来世への出発駅は0番ホーム

紫吹路莉

渋谷颯斗

 いつもの大学の最寄り駅のホームには、普段と変わらないように何人かの男子高校生が単語帳をめくっていたり、スマホをいじっていたりしている。仕事終わりのサラリーマンたちも、何も考えていなさそうな顔で、どこか遠くを見ていた。

 俺はというと、3番ホームで電車を待ちながらSNSで誰かさんたちの投稿を何も思うことなく眺めている。耳にはめたイヤホンからは、最近流行りのバンドの曲が聴こえてくるが、それに負けじと初夏の蝉がうるさく鳴いている。マジでうざいと思った。

 俺は五月で二十歳を迎えてから、よくお酒を飲むようになり、今では毎日どこかで酔って帰っている。最近ではたばこも吸い始めた。大学受験で失敗した俺は、とりあえず後期でギリギリ合格した大学に通ってるもんだから、夢も希望も社会への期待感もなく、かなり自暴自棄になりつつある。

 テキトーに画面に出てくる投稿に『いいね』を押していると、ふいに肘ら辺に何か当たった感覚がして、目を向ける。白い杖をついたおっさんが、ぶつかった振動でゆらゆらと揺れたかと思うと、ゆっくりと体勢を立て直し、向きを変えて前に進み出した。

 おっさんのその様子と、白い杖を見て俺は、自分が黄色の点字ブロックの上に立っていることにようやく気がついた。彼の行く手を塞いでいたのだ。

 声を掛けようか、と思ったときにはもう遅かった。視覚障害を持っているだろうそのおっさんは、線路のすぐそばまで行ってしまっていた。この駅にはホームドアが設置されていない。ということは、つまり。

「危ないっ」

 俺の声ではなかった。自分の身体は、先程から少しも変わっていない。後ろから声がしたと思って振り返ると、ひとりの男子高校生がすごい勢いで走ってくるのとすれ違った。そのとき丁度、肩がぶつかったドンッという感触で、自分が何をしなければならないのかに、ようやくたどり着く。どっと汗が噴き出した気がした。

 見ると、男子高校生の伸ばした手は空気をきり、おっさんの身体が傾いていく。自分も、近くまで小走りに進んでホームの下を覗き込んだ。かなり、深さがある。

「どうしよ……」

「誰か非常停止ボタンを押して下さい。あなたは駅員さんを呼んで来て下さい」

 パニック状態の俺とは反対に、冷静な声でそう指示する男子高校生。もう、手には単語帳を持っていない。だが、俺には駅員を呼ぶほど悠長にはしていられなかった。

「いや、まずはこのおっさんをっ引っ張り上げないとっ」

「視覚障害をお持ちの方ですし、この深さから引っ張り上げるのは難しいです。それならお声掛けして退避スペースへ案内するのが最善かと」

「いやでもっ。……あぁっクソっ。そんなん知らねぇよっ」

 早く助けないと。じゃないと、このおっさんが死んでしまう。

 頭が混乱している俺が、今できるのは力ずくで引っ張り上げることだけだった。

 俺は線路に落ちたおっさんに声を掛けて、手を伸ばすよう促す。が、そのとき寒気がした。

『0番ホームに電車が参ります。黄色い線の内側で——』

 間に合わない。どうしよ。早くしないと。

 俺の横では、男子高校生が血相を変えて何か叫んでいる。だけど俺はそれどころじゃなかった。何が何でも、このおっさんを。そう思ったとき、左側から嫌な光が見えた。非常停止ボタンを誰かが押したけど間に合わなかったのか、もしくは誰も押していないのかは、分からない。

 俺はこのおっさんだけ線路にいるのが嫌で思わず飛び込んだ。下から押し上げるしかないと思った。だって俺、バカだから。だって俺、頭悪いから。一体その他に何ができるって言うんだ。このときになって、やっと自分が他人よりも生きている価値がないということに気がついた。おっさんが死ぬなら、俺も一緒に死ぬ。思えば、俺は不誠実に日々生きていたっけな、最近。

 おっさんを下から押し上げるが、上手くいかない。男子高校生の切羽詰まった顔が見える。横から迫ってくる強い光に、俺はぎゅっと目を閉じた。でもまだ俺の腕の力は抜けない。最後の最後まで諦めない。だってまだ、この一瞬は生きてるんだ。俺は、他人よりも生きている価値なんてないかもしれない、でも。だけど……。

 お願いだから。お願い、だから。

「助けて」

 光に包まれて、何も見えなくなる。俺の意識は、そこで消えた。


 目を開けたとき、そこは天国なんじゃないかと思った。

 真っ白の天井。いつもなら硬い床で寝ているはずなのに、何故か俺はふわふわのベッドに横になっていた。

 身体を起こして周りを見渡すと、見慣れない部屋にいることに気がつく。とうとう死んだか、と思いながら部屋を歩き回ってみるが、妙に生きている感じがした。壁にかけられた飾り鏡を見て違和感を覚える。この顔、俺じゃない。けど、見覚えがある。

