第8話 千年の呪いと祭壇と
僕は、遊園地からの帰り道、ある決心をしていた。
もう、自分に嘘をつかない。欲しいものは口にする。
それが人間として生きているということ。
そうなのであれば、僕は僕の犠牲になってしまった母さんの分まで人間として生きることが、親孝行につながるはずだ。
だから、言おう。
ちゃんと。
そう思っていた。
遊園地を出てから、僕らには何の予定もなかった。電話を切ってしまった以上、瀬戸内さんはしばらく病院にも顔は出しずらい。僕のほうも、こういう状況はあまり慣れていないので心臓の誇張は止まることを知らなかった。
「どこいこっか……?」
気分だけ先走ってしまっている僕が、どういうわけか行きつけの書店を目指して瀬戸内さんの手を引いている。でも、そんな僕の浅はかな内情なんて僕より人付き合いが上手な瀬戸内さんからすれば答えの知っているテストのようなもので、少し頭の情報を思い出すだけで想像なんてたやすい。
通り雨の夕暮れ。消えかかる虹を前に僕は口火を切った。
「このままだと君のお父さんに僕が何を言われるかわからない。だから、少しだけお茶でもしていかない?」
言いながら我ながらナイス言い訳だと思い、内心自分をほめていた。思い返せば、あの建物の二階は確かに喫茶店だ。
「珍しいことは続くものだねぇ。まぁ確かに、帰りずらいのもあるよね。でも、まさか電話を切ってくれるなんてね」
笑ってこそいるけれど、その言葉の意味を僕は悪いほうにとらえてしまったので何も言う事が出来ないままただ目的地を目指していた。そのうちに僕は、電話を切ってくれたなんて皮肉を言われたことをひどく後悔している自分に気が付いた。同時に、そこから先に進む力が失せて、歩を止めてしまった。
当然、そんな僕を瀬戸内さんは不思議に思うだろう。
ここが田舎で本当に良かった。ここがもし東京のような人口密度が飽和状態の場所ならば、歩道で急に止まってしまったら後方からついてくる人の列が詰まってしまい、迷惑をかける。そして、その人たち全員から不思議がられる。そんなところとは違い、ここは遊園地だって電車に揺れないとたどり着けない田舎だ。ぴたりと立ち止まっても、そこまでの注目は浴びない。
「……どうしたの?」
息をするような当然の言葉に僕は。
「僕は、もしかしたら君の生活基盤を壊したのかもしれない。もしかしたら、とんでもないことをしでかしたのかもしれない。もしそうだとして、君を不幸にしてしまったのなら、僕にできることがあれば」
なんでもしよう。そう、言おうと思った。
「……ありがと。そういうことであるなら、一つだけお願い。もっと欲しがって。今のこの時間と」
背中には、身に覚えのないぬくもりがあった。風に乗ってくるのは、身に覚えのある匂いなのに。
聞き覚えのあるその声の主は、僕の肩に両腕を回して、ぎゅっと力を込めた。
僕は、瀬戸内さんを初めて意識した時のことを思いだしていた。
世界が、息を潜めるような濃密な静けさを。血の濃度が一気に上がる感覚を。
言わなきゃ。本能的にそう思い、振り返ると、瀬戸内さんはまるで本当はそこに誰もいなかったみたいに消えていた。
呆然とする僕と誰も視線を合わせることはなかった。目の前で人が忽然と消えているのに、誰も僕に気づこうとはしない。
気の抜けた声が唇から洩れる。どうしようもなく阿保みたいな声。無意味な五十音。
彼女がここに立っていた現実的な証拠はその瞬間まで何一つとしてなかった。
ただ一つ、ひどくひび割れてしまった彼女の愛用のスマートフォンが水たまりの近くに落ちていて、それがまるで瀬戸内さんであるかのように、頭の追いついていない僕は大事に抱き上げた。
ーーーーーーーーーーー僕はまだ、瀬戸内さんに本心を打ち明けることはできていない。
瀬戸内さんを探さなくてはという考えが、瀬戸内さんを見つけなければとういう意識に変わり、気づけば病室
にいた。
小説や映画なんかでは、きっとこういうときはわき目も降らずにヒロインを探しに行くのが定番。ヒロインだなんて呼び方は抵抗はあるけれど、僕はそうしなかった。
東の家に戻り、夜が明けるのを待っていた。そうするしかほかなかった。
情報網は錯綜し、交通は麻痺。近くの発電所にまで隕石が落ちがという話も出回ったけどさすがにそれはデマだったらしく、一応電気はついた。
