9 夏はまだキミを知らない
「見ての通り、俺一人だ。」
愛想笑いを浮かべるでもなく、キャンバスを貼りながら先輩はそう告げた。
その表情からは何も読み取れなくて、この状況を嘆いているのか、それとも大して気に病んでいないのかも新入生の私には判断がつかない。
ただ、その黒髪と相反する薄い瞳がとても綺麗だと思った。
美術部というのは何処の学校でもだいたい"過疎状態"である。
私がこの前まで在籍していた中学の美術部だって、部員数は片手でギリギリ数えられる。
それでも、一人というのは驚きだ。
文化部の中でも、演劇部や吹奏楽部と違って個人戦ではあるから、人数に大して意味のないクラブではあるのかもしれないけれど。
「あ、そ、そうなんですね…。」
根っからの人見知りが発動して、会話を続けることが出来ない。
おろおろと視線を彷徨わせていると、机の上に置かれた一冊のスケッチブックが視界に入る。
扉をモチーフにしたデッサンだった。
まるでジブリ映画に出てきそうな貫禄のあるその扉には見覚えはある。
この教室に入るときに触れた、美術室の扉だ。
「すごい……。」
思わず心の声が漏れた。
先輩が私の視線を辿ってスケッチブックを見る。
「デッサンは嫌いなタイプか?」
先輩の質問に、素直に首を縦に振った。
美術部員には大きく2種類の人がいると思う。
絵を"書く"ことが好きな人と、絵を"塗る"ことが好きな人。
その二つを合わせて"絵を描く"ということなのだから、美術部員がどちらかを嫌っているというのは欠陥的な気もするが、事実私は絵を"書く"のは苦手だ。
だから、白黒のイラストで勝負する漫画家さんたちはもう尊敬の域なのである。
そして、この先輩は私と違って前者のタイプなのだろう。
「先輩は…デッサンがお好きですか。」
「色付けが嫌いなだけだ。どれだけ下絵が上手くいっても、最終的には失敗作になってしまう。」
案の定そのような趣旨の返答がされた。
その横顔は若干暗い。
過去に余程辛い失敗でもしたことがあるのだろうか。
とにかく、と話題を変えるように先輩が口を開く。
無地のファイルから小さな紙を取り出して私に差し出す。
入部届と印字されたものだった。
「活動日なんて自由だ。顧問も顔なんか出さないしな。
旧校舎でコソコソやってる寂れた部活だが、それでも良ければどうぞ。勿論変な気遣いなんてするなよ、他に気になる部活があるならしっかり見に行きな。」
やや早口にそう告げて、他に質問はと聞かれる。
他に気になっている部活などない。
運動はどうしても好きになれないし、中学の頃から絵ばっかり描いてきた根暗な性分だ。
あの…と遠慮がちに手をあげる。
「ちなみに先輩は…何年生ですか?」
もしも今三年生なら、遅くてもこの秋には引
退だ。
一人美術部を引き継ぐのが嫌なわけでもないし、もしかしたら私のような新入生が他にいるかもしれないが、一応聞いておきたかった。
しかしこの質問は意外だったらしく、先輩の固い表情が一瞬不思議そうなものになった。
「二年だけど…。」
「あっ、なら大丈夫です。」
鞄の中からボールペンを取り出し、さっき貰ったばかりの入部届にクラスと名前を記入する。
上から先輩の視線を感じる。
無駄に緊張して、ガタガタな文字が並んだ。
「よろしくお願いします。」
書き終わった紙を先輩に渡す。
入部届には部長のサインが必要なのだ。
部長が誰かなんて、この美術部では聞く手間もない。
私の勢いに気圧されたように見えたが、先輩は無表情でそれを受け取った。
「良いのか、決定で。」
「先輩が嫌でなければ…。」
「俺はどっちでも。」
本当は嫌なのか、言葉の通りなのか、照れ隠しなのか。
その単調な言葉からは私には読み取れない。
「ほらよ。」
だけど手渡しされた入部届と一瞬合った目が温かい気がして、拒絶されてはなさそうだなとポジティブに捉える。
"2年2組 村上理玖"
癖のない綺麗な字で、そう書かれていた。
夏はまだキミを知らない 有明 @minamiariake
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