佐伯京
単語帳を握る手が、汗で滲む。蝉が鳴くのを片耳で聞きながら、完全ワイヤレスイヤホンを、左耳につけている。そこからは、ただひたすら英語の音が流れてくる。
僕は外の空気を感じていないと、何かと不安になる。特に理由があるわけではないが、
多分、外の世界と遮断されたようなその感覚が嫌いなんじゃないかと思う。
「暑い……」
片手が塞がった状態で、長袖の制服のシャツをめくる。学校の教室では、クーラーが効きすぎているため、冷え性の僕は長袖のシャツを着用していた。そのせいで、外ではあまりの暑さに気が滅入る。
だが、この暑さと寒さどちらかを選ばなければならないのなら、僕は暑さを選ぶ。寒さはどうしようもない。
日の入りが遅いこの時期は、まだこの時間でも空は明るい。まるで昼みたいだ。
おおよそ斜め前方に立っている大学生くらいの男が、点字ブロックの上にいるのを見て、思わず眉間にしわを寄せた。頭は金髪で、スマホに目を落としているその姿は見るからに不真面目そうだ。
人を見た目で判断してはいけない? 本当にそうかな。
僕はよく真面目だと言われる。そう見えるなら仕方がないけど、真面目な人間が必ずしも性格が良いとは限らない。何故なら、まさに僕は毒舌で腹黒い人間だからだ。
金髪男に向けていた軽蔑のような視線を単語帳へと戻した。
もう何度見たか分からない、何も面白くないアルファベットが並んでいる。
「あっ……すみません」
ドンと誰かにぶつかったので、すぐに頭を下げて謝罪の言葉を述べる。公共の交通機関を使っていると、こんなことも日常茶飯事だ。
だが、ぶつかった男性はこちらを一瞥することなく歩き続けていった。
——黄色い点字ブロックの上を。
白杖をつくその男性は、視覚障害を持つ方だった。しばらく様子を見ていると、あの金髪男が立っているところへと行きついてしまう。金髪男に体当たりした後、行き場をなくした盲目の男性がよろめいた。
何だか嫌な予感がして、僕は流していた音声を止めた。何かの音を聞いている場合ではなかった。
「危ないっ」
突然発せられた声は、まさに自分のものだった。気がつけば手には単語帳がなくなっていて、足は勝手に動き出している。何故なら、男性が線路に落ちそうになっていたから。
僕の精一杯伸ばした手が、空をかすめた。届かなかった。
あの金髪男が、駆け寄ってくる。このアホが。本気で怒鳴りたくなった。
——そして、あの事件は起きた。
僕と憎たらしい金髪男が、入れ替わってしまうという事件が。
「痛い……」
自分の意識が現実へと向かうと、目を開けようとする前にまず背中の痛みを感じた。
寝返りをうつにも身体の節々が悲鳴を上げる。それ以上横になっていられなくて起き上がった。
「え?」
自分は見知らぬ部屋の床で寝ていた。部屋中にお酒の空の缶や、おつまみとして食べたものの袋なんかが投げ捨てられている。……おかしい。
よっこいしょ、という声を漏らしながら立ち上がって周りを見渡す。ワンルームで一人暮らしをしていることが想像できるこの部屋。
僕は一体、どんな人にここに連れてこられたんだろうか。
僕の荷物は何一つなさそうだ。
あの、盲目の男性が線路に落ちたときのことが蘇る。チャラいあの金髪男が線路に飛び込んだときは本当に驚いた。駅員さんを呼べ、という僕の忠告を聞かずに慌てて行動していた彼。その行動と外見からして頭が悪そうなのが分かった。
電車がもう、すぐそばまで迫っているというのにどうしてもその男性を助けたかったのか、金髪男はその場から離れようとしない。
意味不明な言葉を叫ぶ姿を見て、この人は感情を中心に生きているんだろうな、と思った。何だか、僕なんかよりもずっと人間味が垣間見える姿だった。
そこからどうやってここまで来たのか、思い出せない。記憶がぽっかりと抜けていた。
この家に住むはずの誰かの姿も、ない。
そして違和感に気づく。現在、僕は眼鏡をかけていないものの視界がクリアになっている。え? 眼鏡どこいった?
