第7話 欲しい気持ちと千年の後悔

「見てみて! この写真、連君顔面蒼白になってるって」

 学校帰りでまさか遊園地に来ることになるとは思ってもみなかった。歩く度に彼女の鞄についたたくさんのキーホルダーがちゃらちゃら鳴る。

「さすがに今日あたりから何かまともに食事をとることにするよ。……おかゆとか」

「病人じゃないんだからさぁ……。あ、そうだ。今日はもうここで何か食べて行こうよ!」

 空腹かどうかはよくわからないほどに疲れているけど、さっき食べたパフェの水分が汗で流れるくらいには心拍数が上がっていた。入園するやいなや、バンジージャンプをするとか言い出した彼女の意見を何とか阻止するべくジェットコースターなら何とか乗れるだなんて口から出まかせをしてしまった。写真はその時水しぶきを上げるジェットコースターを捉えたものらしい。

「よくそんな食欲あるね……ホント、少し分けてもらいたいくらいだよ。どうしてあんな乗り物がこの世に存在するんだか……」

「生きた心地がするでしょ? 死ぬかもしれない体験すると」

「だから病院でもあんな真似したの?」

 メリーゴーランドには興味がないらしく、その前を何事も見ていないかのようにスルーする。

「だから、死ぬ練習。その瞬間が来ても怖くないように」

「その瞬間てどういう……」

 追いついてその先を聞こうとしたけれど、「あ、バンジーあるじゃん」と明後日のほうに歩き出したので、強引にゴーカートのほうに手を引いた。「あっ、」と小さく悲鳴めいた声が聞こえたので謝って立ち止まる。

「……なんか、珍しいね。こういうの」

「僕は死ぬ練習なんてお断りだから。当面死ぬつもりはないよ」



「いやー、車の免許を取る前に運転ができるなんてなかないよねぇ。私の中のやりたいことリストの項目が一つ減ったわ」いいながら瀬戸内さんは少し早めの夕飯を取る。もう少し野菜とかを取ったほうが健康的だし、何より女の子なんだからそういうのを気にしたほうがいいのではないか、なんて質問が頭をよぎったけれど、それは愚問だと瞬時に悟る。

 瀬戸内さんは、寝顔もかわいいけど、何かを食べるときの満面の笑みも良い。これまでかというほどに口角を上げた幸せそうな顔。僕はそれを見ながら色のついた飲み物を飲む。

「結局何も食べれないままなんだね」

「おなかは空いているんだけど、なんか匂い嗅ぐだけで吐き気がするんだ。でも、こうしていれば少なくとも果物は取れているだろう?」

 青い色の飲み物なんてそれこそ健康にあまりよくないイメージがあったけど、ここ最近まで一口も何も食べていない僕が考える事じゃない。今何かを食べろと言われても、僕の胃は今まで何も食べてこなかった分なまけ癖がついている。きっとさっきのパフェの養分をいまだにコツコツと昇華しているに違いない。急に働かせるとストライキを起こされかねないので、せめて水以外の何かで少しだけ胃をいじめることした。

 オレンジジュースとコーラとカルピスが目に入った。値段もほかの飲み物と比べたら安く設定されていたけど、できるだけ食べ物よりの飲み物を選択しようと思った。その結果、僕には不釣り合いなほど派手な見た目のトロピカルジュースになってしまった。

 対する瀬戸内さんは「この店で一番高いものを」と成功者みたいな口ぶりで店員に言いつける。まだ十代後半の僕たちが口にできる性質の言葉じゃない。店員さんだって、そりゃ一瞬だけ固まるよ。その様子を聞き取れなかったのかと勘違いをした瀬戸内さんは改めて「だから、この店で一番高いものをお願いします」と若干機嫌が悪そうに明瞭な口ぶりで話す。

 運ばれてきたものは大人向けのフルコース料理だった。

「悪くないわね」前菜が届くと挑戦的な発言。これがもっと大人ならば。それこそ東のおじさんみたいにもっと歳をとっていたなら、店員さんだって顔を曇らせて帰っていくことないのに。

