第3話
わたしに気付かず自販機へ一直線に向かう雨宮さん。自販機から取り出した手元には、ペットボトルのオレンジジュースが握られていた。
雨宮さんはすぐさまキャップをひねり、ゴクゴクと豪快にラッパ飲みする。よっぽど喉が乾いていたのだろう、一回で半分以上飲み終えてしまうと、間髪入れずに再び飲み口に唇をつけ、そしてあっという間に飲み干してしまった。どうしていいかわからず、わたしはただ彼女の豪快な飲みっぷりを観察していた。
そして、雨宮さんがペットボトルを捨てようとこちらの方を向いたとき──目が、合った。
「……」
「……」
二人して硬直。雨宮さんは強制終了したロボットのように不自然な体制でわたしを見つめる。
──数秒か、数分か、短いのか長いのかすら分からない時間が経過する。最初に奇妙な静寂を打ち破ってくれたのは雨宮さんの方だった。
「えーっと、天野さん、だよね? 同じクラスの」
「う、うん。……雨宮さん」
わたしもぎこちなく答える。
「……どうしてこんなところに? ここらへんに住んでるってわけじゃ……ないよね」
雨宮さんは、何とかして微笑もうとしているが、やっぱり怪訝そうな顔を隠しきれてはいない。そりゃそうだ。ここは恥を偲び、事情を明かすことにした。
「その、何といいますか、単刀直入に言えば…………迷子、っていいますか」
雨宮さんこそなぜここにいるのか、その服は何なのか、この建物は雨宮さんの家なのか。訊きたいことは盛りだくさんだった。けれど、ひとまずは雨宮さんのペースに合わせる。
わたしの言葉を聞くと、雨宮さんは一瞬びっくりしたような顔をして、そして──満面に笑った。
「迷子、迷子って! そんなことある? ここ、針みたいにせっまい道通らないと来れないよね? ……というかそもそも、なぜにこの界隈に入り込んだの?」
「それは……ちょっとした散歩のつもりで」
盛大に笑った雨宮さんに少しムッとしたけれど、おかげで自然に話せるようになった。いつの間にか、身体の体勢も自然になっている。雨宮さんはクールなタイプだと思っていたけど、どうやらそうでもないらしかった。
「散歩、ねぇ……」
「そう、散歩……」
お互いにそう言うと、顔を見合わせた。そして、今度は二人合わせて笑った。
「やっぱり変だよ、天野さん。散歩でこんなとこまで来るなんて」
「そんな笑わないでよ、もう。……ところで訊きたいんだけど……なぜ作業着?」
そう、不自然なことに、雨宮さんは作業着を身に着けているのだった。それも、手には軍手をはめるほどの念の入れようだ。ところどころには土も付いている。また汗もかいているようで、首にはタオルをかけていた。
この街で汗をかくなんて、ジム以外であり得ないはずだけど……。
対する雨宮さんは、
「ああ、これ。……うーん、まあいいか。別に隠すようなことでもないし。つまりは、さ。わたしはここで、庭園造りをやってるんだよ」
そう平然と答えた。
「庭園?」
「そう、庭園。箱庭と言った方がいいかもしれないね。説明するのもなんだから、よかったら見てみてよ、せっかくだし」
雨宮さんは、例の倉庫とも小屋ともつかない不思議な建物を指さして言った。
……どうしようか。しばしの逡巡ののち、ここは素直に好奇心とご厚意に従うことにした。
「……じゃあ、ちょっとだけ。用事もないし」
雨宮さんはニヤリと笑った。
「それなら決まり。じゃ、こっち来て」
手招きに吸い寄せられるようにして、わたしは建物の中へと入っていく。雨宮さんが細い腕で鉄製の扉を開けると、そこには──夏があった。
視覚情報よりも前に、まず「暑い」という肌感覚を覚える。まるで本当の7月のような暑さだ。
そして、遅れて感じるまぶしい光やまとわりつく湿気に、五感すべてが「夏だ!」と叫びだす。気のせいか、その刺激にややめまいを感じてしまうほどだった。
見ると、高校の教室二、三個分ほどの土が敷かれた空間に、色とりどりの花が植えられている。種類は、アジサイ、ブーゲンビリア、サルスベリ……と、どれもまるで今日の季節に合わせたかのような初夏に咲く花たちだった。それに気付いたわたしは、
「これって……!」
と、感嘆にも驚きにも似た声を漏らす。すると雨宮さんは自慢げに、
「すごいでしょ。いま、この空間は夏なんだよ。で、全部天然の花。まあつまりは、服を汚す土の上に、すぐ枯れちゃう花が咲いてるんだ。ドームのせいで残念ながら気温は作り物だけど、ね。ほら、今日の授業でやったビニールハウスみたいなもんだよ」
にわかには信じられなかった。
夏? 自然の花と土?
どれも、東京に来てからまったく縁が切れてしまったものたちだ。それがこんな小さな空間にあるなんて──。にわかには信じがたかった。
念のため雨宮さんの許可を取ってから、近くにあったアジサイの花に触れてみる。紛れもなく本物の手触りだった。ちょっと青臭い匂いに、鼻腔と頭が刺激される。
夏。ミンミンゼミがやけにうるさい日、びっしょりと汗をかき、Tシャツと肌がくっついてしまっても歩き続けなければいけなかったこと。
冬。初めて雪が降った日、外に出たら、すぐに鼻がツンと痛み、赤らんでしまったこと。
そんな、厳しくも自然だった思い出たち。ほとんど忘れかけていたはずの記憶が、身体感覚を通じて鮮やかに蘇ってくる。
わたしは思わず、雨宮さんの両手を取ってしまった。
「すごい、すごいよこれ! もうなんか、『すごい』としか言えないくらいすごいよ、本当に!」
「……ふふっ、ありがと。でもまぁ、一番すごいのはこの建物と、前の管理人の方なんだよね。……それを話すには、私とこの建物の出会いについて話すのが一番手っ取り早いかな」
そうして雨宮さんは、今に至るまでの事情を話してくれた。
自分がつい先日の文化祭まで園芸部の部長だったこと。その文化祭で、『ずいぶん前』のOGを名乗る女性から、『今年で引退する子にあげる』と言って、封筒を渡されたこと。その中には、この建物──ビニールハウスに似ているから「ハウス」という名前らしい──の鍵と地図が封入されていたこと。中に入ってみると、すでに花々が植わっていたこと。どうやらドームが建つ前の東京の気温を再現しているらしいこと。そして、ここを訪れたのはわたしが初めてだということ……。
結局その日は、ハウスの日が暮れるまで雨宮さんとハウスを回った。それほど大きい空間ではないはずなのに、この世界が凝縮されているような密度だった。
駅までは一緒に帰った。帰り道はやっぱり複雑で、しばらくは覚えられそうになかった。
「じゃあ、わたしこっちだから」
駅に着くと、雨宮さんはわたしとは逆方向のホームを指さした。別れる前、わたしは躊躇いながらも雨宮さんに尋ねてみる。
「あの、さ。もしよければなんだけど。また、ハウスに行ってもいい……かな? 箱庭造り、手伝いたいと思って」
雨宮さんは少し驚いたような顔をした。が、すぐににっこりと笑ってこう言った。
「もちろん、大歓迎。今度は迷子にならないよう一緒に、ね?」
そんな雨宮さんの言葉が、心底嬉しかった。
ハウスには、わたしが長らく忘れかけていたもの、そもそも持っていなかったものが詰まっているように思える。ハウスはひょっとしたら、わたしが失くしてしまったパズルのピースの一つなのかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます