をして欲しかった。剣道では技を受ける側のことを元立ちと呼ぶが、この元立ち、ただ単に突っ立っていればいいというわけではない。練習する技によって対応を変えないといけないし、相手の打突におかしな所があればアドバイスをすることだってときには必要だ。そしてその役割をきちんとこなせるのは、今の所経験者組の二人しかいない。

「よし、それじゃあこころ。さっき言った通りにやってみよう」

「……ん、頑張ります」

 元立ちはヒバ、掛かり手はこころ。ミユさんはひとまず待機。

「「ィヤァァァァァ!」」

 二人が呼応するように発声。じりじりとすり足で間合いを詰め合う二人。竹刀の中結いが触れ合うほどの距離で、先に動いたのはヒバだった。

 剣先を相手の竹刀を跨ぐように小さく釣り上げ、

「こてぇぇぇぇぇ!」

 こころの胸元に跳びかかった。

 普通の基本打ちの練習ならそのまま見事な小手が決まっていただろうが、今回は違う。ヒバの打突は空を切る。それもそのはず、狙った先から的が消えたからだ。

「めぇぇぇぇぇん!」

 大きく振り上げられた竹刀が、ヒバのがら空きの面に打ちつけられる。しかし距離が少し近かった所為か、ガチャンと金属音が鳴った。これは面の金具と竹刀の鍔がかち合った音だ。きちんと物打ちで打突できていればきれいな破裂音がなるはず。

つまりこころの打突は失敗だ。

「……ん、うまくいきませんでした」

 こころが自分の竹刀を不思議そうにじっと見つめて呟いた。

 『応じ技』は、まだ剣道をやり立ての子には難しいみたいだ。目下の地区大会に向けて試合練習の経験はそれぞれあるようだが、個々の技の練度はやはりまだ足りていない。

 ちなみに応じ技とは、元立ちの仕掛けてくる技に対してカウンターの要領で応じる応用技のこと。こころが今やったのは、小手に対する応じ技である『小手抜き面』だ。相手の小手打ちを、腕を振り上げることによって躱し、そのまま振り下ろして面を打つ技。

 躱す動作がそのまま攻撃に繋がるから、応じ技の中では簡単な部類と言える。だけど、ヒバの小手は速い上に予備動作が小さくて技の出始めが分かりにくい。今のままでは、キレイに決めるのは難しいだろう。

 足りない練度は、数で補うしかない。これから二週間、こころにはずっとこの技だけを練習してもらう。

「動き始めが少し遅かったのと、あと振り被りすぎたかな。腕を上げきったときに剣先が自分の頭を超えてる。そうじゃなくて剣先はつむじの延長戦上に、構えのまま自然に振り上げるのを意識してみよう」

 こくんと頷くこころ。その場で何度か竹刀を振り上げて確認したあと、ヒバに「おねがいします」と言ってから構えを戻した。

「よし、それじゃあしばらくこっちはヒバとミユさんに任せる。今日はひとまず、俺はあっちの練習につくよ」

 俺を挟むようにして反対側では、ハジメが元立ちアカリが掛かり手で稽古を行っている。彼女たちは初心者だけで組ませているから、俺がいないと教えてやれる人がいない。

「ちょっと、正気? 基本打ちを疎かにして小手抜き面だけ練習させるだなんて」

 ミユさんが俺の来ていたポロシャツの袖をぐいぐいと引っ張って聞いてきた。

 普段大人ぶった態度のミユさんが見せる仕草にしては、随分子供っぽかったので、ついつい頭に手が伸びてしまう。面越しにぽんぽんと頭を叩いて俺は言う。

「大丈夫だよ。この練習の意味はさっき教えただろ? さすがに百パーセント勝てるとは言い切れないけど、これが一番可能性のある方法だと思う。……俺を信じて、今は着いてきてくれ」

「……そこまで言うのなら、あなたに任せるけど。でも、本当に私たちの稽古はいつも通りで構わないのね?」

 私たちというのは、おそらくヒバとミユさん二人のことだろう。俺は先ほどの練習方針の説明で、彼女たち二人だけには当日の作戦のみを伝えて、練習メニューには特に言及していない。普段と同じものをこなしてくれとだけ言ってある。

「……強いて言うなら、ヒバは元立ちをこころにしてもらって、なるべく背の高い相手への打ち方を意識するように。ミユさんは……そうだな、相手のことをよく見てみよう。相手の目をだけじっと見ていれば、体全体が見えるし、視線も分かる。これを試合中は当然、普段の練習でも忘れないように」

 と言っても、ヒバは今こころと正面打ちの練習をしているので、これはミユさんに伝えてもらわないといけないんだが。

「じゃ、頼んだよミユさん。しばらく経ったらまたこっちの様子も見にくるから」

「ミユさんって呼ぶなっての!」

 また頭をぽんと叩いてやると、ついに「ちょっとそれ止めなさいよ!」とぽすんと脇腹を軽くパンチされて怒られてしまう。子ども扱いはお気に召さないらしい。

 これ以上気を悪くさせて然るべき機関に通報されてしまっては指導どころの騒ぎではないので、さっさとハジメとアカリのところに移る。

 二人にしてもらっている練習は小手面打ち。桜ヶ丘の稽古でも行っていた連続技。

「こてぇ! めぇぇぇぇぇぇん!」

 真面目そうな雰囲気のアカリには意外に思えるほどの大きな声。だけど、体当たりが少し弱い。

「アカリ、ちょっといいか?」

「はい、なんでしょうか」

 アカリは気持ちいい返事をして、素直にすっとこちらを向いてくれる。どこぞの誰ぞとは大違いである。

「面を打ったあとは、思いっきり相手にぶつかって両手で押して体制を崩すんだ。

そうしないと技が失敗したときにできる隙を狙われてしまう。……残心は知ってるだろ?」

「技を出し切った後、相手の方を向いて構え直すことです?」

「うーん……、それだと70点かな? 満点はあげられない」

 アカリはきょとんと小首を傾げる。うーんと唸って考えるが、新たな答えは思いつかないようだ。

「残心とは読んで字の如く、相手に自分の心を残すこと。つまり、注意を留めておくことだ。例え自分が繰り出した技が完璧に決まったと思ってたとしても、油断をしてはいけない。審判の声が掛かるまで必ず相手からは目を離さず、構えを解かないようにしないとダメだ」