「そんな高いもの頼んでも大丈夫なの? 僕、あんまり持ってないからね」

「大丈夫。うちの親、私になんでも買ってくれるからお金も結構もらってる」言いながらさっそくなれた手つきでフォークを扱い、運ばれてきたトマトの前菜を切り分けて口に運ぶ。トマトのヘタを切り落とし、中をくりぬいて食材を詰め込んだその料理はなんだかおもちゃみたいに見えた。

 柔らかい唇に溶けるように滑り込むトマト。

「うーん! おいしい!」いうと同時にスマホで写真を撮る。

「なんだ、この店食べログで星2つしかついてないのか。よし、私が星5個つけてあげよう」

「写真なんかどうするの? それを誰かに送っているの? 主治医とか」

 それまでおいしいと食べていたものに眉間に皺を寄せる。まずかったのか、僕を凝視する。

「違うよ。インスタ。知らないの? あ、そうだ」いいながら僕のその無駄に目立つ飲み物を横取りする形で1枚。

「ちょっと、いいから大人しく、こっちに……!」いいながら僕は瀬戸内さんのスマホの餌食にさらに1枚。

「どうしてこういう時は笑えないの? どうでもいいときは笑ってくれるのに」

「ごめん……あんまり写真慣れてなくて」なんていうけど、実際は強引に引き寄せられるなんて想像もしてなかったものだから、そしてあんまりにも近づきすぎたものだから。

 だから、その後の行動も予測はできていなかった。

「思い出にするんだ。たとえこの一瞬だとしても私は忘れない。焼き付けるんだ。そして、君の心にも私は生き続ける」

 あっけにとられながら、僕は瀬戸内さんの白い腕を見る事しかできなかった。

「案外おいしいね」

 ……飲み切ったのか!!

 いや、それ以前にそれは……!!その行為の名前は、

「関節キスだね」



 結論から言うと、今日はとても緊張した。食べなれないものを食べ、人間が生み出した理不尽な乗り物に何度も乗る羽目になった。おかげで終始手は汗で湿っていたし、帰り際に手をつなごうと提案されたときには心底自分の聴き手を恨んだ。

 でも、楽しかった。

 食べなれないものは、僕にその味と触感と冷たさを教えてくれた。

 死ぬかもしれない恐怖で絶叫するということは、誰かと瞬時に感情を共有できることを教えてくれた。

 夕焼けに滲む瀬戸内さんは何かを誤魔化すみたいにめちゃくちゃに叫んでいた。

 僕はこのまま感情を露に生きてゆくことが出来ればいいと思った。そうすれば……、嫌、少なくとも母さんならそうするだろうから。

 くやしいときは怒り、悲しいときは泣いて、うれしいときに笑う。そんな当たり前がこんなに幸せなことだったなんて。

「杏奈も来ればよかったのにー」

 ふくれっ面で綿あめを頬張る瀬戸内さん。

 もうすぐ閉園らしい。アナウンスがいびつな音響で喚く。僕はあまり人が集まるようなところは好きじゃない。でも、こうして人がまばらに歩く閉園間際の遊園地はノスタルジックな感じがあって嫌いになれなかった。

「まぁ、たまたま僕らを見かけたっていってたし、部活の後輩に大会でいい成績のこしたからごはんおごらなきゃいけないって言ってたし。仕方ないよ」

 いそいそとスマホを操作して、東家の二人に画像を送信していた杏奈を思い浮かべた。

 次のアトラクションに乗るにも時間がない。ただ、こうしてあえもなく歩くのにももうすぐ限界が訪れる。僕に限界が訪れるわけではない。

 僕と違って、瀬戸内さんには帰りを待っている家族がいる。

「……。今度はどこ行こうか」

 つないでいた右手を、瀬戸内さんはなんだかさっきより強く握っているみたいだった。それこそぎゅって音が聞こえそうなくらい、強い力で。

 次に乗るアトラクションなんてもうない。そういう時間はない。僕らは次を楽しむにはあまりに遅かった。来る時間も、来ようとした時間も。

「もう時間だよ。来る時間が遅かったんだ。次の休みにしようよ」

 今日はダメでも、次ならまだあるさ。だって僕らはまだ、


「次とかっ、そういう問題じゃないからっ」

 

