第4話
数日が経ち、あっという間に期末試験が終わった。東英は期末試験が終わったら「採点補講期間」と称する休みに入るから、実質的には夏休みの到来である。
去年までだったら、夏休みの過ごし方なんて部活に行くか、旅行に行くか、くらいしかなかった。
でも、今年の夏休みは特別になるだろう。ハウスがあって、そこには園芸のプロ雨宮さんがいるんだから。
わたしは、楽しい、楽しい夏休みが訪れる気がして──実際、その予感は現実のものとなった。
夏休みを迎え、わたしと雨宮さんは毎日のようにハウスで一緒に庭いじりをするようになった。麦わら帽子をかぶり、軍手を着けて。花も恥じらう女子高生の姿としていかがなものか、と思いもしたが、ハウスの花はきっと農業に精を出す女子高生の方が好きだろう……と訳の分からない結論で自分を納得させた。
──7月下旬、ある日の午後。
わたしと雨宮さんは、木陰で休憩していた。どこか懐かしい響きのする「熱中症」の対策のため、こまめに休憩する必要があったのだ。ペットボトルの麦茶をゴクゴクと飲むと、すぐに全身を駆け巡るような爽快感があった。汗をかいたあとの麦茶は美味しいのだということを、わたしはようやく思い出していた。
外部から遮断されたハウスといえども、夏休みの午後らしく、時間は緩慢に流れていく。
いくばくかの時間が過ぎると、雨宮さんは、ごく自然にこちらへ近づいてきて、
「あ~あ、疲れちゃった」
と、わたしの太ももに頭を載せてきた。梢に小鳥がとまるくらい自然な動作で。
雨宮さんは結構スキンシップを好むタイプらしかった。だから、こんな膝枕は、もはや大したことでもないし、特別記憶に残るものでもない──はずだ。
雨宮さんの右頬と、わたしの太ももが密着する。雨宮さんの頬は少し汗ばんでいるが、少しも気にはならない。どこからか吹き付けてくるそよ風が雨宮さんの長い髪を揺らすと、手持ち無沙汰な雨宮さんの手とわたしの手は、動物の子どもが戯れるみたいに重なり合い、結ばれた。ほとんど無意識的に。
そして、何をするでもなく、色とりどりの花々を二人一緒に眺めるのだった。「あの花、綺麗だね」なんて、当たり前のことを言い合いながら。
雨宮さんと親密になるのに、時間は殆ど必要なかった。
共通の趣味といえば「花」くらいなものだが、雨宮さんとは不思議と話が合った。雨宮さんと話していると、顔がデフォルトで笑顔になってしまう。一緒になって作業している点もわたしと雨宮さんを繋げる触媒となった。暑い暑いとお互い言いながら作業するのは、大変だけど心地良いものなのだ。ほんとうはお互いのことを知悉しているわけではないのに、なんだか心は繋がっている気がしていた。
高校二年生になって、いまさら友達か、と思う気持ちもあった。
しかしハウスで雨宮さんとの時間を過ごすうち、そんな無粋なことは気に止まらなくなった。いままでは部活に同級生がいなかったから、先輩や後輩とばかり遊んでいただけで、同級生が嫌いなわけじゃないのだ。だから、初めて自信をもって「友達」と呼べる同級生の友達、雨宮さんを、心底大切にしたいと思った。
偶然迷子になって、偶然出会ったのに、気付けば友達になっている。高校生とは不思議なものだ。でも、高校生なんて、そんなもんだ。
*
ハウスには確かに夏があった。雨宮さんとハウスで過ごすにつれて、わたしは色々な「夏」を発見した。
まず、確かにこの夏は暑いのだけど、木陰に入るとしっかり涼しい。時折優しい風も吹いてくる。
それは、小学校にあった柳の木と、遊び疲れてそこで一休みしていた記憶を思い出す涼しさだった。ノスタルジーのなかに封印されていた感覚が解放されていく。ハウスの快適さは、ドームの管理された「快適さ」とは全く違う快適さなんだった。
最初は前の管理者の人が植えたものがほとんどだったお花畑も、二人で新しく開拓したり、植え替えたりして、段々とわたしたちの色に染めていった。最初は作り物の箱庭だったかもしれないけれど、今は自身をもって、ハウスは「本物」だと言える。たとえハウスの気候も作り物だったとしても、それが本物だと思えば、やっぱりそれは本物なのだ。
……そういえば、二人で植えたい花を考え合い、苗を買い付けにいったこともある。東京では苗なんて売ってないから、ドームの外に遠征したのだ。
──それは8月7日のこと。わたしが雨宮さんとドームに出会って一ヶ月の日を見計らって、わたしと雨宮さんはドームの外への小旅行を決行した。東海道線で熱海まで。箱根がドームの境界線だから、熱海にはギリギリ夏が訪れている。
駅前にあるお花屋さんで、事前に注文しておいたいくつかの苗や種を受け取ると、ビニール袋いっぱいのそれを、わたしと雨宮さんは片方づつ持ち手をつかんで運ぶことにした。
冷房の効いた店を出て、わたしはふと、すぐ隣の雨宮さんに尋ねる。
「そういえば……アオイの花は植えなくていいの?」