 残心が疎かだと、打突部位にしっかり竹刀が当たっていたとしても一本にならない場合があるし、せっかく旗を挙げた審判がそれを取り消してしまうこともある。

最後まで気を抜いてはいけない。

「そうだな……。アカリ、ちょっと面を打ったあとの体制でハジメの前に立ってみて」

「はいですっ!」

 アカリは返事をして構え直すと、一歩踏み込んで面を打ち、そのままの状態で動きを止める。

「そう。そこから相手のおなかに自分のおなかをぶつけに行くんだ。体がくっついたら、足を踏ん張って両腕をぐっと伸ばす。やってみてくれ」

「えっと……。おなかでくっついて、足を踏ん張って……」

 俺の言ったことを反芻しているのか、動作を一つずつ確認しながら行うアカリ。

「腕をぐっと押す!」

「わわっ、と……!」

 アカリの体当たりでハジメは一、二歩ほどたたらを踏む。その所為でハジメの体の重心は後ろに掛かっているので、前に踏み出すことはできない。

「そうだ! そうすれば反撃されることはない。心掛けてくれ」

「ありがとうございますですっ!」

 アカリは深々と頭を下げると、稽古に戻る。再び打たれた小手面打ちはさっきよりもずっと腰が入っていて良かった。

 アカリが三本打ち終わり、次はハジメの掛かり手の番。みんなよりも少し高い声で元気のいい発声をしてから、

「こてぇ、めぇぇぇぇん!」

 と打ち出されたロケットのような前掲姿勢で小手面打ちを放った。

 なるほど、初心者の子にしては打突が速くてこれからが期待できる。でも少し無駄が多いな。

「ストップ。体が前傾姿勢になってる。腕が先に動いてしまっている証拠だ。そうじゃなくて、足から先に出すんだ」

「足からですか?」

「そう。でも構えのときに体重を右足にかけているとつんのめって前に出にくいから、重心は左足に。天井から頭を紐で吊るされているイメージで、力を抜いて構えるんだ」

「紐で頭を……、なるほどやってみます!」

 ハジメは俺に言われた通りの方法で構えを正した。上半身がもたれ気味だったので、俺は彼女の背中を少し押してやってやや前かがみにさせる。上半身が後ろに倒れていると、体の重みに引っ張られて足が前に出ないからだ。

「うん、いいね。その構えから一歩足を前に出して小手を打つんだけど、ハジメは肘で竹刀を振ってしまってるんだ。小手は手首を使って打った方が素早く打てるし、起こりも目立たない」

 俺はハジメの竹刀の剣先を持って、小手の軌道を示した。

「剣先が相手の竹刀を跨いで左側にくるように、ほんの少しだけ左手首を持ち上げる。そこから小手。やってみてくれ」

「はいっ! えっと、相手の竹刀を跨いで……、こてぇぇぇぇぇ!」

 パァンと破裂音を鳴らして、ハジメの綺麗な小手が決まる。構えも振り上げも言った通りのことが出来ていて実に呑み込みが早い。

「小手を打ったとき反動で竹刀が跳ねる。その位置からそのまま面を打てば、振りの小さい素早くて隙の無い面が打てる」

「おおっ、反動をですか! その発想はなかった……!」

 小手を打った体制のまま首だけこちらを向けて驚きの表情を見せるハジメ。そこからもう一歩踏み出して面を打ち、「こうですか?」と俺の言ったことをすぐさま試す。

「OK、それだ。その打ち方を常に意識して練習を重ねてくれ。それと、俺が今二人に言ったことは、相手の分もしっかり覚えておくように。お互いに意識した打突ができているかを確認しながら、もし抜け落ちていることがあったら相手に教えてあげること。いいね?」

「「はい!」」

 ハジメとアカリがほぼ同時に返事をすると、すぐに稽古に戻った。構えると、俺の言ったことを小さな声で呟いて復習してから、ゆっくり丁寧に打突する。

 おてんばそうに見えるハジメだが、練習に取り組む姿勢は実に素直だ。俺が指摘したことは初心者の子には決して優しくないことだが、それでもハジメは頭の中で何度もイメージを繰り返して実践できるように頑張っている。実に素直な子だ。

 そしてアカリもこころも、俺の言ったことの意味をすぐに理解できる柔軟性と吸収力がある。桜南剣道部の子たちは、俺が思っていたよりもずっと素質を秘めているのかもしれない。きっとこのまま真摯に稽古を重ねていけば、歴代の桜南の中でも有数な結果を残してくれそうな期待が持てる。

 ……ただ、それは桜南剣道部を存続させることができればの話だが。彼女たちの才能を開花させるためには、細山との賭けに勝たなければならない。そしてその為には、強豪桜ヶ丘という大きな山場を、乗り越えなければならない。

「どうしたの? 考え込んでるみたいだけど」

 ぽんと肩を叩かれて、振り向くと姉さんがそこにいた。思案顔を姉さんに見抜かれたようだ。

「……地区大会の結果次第では、みんなの可能性の芽を摘むことになってしまうかもしれない。ヒバも、ミユも、こころも、ハジメも、アカリも、みんなこんなに真剣に剣道と向き合っているのに、それが取り上げられるなんて酷いことだ」

「……そうだね。あの子たちはただ剣道がしたいだけなのに、大人のしょうもない事情に付き合わせちゃって……。ほんと、申し訳ないよ」

 姉さんは組んだ手をじっと見ながら、伏し目がちに微苦笑する。

 巻き込まれたのは姉さんだって同じことだ。だから、『付き合わせた』という言い方をするのは違うだろう。

 ふと思いついたように、姉さんが俺の顔をパッと見上げる。

「何か、何か私にもできることはあるかな?」

 詰め寄るように、姉さんは眉根を上げて俺に問いかけた。その表情からは硬い意思と、そして歯痒さのようなものが感じられる。部員たちが打倒桜ヶ丘に身を粉にしている中、ただ見ていることしかできない自分が、もどかしいのだろう。姉さんの性格であれば、本来ならきっと俺のような部外者に頼る、すがるような真似は自分で自分を許せないはずだ。

