さよならライターズ
白瀬
第1話
「どうやったら他人になれると思う?私、私以外の誰かになりたい。」屋上のフェンスにつかまって悪戯っぽく彼女が聞いた。こんなくさいセリフを吐く女子高生は稀だと思うがこれが通常なのがこの彼女である。
「簡単になり変われるなんてそんな楽なことはないさ。」と答える僕。
「それもそうなんだけど。人は誰しも願うものじゃない。どうやったら他人になれるのかって。私は常に思うわ。どんな人でもいい。どうにかして他の誰かになりたいの。」心の底から願うように彼女が言った。
「愚問だな。幾度となく人は他人になりたいと願ってきた。あの人の好きなあの子になりたいとか、才能のあるあの人が羨ましいといった具合に。でもそれは意味のない願望に過ぎないんだよ。」
「わかってる。それでも私は私で生きられないし生きたくもないのよ。そもそも生きているというのは心の臓が動くことではないと思うのよ私。だって映画の中の彼女は間違いなく観客の中で生きているもの。違うかしら?」彼女の長い黒髪が風に靡いていた。
「そうだとも言えるし、そうでないとも言えると思うよ。少なくとも僕はね。」僕はそう答えた。
「どういうことかしら。」
「考えてもごらんよ。誰の心にもぼく自身は生きていないんだ。ぼくを僕たらしめているのは肩書きでしかない。それに心の臓が止まったことだってある。あの心臓が止まった瞬間ぼくは誰の心にも生きていないし、心の臓だって止まってた。君がいう死の条件を満たしているじゃないか。それならぼくは一度死んでいきかえった化け物ということになってしまうだろ?」
「あなたはたしかにその意味では化け物よ。生きているとも死んでいるとも言えないもの。」
「どうもありがとう。僕にとっては褒め言葉だよ」僕らの会話は晴れやかな屋上でする会話としては相応しくないものだ。話題が他にあればいいのだが、僕らはいつもこんな話ばかりしている。特に最近の彼女は生とか死とかそんな話題ばかりだ。一度終わった会話を再び彼女が切り出した。
「ところで書けそうなの?」
あぁ小説のことか。主語を抜くのをやめて欲しい。
「いや言葉が思いつかないんだよ。ぼくは経験したことしか書けない。なのに恋愛ものを書かせようとすること自体が間違っているんだよ。恋愛なんてしたことすらないんだから。だからこれまでもあんな作品しか書けないんだ。」
「天才作家が情けないこというわね。ほらどの書店にもあなたの写真が貼ってあるわよ。あなたがすごいんだって知らない人はいないもの。おまけにあんな事故があった後で描いた本が大ヒットの上に、賞を取るなんていう素晴らしい話題性じゃないの。」
「あんな写真、ぼくじゃないからね。なんとでもなるさ。」と言って会話を終わらせようとした。褒められるのは好きじゃない。第一、いつもからかうかバカにしてくる彼女らしくもない言葉だ。
「ところで君はなれそうなのかい?他の誰かに。」これ以上特に話すこともなくてこう切り出した。
「なんとも言えないわ。自分でも他の誰かになるということの定義がはっきりしなくて。」
「どういうことだい?」
「さっきの死の話と同じよ。他の誰かになるってそう簡単じゃないみたい。声優や俳優は役に命を吹き込んで自分以外の誰かになれる。でもそれは生物学的には何一つ元の自分と変わらないのね。それなら細胞でできた他の人の皮をかぶれば他の人になれるのかしら。」何でもない顔をして恐ろしいことをいう女だ。
「想像もしたくないようなことをいうなよ。」
「でも、あなたはできるでしょ?」
彼女の切れ長の円弧を描いた目が僕を見つめてくる。
「ねぇ聞いてもいい?」
こういうとき彼女はだめだと言っても間違いなく聞いてくる。
「あなたが賞をとったあの作品読んだわ。」
「珍しいな。どうせまた文句でもいうんだろ?」
彼女は僕が書く小説が嫌いだから。
「いいえ。これまでのあなたの作品とは違ったわ。これまでは読むに足らない陳腐な作品だったのに。」
「ずいぶん言ってくれるじゃないか。」
「いいでしょ?今褒めてるんだから。その物語の主人公はある日事故で義理の家族とともに火事に巻き込まれる。」
「ああ。」
「そして主人公はその業火の中で、死んだ義弟の体で自分の体を覆って生き残るの。」
「そんなこと僕が書いたんだから知っているに決まってるさ。」
「そうね。主人公はその皮のせいで弟と勘違いされて、整形手術を受けるのよ。そして彼として生きることになる。皆から疎まれていた自分ではなくね。」
「だから知ってるって言っているだろう?何がいいたい?」少し苛立ちながら言った。
「いえ、単に感想をききたかったのよ。あなたは私の先輩だから。言ってるでしょ?私は私以外の誰かになりたいんだもの。ずっとなりたかったものになりたいんだもの。その意味じゃ作家って素敵な生き物ね。」
「そんなに素敵とは言えないさ。」
「そう?」首を竦めて彼女が聞いた。
「あぁ。」
少し間が空いて彼女が続ける。
「ねぇ今なら書けるんじゃないかしら。あなたの本。」
「書けるわけがないさ。いつも言っているだろう?恋愛とは一方通行のものではないんだよ。一方通行のそれは単なる思いに過ぎない。」
「一方通行?あなたのそれは違うでしょう?」
「いや、単なる思いだよ。」
「どうして?」心底不思議そうに彼女がいう。
「いいかい。もうこの際言ってしまおうじゃないか。ぼくは君のことが好きなんだよ。でもこの思いに関係なく、君はぼくのことが好きじゃないんだ。」
なぜなら…その先の言葉が出てこない。しばらくののちに、やっと言葉を取り戻したようにぼくは言った。
「君は弟の彼女だったんだから。」
ぼくがそう言ってから、しばらく彼女は熟考しそして真っ直ぐぼくを見て言った。
「それは間違いね。私はみんなが知っている通り、あなたの彼女よ。」
「いやそれは…」僕の言葉を彼女が遮る。
「それにあなたには弟なんていない。亡くなった義理の兄がいるだけよ。あなたがそう思えば、あなたの心に生きているあの私は死ぬのよ。あなたと一緒に新しい私になるの。」
「君がなりたい他の人ってのはこれのことか?」ぼくはここ最近の彼女のことをやっと理解した。
「ええ。」
「ぼくの彼女?」
「ええそうよ。ずっと。」そういうと彼女の唇が僕の唇にそっと触れた。彼女の黒髪が風で靡いている。
さよならライターズ 白瀬 @ayay_antena7
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