町は、津波にでもあったみたいに崩壊していた。
瀬戸内さんの父親の話が本当なら、わずかに街らしい建物を残したのも「いざというときはそこも壊せる力を持っている」という脅迫なんだろう。病院とケーブルテレビの基地局、ご丁寧に大手スーパーまで残してあった。
玄関を開けるなり、三人が急に居間から出てきて僕は質問攻めになることになる。
「今までどこにいたんだ?」とおじさんは少しだけ怒っているような表情で。
「どうして連絡の一つもよこせないの?」とおばさんは情報網が一時的に死んでいるのをわかっていない様子で。
「ケガはない?!」と心配する杏奈はその先に僕が予想していた言葉を話すことはなかった。
今一つ腑に落ちない不自然な会話。何か物足りない、終わり方。
「……瀬戸内さんの病院に行ってきた」
隠す必要もないので、そのまま息をするように話をした。もしかしたらぼくがそんなことをするなんておかしいかもしれないけど、興奮気味の心とは裏腹に体はひどく疲れていたのでできるだけ早く寝て明日に供えたい。見てきた街の惨状も、脳裏に焼き付いていたので今日はもう無理だろうと判断した。
帰ってきた反応は、その町の惨状に拍車をかけるような奇妙な回答だった。
「……瀬戸内? あんたの知り合いかなんか?」
あんな話を聞いたうえでも、心のどこかで疑っていた。僕の目の前から消えたといっても、それは何かの勘違いで実は僕の知らない自宅のほうにでも戻っているんじゃないかって頭のほうで勝手に都合のいいイメージを作り上げていた。だから余計に、杏奈のスマホのデータを見たい欲求に駆られた。
「ちょっ……あんた、なにすんの……?!」
ない、ないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないない。
……ない。
「あんた人のスマホ勝手に分捕っていったい何考えてるの?!」
杏奈のスマホには、今日撮ったはずの僕の写真がなかった。僕の記憶にはあの冷たくて甘いパフェが鮮明に残っているのに……。
何もかも嘘に思えて、もう何を見ればいいのかわからない。目の前の人たちでさえ、本当は別の何かで、もしかしたら僕には人に見えているけどもはや人としての形をしていない別の何かだっておかしくはない。
目の前の人たちだけじゃない。もしかしたら僕だって本当は別の何かなのかもしれない。
「とにかく、もう遅い。早いところ夕食をとって今日のところはもう寝よう。町のことは明日になれば明るみになる。今こうしてとやかく騒いだところでどうにもならん」
人の形をした三つの個体は井戸端会議を終了させた。
僕もまた、促されて家の中に入っていく。この家の中に本当に実在するものなんてない気がした。
夕食なんて喉を通るはずもない。そもそも例の写真もないのだから、僕が何かを食べているところなんてこの三人はしばらく見ていないはずだ。だから当然のことながら、僕は自室の机の引き出しに眠っているサプリメントを大量に飲み下す。
腹が空く感覚、のどが渇く感覚、この空気に違和感を覚える感覚は確かに感じているのに。
「ねぇ、本当に何も覚えていないの?」
「……お金なんて借りてないけど」
この会話は現実だというのか。
僕の自室には普段あまり使わないベランダがある。
星空を眺めるような趣味も、なにか植物を育てるような趣味も、町の風景をぼんやりと眺める習慣も、僕にはない。それらのことになんの意味も持てなかった。まして今日のような夜遅くに、ベランダに出るなんて考えたこともない。
ひんやりとした空気の中に、この町のどこかで起きている火の気配がした。
隕石が降ってきたなんて大げさな表現の現象が、この町に起きた。
幸い、そんなに大きなものでもないし、10分程度で収まった。まともに降ってきたら、きっとこの町なんて跡形もなく消えるだろう。なんならこの地球上に増えすぎた強欲の塊も。
人は、何かを欲する。生きるため、自分の生活を向上させるため。その行為は破壊を必ずもたらす。
僕が自らの食欲に負けて、母さんを殺したように。
瀬戸内さんのお父さんは言っていた。
葉月の者を監視する役目だと。
視界に広がる暗闇の空に、一筋の光が一瞬だけ斜線を描いて消えた。見える限りの地平線の向こうで小さな赤い光が灯る。そよ風が僕の短めの髪を揺らす。
僕が、僕の家系の人間がこの惨事を招いたのか……!