 姉さんが責任を感じる必要は無い、そう言ってやりたかったけど、そんなものは気休めにすらならない。自分が顧問を務める部活とその部員たちがコケにされて、黙って見ていられないという姉さんの感情は至極当然だ。

 だったら俺は、同じ桜南剣道部の一員である姉さんの、姉さんなりにできることを探してやるだけだ。

 俺は自分が部員だった中高生のときを思い出して、提案した。

「剣道では、試合が終わったあと自分の先生に反省点を教えてもらうのが通例だ。

そしてそれは、例え相手が剣道未経験の先生でも同じこと。顧問であれば目上の人間だからな。……そういうわけで、ある程度知識を身に着けておかないとみんなの為にならない。思いつきで適当なこと言って、真に受けられたら大変だからな」

 特にありがちなのが剣道の技術的な知識が全くないからといって、根性論に走るタイプの顧問。細山がまさにこのタイプで、俺がここの部員だったころは散々イライラさせられたものだ。確かに剣道においてメンタリティは重要だけど、何の為に必要で、何を心掛けた練習をすれば鍛えられるのかを教えてやらないといけない。

中身の無いアドバイスなんて聞くだけ無駄だ。

 まぁ姉さんが適当にものを言うことなんて無いだろうから杞憂だとは思うけど。

「あとは……そうだな、稽古前の走り込みとか筋トレとか、そのあたりのコーチをしてやって欲しいかな。この二週間は稽古に時間を使うからできる暇はないけど、先のことを見据えるなら必要なことだろうから」

「走り込みや筋トレ……、要はフィジカルトレーニングね。任せて、その辺りのことは得意だから」

 ふんすと胸の前で小さくガッツポーズをする姉さん。

 確か、姉さんは中高とソフトボール部でキャプテンをしていた。ソフトボールは腕と足の両方を使う面では、剣道と似ていると言えなくもない。きっと効率の良いトレーニング方法を伝授できるはずだ。

「……そうよね、私が焦っても仕方ない。今はあの子たちのことを信じて、先のことに備えておかなくちゃ」

 どこか遠くを見つめるように、姉さんは呟いた。

 先のこと――今は桜ヶ丘との試合が何をよりも大切な優先事項だ。そして試合に勝つためには、いずれ俺自身が竹刀を取らないといけない。いつまでも過去のことを引きずってヒバたちと剣を交えないというのでは、例え桜ヶ丘との試合に勝てたとしても、その先彼女たちにとって本当に価値のある指導をすることはできない。他ならない俺自身が、みんなの可能性の芽を摘むことになってしまう。

 ……先送りにはできない。いい加減、見ないフリをしてきたことにケジメをつけるときが来た。桜南が試合に勝利したならば、俺はこの先も彼女たちの指導を続けるということになる。指導者としての責任を、勝たせてしまった責任を一身に受けるわけだ。備えておかなければならないのは――俺も同じだ。


 練習二日目、いや正確には初めてヒバたちに会った日のことがあるから、三日目か。

 俺はこの日の稽古にとあるゲストを招いた。

「……ここが、あんたらの道場? 確かに古臭いわね。こりゃ潰されても仕方ないわ」

「「「………………」」」

 人見知りからか、そんな照れ隠しをしながら俺と共に道場へ入室したのは、学校終わりに桜南へ来てくれた交告愛。胴着に着替えて更衣室から出てきたばかりのみんなと、ちょうどかち合った。

 突然の来訪者に、ヒバたち桜南剣道部のみんなは目を丸くして唖然としている。特にハジメとアカリなんかは、愛の歯に衣着せないセリフに若干怯え気味である。

「愛ちゃん久しぶり! 元気してた?」

「お久しぶりです、涼香さん」

 先んじて顔を出していた姉さんが、愛の両の手を取って無沙汰の挨拶をする。愛は頬を赤く染めてやや照れ気味だ。

 姉さんと愛は昔からの友達で、聞けば剣共会で知り合ったそうだ。いつも稽古終わりは親に車で迎えに来てもらっていたのだが、たまに姉さんを連れていることがあって、そのときに姉さんの方から愛に声をかけたらしい。 

 今でも付き合いはSNSを通じて続けているらしくて、昨日晩飯のときに愛を稽古に呼ぶという話をしたときなんかそれはそれは大はしゃぎだった。

 実際に顔を合わせるのは久しぶりということもあってか、愛は姉さんから質問攻めにあっている。そのハイテンションに愛はたじたじだ。

 俺が二人のやりとりに苦笑していると、 

「……ちょっと先生、こっちきなさい」

「ん? なんだ?」

 ミユさんが手招きして俺を呼んだ。何気に彼女に先生と呼ばれるのは始めてで少し嬉しくなってしまう。

 ちょっと感慨深くなりながらそそくさと駆け寄った俺に、ミユさんはちょいちょいと手でしゃがむように合図する。

 手のひらを口元にやって耳打ちの仕草をする彼女に、俺は仰せの通り身を低くして応じた。

「……いったい何なのよ、あのヤンキー女は? あんたが連れてきたワケ?」

「おいおい、ヤンキー女とはいきなりご挨拶だな。あれでも県一、二の実力なんだぞ? 全国の個人戦でだってかなり上位まで食い込んだことがある天才だ」

「ってことは、あのナリで剣道やってるワケね……。とてもじゃないけど、武道ってガラには見えないわ」

 ミユさんは怪訝そうに眼を細めて愛を見やる。ふとその視線に気づいたらしい愛が、彼女をキッと睨め返した。その眼光といったら、まさに夜叉の如く。中学生なんてお呼びでない。さすがのミユさんも体がビクッと振るわせて、途端に俺の背中に隠れてしまった。

