第5話

 二人だけの楽しく賑やかな夏休みは、こうして終わりを迎えた。結局、お盆を除けばほとんど毎日一緒に過ごしていたことになる。だいたいはハウスのなかで、本当に、本当に楽しい時間を共にした。

 けれど、祭りの後には、やっぱり必ず寂しさがやってくる。それはいついかなる場合でも同じで、抗いようのない、世界の大鉄則だった。


 わたしと葵の関係は、二学期の初日に渡されたある一枚の薄っぺらな紙、進路調査票によって、否応無く動き始める。

 それはもう、動き出した時計の針がどうしようもなく止められないのと同様に。


 ──二学期、始業式の日。

学校が終わると、わたしと葵はハウスへ一目散に向かっていた。どちらから言い出すでもなく、新学期が始まったって、ハウスに向かうのはわたしたちにとって当然のこと、暗黙ともいえない了解になっていた。

 わたしと葵は二人一緒に歩いていく。が、口数はいつもより控えめである。

 結局進路調査票の話を繰り出したのは、庭いじりを中断し、木陰で休憩しているときだった。九月の気候は、秋の予感こそあれど、まだまだ暑く、こまめな休憩が必要だった。

 天然水をゴクゴクと口にしている雨宮さん。それを横目に、わたしはぽつりと口を開いた。

 「……ねぇ、葵はさ、その……進路ってどうするの? ほら、進路調査票、今日配られたじゃん。どこの大学とか、学科とか、決めてたりする?」

 葵はしばし沈黙、そして、ゆっくりと呟いた。

「……寂しいな」

 「え?」

 意味がよくわからなかった。

 「寂しいって……どういうこと?」

 「千鳥は寂しくないの?進路調査票を書いて、受験勉強を始めて。一年半後にはもう、この学校から卒業しちゃうんだよ? そして、このハウスにも多分、毎日は来れなくなる──ひょっとしたら、全く来れないかもしれない」

 葵は落ち着いた口調で、しかし何かをこらえているようだった。

 「わたし、今が楽しいよ。楽しすぎて怖いくらい楽しいんだよ。十七年間の人生で、一番楽しい時間なんだよ……。ハウスも、千鳥との出来事も、全部全部、過ぎ去った青春の思い出ってことになっちゃうのが、どうしようもなく怖い。一時の、卒業しなきゃいけない『思い出』に過ぎないのかもしれないって。やっぱり、またそうなっちゃうのかな……」

 それは葵の悲痛な叫びだった。彼女は、わたしと同じくらい、いやひょっとしたらわたし以上に、このハウスと、二人の思い出に執着している。

 わたしは何か気の利いた言葉をかけようとして──だが、言葉が浮かばない。

わたしはあまりに葵のことを知らない。葵の「また」が何を指しているのか、まったく見当もつかなかった。

葵に嫌われたくなくて、自分が幻滅したくなくて、わたしは葵の事情を知ろうとしてこなかった。部活を引退して、わたしと同じように茫漠とした喪失感を覚えているのだろう。そして、漠然とドームを否定しようとしているのだろう──。そう、勝手に措定していた。勝手に、「葵」の像を作り上げていた。

なんで園芸部に入ったのか、園芸部では何をしていたのか、兄弟はいるのか、わたし以外に遊ぶ友達はいないのか……。そんな単純な質問すら、わたしはしていない。葵に対して、何にも、何にも向き合ってこなかったんだ。

葵のことを知らないで、葵を思いやれるはずがない。──いま泣いているのは葵の方なのに、突き付けられた現実に、わたしまでも倒れ込んでしまいそうだった。

 隣に座る葵の姿を見る。体育座りをして、膝に顔をうずめている。その姿は、学校での凛とした姿とは程遠い、弱々しさを感じさせるものだった。

 いまのわたしに何ができるだろう。

 後ろからそっと抱きしめてはどうか──ふと、そんな考えが浮かんだ。親友同士なら、そんなこともあるのだろう。

 だが。

 わたしは、葵の弱さを見て。自分の気持ちに気付いてしまった。

 葵と、親友のままでいたくない。もっと、もっと特別な関係になりたい。葵以外の誰ともしない、したことがないことを、葵とだけしたい──。そんな思いが、ポップコーンのようにどんどん膨れ上がっていく。