「まじかこれ……」
顔を洗おうと鏡を見ると、そこに映っていたのは自分の顔ではなかった。知らない人とも見覚えがないとも言えないその顔……。目の前では、
——アホそうな金髪が揺れていた。
入れ替わったとしても、すべきことは大して変わらないものだ。その人の日常は必ずあるはずだから、その日常をこなすだけ。昔から冷静だね、と言われるがどうして何かによってとり乱すのかが逆に分からない。
「この部屋汚いしこの髪やっぱ嫌だな……」
趣味の合わない服ばかりがかけられたクローゼットから適当に選んで着替える。髪のセットはよく分からないためそのまま放置することにした。
身分証やらそこら辺のモノを探し出して、大学と名前を確認する。名前は渋谷颯斗というらしい。洒落た名前だ。スマホは指紋認証で簡単に開いた。こういうとき指紋認証とか顔認証だと良いよな。
大学に行ってみるが、どこに行けば良いかも不明。雰囲気だけで歩いていく。それらしき講義室に入り、自分が目立たなそうなところに腰をかける。
「うぇ!? おい颯斗がいんぞっ」
「えぇぇ。お前どしたん! 一限から真面目に出とうとか頭でも打ったんちゃう?」
僕からするとモブキャラでしかない二人のチャラい男が、大声を出して僕……渋谷颯斗を指さして駆け寄ってくる。
えぇ、ほんとにやめてそのノリ。
「今日雪でも降るんじゃね? ……なぁ、お前聞いてる?」
「ほんまに雪降るとでも思っとるんちゃう?」
僕が黙っていると、勝手に話が進んでぎゃはははは、と笑い転げている。
え? どこか面白いところあった? 今。
「ってかさ、雪って寒ければどこでも降んの? こんな晴れててもさ」
「えぇ? 北の方なら降っとんちゃうん。別に晴れてても」
「雪ってのは、雨雲の中の水の粒が冷たい空気によって冷やされて降るのであって、雲がないなら降るはずがない。雨が、冬とか寒いところなら雪になるってだけ」
長々と説明した後に、はっと我に返る。あまりに面白いことをこの二人が言うもんだから、知らない間に口が勝手に動いていた。
渋谷颯斗がこんなキャラでないことは容易に想像がつくので、僕はやってしまったと、冷や汗が吹き出す。
「……なんか今日の颯斗、変だな」
「どないしたんほんまに。事故にでもあったん」
「いや、なんか……色々あって」
一気にその場に居づらくなったのを感じて僕は頭を掻いて、濁してみる。恐らく渋谷颯斗はいつもノリ良く返事しているのだろう。そりゃ雪なんて寒けりゃどこでも降るっしょ!
……え、こんな感じで合ってる?
「まっ良いや。そういや今日の合コンどうする?」
「行くに決まってるやろーっそんなん。なっ颯斗」
冷静に考えよう。ここは無難に、俺も行くぜぇとか言うべきなんだろうが重大な問題が僕にはある。それは、致命的にコミュ障であると同時に、何を言おうこの僕は受験生であるということだ。
僕はこの状況においても、勉強をする必要がある。
「あーごめん。今日ちょっと用事あって」
「どうせ酒だろ? なら合コンでも良いじゃああああん」
「飲み放題やで? 今日こいつのおごりやし」
関西のイントネーションで喋りまくる人が、親指でもう一人を指してニヤニヤしている。お酒で釣ろうとしているとしているということは、渋谷颯斗はかなりお酒が好きらしい。あの汚い部屋からも分かるが、好きというよりは依存しているようにも思える。
渋谷颯斗は、大丈夫なんだろうか。色んな意味で。
「ほんとごめん。また今度」
「って言うやん? どうせ合コンあるん明日なんよな?」
本気で言ってるんですかこの人たち。そんなに何が楽しいのかは知る由もないから僕はこのまま行かない選択を続ける。
だってバレたとしても僕が渋谷颯斗じゃないことを、どうやったって科学的に証明することはできないのだから。
「あーじゃあ、しばらくは行かないとく。ちょっと忙しくて」
「あぁ、お袋さん最近調子悪いんだったっけ」
「そうやなぁ。ほれならしゃあないかっ。女手一つで育ててくれたんやろ? それは恩返しってか親孝行? せなあかんわな」
少し予想外の反応で内心戸惑う。
渋谷颯斗の両親は既に離婚していて、彼を育てたその母親はどうやら体調がよろしくないらしい。
「あぁ……そうだね。……そうだな」
渋谷颯斗が、『そうだね』なんて言うはずがないことに気がついて言い直す。少しずつだが渋谷颯斗のことが分かってくる。それと、この本人を取り巻く環境も。
見るからにチャラチャラとしたこの友人? の方々は、思ったよりも性格が良いらしい。少なくとも、他人のことを気遣うくらいには。