 ……うーん、これがギャップ萌え。父性、感じられずにはいられない! などとキモいことを考えていると、「あのぅ……」とヒバが小さく手を上げて何やら愛に尋ねた。

「もしかして……、交告愛さんですか? 元桜ヶ丘中の」

「……なにあんた、私のこと知ってるの?」

 まさか廃部しかけの弱小中学校に、すでに引退した自分のことを知っている人間がいるとは思わなかったらしい。愛は意外そうに聞き返した。

「はい……。あの、剣共会で少しお見かけしたことがあって……、すごくお強かったので覚えていました」

 そっか剣共会か。ヒバは俺と剣共会で少しの間一緒に稽古をしていたから、当然

 愛とも面識があってもおかしくはない。それに俺と愛は高校が同じだから、男女別だが個人戦の大会に一緒に出場したこともある。俺の試合をわざわざ見に来てくれたこともあるヒバなら、そのときに愛の試合を目にしているかもしれない。

「それなら話は早いな。今日、愛をここに呼んだのは、ヒバとミユさんの試合稽古の相手をしてもらう為だ」

「試合稽古の相手ぇ?」

 ミユさんが露骨に顔をしかめるのを見て、愛は「ふん」と鼻を鳴らすと、

「こいつがどうしてもってわんわん叫んで泣きつくから仕方なく出向いてやったのよ。こっちはあんたらの態度次第で今すぐ帰ったっていいんだけど?」

「記憶がねつ造されてるんだが」

 俺が指摘すると、愛はぷいっとそっぽを向く。

 どうしてこう取っ付きにくいんだろうねこの子は……。まるで懐かない猫みたいだ。せめて子どもたちぐらいには愛想良くできんもんか……。

「先生、私たちは愛さんとの試合稽古をしなくてもいいんです?」

 小首を傾げて不思議そうに尋ねるアカリ。その横でハジメもうんうんと頷いていた。

「二人はまだ試合稽古で力をつけるには時期が早いからね。試合までの期間を考えると、それよりも基本を地道に重ねて技の練度を上げた方が確実だ。二人には、今は一本を取ることよりも、一本を取られない剣道を目指して欲しい」

「一本を取られない剣道……、それで昨日の残心のお話でなるべく技の隙を無くすようにとおっしゃったんです?」

「そういうこと。……ヒバとミユさんにはなるべく同世代の女子でなおかつレベルの高い選手と試合稽古をしてもらいたかったからな。そこへいくと愛は、桜ヶ丘出身ってこともあってうってつけだ」

 アカリは得心がいったように「なるほどー」と頷く。一方ハジメはよく分かっていない様子。微笑みながら「……?」と頭に疑問符を浮かべていた。

 まぁ今その辺りのことは理解できなくても問題ない。くどいようだが、ただ一つの技だけを反復練習して練度を上げることだけを考えてくれれば、他の難しいことは試合が終わってからでもゆっくり覚えればいいのだから。今はひとまず、目の前のことだけに集中していればいい。

「さ、それじゃあ早速稽古を始めよう。とりあえず今から一時間は昨日の稽古と同じことをして、休憩を挟んでから、ヒバとミユさんは試合稽古、他三人は合流してそれぞれ自分の稽古の続きをやってくれ」

「「「はい!」」」

                                        

 ――休憩後、俺はヒバから審判旗を受け取り試合の準備をする。今回審判を務めるのは俺一人。剣道の試合において審判は本来三人だが、人が少ないときに限って主審一人で試合を行う場合もある。

 審判の他に時間計測を行う者が必要なので、それは姉さんに任せた。中学生の試合時間である三分をきっかりストップウォッチで計ってもらう。

 試合場の上座では、上下白い胴着に身を包んだ愛が面をつけている。面紐をぎゅっと固く結び終えると、竹刀を持ってゆっくりと立ち上がった。それからその場でアキレス腱を延ばしたり、軽くジャンプしたりして体を温める。最後に二、三度竹刀を素振りしてから、対戦相手であるミユさんの反対側に立った。

 そして一言。

「情けない剣道したらすぐに帰るわよ」

「……っ。この……」

 面越しにミユさんが歯ぎしりをするのが分かった。先ほど睨まれて隠れてしまった彼女だが、さすがにこれから試合ってときに挑発されては我慢ならないらしい。

ミユさんの闘志が一気に湧いたような気がした。

 幾ばくか両者の睨み合いが続いたあと、上座である愛の方から動き出した。それに合わせてミユさんも歩き出して、所定の位置で両者立礼。帯刀して、試合場の白線の位置までまた歩き、そこで蹲踞。

「始めぇ!」

 主審である俺の掛け声共に、両者同時に立ち上がってついに試合開始。

 お互いに剣先が触れ合うまですり足で間合いを少しずつ詰めていく。やがて一歩踏み込めば打突でき、一歩下がれば躱すことのできる『一足一刀の間』まで両者が近づいた。いつどちらが仕掛けていってもおかしくはない。

 しばらくその間合いのまま睨み合う二人。共に相手の出方を窺っているのだろう。

 ミユさんの試合稽古を見るに、彼女の戦い方は応じ技の得意な『後の先』タイプだ。相手の技にカウンターを仕掛ける形で自分の技を後から出して先に当てる決め手を得意としている。それは初日の試合稽古を見ても明らかだった。

 そして相手の戦い方によって決め手にする応じ技を柔軟に打ち分けることのできるオールラウンダーでもある。ちょうど桜ヶ丘の中堅と副将を足して二で割ったようなタイプだ。だから相手を釣り出しするとき以外には、あまり自分から攻撃を仕掛けていくことはしない。

 一方、愛はというと、ミユさんとは真逆の『先の先』タイプだ。自分から相手の隙を積極的に狙って攻めていく剣道をする。しかも愛の場合、その隙を狙うという行為が感覚的というか、「何となく今打てば一本取れるかも?」みたいな感じで攻めるから余り戦略的なことは考えていない(そのクセ強いんだから手に負えん)。そういう意味では、相手の行動を読むミユさんにはミスマッチな相手とも言えるかもしれない。

 ――試合開始から数十秒。傍から見ている分には短いだろうが、実際に試合をしている人間には長い時間に感じられるはずだ。特にミユさんにとっては、相手は初めて戦うであろう高校生。その威圧感は凄まじいはず。

 ただ、桜ヶ丘の選手だって高校生ではないが中二で年上の選手なのだ。若いうちの一年の差は大きい。試合において気持ちで負けないためには、試合までの間に桜ヶ丘の選手以上にプレッシャーを与える選手に慣れさせる必要がある。

「ヤァァァァァァ!」

 緊張感を一蹴するように、ミユさんが大きな声で気合いをあげる。ただ、それは攻め倦んでいる自分をごまかしているようにも見えた。

 いくら応じ技を得意とするミユさんでも、お互いに何もしないままでは負けることはないが勝つことはできない。相手を動かすために、時には自分から動いていくことも必要だ。後の先を取るためには、果敢に攻めを浴びせて相手を焦らせることも大事なのだ。

 おそらくじれったく感じたのであろうミユさんに、ついに動きがあった。

 右足がやや浮き、跳躍の姿勢に入る。ミユさんの竹刀の剣先がぐぐぐっと相手の竹刀の腹を掻き分けた。

 その起こりを、愛は見逃さなかった。

「めぇぇぇぇぇん!」

 発声と共に打ち込まれる正面打ち。上がった旗は赤色。つまり一本先取したのは愛の方だった――


「悔しいぃ! 悔しい悔しい、悔しい! どうして私がぽっと出の女に負けないといけないのよ!」

 試合稽古後――面を脱いだミユさんは、俺の目の前でじたばたと地団太を踏んでいた。本来目上の相手と試合をしてもらってこのような態度を取るのは決して褒められたことではないが、まぁ地区大会までの間はこれくらいの気概で丁度良いくらいだろう。

 試合結果は、面の二本先取で愛の勝ち。二分ちょっと残しての決着だ。

 二人の実力と経験差を考えればさほど意外でもないが、ミユさんには我慢ならないらしい。俺の元へ試合の反省をしに来たミユさんは、「うー……」と唸っている。

 ひょっとしたらミユさんは、愛が桜ヶ丘出身ということもあって少々気が張っていたのかもしれない。桜南剣道部の存続が懸かった試合の相手校だから、負けられないと意識してしまったのか。

 愛との試合稽古は大会までの間にできるだけ行うつもりなので、その悔しさを前向きな方向に活かして少しでも食らいつけるように頑張って欲しい。

 一方、ヒバの試合稽古はというと、これまた二本先取で愛の勝ち。積極的に攻めにいったヒバを難なくいなしての勝利。一本目は面抜き胴、二本目は小手を竹刀で払って面を打つ小手返し面だった。

 試合稽古が終わってすぐに胴着を着替えに行った愛をしり目に、

「ううう……、秒殺されちゃいました」

 と、ヒバは両肩をだらんと下してうな垂れていた。

 それもそのはず、ヒバはミユさんと違って自分から攻める『先の先』タイプだから、同じ戦型の愛とは激しい打ち合いになる。結果、ミユさんよりも試合が早くに決着したのだ。

「なに、落ち込む必要はないさ。二人とも同世代の中ではかなりの実力だと思う。そこは自信を持っていい。ただ、経験の差ってのは大きいんだよ。特に十代の内はね。……だから、勝ち負けは正直どうでもいい。一日二日、稽古したぐらいで愛に勝てるようになるんだったら、桜ヶ丘なんて相手じゃないしな。そうじゃなくて、二人には慣れて欲しいんだ」

「慣れ……ですか?」

 聞き返すヒバに、俺はこくりと頷いて言う。

「高校生のスピードやパワーに自分の感覚を慣らしておけば、桜ヶ丘の選手と対峙したときに気後れするようなことはない。中でもトップクラスの愛が相手をするんだから、それに比べれば君らの試合相手はさすがに見劣りするはずだ」

 ただ、試合稽古の相手が強けりゃ強いほど良いって訳じゃない。中高生剣士と一般剣士の試合の仕方はいくらか毛色が違うので、慣れさせるという意味ではなるべく年の近い選手がいい。そういう意味で、愛は最適なのだ。

「この二週間、愛の都合がつく日は毎日試合稽古をする。その間に二人が身に着けることは端的に言えば一つ。それは、各上の相手との戦い方だ。桜ヶ丘のレギュラーは全員二年生だから、二人は実践経験でも稽古量でも負けている。そんな相手にビビらず立ち向かう気量を養うんだ」

 桜ヶ丘は県内有数の強豪。対してこちらは、部員も少ない廃部寸前の無銘の学校だ。部員も一年生だけ。

 しかしそんな強豪相手にも付け入る隙が一つだけある。

 それは――油断。桜ヶ丘にとって地区大会など優勝して当然。さくっと優勝してチーム前進の取っ掛かりにするぐらいの、途中経過にすぎないだろう。ましてその初戦なんて体慣らし程度の意味合いしかないはずだ。だからこそ、こちらが各上に対する気構えさえできていれば、気持ちの上では桜南に分がある。

「さっき俺は勝ち負けなんてどうでもいいって言ったけど、あくまでそれは試合の結果の話だ。大事なのは過程、勝つためにはどうすればいいか考えることを止めてはいけないよ」

「当然! コケにされたままで我慢ならないっての!」

「私もっ……、せっかく愛さんに手を貸して頂けるんだから、絶対にこの機会をモノにする!」

 やる気十分にふんすと意気込む二人。その様子を横目に、ちょっと前に更衣室から出てきたばかりの愛が、わざわざ俺の傍まで来て言った。

「ねぇ、毎日試合稽古だなんて聞いてないんだけど? こいつらの稽古の度にわざわざ私をこの学校まで出向かせるワケ?」

 ギロリと俺を睨む愛。その声音は低く、腹に響いてくるようだった。

 去年免許をとったばかりの初心者マーク付きでよければ、姉さんに車を借りてできるだけ迎えに行くようにするから……、何とか目を瞑ってください。

 

 部活終了後――稽古で疲れきったみんなの帰宅を見届けた後、俺は姉さんに頼んで道場の戸締りを少し待ってもらった。

 最終下校の時間まであと五分もない、多少オーバーしたところですぐには問題にならないだろうが、それでも残れる時間は十分かそこらだろう。その少しの時間で、俺はどうしてもやっておきたいことがあった。

 教官用の更衣室で、胴着に着替える俺。袴の紐をキュッときつく結んで気合いを入れる。専用の鞄に入れた防具一式を持って道場に戻ると、ちょうど女子更衣室から出てきたところの愛と目が合った。

「悪いな。さっきの今でまた着替えさせて」

「……ほんとですよ。また汗だくになるじゃないの。防具は出しっぱだったから良かったようなものの」

 愛はぷいっとそっぽを向いてしまうが、そうは言いながらも何だかんだ俺に付き合ってくれて本当に助かる。地区大会が終わったあとにまた何かお礼をしないといけないな。

 座って防具を付ける愛の隣に鞄を置き、俺もそこに正座する。鞄から防具を取り出していると、垂れを腰に巻きながら愛が呟くように言った。

「……いきなり稽古してくれだなんて言い出すから、びっくりしたわ」

「ああ……、まぁな。みんなの頑張ってる姿を見てたら……、何かどうしようもなく焦ってきてな。このまま自分だけ何もせずに高みの見物ってのは……、不義理な気がしてさ」

 理不尽な条件を一方的に押し付けられてもなお、ヒバたち桜南剣道部のみんなは自分たちの居場所を守ろうと必死になっている。だというのに、俺は剣道に背を向けたままだ。それでは彼女たちの指導をする立場の人間として、誠実さに欠けるだろう。

 それが不義理だと、そう感じたのだ。ヒバたちに対しても、ここまで稽古に付き合ってくれている愛に対しても、そして剣道そのものに対しても。

「私がいくら声かけても顔を合わせもしなかったくせに……、何だか腑に落ちないですね」

「だから、それは悪かったって……」

 ジトッと目を細めてへそを曲げる愛に、俺は「ははは……」と乾いた笑みを浮かべるしかない。

 どう言い繕ったものかと逡巡していると、その様子を道場の入口付近で見ていた姉さんが助け船を出してくれた。

「許してあげて愛ちゃん。士気くんには今までの埋め合わせをしっかりさせるから。あっ、そうだ! 大会が終わったら、何でもお願いごとを一つ叶えてあげる! ……士気くんが!」

 ばちこーんとウィンクして、姉さんはそんなことをのたまった。そのあまりにも軽いノリに俺は思わず苦笑してしまう。

 いくら他人のことだからってテキトー言い過ぎでしょ……。とんでもないものを要求されたらどうしよう? 今のところ命だけは勘弁してもらいたい。

「……涼香さんがそこまで言うなら。まぁ、考えておきます……」

 そう言う愛の声音は珍しく控え目だった。胴の肩紐を結びながら、何やら思案顔をしている。ふいに一言、口をついて出たように「一緒に……」と呟くと、慌ててこちらを向いて、

「今の無し!」

 と、かぽっと面を被って顔を隠してしまった。

 愛がお願いごとに何を考えたかは分からないが……。よかった、代償に首を捧げるようなことはなさそうだ。


「それじゃあ五分きっかし計ったら、合図するからね!」

 首から下げたホイッスルを掲げて叫ぶ姉さんに、道場のど真ん中に立っていた俺は無言で頷き返した。

 深呼吸して、やや速くなっていた鼓動と呼吸を整える。

「……大丈夫。もう何年も前のことだ。今ならできる。俺ならできる」

 俺は瞑目すると、そう何度も繰り返して自分に言い聞かせた。小さな声だったので誰にも聞こえていなかったはずだが、その表情から俺の不安が愛にも伝わったようだった。

「……別にあんたが今無理する必要はないんじゃない? 焦らなくても――」

「いや、平気だ。……お願いします」

 愛の言葉を遮って、優しい心遣いを振りきって、俺は頭を下げた。半ば強引だったかもしれないが、そうしないと、いつまでも踏ん切りがつかないような気がした。

 そんな俺の様子を受けて、愛はため息を吐きながらぽりぽりと後頭部を掻くと、おもむろに礼を返した。

 一歩二歩と、ゆっくりと距離を詰めて――蹲踞。久しぶりの感覚で少し足が震えるのとは対照的に、竹刀に掛けた指には異常に力が入っていた。

 腹式呼吸でたっぷり息を吸い込んで、一気に吐くと同時に立ち上がった。

「ヤァァァァァァ!」

 

 子供たちが去り、水をうったように静かだった道場に愛の発声が響く。俺もそれに応じるために、相手の気合いに飲まれてしまわないように声を絞ろうとした。

 ――だが、

「っぁ………………!」

 俺の声は喉元で掠れて消えてしまい、それ以上先に出ることはなかった。

 ふいのことに出かけていた足が竦んでしまう。つんのめって体制が崩れかけた。

 言うまでもなく、俺はさっきまでは普通に喋れていたはずだった。喉に異常があるとは全く思えない。……体に問題が無いとすれば、残るは心の問題だ。

 ――あの県大会での出来事は、もう何年も前のはずだ。当時は剣道に関することを耳にするだけでも気が滅入ったものだが、それもヒバたちのおかげで多少はマシになったと思っていた。少なくとも、彼女たちの指導をしてやるぐらいのことはできていたのだから。

 ……そのはずが、こうして試合という形で相手と実際に竹刀を交えると、どうしても平静を保っていられない。鼓動は更に早くなり、無理やり発声しようとすると、詰まった吐息が逆流するような感覚に襲われる。目の焦点は合わない。さっきまで強く握りしめていたはずの手から力が抜けて、今にも竹刀がすっぽ抜けてしまいそうだった。