雨宮さんは首を上下に振った。
「なるほど、アオイか。そういえば、考えもしなかった」
「せっかく名前に葵って付いてるんだから、植えようよ。いい名前だと思うよ。植えたらきっと綺麗に咲くはずだって」
「……さすがにちょっと恥ずかしい。でも、せっかくここまで来たんだし、買ってみようかな」
雨宮さんはそう言うと、くるりと方向転換して再び店に入った。
しばらくして戻ってきた雨宮さんの手には、アオイの花の種と、もう一つ何かの種の袋があった。
「買ってきた」
「おつかれ。そっちは?」
アオイの種じゃないもう一つの袋の方を指さす。すると雨宮さんはにやりと笑って、袋をわたしに見せてくれた。
「ほら、見て。これ」
袋に書かれた名前。それは──「チドリソウ」だった。
「……そっか。わたしの名前にも花があるんだ。忘れてた」
天野千鳥の「千鳥」。わたしの名前の花だった。
「チドリ。チドリソウ。いい名前だと思う。きっと、こっちも綺麗な花が咲くよ」
その言葉に、わたしははみかみながら答える。
「……ありがとう、葵」
コンマ数秒の後、わたしは『しまった』と思った。花の名前につられて、雨宮さんを下の名前で呼んでしまった。いまさら別に何てことはないのだろうが、初めての名前呼びにわたしは自然と顔を赤らめてしまう。「友達」に慣れていないのだ。
雨宮さんもすぐに気がついたのか、少し顔が赤くなっていた。その姿を見て、わたしは更に顔を赤くさせる。頬を染めている雨宮さんは、何というか──とても可愛らしかった。よく女の子同士で言い合うお世辞の「可愛い」でも、アイドルの「可愛い」でもなく、それはいわば雨宮さんの「可愛い」だった。
それから雨宮さんは、こちらの方をしっかり向いて、
「どういたしまして、千鳥」
花のような微笑みとともに投げかけられた「千鳥」と言う言葉。たったそれだけなのに、どうしてかわたしの胸はやけに高鳴っていた。心臓がバクバク言っている。頻脈でこのまま倒れてしまうのではないか……。そんな不安すら感じるほど、わたしはどうにかなってしまいそうだった。あまりに友達慣れしてなさすぎる。
雨宮さんは少しうつむきながらも言葉を続ける。
「……なんか、ちょっと気恥ずかしいね。でも、いつまでも『天野さん』じゃ他人行儀すぎるから、これでいい……よね?」
わたしはなにか返事をしようと頭を巡らせて──
ふと視界が歪んだ。
あ、熱中症だ。そう直感した。このまま倒れる。
しかしその瞬間、わたしは葵に抱き抱えられていた。
「大丈夫?」
本当に心配してくれているようだった。葵は顔を近づけ、わたしの顔色を覗き込む。
──お互いに名前で呼び合い、心の底から心配してくれる友達。これまでも、客観的に「友達」と呼びうる関係性の子がいなかったわけではない。しかし、無邪気に彼彼女たちを「友達」と呼ぶこともできなかった。彼彼女たちが、自分のことを「友達」と思っていなかったらどうしよう──そんな不安から、どこか心の内で、人間関係の境界線を引いていた。
だがしかし。いま、葵だけは、芯から「友達」と呼べる人間だった。葵もわたしのことを「友達」だと思っているという実感があったから、なのだと思う。わたしは朦朧とする頭で、真夏の暑さとは異なる暖かさを全身に受け止めていた。
結局、熱中症はしばらく日陰で休んで事なきを得た。葵はその間、ずっと手を握り、どこからか持ってきたうちわでわたしのことを仰いでくれたのだった。
何だかうやむやになってしまった会話だけれど、何はともあれその日からわたしと葵は、名前で呼び合うことになったのだ。
八月三十一日の夜。その日は、いつもより少し早めに作業を終えて家に戻った。理由は単純、わたしが宿題を終えていなかったから。葵はもちろん優等生らしく、とっくのとうに宿題は終わらせていたらしい。──どんなに頼んでも見せてくれなかったけど。
机に向かいながら、手元のシャーペンを所在なく弄ぶ。
わたしは明確に、葵に影響されつつある自分の存在に気が付いていた。最初は、ただ単純に、ハウスとそこにある自然に惹かれて手伝い始めたはずだった。だが、いま。わたしはハウスと同じくらい……いや、それ以上に、葵と一緒にいることに意味を見出していた。
葵のことは、正直よくわかっていない。あまりお互いのバックグラウンドに関する話はしていなかった。今の話、これからの話の方が楽しかったのだ。
それだけじゃない。
わたしはいま、愚かにも、この楽しい時間がずっと、ずっと続いてほしいと願ってしまっている。部活の引退をつい最近経験したのに、性懲りもなく、二度目のお祭りを求めている。
危うい、とは自覚していた。だが──今は雨宮さんと一緒にいたい。そんな思いに、わたしは逆らうことができない。
夜の暗闇は深まっていくばかりだった。
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