自分には、そんな心が存在しないからか少しだけ羨ましくもあった。僕には、本当に勉強しかないから。
なんとか大学ではやり過ごすことができた。他人との関わり方も何となく。今日を乗り越えたらもう大丈夫な気がしてくる。
家に帰ると、片づけを済ませた後、特に何をするわけでもなく綺麗になった部屋を眺めていた。綺麗になったすっからかんの部屋で、僕は自分がバカなことに気がついた。
「何もない……」
勉強道具が、何一つなかった。そりゃあ渋谷颯斗の大学で使用している教材とかはあるが、それはそれだ。
僕は、大学受験のための教材が必要なのだ。一日たりとも勉強は疎かにできない。
だって、僕には勉強しか、ない。
「はぁ………………」
ため息をつくが、それは虚無感をまといながら空気へと溶けていく。ひとつだけある座椅子に座って、ぼーっとしてみる。こんな時間の使い方をするのは、やけに久しぶりだ。
僕には、勉強しかなかった。昔から趣味という趣味も、特技もなく生きてきた。他人よりも優れていることがなく、何の特徴もない平凡な人間。
僕は、それでは社会的に死ぬと思い、勉強をするようになった。何故そんなに頭が良いのか聞かれたとしたら、それは単に社会での生き残り方を知ったのが他人よりも早かっただけだ、と答えるだろう。
でも、分からなくなった。僕がこんなにも勉強して上を目指す理由が。ただ有名大学の肩書が欲しいなんてつまらないだろう?
だって、この世界には渋谷颯斗のように勉強が全てではない人間でもこんなに毎日楽そうな生活を送っているじゃないか。大学を卒業した後だってきっと、何でも器用にこなしていくに違いない。
僕は? 一体僕は、何がしたくてこんなに勉強をしているんだ?
社会で生きていくとか、そういうこと以前にまず僕は何がしたいんだろう。
——何者に、なりたいんだろう。
クーラーの音だけが聞こえている中、目を閉じる。今まで考えてこなかったこの問い。僕は今、重要なことに向かい始めていた。そのきっかけが渋谷颯斗なんて、何だか妙な気分だった。
それからしばらくして、そっと目を開くと、窓の外には青い空が覗いていた。
*
僕は、大学生の姿で、大学の最寄り駅の3番ホームに立っている。イヤホンで何かの曲を聞く気分でもなかったため、蝉の声ばかりに耳を傾けていた。
あれから一週間が経った。僕はその間、自分の家に帰ろうと思えば帰ることができたが、帰らなかった。この顔で家に帰ったとしても、自分の両親に不審がられるだけだと思ったからだ。
それと、僕はここで僕なりに時間が欲しかったのだと思う。自分を見つめ直すというその時間が。
そしてようやく僕も僕の道を探すことに決めた。もう、高三なんて進路はばっちり決まってるはずなんだろうけど、僕は僕なりに考えてみようと思うんだ。
何か不思議な感覚がして、後ろを振り返った。斜め後方には、僕の姿をした渋谷颯斗が単語帳を広げている。
なんだ、勉強してたのか……。
金髪の恰好からは想像ができないな、と思って無意識のうちに頬が緩んだ。
『0番ホームに電車が参ります。黄色い線の内側で──』
アナウンスがこのホームに響く。彼と目が合う。渋谷さんは、僕に気がついて少し驚いた表情をしていた。そのとき、渋谷さんの後ろから白杖をついた男性が歩いて来ていることに気づく。入れ替わった原因が、この男性なのだと分かって何故か微笑んでしまった。
渋谷さんのはっとしているその顔が、面白かったのかもしれない。
盲目の男性が、一言残して自ら線路に落ちた。そして僕たちは駆け寄る。
僕は、故意に勢いよく渋谷さんに体当たりした。それはまるで電車のように。
恐らく、これで僕たちの入れ替わりには終止符が打たれるはずだから。
僕の予想通りだった。
僕が思うに、僕たち三人が同じ場所に集まることと、三人のうちの誰かが何らかの衝撃を受けることに意味がある。
そして、この0番ホーム。
先程までは3番ホームにいたはずだが、最初に入れ替わったときのアナウンスも0番ホームだった。ここは、虚無空間らしい。
この盲目の男性の正体は、よく分からないけど、きっと何かあるのだろうと思う。
渋谷さんに話しかけた自分に、驚いた。彼に対して何故か自然に笑みが零れてしまったことにも。
彼と、入れ替わったのは僕にとって正解でしかないだろうな、と思った。
夏が、僕を眺めている。
一週間ぶりに見る単語帳のアルファベットは、楽しそうに踊っていた。
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