 相手の喉元に向けていたはずの剣先が、徐々に外側に逸れていく。俺の構えは隙だらけだった。

「はぁ……はぁ……、ぐっ……! くぅ……」

 ……ダメだ。まともに呼吸を整えられない。どうしても立っていられない。

 息を吐き出そうとしても、ひゅーという間の抜けた音が漏れるだけ。地稽古中にも拘わらず、その場で胸を押さえて膝をついてしまった。

 頭が、痛い。

「ちょっと……! 大丈夫っ?」

 すぐに姉さんが俺の傍まで駆け寄ってきた。愛は一瞬何が起こったのか理解できなかったようだが、すぐにはっとしてそれに続く。

「士気くん! いい? ゆっくり息を吐いて! 吸うことよりも吐くことを意識するの! 吸ったら息を少し止めて、それからゆっくり吐き出すの!」 

 姉さんが俺の背中に手を添えて、意識薄弱の俺にも伝わるように落ち着いた声でそう言う。少しでも呼吸がしやすいようにと、俺の面と胴を外して胴着も緩めた。

「いち、に。いち、に――」

 姉さんの合図と一緒に息を吸って、吐き出す。それを繰り返しているうちに、徐々に胸のつかえがマシになってきた。

「ぜぇ……ぜぇ……、はぁー……。ありがとう……、だいぶ楽になったよ」

 最後にもう一度大きく息を吐き出して、俺は姉さんに礼を言う。床に手を着いて立ち上がろうとすると、姉さんは「無理しないで」と俺の両肩を優しく押さえた。

「守衛さんに事情を説明して道場を閉めるのは少し待ってもらうから、楽にしておきなさい」

「や……、もう平気だよ。心配かけて悪かった」

 報告の為にその場を離れようとする姉さんを手で制して、俺は今度こそ立ち上がった。

「愛も……、悪かったな。せっかく手伝ってもらったのにこのザマだ」

 はははと苦笑しながら謝ると、愛は複雑そうな表情を浮かべた。何か言いかけようとして、すぐにその言葉を飲み込んでしまったのが分かった。

 少し考えてから、愛はやっと口を開いた。

「別に、私は構わないけど……、でも大丈夫なの? そんな調子でコーチなんて続けてたら……」

 愛はそれ以上殊更に言葉に出すことはしなかったが、言わんとすることは理解できた。『そんな調子で続けていたら、いつかきっと取り返しのつかないことになる』、

きっとそう言いたいのだろう。

「大丈夫、そんな顔すんなって。もう何年も前のことなんだ、そのうちあのときのことなんてすっかり忘れるはずさ」

 俺はきっぱり言ってのけると、その場から立ち去る。

「もう時間も無い、さっさと着替えて帰ろう。そろそろ腹も減ってきたしな」

 俺が殊更に明るく振舞おうとしていることを知ってか知らずか、愛と姉さんの二人はずっともの言いたげな視線を俺に向けている。俺はそれを振り切るように、そそくさと防具を片付け、更衣室に逃げ込んだ。


 午後六時半の最終下校の放送が流れてから更に30分ほど経った――

 六月の夏前の時期ということもあって、日が落ちかけてはいるがまだ暗くはない。

 駐車場から見慣れた軽自動車が出てくる。そのまま学校を出ていくのかと思ったが、俺のいる校門近くまで来て停まった。テールライトが、夕暮れの茜色に混じって消えかけている。

 ふいに、運転席の窓が開けられた。

「それじゃあ私は愛ちゃんを家まで送っていくけど……、本当に一人で大丈夫?」

 運転席から姉さんが顔を覗かせて、心配そうに言った。助手席には愛が座っているが、俺に目を合わせようともしない。ドアに肘をついてぼんやり外を見ている。「気にすんなって。あんまり遅くなると家族も心配するだろうから、早く送ってやってくれ。……じゃ、愛、また今度。今日は助かった」

 俺が片手を上げて愛に別れを告げると、愛は相変わらず外を向いたままだったが、小さな声で「……またね」とだけ返してくれた。

 それを聞いて姉さんはやれやれといった具合でため息をつくと、「それじゃ、送ってくるから」とひとこと断ってから、車の窓を閉めた。

 ブレーキランプが消え、すぐに車が出される。校門を右に出てすぐの住宅街の坂を下り、角を曲がって車が見えなくなるまで、俺はその場で見送った。

「……さて、俺も帰るか」

 何だか今日はどっと疲れた。家に着いたら飯と風呂をすぐに済ませて早めに寝よう。今日の稽古にはいろいろと反省点があったが、それを考えるのは後にしたい。

 訳もなく一度、明かりの消えた仄暗い校舎を振り返ってから、俺は帰路に着こうとまた踵を返した。

 姉さんの車とは逆に、俺は校門を左に曲がる。すぐ先の突き当りの角を右に折れると、路地から抜けて少し広めの車道のある道路に出る。その筋にある自販機で飲み物を買おうと思ってふと見やると、その陰に見慣れた姿があった。

「……ヒバじゃないか。まだ帰ってなかったのか?」

 声をかけると、それまでぽつねんと下を向いていたヒバが、ビクッと体を跳ねさせた。

「ふぇっ! ……あっ、士気さんっ! お疲れ様です!」

 体の前で両手を重ねてぺこりと頭をさげるヒバ。ふわりと制汗剤の香りが鼻腔をくすぐる。

「もう遅いんだから、あまりうろうろしていると危ないよ。早く家に帰りなさい。それとも、誰かを待って……」

 そこまで言ったところで、俺ははたと気が付いた。

「……もしかして、俺を待っていたのか?」

 ヒバはこくんと無言で頷いた。

 ここで俺を待っていた理由は……、何となくだが察しがついた。

「……俺の稽古、見ていたんだな」

「はい、ごめんなさい……。忘れものを取りに行ったら偶然二人の稽古をお見かけして、それで……」

 ヒバは肩をすぼめてしゅんとしながら、なぜか申し訳なさそうに謝る。まるで悪さをして親の前に連れて来られた、小さな子供のようだ。

「いやいや、別に隠してたわけじゃないよ。 みんなの稽古の邪魔になったら悪いから部活後にやったわけで……、だから気にする必要なんて無いって!」

「それならいいんですけど……」

 確かに不甲斐ない姿を部員たちに見られるのは指導者として立つ瀬がないから、どちらかというとあまり見られたくはないけれど、だからといってヒバを責めるわけがない。どうにかそれを分かってほしいと思って考えていると、ふと目の前の自販機に目がついた。