 今度は僕の手が潰されるのではないかというほどの力で握られた。まるで得体のしれない未確認生物が瀬戸内さんに憑りついたのではないかというほどの力で。

「次とかっ、今日だめだから次とかっ、今日じゃなくてもいいとかっ、あり得ないから! 私たちに残されている時間は目に見えないだけで、明日なくなっちゃうことだってあるんだからっ」

 斜陽した太陽に、表情まではどうしても見ることはできなかったけど、これだけは言える。

 僕は、彼女が泣くことを初めて知った。いままでいくつかの表情を見てきたはずなのに、僕は笑う頻度の高い彼女はいつも笑っている泣くことのない楽観的な人物とばかり勘違いしていた。

「おちついて」なんてありていな言葉しか僕の頭の中には浮かばない。そればかりか、その言葉を言おうと口を「お」の形にとどめた瞬間タイミング悪く彼女のスマホが音を鳴らした。同時につないでいた手をするりと放される。

 泣いている彼女を嘲る夢の国のテーマは、むなしいほどに溌溂としていて、その曲を聞いても夢なんて荒唐無稽なものを実感させるほどの影響を僕に及ぼすことはなかった。

 ポケットからスマホを取り出した彼女は、液晶の表示を見るなり何事もなかったかのようにそのまま手を下げた。だらしなく垂れ下がる手には、淡く光る液晶画面が無機質に映っている。

 彼女は電話には出なかった。相手は誰かは知らないし、そもそも僕を置いていくつもりなのか、歩調を緩めることなく僕の半歩前を闊歩していく。

「出ないの? 鳴ってるよ?」急に泣き出してしまった瀬戸内さんにあっけを取られながらも、僕はどうにかその言葉を口にして、彼女の歩調を緩めようと試みるけど「うるさい」と蓋をされてしまった。

「誰かが君に用事があるから電話してるんだろ? ちゃんとでないと。もしかしたら家の誰かかもしれないんだからさ」

 うるさいという強い口調で罵られたので正直なところ彼女の背中すらまともに見ることができない。だから目が泳いでいた。なので、当然前なんか見てない。

 次の言葉を探すうちに危うく目の前の彼女の靴を踏んでしまうほど、瀬戸内さんに接近してしまっていた。思わず動揺の独り言が口から呻く。


「もうね、来年まで生きられないんだって」


 その声はとても落ち着いていて、雑踏の中でもよく聞き取れる声のはずなのに。


「……え?」


 靴を踏みそうになるほど近くにいたはずなのに、僕は思わず仰け反ってしまった。

 絵にかいたような間抜けな声で、漫画みたいに平面的な情けない顔で、僕は聞こえないふりをした。

 時間が止まったように感じていた。そして瀬戸内さんの口元が再び揺れるタイミングで再び時間が動き出す。

 見たくもない現実に引き戻されてしまう。


「もう、私の体に私の色がないの。全部真っ白になっちゃった。だから、もし、次に眠るときが来たら……」


 電話はとまらない。人混みの雑踏の中でも、その音は切り取られたように存在感を増して僕の耳に聞こえている。

 彼女は、そのまま竦んでしまった。

 もし次に彼女に眠気が訪れて、そのまま闇に意識を飲み込まれたなら、

 もしこのまま、何もせずにいつものように傍観したままで、事の成り行きに任せたなら、

 僕の彼女の間には、僕たちをなんら繋がりのない個人として認識し始めた来場客が、我先にゲートから出ようと縫うように闊歩しだしていた。

 もしこのまま、雑踏に奔流されたら、

 このことをずっと悔いながら生きて行くことになる。あの日、母さんからおにぎりを奪ったときのように……!