僕が生きることは許させないのか……!
どうしようもない吐き気に急に襲われた僕は、手すりにもたれるようにかがむしかなかった。
寒気と吐き気に震える僕の耳に、どこからともなく救急車のサイレンが聞こえた。
日が昇ると同時に、玄関から一人で出ていくつもりだった。冷静に考えて、行ったところで何も変わらないという事は十分承知の上で、それでも何かしないと気が狂いそうだった。
「一人でどこに行く気? お金もないくせに」
朝日をバックに、余所行きの格好をした杏奈が僕に凄む。小鳥さえ控えめに鳴いているっていうのに、どうしたらそんな溌溂とした声が出せるのか。
「散歩」
言いながら杏奈の脇を素通りする。
「……あんた、昨日から様子が変なのよ。私の顔をじろじろ見たりとか、変にこっちの気を勘ぐるような感じとか。どこに行くのか知らないけど、日ごろ部屋にこもりっきりのあんたじゃ迷子になるのがいいオチ」
気にせず歩を進めようと歩き出すと急に腕を掴まれた。
「何隠してるか知らないけど、あんたがそんなに興味を持つことなら私も行く。今度こそ、私があんたを守る」
痛む脇腹の古傷が何を言わんとしているのか分かった。
「父さんじゃあの時は無理だった。少しだけ力が足りなかった。でも、もう力で解決できる相手は少なくともいない。私にだってできることはある」
昔なら、その腕を振りほどくことはできたはずだ。でも、もう何日もサプリメントに頼り切った生活をしている僕に、そんな筋力はない。そして何より、
「そんな体で歩き回るとか、預かっている人間としておばさんに顔合わせができない」の言葉に、僕は怒っている母さんを想像してしまい、ここしばらくの自分の生活習慣と僕を心配してくれている杏奈に申し訳ない気持ちがでてしまい、腕を振りほどくことができなかった。
ーーーーーーーバスは予定通りにやってきた。
ついてきてくれてありがとう。そんな言葉は僕の口から出ることはなかった。今の僕の行動を杏奈に説明をしようにも、信じてくれるとは思えない。僕らはお互いに目を合わせることもなく、一番後部の席に並んで座った。
出かけるときは曇っていた空が徐々に晴れていき、雲の隙間から刺す陽光に少しだけため息が漏れた。右側に海が見える。その陽光は、海に向かって伸びていき、海面に突き刺さっている。
僕たちの住む町は、嘘みたいな出来事に苛まれているのに、すこし街を離れるとそんなことはまるで起きていないかのような牧歌的な空気にそまっている。
「っていうかさ、そのなんとかって神社にいったい何があるっていうの? あんたが何かに興味を示すのは珍しいことだし、これを機に変われるのであればそれは結構な進歩だとおもうけど」
水無月神社はすでに廃れていた。バスに乗る前に検索すると、数年前の津波にすべてを飲み込まれ、建物は海の藻屑と消えた。幸い宮司さん家族は無事で、再建に向けて動いているらしい。
その時ついでに検索したことに、疑念を抱いていた。
各国で肌の白い人たちだけがこの数日の間で次々と失踪していた。しかも、全員満月の夜に。
「信じてくれとは言わない。でも、いたんだ。僕と杏奈に大切な友達が」
僕が落とす視線の先のスマホには、件の失踪事件に関する続報が流れてきていた。
「……、役場にはちゃんと失踪した人の個人情報があるのに、失踪当日を境に関係者から忘れさられるみたいだ。個人差はあるらしいけど」
スマホを掲げて見せてあげる。腑に落ちない表情で画面を覗く杏奈。半信半疑だけど、一応文面は追ってくれているらしい。
瀬戸内雪菜。僕は心の中で彼女の名前を復唱してみる。
大丈夫。僕はまだ覚えている。そう確認するという事は、僕もいずれは忘れてしまうときが来るのかもしれない、そう考えるといたたまれない気持ちに肋骨のあたりから急に寒気が訪れた。