「そうだ、稽古で喉乾いてるだろ。なんか飲むか?」

「……え? あっ、ごめんなさい! まるで私、奢ってもらうためにここで待ち伏せしてたみたいですよね……!」

 あたふたと胸の前で両手を振って、ヒバは「違うんですよ?」と否定する。

「心配しなくてもそんな子じゃないのは分かってるよ。ヒバは少し謝りすぎ」

「はぅ、ごめんなさい……」

 またぞろ謝るヒバに俺は苦笑して、ズボンのポケットから長財布を取り出した。ちゃりちゃりと小銭をまさぐって、五百円玉を抜き取り自販機の投入口に突っ込む。「ほら、選びな」

 俺がボタンを押すように促すと、ヒバは少し逡巡してから、

「それじゃあ……、お言葉に甘えて」

 と断ってスポーツ飲料のボタンを押した。ガコンと勢いよく排出された500ミリのペットボトルを、取り出して渡してやる。

「ありがとうございます! 大事にします!」

「や、すぐに飲んでくれよ……」

 真面目に言ってるのかヒバなりのボケなのか分からんセリフにツッコミながら、俺は自分の分の飲み物を買う。飲み慣れた缶コーヒーのプルタブを開けると、カシュッという音が閑静な住宅街に響いた。

 二人とも、しばらく無言で、ちびちびと飲み物を口にしていた。

「実は……士気さんにお願いごとがあって、ここで待っていたんです」

 俺がコーヒーを半分ほど飲んだところで、ふいにヒバがこちらを向いてそんなことを口にした。

「お願いごと?」

「と、言うよりも、約束というか……ご褒美というか……」

 ヒバのもごもごとした口調で言う。

 ご褒美というのは……、もしかして。

「地区大会で桜ヶ丘に勝ったときの……、ってことか?」

「はい! そうでしゅ!」

 いつも遠慮気味のヒバが珍しくおねだりという慣れないことをしたせいなのか、語尾を噛んでしまう。

「地区大会でもし私たちが勝ったら……。士気さん、私と稽古していただけませんでしょうかっ?」

 噛んだ恥ずかしさをごまかすように、ヒバは顔を真っ赤にしてそうまくし立てた。

「稽古って……、今もしているじゃないか」

 いまいち要領を得なかったので聞き返すと、ヒバは黙って首を振った。

「それは私たちの為の稽古です。そうじゃなくて、士気さんの為の稽古をしてほしいんです」

「それってもしかして……、俺がまた試合できるようにってことか……?」

「そうですっ! 休みの日でもいつでも構わないので、週に一回、私と稽古してください! お願いします!」

 ヒバは興奮したように眉根を上げて、俺の両の手を取った。熱意のこもった視線を向けられて俺は少し困惑してしまう。彼女の元々大きな瞳が更に見開かれていた。

「俺は別に構わないけれど、でもヒバにそんな手間を掛けさせるわけには……」

「でも、士気さん、おっしゃいましたよね? 私たちが手助けしてくれるかもしれないって!」

 言われて思い出した。確かに、細山と言い争った部活初日にそんなことを言った。

 でもあれは、半分くらいは遠慮気味のヒバを慰めるというかその気にさせるための言葉だったからなぁ……。自分で言ったものの、未来ある子供たちの時間を奪うような図々しいマネは気が引ける。

 うーんと逡巡している俺に、ヒバがもうひと押し。俺の両手を掴んだまま頭を下げて頼み込んだ。 

「私たちの為に尽力してくださっている士気さんの為に、少しでも恩返しがしたいんです! お願いします!」

 ……ただまぁ、そうまでされて俺に断る理由もない。

 どのみち、俺がヒバたちの指導を最後まで責任を持って務めるには、そう遠くないうちに現状を抜け出さなければならない。その為には、正直猫の手も借りたいぐらいで、手段を選んでいられないのだ。それが、ヒバが俺の稽古相手になってくれるというのだから願ってもないことである。

「さっきみたいな情けないところヒバにはあんまり見られてくないんだけど……、そうも言ってられないな。……よし、分かった。約束しよう。もし桜南が桜ヶ丘に勝てたら、ヒバのお願いを聞いてやる」

「ほんとに、ほんとうですか? やった!」

 ヒバは、ぱぁっと顔を明るくさせる。そのままぴょんと跳ねだしそうなくらいの喜びようだった。

「約束はする。けどその……、なんだ。手、そろそろ放してもらえるかな?」

「……え? あっ、すいません!」

 俺に言われてヒバは目を丸くすると、少し考えてから慌ててしゅばっと手を離す。  

 ヒバは自分の両手を見つめたまま、更に赤くなった顔を隠すように伏せて、しばらくの間黙ってしまった。

 ……彼女にここまでのことをさせておいて、試合に負けて約束が不履行に終わるだなんて結末は許されない。

 思えば今まで自分の中にはどこか、成り行き上、仕方なく彼女たちの手伝いをしているぐらいの甘えがあったような気がする。

 当然、と言ってしまうのは身も蓋も無いだろうが、当然だろう。俺は桜南剣道部の部員では無いし、その顧問でもない。彼女たちが負けたところで俺に生じる不利益は何もないのだ。彼女たちとは違い、背負っている責任がない。実に身軽な存在だ。

 ……しかし、今ヒバの話を聞いて考え方が変わった。

 今までずっと見ないフリをしてきたこと、それに直面するときがいよいよやってきた。この機会を逃せば、桜ヶ丘との試合に負ければ、俺は今後二度とそれと向き合えないだろう。言わば、剣道家としての鬼山 士気は今、瀬戸際なのだ。生きるか、死ぬか、その二つの境界線の縁をギリギリのバランスで立っている。

 細山との会話で衝動的に口にしたことが、今初めてしっかりと象られた思いになった。

 ――勝ちたい。

 ヒバの為にも――何より、自分の為にも。

 それからの帰路は、俺が彼女の家まで送っていくまで、俺もヒバも何も口にすることはなく、ただ黙々と歩みを進めるだけだった。


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