第13話 小説と日記、作文、台本との違い

小説を書く上で皆さん気をつけているとは思うのが『登場人物の描写をどんな表現にしようか』だと思う。そこで考えるのは地の文であれこれ容姿の説明やら感情や台詞を書くと思うのだが、そこで日記や作文、台本のようになってしまってはないだろうか。


 web小説を読んでいてこれまでに挙げた誤字脱字、人称などの違和感と同じくらい、日記や台本みたいに感じるものがある。

 読むとなんとも言えない味気ないというかリアル感とでもいうのだろうか。抑揚がないと感じるので感動しない事が多々ある。


 小説家とはまるで詩人のように表現している箇所がかなりある。ある意味そこがその作者の個性、感性である。読書家はそういったものを読んで発見したり、感動したりとするのも楽しみの一つでもある。


 そう言われると難しい表現や捻った表現で難しいと思うだろうが、語尾や少し技法を使ったり、会話文の前後の地の文を気をつけるだけで、かなり印象が変わる。

 その変え方は技法となるわけだがそれについては後で語るとして、どんなものが小説を書いているのに日記や台本などといった印象を与えてしまうのか。


 それが語尾と会話文につける地の文だ。


 どういった内容のものか。よくある婚約破棄物語に多いが異世界ファンタジーで良く使われる舞踏会での一幕。今から挙げる例文は実際にあった作品から参考例として抜粋し脚色したものです。(例文あげるの大変なので横着しました)。


・A男主人公 B女ヒロインでのある舞踏会でのシーン


 Aは目の前の料理を堪能していた。隣でその姿を見てBはクスクス笑ってた。踊っている人をソワソワしながらAを見ていた。Bはダンスに誘ってほしくて待っていのだった。Aは食べながら踊りを見ていた。

「B,あのさ」


 といった文章。これを見て皆さんはどう感じるだろうか。私は子供の頃夏休みに宿題で出された日記や読者感想文を思い出します。このように毎回語尾に『~た、だ』といった表現はとても拙く感じられてしまいます。

 これをなんの違和感もなく小説として書く。それをこれまた違和感なく読めて面白いと思う人は小説から離れたほうがいい。厳しい意見だがそれぐらい幼稚な文章と気づいて欲しい。もしあるなら一冊でもいい、古本屋でも図書館でもいいからラノベ以外のしっかりと書籍化された作家の作品を読んで欲しい。そしてそこからどんな文章を綴っているかを見て感じて欲しい。


 ある海外のベストセラー作家の言葉。「『~た』などの締め括りは使わないように書くのが小説家としての大成する要素」と言われています。言われるように「~した」「~だった」ばかりで締めくくりされる文章は拙く感じます。

 なぜ違和感なく書いてしまうかは、日記や感想文とは過去の出来事を書くのでどうしても過去完了の形になるので馴染み深いからだと思ってます。しかし小説とは今起こっている現状の物語として想像して読まれるので世界観を壊してしまうのですね。なので該当する人は考えましょう。私もこれを書く上でかなり気をつけて書いてます。


 なので出来るだけ能動的にそれぞれを繋げて書くようにしたり、技法をつかってみたりとちょっとした工夫が必要になります。これが日記や感想文とは思われにくい近道だと思われる……たぶん。


「言い切れないのかよ!」と思ったでしょう。


 それについては言い訳がありまして。使ったら悪いのかと言われたら言い切れない理由がどうしてもあります。それは白樺派で有名な、否、小説家で有名な、否、文豪として有名な……否! 私なんかが語るのも烏滸がましい人物。『小説の神様』や『近代小説の祖』とも言われている『志賀直哉』が『~た、だ』を使いまくっている作品があるんです。読んだ事がない人でも高校・大学と出てる方なら必ず授業やテスト・入試でその作品の一文が載った文章を目にしているはずです。なので厳密に言うなら使っても良いし悪いのかと言われたら全く悪くはない。


 ただやはり止めたほうが良いとは言い切れる。


 同じ時代に切磋琢磨した鴎外や太宰、与謝野ですら言われなかった『神様』と言われる人を超える、並び立つ自身と確信があるのならば別だが。もしかしたらいるかも知れないが、たぶんそんな人はラノベなんて書かない。

 多くの物書きが物語、文章に人生をかけても辿り着けない場所へ、文豪と呼ばれる人があんなに沢山いた中で、唯一神様と言われ、歴史・教科書に名を残した人物。そんな人が書くから作品にできる難しい表現と思って欲しい。


 次に台本と思うような文章ですが。会話分がとても多い作品がある。それだけだとなんら問題はない。

 が、その合間合間に地の文がないのがある。これもまた同じ海外の作家の言葉。「会話の前後は必ず一文でもいいから「~~」彼は話す。などを書く。と述べてました。

 台本というのは簡易な台詞だけが羅列されたもので、そこに脚本家なりが演じて欲しい表現や言い方・表情を付け加えて劇などを完成させるのですが、そこの部分が小説の地の文です。それが無く酷いものだと誰が話してるのかわからないようなものまである。そんな文章を私が台本みたいと思うような作品。


 どういった文章か。ある兄弟の朝の一幕。


「おはよう」

「「「おはよう」」」

「朝から元気ね」

「朝ごはんは?」

「いただきます」


 すいません。これまた面倒なのでもう簡単にかきました。これどっちがどっちなのか全くわからない上に仮に「」の前にAやらBやらあったら台本です。これについては語るほど掘る内容はないです。仮に推測しても「朝ごはんは?」なんてどちらが言っててもおかしく無いのでその後もっと続いてたとしたら恐らく私は読み飛ばすか、読むのを止めるかで例え内容が面白そう、面白いと思っていても諦めてるだろう。仮に読み続けていても惰性で読んでいるか、ここまで読んだから一区切りまではと読む熱量は醒めてしまっているはず。


 小説とは地の文があってなんぼです。ここの完成度が高いか低いかで受賞するか否か、ベストセラーになるか否か。が決まると言っても過言ではないと思う。

 地の文とは作者の表現できる部分なのに、それを放棄するのは書く気あるのかと疑われてしまう。書いてる本人はわかっているから省いてしまうのだろうが、読者には伝わらない。前後の文で理解できれば良いが、それが前後の話でわかるものなら、もうお手上げである。

 作者が思ってるほど読者には伝わらない、伝わってないと思ってたほうが良い。恋人に向けたメールやSNSで間違った意味で伝わり喧嘩した人とかいると思うが、それである。


 注意点としては拘りすぎて表現がまわりくどかったり堅かったり、説明しすぎたりするのも良くなかったりするので匙加減は大変ですが……。やはり私が面白いと思うものは地の文が凄い。違和感なく読めてしまう作品です。そんな文章を考えるのは大変だと片付けれないですが、自分自身で研鑽を積んで素晴らしい作品を読ませて下さい。

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