 仮にこんな僕でも誰かのそばに寄り添うことで、人の役に立てたとして、

「ちょっとすいません」

 小声に出すと、すぐ目の前を歩く中年のおばさんがぎょっとした視線で僕を見た。

 もし仮に、僕が寄り添うことで瀬戸内さんに何かあげることができるとして、

 一歩踏み出すと、中年女性に手を引かれた小さな男の子までもが僕を驚いたように見上げた。

 2歩、3歩と進むにつれて奔流が狭まり、僕と瀬戸内さんの距離も縮まる。その間、彼女はうずくまったまま立ち上がろうとしなかったけれど、覚悟を決めた僕にはそんなもの関係なかった。

 隣まで行きついて、しゃがむ。濡れたアスファルトにスマホがささやかに自己主張していた。画面には「お父さん」とある。

「……僕には父さんなんて呼べる人間はいないからわからないけど、泣くほど嫌な気持ちならわかるから」震えるスマホを拾い上げて、電話を切る。

 視線を上げた彼女は、意外そうな表情で口を半開きにして僕を見ている。

「嫌なら出なくてもいいんじゃない? 正直あんまりスマホに慣れてなくて……余計なことだったら謝るよ」

 余計なことをしたなと少しだけ後悔している僕がいた。間違いなくトラブルになると、ほんの数日前の僕なら完全にやらないことだ。多少の犠牲を払おうとも、僕は目の前の彼女から涙を奪い去りたかった。

「あ、……ありがと」

 だから、この言葉を聞いた瞬間、僕は次の言葉が出るまでに手間取った。

 うれしいのが半分、照れくさいのが半分。この言葉では言い表せない感情が胸の奥で燻ぶり、その熱で体中が火照っているかのようなくすぐったい感じ。

 立ち上がる瀬戸内さんは、僕の行動によほど驚いたのか、上気した表情で数センチ上の僕の目を見つめる。

 どういう表情でいったい何を伝えればいいのか、僕の頭は完全にフリーズしてしまった。

 何とか会話を始めようと口元を緩めた瞬間、周囲の観客から歓声が起きた。

 何事かと人々が指をさして騒ぎたてる上空を仰ぎ見る。

「流れ星……」

 つぶやく瀬戸内さんにも見えているのだろう。群青に染まる空にいくつもの流星が斜線を描いていく様が。


ーーーーーーーーーくそっ

 午後からバカ娘に連絡が取れない。

 症状が悪化していること、もうこれ以上入院しても意味はないこと、もって数か月の命だということ。現実を突きつけた娘の顔は見れたものではなかった。何かに突然切り付けられたような驚きと絶望の顔。

 数時間前まで娘が横になっていたベッドは奇麗に整理されていた。

ーーーーーーーーーったく、話は最後まで聞けと毎日言ってるだろうが

 病室から外を眺めても、群青に染まる街並みが見えるだけで、娘の姿はどこにもない。吸っていたマイルド7を携帯灰皿に押し付ける。数か月前から健康のためにと控えていたたばこを吸う羽目になるとは思うもよらなかった。

 今までサンプルとして採取していた血液で試作段階ではあるが薬が完成しつつある。その薬さえ完成すれば症状は幾分か和らぐはずだと伝えようとした矢先、一瞬の隙をついて娘は俺の前から姿を消した。

 しかも過剰な睡眠を抑制する常備薬を忘れいていったようだ。……あるいは自棄になってわざと忘れたのか……。

 それにしてもーーーーーーーーーーーー

 ポケットから新たにたばこを取り出して火をつけようとしたところ、俺が知りうる中でこの病院で一番やる気のない看護師が「瀬戸内先生、ここは禁煙ですよぉ?」と背後から急に話しかけてきた。

