第9話 世界の終末と幸せの青い月
欲しがることは生きる事。
欲がないという事は、死んだも同然。
僕は、生きててはいけないのか。
欲しがるという事はそれに見合った対価を犠牲にするという事。
生きるという事は多かれ少なかれ誰かを殺すということ。
僕は、誰も殺したくなんて……。
あの夢を見始めたのは、生まれて初めて病室の天井を眺めた日から。
その日から僕は、味覚も嗅覚も聴覚も曖昧になった。
何を食べても何を聞いても新鮮味を感じられなくなって、次第に興味を亡くした。
ただ食欲に関しては、口に入れると嫌悪感が広がり、味のあるものはすべて吐き出さないと胃をひっくり返すほどの強い吐き気に襲われるようになってしまった。
瀬戸内さんを初めて見た時、その曖昧になった感覚が一気に研ぎ澄まされる感じがした。
心が、彼女を欲しがった。
どうして、こんなことに…………!!
どんなにベランダの壁を叩いても、冷たい人工物はむなしく音を鳴らすだけ。
欲しい、欲しい、欲しいんだよ。どうしても、僕には……。
欲しいのに、いない。欲しいのに、見れない。欲しいのに、寄り添う事すら……。
これは僕が、僕の祖先が起こした呪いだとでも言うのか。
今日もどこかで隕石が落ちて、今日もどこかで火事が起きる。救急車の音が、聞こえた気がする。
そのどれもが僕のせいか……。僕は、瀬戸内さんをあきらめないといけないのか……!!
振りかざした手から鉄の匂いがして、初めて血が出ていることを知る。もう、空腹なんて感じない。
痛みすら鈍感になっている。それも栄養が足りていないのか。赤い血が、申し訳程度の川を掌に作って流れて滴る。いくら握りこぶしを作っても、砂時計のように落ちていく。
僕の体を維持する赤い血液が体外に流れ出るのを改めてみると、膝から下の力が抜けてしまった。
人は、誰かが死んだときにでも腹が空く。
僕も漏れなくそんな非情な人間で、瀬戸内さんが消えてしまって二日立つのに僕は睡魔にベッドで飼われていた。
もう僕にはどうしようもないというあきらめからか、僕の体はベッドの中で朝日を浴びることなく小さく丸まっていた。
僕は知らなかった。満月というものは月に一度しか訪れない自然現象なのだと。
たとえなんの生まれ変わりだろうが、先祖が何したって僕はただの人間だから、どうしようもない。人間、自然には叶わないことは何年も前に起きた津波で見てきている。
考える。ということは、まだあきらめきれていない証拠なのに。現実を受け入れられない僕は、ただただ布団の中で空しく藻掻いては浪費した時間の分だけ訪れる空腹にさいなまれる。
時間は既に十時を回っていた。
階下で何か騒がしい音がして、その音は瞬く間に消えた。誰かが口論をしていたらしいけど、その勢いを殺したまま、渦中の一人が二階に上がってくる気配があった。
バタンと、冷静さを感じさせるドアの締まる音が逆に怒りの感情を表しているようで、僕はそのまま息を潜めた。
音は向かいの部屋から聞こえた。杏奈が何かで怒っているのは間違いない。
今日は学校は臨時休業のはずだ。例の隕石が学校の校庭に飛来して、今後の状況が収まるまで避難所に待機とのことだった。幸い、東家周辺の学区はいまだに隕石が一つも落ちていないからひとまずは安心だろうなんて空気が流れているから、僕たちは避難せずに過ごしていた。でも、実際あんなもの落ちて来ようものなら地下施設でもない限り、無事では済まないからどこに居てもおんなじだ。
バタンとまた音がして、杏奈らしい気配が階下へと消えていく。
また、誰かと口論しているらしい。具体的にどういう会話がなされているかは階下との境界を作る床に阻まれて聞くことはできなかった。ただ、
「ちょっ、杏奈!」
おばさんのその声と杏奈が玄関を出ていく物音だけがはっきりと聞こえた。
こんな状況でどこに行くつもりなのか、僕には全く見当もつかない。
ただ一つ言えることは、こんな状況でも行かなかなればいけないところが杏奈にはあるという事。
気になった。どこに行こうとしているのか。こんな状況で出かけたところでその先にいったい何があるのか。
ベッドを抜けて、窓際に立つ。そっとカーテンを開けると雲が低くどこまでも続いていて、少しだけ憂鬱になる。ちょうど玄関から飛び出した杏奈は、そのまま町の中心街へと走っていく。
杏奈は、化粧をしていた。きれいに見せるため、というよりは冗談でやっているのか顔が異様に白い気がする。その姿はどんどんちいさくなって、家の塀に隠れて消えてしまった。
同じく杏奈の動向を気にして外に出てきたおばさんと視線が合ってしまい、僕はちいさくおはようの意味を込めて会釈をしたうえで階下に降りることにした。起きていても寝ていても僕が欲しいものは既にこの世界にはいないのだから、どちらの選択も意味はない。
リビングではおじさんが外行の服装に着替えていた。僕を見るなり少しだけ険しい表情で挨拶をしてくれた。
「杏奈が急に白塗りの格好で外に出てしまったんだ……!……こんな大変な時に……心当たりはないかい? 杏奈は何も言わなかったけど、きっと何か事情があるに違いない。ちょっと探しに行ってくる。連君も何かわかったら連絡してほしい」
僕を見て、その次に視線をテレビに向けたおじさんは僕の横をすり抜けて玄関へと向かう。
杏奈が白塗りで出て行った……。
はっとした瞬間、背筋に冷たいものが一筋流れていく感覚があった。
ーーーーーーーーーー白雪姫症候群の患者は皆、肌が白い。
急いでスマホを取り出して検索する。が、あわてた拍子に床に派手に転げた。椅子の真下に移動したそれを拾おうとかがんだ時、お守りのように持ってきてしまった瀬戸内さんのスマホがタイミングよく光っているのが分かった。
誰かからの連絡……?いや、これは……。
本日、五月二十五日月曜日は見る人を幸せにするブルームーン。大切な誰かを誘って二度目の満月を眺めてみては?