 顔をじっくりと眺めながら顔をさすってみたり、眉間にしわを寄せて見たりする。すっと真顔に戻ると、これはこれは見覚えがあり過ぎる顔だった。

「あの男子高校生っ」

 参考書が綺麗に並べられた机には、ボロボロの単語帳が置かれている。これは、この前も見た、あの男子高校生がいつも使っている愛読書っ。

 俺の、金色に染めた髪はもうどこにも見当たらず、真っ黒な髪と真っ黒な眼鏡をかけた顔が目の前にある。眼鏡は、かけたまま寝落ちしたのか、鼻には変な痕が残っていた。鏡越しに見たこの顔からして、俺はどうやらやっちまったらしい。

 あの男子高校生と、入れ替わってしまったのだと。じゃああいつは、どうなった? もし俺の身体が死んでいたら、あいつの中身は、死んじまったんだろうか?


 電波時計で日付を見ると、あの事故の次の日だった。ということはつまり、今日も平日だ。慣れない制服を着て、慣れないカバンを持って家を出た。勿論、慣れない単語帳も握り締めて。移動中にスマホで、昨日のことがニュースになっていないのか調べた。もしかしたら俺、死んでこいつの身体を乗っ取ってんのかもしんねーし。でも、いくら調べてみても、出てこなかった。これはいよいよ入れ替わりが現実味帯びてきたぞ。

 あのときの盲目のおっさんは、どうなってしまったんだろうか。男子高校生の身体に俺がいるということは、多分男子高校生は俺の身体にいるんじゃないだろうか。あ、やべぇ。今めちゃめちゃ部屋汚ねーぞ。絶対酒とたばこ臭いわぁ。

 制服から学校を調べて、検索機能で道案内をしてもらう。学校を調べると、かなり優秀な高校だった。俺の大学と近いのに、そんなことも知らなかった自分が恥ずかしくなる。

 生徒手帳を探して、学年と組を確認した。高校三年一組。名前は佐伯京さえききょうらしい。坊ちゃんっぽい。

 人を見た眼で判断するのはどうかと思うが、こいつは優等生で真面目で、頭がめちゃくちゃ良い奴なんじゃないだろうか。だって普段から単語帳だぜ? ……あ、こいつ受験生か。

「え? まずくね?」

 この声でそんな言葉使いをするんじゃない、と一瞬後に思う。あの駅で聞いた冷静な声が、そのまま出てくるから少し驚く。俺みたいなバカな人間は、喋り方がもうすでにバカなんだ。

「何か、受験生なのに申し訳ねーな」

 丁度今年、二〇二二年の四月で十八歳からが新成人となる。つまり十八歳から二十歳の奴ら全員、三学年丸ごと、成人を迎えるというわけだ。ということは、こいつももう今年で成人か……。その瞬間、思い付いた。

 もうこの身体でお酒飲んで、たばこ吸おうかな。お酒とたばこは二十歳からってったって、もう十八歳なんてそう変わんねぇじゃねぇか。成人も十八歳に引き下げるくらいなら、それらも許可しちまえば良いのに。身体が未発達って? 

 そんなに二年って、大切なもんなのか? やっぱバカだから分かんねーや。

 それにしてもまぁどうせこいつ、赤の他人だし。他人の身体を俺が知ったこっちゃない。どうせ俺の身体にいるこいつだって、酒飲むなりなんなりしてんだろ。人の身体気遣うほど、俺は親切じゃないんだよ。だってもう立派に、酒とたばこを手放せない身体になってしまったのだから。

 もうすべてのことに対してやる気が失せる。つまらない。人生って最悪だ。そう、思っている。

 教室に静かに入って、取りあえず自然な感じで教卓の方へ行き、ペタリと張られた座席表を見る。

 大体どこの高校もここに張ってあんだろ。席を確認して、いそいそと座る。何となく単語帳を広げてみるが、誰もこいつ……俺に話しかけてこない。

 確かに周りでは喋ったり笑ったりして、何気にざわざわしてんだけどな……。こいつ、友達いねぇのか。

 今頃どうしてんだろうなぁ、と思いながら窓の外を眺めた。俺の身体で、大学ライフエンジョイしてんのかなぁ。こいつのことだ、真面目に大学行ってガリガリ勉強でもしてんだろうな。何となくそんな感じがするだけだけど。俺と仲良くしてるあの二人に絡まれて困ってんだろうなぁ。想像すると、面白かった。