 それはきっと、葵の弱さにつけ込んで依存しようとする醜い感情で。

 最低だった。自己嫌悪で胃液がこみ上げてくる。

 おそらく葵はいま、わたしのことを求めている。だが、その「求めている」は、わたしが彼女に抱いているそれとは異質なもの。それなのに、許されるからといって彼女のことを抱きしめてしまっていいのか? ──いいはずがない。それは大罪だ。

 だからわたしは、弱々しく、こう言うしかなかった。

 「今日はもう日が暮れるからさ、帰ろう……?」

 ハウスを出てから駅で別れるまで、葵はうつむいたまま一言も発しなかった。

 ドームのせいで、今日も天気は死ぬほど過ごしやすかった。



 二学期が始まって四日。わたしと葵は、あの始業式の日以来、丸三日の間一言も話していない。目線すら合わなかった。お互い、少なくともわたしは『しばらく離れた方がいい』と思っていたし、葵からアクションがないということは葵も同じ考えなのだろう。

 それに、自分の気持ちに気付いてしまったわたしは、葵と一緒にいると──あまりにも一緒にいたいと願いすぎてしまう。そう願ってしまう自分、葵が「好き」である自分のことが、なんとも言えず嫌いだった。

 葵との出会いは期末試験の直前。わたしと葵の仲が疎遠でも訝るクラスメイトは誰もいなかった。わたしと葵は、ただ「わたしと葵」という平面上でしか交わっていない。

 これからどうすればいいのか。

 その問に対し、わたしが最終的に導き出した結論。


わたしは、わたしの気持ちを封印する。そして、わたしは葵の親友になる。


 わたしの気持ちは「一時の気の迷い」に過ぎない。わたしはそう断定した。

この気持ちを、学者は「機会的同性愛」、つまり女子だけのホモ・ソーシャルで抑圧されたリビドーが表出された結果の感情だと言うだろう。わたしはその見解を全面的に支持する。

 きっとこれは、あの夏の熱中症のような、悪い病気なのだ。

 わたしの気持ちも、ハウスも永遠ではない。絶対に終わりが来る。それも、ごく近いうちに。

 だと言うのなら、わたしは友達として、少しでも葵と長くいられるように努めよう。「高校時代からの親友」とラベル付けされた関係性なら、きっと、永遠とまではいかなくとも、少しは──。

 九月四日の六限。葵を除いて誰も聴いていない日本史の授業中に、わたしは決意した。


 そして、チャイムを合図に授業が終わる。

 すぐに荷物をまとめて葵の机に向かい、一方的に『話があるから、来て』と言った。葵は顔を上げ何かを言おうとしたが、わたしはそれを待たずして教室を後にしてしまった。

 学校前の大通り。今日も作業員が人工植物のメンテナンスを行っていた。春、夏、秋、冬。木々たちは作業着の大人たちに装いを変えられていく。

 ──ちょっと、あの七月七日と重なる。六限の日本史、メンテナンスされる木々、迷子、そして、葵との出会い。

 きっと今日は再生の日なのだ。

 わたしは足早にハウスへと向かう。迷路のような路地を次々に抜け、奥へ奥へと。

もう、道に迷うことはなかった。

 学校を出て十数分。あと、ここを抜ければ──。

 「……?」

 そのとき、わたしは行く手を塞ぐ障害物を発見した。こんなところに何だろう、と思って近づいてみる。

 そこにあったのは、ある一枚の看板と、立入禁止のロープ。

 まず目に入るのは、「再開発計画」の文字。その下には細かい文字が並べられ、周囲の地図も記載されている。右下にはヘルメットを被った作業服のキャラクターが『ご迷惑をおかけしますが、ご理解のほどよろしくお願いします』と言わされていた。