水無月神社。海辺にあるとは聞いていたけど、イメージとは真逆で人気のない山の上にその跡地はあるらしい。ところどころかけてしまった鳥居を前に、気の遠くなるほどの石段を眺め、呆然とする。石段はもちろんひび割れたところから草が生えていて、それでも原型をとどめてあることにすら感心する。
木ででできた立て札に神社についての説明がある。
「千年まえからある……の……?」
「ちゃんと今の形かどうかわ怪しいけど、基盤みたいなのはできてたんじゃない?」
「ていうか、呑気に立て札なんて読んでる場合じゃないでしょ。あんた、なんだか知らないけど付き添ってやってるんだからちゃっちゃと用事を済ます! この見返りはちゃんと果たしてもらうんだから」
本当にこんなところに何か手掛かりがあるのか、こんな草木しか生い茂っていない誰もいないような廃墟同然の建物に。考えが考えを呼んで、僕の足は杏奈にせかされるまでまるで脳からの信号を一切受け付けなくなったみたいにピクリともしなかった。
僕をあざ笑うみたいに能天気な小鳥の鳴き声が明後日の方から聞こえる。
鳥居をくぐればそこから先は神の領域。一切の殺生は禁ず。
その傍らにきれいな花が咲いていた。思わず触れる。
「あんたその花ホントに好きだよね」
「……昔母さんの実家で見たことがあって。この花を見ると春が来たんだなって思えるんだ」
冬も終わり春が来ようとしてる。この花の持つ意味を、瀬戸内さんは知らない。
「アスチルベ? だっけ?」
僕は何も言わずにその花を少しだけもらうことにする。自己満足かもしれない。けど、この花を僕は彼女にあげたい。本人は意味も分からず首をかしげるだろうけど、意気地のない僕にはそれが精一杯の冒険。
息を飲んで足を一歩踏み入れる。別段なにも変化はない、あるのは僕のそうした好奇心と畏怖の念に震える足。空からの日光を受けて濃い影を残す僕の輪郭。
最初の数段はどうといったはない。心拍数も上がるわけではないし、足だってまだまだ。
晴れているし日光だってさしている。でもここの雰囲気はそういった光の類をすべて吸収してしまうかのような禍々しいなにかを感じずにはいられない。だからだろう。杏奈が珍しく僕の後方からついてくる。
最初は少しだけ視線をあげるだけで、あぁ、もう少し登れば届く距離じゃないか。なんて高をくくっていた。
歩を進める度、けだるい足で石段を蹴る度、もう少しがいつの間にか少しだけまだかという苦悶に濁っていく。普段運動をしていない僕よりもなぜか杏奈のほうが歩みは遅く「ちょっと、どうしてそんなに早く登れるの!?」と僕でさえ知りたい質問をしてきた。
微かに冷たい空気を吸う度、肺が悲鳴をあげて痛む。これ以上動かないでくれ、少しでいいから休ませてくれ。そう言っているような身に染みる痛みが肺を犯していく。
ようやく最後の一段。これでようやく肺と体から矛盾する温度の条件を入れ替えることができる。はずだった。
ーーーーーーーーーーー僕はどこかで期待していた。
ーーーーーーーーーーーそこには誰かが住んでいて、その人にすこし尋ねることが出来れば答えはすぐにわかると。
ーーーーーーーーーーーだから、その光景に、僕は
呆然、その語源がどういうものかは知らない。けど、僕の心は阿保のように空になって、目の前の土地のように荒れた更地のように荒涼とした風が流れていく。
心臓が荒れる。暴れるようにはじけるように、体から突き抜けんとするその鼓動に血液が体を幾重にも円を描き、回る。そのたびに、熱を帯びる血管。そんな機械的な体は持っていないけど、僕が放つ熱を説明するにほかに言葉は見つからない。そんなことを考えているほど、僕のちんけな脳みそは高性能ではない。情報を処理すのに限界を迎えている。その判断を下すのでさえ、熱を上げる原因になりうる。
後ろのほうで杏奈が土を踏む音がして、自分がかろうじて息をしていることに気が付いた。