 今日一日過ごして、こいつは尋常じゃないほど勉強してるということが分かった。もう、俺にこいつの身体をどうこうする資格は皆無だとも思った。当然の話だった。

 先生には質問がないか聞かれたし、廊下に張られている定期考査の順位は一位だし、たまたま返ってきた模試は、全国でもトップレベルの順位だったし。

 え? もうこれ何で俺みたいな奴と入れ替わっちゃったの? だって俺アレよ? 大学も第一希望には届かなかったし、今の大学に入ってからも勉強という勉強してねぇし、口の悪さもご覧の通りだし、髪は金髪だし。極めつけに酒とたばこが生活に必須ですってか。

 本当に、自分が信じられないほど楽な生き方を選んできたんだな、と思う。

 こいつのノートはどれを見ても、綺麗な字でまとめられている。問題集だって、全部ボロボロだ。どんだけ努力してんだよってレベル。いや、それよりもはるかに高いところまで行っているかもしれない。

 俺は、情けない。物凄く、嫌な奴で、最低で、最悪の人間だった。

 こいつ……佐伯京の姿になって、変わりたいという思いがどこからかとめどなく溢れてくる。こいつの性格も詳しくはよく知らないし、俺は俺でしかないわけで、どうやってもこいつみたいにはなれないだろうけど、でも。

 俺は、自分に負けたくないんだ。

 そこから俺は、授業のノートだけでもと、できるだけ綺麗な字でまとめた。こいつの勉強が、遅れないように。後からこのノートを見て、勉強できるように。俺は、今の俺ができる精一杯のことをしたいと思うから。

 もし、また何かの拍子に元に戻れるなら、俺はもう一度自分を見つめようと思う。酒もほどほどにして、たばこもやめて。自暴自棄にならないように、勉強して。

 自分が自分であるためには、自分に負けちゃいけないだろ。それに気づかせてくれたあの出来事と佐伯京には、まぁぶっちゃけ、感謝しかないな。


 そうやって一週間が過ぎた。俺は、一週間前と同じ時刻に最寄り駅の3番ホームで単語帳を開いていた。もう点字ブロックの上には立っていない。

 すると何か、感じた。それは俺のような、彼のような。淡いその『感じ』が。

 太陽の光が眩しくて目を細めながら、他でもない俺……渋谷颯斗しぶやはやとの顔を見た。

『0番ホームに電車が参ります。黄色い線の内側で──』

 ホームに、アナウンスが流れる。すると彼は、笑っていた。まるで俺の考えてきたことを、すべて見透かしているかのような、優しい笑顔だった。

 白い杖をつきながら歩くおっさんが、俺の横を通り過ぎた。はっとして、佐伯の方を見る。彼は穏やかな微笑みをしたまま、その様子を眺めていた。

「自分という存在は、自分だけでは成り立たない。必ず誰かを必要としている」

 目を閉じたまま歩いていたおっさんが、ぼそりと呟いたと同時に、ホームに向かって自ら落ちていく。わけも分からないまま、慌てた俺はあのときと同じように駆け寄った。すると、佐伯も俺と同じようにして走ってきた。そのせいで、すごい音を立てて俺たちはぶつかった。

 いつの間にか閉じていた目を開けて、ゆらゆらと立ち上がって下を覗いてみる。

「え?」

 線路には、誰もいなかった。

「どうも初めまして。渋谷颯斗、さん」

 紛れもない佐伯京の顔が、そこにあった。さっきぶつかったとき、一瞬にして入れ替わっていたらしい。トリガーはあのおっさんだったのだろうか。それとも、電車や何かの衝撃が加わることだろうか。

 佐伯を、佐伯の顔で見るのは何だか、新鮮だった。まぁ、大分変な話だけど。

「よぉ。佐伯京クン」

「……僕たちは、あの男性に導かれたんですかね」

 思ったよりも白い歯を見せて笑った彼は、あの事故から今に至るまでの経緯をすべて知っているかのように思える。彼は、それくらいすぐに分かってしまうのだろうか。

「二年後、居酒屋にでも行きましょう。……その前に成人式で、また」

 そう言うと佐伯は、会釈をしてまたいつもの定位置へと歩いて行ってしまった。

 二年後、彼は二十歳になる。俺の酒好きなのが、バレたんだろうなと容易に想像できる。そう言えば、成人式も同じなのか、と改めて思い返した。

 俺も、いつものようにイヤホンを耳に突っ込んでいつもとは違う曲を流した。これからは、そう。俺も変わらなきゃいけないんだ。


 あの盲目のおっさんは、もしかしたら見失っていた自分の姿を導くために現れたのかもしれない。もしかしたら、彼をも導くためだったのかもしれない。

 夏が、俺に話しかけてくる。

 蝉が鳴くのが聴きたくて、俺はイヤホンを外した。

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