「…………」

 その看板の意味を理解できなかった。ただ呆然と立ち尽くす。

 やがて。ヨロヨロとした足取りで、へばりつくように看板に近づく。地図には、太い赤線で「再開発地域」が示されていた。ハウスの場所を探す。

 「……っ!」

 ハウスは、太い赤線に囲まれた地域にあった。それはどういうことを意味しているのかというと。

 つまり、ハウスにはもう……。

 突然、後ろで何かが落ちる音がした。慌てて振り向く。

 そこにあったのは、アスファルトにひざまずく葵の姿だった。

 「なんで……一年も早いのに……」

 顔面蒼白の葵は、数日前よりも更に、悲痛に満ちた声を漏らす。わたしは声を絞り、かろうじて尋ねる。

 「一年も早いって、どういうこと?」

 葵の溜息が聞こえたような気がした。そして葵は言う。

 「千鳥、私はあなたに一つ、隠し事をしていた」

 「……えっ?」

 葵は小さく息を吸った。

 「私がハウスの鍵を受け取ったとき、封筒に入っていたのは、鍵と地図だけじゃなかった。それに加えて、一枚の小さなメモ書きも添えられていたの。──『一年後に再開発で取壊予定』って書かれた」

 「それじゃあ……」

 葵は皮肉そうに口角を吊り上げる。

 「そう、結局、遠かれ早かれわたしたちはハウスから出ていかなければならない運命だった。でも、私は──千鳥と一緒にいる時間に、どうしようもない終わりが設定されてしまう気がして、それを言い出すことができなかった」

 葵は表情を崩さずに、目から涙を溢れさせていた。

 わたしは、しかし、こんな時にも頭の片隅で「今がチャンスだ」と思ってしまう。弱さに漬け込んで、自分のものとしてしまいたい。そんな気持ちが、わたしを誘惑してくる。最低だ。

自己嫌悪と、混乱と、悔しさと、悲しさと、全部の感情がぐちゃぐちゃになる。どうにかなってしまいそうだった。

もう半ば自暴自棄だった。だからわたしは、愚かにも訊いてしまう。

 「葵は……わたしのことが、好きなの?友達としての好き、じゃなくて、お互い誰ともしないことをしたいっていう、好きのこと」

 言いながら、いますぐハンマーで頭を殴られてしまいたい気分になった。このどうしようもないわたしに、誰か、罰を与えてほしい。わたしは、わたしは──。

 そして、無表情のまま口を開く葵。もうここで罵詈雑言を浴びせられたかった。

 「好き。好きに決まってる。私は千鳥とずっと一緒にいたい。でも、ハウスが無くなって、それぞれ次の進路を選び取ったなら、千鳥はきっと、チドリみたいにいなくなっちゃうから──」

 心臓が止まるかと思った。

葵がわたしを好きだって? それも、そういう意味で。わたしが嫌いなわたしを、わたしが好きで止まらない葵が──。

 「それ、ほんと?」

 「ほんとに決まってる。でも、そういう千鳥にとってわたしは、きっとただの仲の良い友達に過ぎないでしょう?……気持ち悪くて、ごめんね」

 葵は表情を崩した。涙で綺麗な顔がぐちゃぐちゃだった。

……全部、吹っ切れた。もうくだらない自己嫌悪なんてどうでもよかった。現金かもしれないし、薄情かもしれないし、目先しか見てないかもしれない。でも、そんなの知ったことか。

わたしはもう本能のまま、葵のためだけに言葉を紡ぐ。

 「気持ち悪いなんてこと、ない。わたしも、わたしも葵のことが好き。葵とずっと、永遠に一緒にいたい。でも、この気持ちは若さゆえの過ちなのかもしれないって思いが、どうしようもなくわたしの中にくすぶってて──。だからわたしは、その気持ちを諦めようって、一度はそう決意したんだ。でも、」

 葵が顔を上げた。わたしは語気を強めて、続ける。

 「葵がわたしと特別でいたいのなら、わたしはそんな自分の決意なんて今すぐゴミ箱に捨ててやる。もうわたしは隠さない。ずっと葵のことを好きでいられるか、まだ若すぎるわたしには分からない。でも、これだけは言える。いま、わたしは葵と一緒にいたいんだ。好き。好き。大好き。愛してる……どんな言葉でも足りない。わたしは葵に、一緒にいてほしい」