ブルームーン……、二度目の満月……。
思わずその文面を読みながら小さくつぶやいてしまった。
最初その言葉の意味がよく呑み込めず、数舜の間をおいてようやく僕の脊髄が思い出したように僕の僕の体に命令を下しだした。
すぐさまスマホを拾い上げ、受話器のアイコンに軽く触れる。そこに現れる東杏奈にカーソルを合わせてもう一度受話器に触れる。
思えばスマホなんて名前で呼んでいたけど、電話なんだなとその瞬間気づく。今月、もう一度満月がある。もう一度、チャンスが訪れる。それ以外情報はないし、もしかしたらただの満月で、僕が期待するような出来事は起きないかもしれない。でも、これはチャンスなんだ!
淡い期待が希望に変わり、希望がそのうち願望に変わり、杏奈が電話に出るころには興奮に変わっていた。
「今どこ!?」
「……どこって、モール。……神隠しだかなんだか知らないけど、見つけたらぶっ殺してやる」
「記憶、戻ったの……?」
「そんなわけないでしょ。でも、あんた。私を頼ってくれた。こんだけ長い間幼馴染やってて初めて私を頼ってくれた。何やっても私にはなんの興味も示さないあんたが、私をようやく認めた。……信じてあげる。その代わりその犯人が見つかってことが解決したら、タピオカごちそうしてよね。全く、こんな田舎じゃまともなカフェもありゃしない」
協力はありがたい。……でも。
「いいから、そんな事より早く戻って! こんな状況だし、犯罪なんかも起こってもおかしくない!」
津波の時は、世紀末みたいな空気が漂っていて明日の生活の保障もわからないような生活をしていた。テレビでは報道されていない犯罪のようなものも耳にした。
でも、今は……。
雨が、降りそうだった。さっきまで薄い雲どこまでも空を覆っていたのが、今はそれがさらに厚みを増して灰色から黒に近いような雲が重たく漂ってる。今にも降るのではないかと、窓から様子をうかがう。
この世界から水を奪おうとしている。そう話していたのは瀬戸内さんのお父さんだ。
戻ってなんて頼んだとしても、杏奈はきっと戻らない。僕と違って昔から意志が強くて、決めたら必ずやる気るタイプの人間だから。だから面倒なクラス委員なんてものも、頼まれた部活の掛け持ちもできるやると決めたらどこまでも。
「今度は心配? あんた本当にどうしたの? 昔はもっと淡白で人間関係に興味なさそうだったのに」
僕が、人の心配……?
言葉にするには曖昧で、とっさに出た感情なのでその感情に何か名前を付けられることに何も発せなくなった。
「もしかして、私がわすれたって娘、あんたの彼女だったりして」
「馬鹿じゃないの?!」
「おやおや、ずいぶんあわてたご様子で。やっぱり図星かぁ。先越されたなぁ」
僕の心境を逆なでするような笑いを受話器越しでする杏奈に、僕は話す気分をなくしてしまう。
「通り魔かなんかでもさ、何かあったら近くの駐在所入るし大丈夫。それより、あんたその子見つけ出したらこんどはちゃんと紹介しなさい。なんなら禊のタピオカの時にでも」
緊張感のなさと受話器から洩れる周囲の音に気が抜けた瞬間だった。
ぶつり、と電話が切れた。なんの前触れもなく、あたかもその続きの会話でもあるかのような不自然な区切り。
何かが起こったことは分かった。冗談やジョークではない空気が受話器から伝わってくる。僕はどうしても通じることのない呼びかけをせずにはいられなかった。
「杏奈……?杏奈……?!」
何度も、何度も。繰り返すたびに繰り返される無音の返事は、僕の頭にある到底理解できないことへの確信へと変わっていく。
月人。そんな連中が実際いたとしたら、これはあいつらの仕業なのか?
肌が白いという理由だけで瀬戸内さんと一緒に、ここではないどこかへ連れ去り、完全なかぐや姫を蘇らせようとしている。
そんな妄想が、そんな空想が、そんな空論が色を帯びて熱を帯びて頭を埋め尽くす。
寒気がした。病気でもないのに……。
つながることないスマホをポケットにしまうと、僕はおじさんの後を追うように玄関から外へと走り出していた。
遠雷が聞こえている。まるでこれから先には近づくなと警告しているみたいな音だった。
千の月夜を超えて 改 明日葉叶 @o-cean
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