「……グーグルだと画像までは出ないわけだ。せっかくここまで登ってきたってのになんもないって……」
色褪せた鳥居と広がる草原。周囲には林が目立つ。
僕は神社に参拝をするような信心深い人間ではない。杏奈もそうだろう。仮に行ったとしても正月の初もうでに友達と行くくらいなものか。僕はそれすらいけないけど。
だから、イメージでしか想像をしていない神社に、僕は木造を想像していた。なにかしら、千年もの歴史を感じる痕跡なんかを。
そこから先、僕になんのプランもなかった。
「何ぼさっとしてんの? あんた、ここに何かあるっていってなかった? 探すんでしょ? なんだか知らないけど」
僕らのくるぶしくらいに生い茂る草を雑踏して、鳥居をくぐる杏奈。躊躇なく鳥居は無視する。
何かって、何にもないじゃないか……。
「ってか、あんたが言い出したことだからね。もう、いい加減しっかりしてよ」
手を引かれ、ようやく意識と体が一致する。探しに来たんじゃないか、ここにもしかしてこの状況でも何か、あるかもしれないじゃないか。
探そう。
振り払い、走り出す。
「ちょっ……。もう、さっきからなんなの!」
絶望に視界が曇ったせいで、周囲の状況はあまり頭に入っていなかった。僕は走り出すまで、友達に遊ぶ約束をすっぽかされたときみたいに、視界が狭まっていた。
潰された可能性にあわてていた心臓が、広がる可能性に興奮する。情報を拾おうと、目に、肌に、鼻に、耳に、血を送り燃焼させる。途中勢い余って、顔から地面に折れた。痛みより、恥じより、何より手掛かりを……。
立ち上がると、五月の風が林から吹き抜けてきた。僕の軽い髪をいたずらに浚う風は、林と僕との間に何もないことを、信じたくない現実を突き付けてくる。
なんだよ……何もなじゃないか。
期待させておいて、なんなんだよ。
あんなオカルトじみた話。信じるほうも、馬鹿だ。
瀬戸内さんはもう戻ることはない。そもそも、いたっていう証拠なんてどこにでもあるようなあの画面の割れたスマホくらいじゃないか。
いなかったのか、何かを欲する気持ちを誰かに認めてもらいたい自分と、自分を赦したい心が僕に見せた幻影。
膝から力が抜けて、その場に崩れた。
渡したかった。この花の持つもう一つの意味を。それがくしゃくしゃにちぎれようとも。
僕の本心を。
なのにどうして……!!
大切に守ろうとした僕の本心は今、両手のこぶしでしおれていた。
ーーーーーーーーーーー何やってんの
微かに笑う母さんの声が聞こえて、はっとする。祈りにも似た僕の両手の先に、草に埋もれた崩れた石造のようなものが朽ちていた。界隈の歴史的な暴動に巻き込まれて粉砕された残骸か、大きな自然災害で草に埋もれたのか、このまま朽ちるのをただ待つ人工物はもうほといてくれよと言っているかのようにやる気がない。
上半分、右から左下にかけてボロボロに切り取られている。ちょうどその真ん中あたり。ほかの箇所とは違い、黄色く色付けされている気がして両手をほどいて近づく。
その瞬間、何かを膝で踏んだらしく、声にならない悶絶の声を吐いて悶える。半分だけ体をのぞかせて地面に這いつくばっているので、はたから見たら草むらに隠れているようにしか見えていないはずなのに「遊んでないでちゃんと探しなよ。いい年こいてかくれんぼのつもり?」なんて冷めた声が後ろからした。
痛みをなんとか誤魔化して立ち上がり、いったい何を踏んだのかとあたりを探すとちょうど掌に納まるくらいの大きさの石を踏んでいたことに気づく。それも何かしらの染色を施されているらしく、今度は黒く湾曲した線が描かれたいた。
「……なんかそのギザギザさ」
その言葉を聞き終える前に試しにその石を朽ち果てた石像に乗せてみる。
でも、その欠片はその石像のかけらではないらしくその切り口がうまくかみ合うことはなかった。