 葵の涙は、止まるどころかむしろ増えていくばかりだった。

 「わたしも、ずっと千鳥のことを好きでいられるかなんて分からない……。でも、わたしも、わたしも、いま、千鳥と一緒にいたい。千鳥の特別になりたいよ」

 こんな都合の良いこと、あっていいんだろうか。夢か、小説のなかの出来事なんじゃないか。あるいは、わたしは今度こそ葵の弱さに漬け込んでいるだけなんじゃないか……。そんな疑問も頭をかすめる。だが、それは一瞬で。いまのわたしにとって、小考するにも値しない些細な問題だった。

 とにかく、いま一緒にいたい。その願いさえ叶うのなら、もう他に何をも望まない──。

 ゆっくり、しかし着実に葵の方へ近づく。ぺったりと座り込んだ姿は、雨に濡れる捨て猫みたいだった。

 そして──わたしは正面から葵を抱きしめた。両手を背中に回して、強く、強く、葵を抱きしめる。いつの間にか、わたしの方も涙を流していた。

 わたしは、葵の耳元でささやく。

 「全部、さ。やっぱり、変わらずにはいられない。いつ、何がなくなるかなんて、分からないんだよ。でも、だから──いま一緒にいたいって気持ちを、大切にしよう」

 葵も両手をわたしの背中に回してきた。

 「うん、うん……うん!」

 それから、二人して大声で泣いた。時間の概念すら忘れて、ワンワンと子どものように泣き続けた。

 実際に、わたしも葵も、まだ十七歳の子どもだった。子どもだから、無謀も無駄も制約も全部すっとばして行動してしまう。

 でも、いまのわたしは──それでいい、と思った。



 「財布は持った?鍵は?スマホは?」

 「全部持ってるよ……。心配することないって」

 葵の心配性に、わたしは小さく溜息をつく。この子はいつもこうだ。共同生活も二年目を迎えてしばらく経つというのに、ちっとも信用してくれていない。

 わたしと葵は、京都にある大学に二人で進学した。せっかくならドームのない街に、という二人の希望があったからだ。一度は京都にもドームを建設する計画があったらしいが、地元の強い反対を受け、断念したらしい。おかげで京都は、夏は死ぬほど暑く、冬は死ぬほど寒い、全くもって住みにくい街のまま。でも、わたしも葵も、この街をとても気に入っていた。

 東京が嫌いだったわけではない。ただ──東京はたぶん、わたしたちにとってのハウス足りえない。何となくだけど、そう思う。あの街に暮らすわたしたちみたいなのは、箱庭に逃げ込まないとやっていけないのだ。

 今住んでいるのは、ごくごく小さな1LDKの部屋。一人で住んでいてもおかしくないくらいの大きさの部屋に、わたしと葵は二人で暮らしている。貧乏学生ということもあって、部屋には最低限の品しかなかった。女の子だというのに、服もほとんど置いてない。

 唯一にして最大の嗜好品と言えば──部屋を埋め尽くす花壇だった。もちろん、アオイとチドリソウも植えられたもの。

 葵が声をかける。

 「じゃあ、もう行こう」

 「……そうだね」

 そして、部屋を出る前、最後の最後。わたしと葵は、そっと唇と唇を合わせた。毎朝の儀式だった。

 ──すべてはいつなくなるかわからない。なら、今を大切にして、取り返しの付かないことを積み重ねていこう。お互いに、お互いを刻みつけて。

 わたしと葵の関係性に、名前は付けられていない。彼女とか、親友とか、そういう括りを越えた二人だけの関係を目指していたし、実際そうだった。

 儀式が終わると、わたしと葵は二人顔を見合わせ、お互いに呟く。

 「行ってきます」

 扉を開けたその先には、暑い、暑い夏が待っていた。

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お天気ドーム 梁川航 @liangchuan

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