「安直すぎるよ。僕がこの石像を壊した本人なら、壊したらその辺に放ってはおかないよ。どうせならバラバラにして……」
ーーーーーーーーーーバラバラに……?。
石造から僕に向かって長い影が伸びていた。もちろん欠けているので影の形は歪だ……でも、この感じどこかで……。
頭の中の記憶をたどっていく。仮に、この石像がほかの誰かに何かを伝えるためにここにあるとして、そしてそれはもしかしたらこの形を生かした状態でした伝えることができないとしたら……。
石を元の場所に戻す。と、その周囲は平らな岩盤でできていること気づく。
「ここは……もしかして」
「何? どうしたの?」
僕の想像が当たっていれば、いや、これはもうそうじゃないと納得がいかない。
石を影の先端に持ってくる。ちょうど太陽と崩れかけた石像と石が一直線になるように、星座の移り変わりでその土地に起こる自然災害を知るために建造されたピラミッドのように……。
「これって……」
「これがいつ頃作られたかは知らないけど、見るからにこの辺の人たちが最近作ったわけではないみたいだ」
太陽を直接見るわけにもいかないので、角度をつけて見てみる。黄色い着色が施された場所に、大洋がある。冷静になってよく見ると、そのすぐ下に人影のようなものが掘られている。余計な偏見があるのか、僕にはそれが誰かをさらう何かに見える。塗装は曖昧だけど、信じたくはないけど、その部分も黄色くなっている。
「この黄色いのってまさか太陽のこと言ってるってこと? なんかすごくない!? 私たちなんかの文明を解き明かしているような感じ!」
「……太陽じゃない。太陽なら赤で描くはずだ。国旗だってそうだろう?」
手に持った僕が踏みつけていた石を、影の延長線上に置いてみる。
想像してみる。一直線に並ぶ月と石像。そしてこの石はきっと……。
「祭壇、なんだと思う。ささげるための……」
お月見は、その年の豊穣を祝いつきに捧げる。それはもちろん取れた作物や、季節の野草なんかを。
「……ん? なんか裏に書いてある」
僕の目からは既にそれは石ではなく、何らかの形で歪になってしまった大きな台座に見えた。何かの拍子で形が崩れた台座ならば、そこに置くという言葉じゃない。はめるという言葉が相応しい。現に、多少なずれはあるけれど、大体の凹凸が地面の凹みに無理なくあってしまった。そんなことに少しだけ興奮していると、杏奈も別な何かを発見してしまったようだった。
「月……人……?」
反射的に僕もその文字を読みたくなり、立ち上がる。僕の動きが予想の外の行動だったようで、杏奈は少しだけ目を見開いてたじろいだ。
そして、僕は……いや。僕と杏奈は言葉をなくした。
丸い月らしきものの近くに、浮遊する2つの人影。それを見送るような形でもう一人。脇腹のあたりに傷がある人影。
僕はその瞬間、古傷が痛んだ気がして脇のほうをぎゅっと押さえつけた。
ーーーーーーーーーーこれはオカルトの話なんだ。僕とは一切関係のない話なんだ。
葉月御前。脇腹に傷のある人影の名前のようなものを、僕は認めたくなかった。
言い伝えによると、それは暦に訪れる満月の日に起きるらしい。
言い伝えによると、代々器となる人物が決まっているらしい。
言い伝えによると、二人は生まれ変わる呪いを受けたらしい。
言い伝えによると、器は人格を乗っ取られるらしい。
水無月神社は瀬戸内さんの母方の実家だった。
瀬戸内さんの母親は、満月の日に失踪したらしい。
老人施設に通う瀬戸内さんのおばあさんはそう同じことを繰り返していた。
「お前さえいなければ……」
おばあさんは恨めしそうに涙をためて、僕を指差した。
僕は、葉月御前の生まれ変わり……。
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