「まったく。医者の不養生って言葉知らないんですかぁ?」

「別に構わんさ。人間の体には適度なストレスが必要だからな」

 構わず火をつけ、目の前に広がる忌々しい光景に煙を吐く。

 他人からすればただの流れ星に過ぎないだろう。が、俺からすればーーーーーー

 捨てた故郷に対する哀愁か、などとそうぞうするだけでも笑えてくる。窓に映る自分の虚像が口角を上げているのが垣間見えて、自ら起こしてしまった興奮に冷や水をかけて表情を殺す。

「もしかして、また見てたんですかぁ? 例の写真」

「……下らん」

「でも、もう結構な流れ星が降ってますよ? これってもしかして先生が言ってた予兆ってやつじゃないんですかぁ?」

「あぁ、そうだな」

 現に目の前には今も片手で数えるほどの流星が夜空を切り裂いて、同時にその予兆とやらを馬鹿らしいと片付けたがっている俺の右脳も裏切っていく。

「かぐや姫伝承でしたっけ? 先生のご実家で語り継がれていたっていうのは」

「あぁ、そんな話もあったな」

 まったく、この看護婦は俺の感情を逆なですることにはよほどの才がある。間延びした口調、勤務時間ギリギリに訪れるやる気のなさ。そして何より、俺の中身でも見透かしているかのような勘の鋭さ。

「あながち当たってるんじゃないんですか? その伝承。ほら、ネットニュースにもなってますよ?」

 気に障る奴の面は見ないことにしている。俺の背後にあるバカ娘の使っていたベッドにはいつの間にか癇に障る看護師が腰かけて、自分のスマホを俺に差し向けているようだった。

「知っている。もうじき臨時ニュースか何かで本格的に騒ぎになるだろう」

 俺はオカルトには興味がない。実証のないことには対処が利かない、目には見えないものに現実味がない。そんなものは金にはならない。だから、俺が実家の神社を継がなくてもいいことになったのは正直喜んでいた。

 その時もそうだった。呪いでも何でもいい。俺は燃える我が家を見て狂喜した。

「でも、やっぱり呪いだたりして。人類に対する宇宙人の報復ってやつ」

「知らんな。もういいから業務に戻れ。あんまり私に絡みつくようなら減給するように上に掛け合ってもいいんだぞ」

 俺の実家は、原因不明の出火で燃えた。

 閃光で目の前の光景が夜の蒼から昼の白へ色を変える。同時に気づく、もしやしゅっかの原因はこれではなかったか、と。

「って、何しれっと外眺めてるんですかっ。今の、隕石じゃないですかぁ!?」

「……あぁ、そうだな」軽く部屋が揺れたが、問題ない。

 俺が眺めていたのは、天災に燃える街路樹ではない。その先に広がる街の火災でもない。

 この状況下で一人病院に駆け込んでくる男の姿だ。目の前に隕石が落ちてきたのがよほど驚いたのか、腕で視界を遮ろうとするものの、その足はまっすぐこちらに向かっている。

 煙草を深く吐く。

ーーーーーーーーーー全く……。

 娘の話には聞いていた。もしかしたらこれは運命なのかもしれないとほざいていたが、こんな災害時にわざわざ病院に来るような頭のおかしいやつはそれこそ呪いでどうにかなっているのかもしれない。

「忙しくなるぞ、さっさと仕事に戻るんだ」

「とかって先生はどうなんですかぁ? 待ってるんですかぁ? 彼」

 その言葉に半ば呆れていた俺は、何も返すことはなかった。目の前に広がるのは審判の日とでも言いたいのか? その原因を解決するは娘をそそのかしたガキとでも言いたいのか? 目の前で広がっているのただの実証のないオカルトにすぎない。

 ドアが開く音がした。同時にガキの息が切れる音。

 誰が来たというのはもはや説明もいらないほどの出来たタイミングだ。

「あ、あの……」

「面会時間ならとっくに終わっている。今から忙しくなるからとっとと帰れ」

「先生、ちょっと言い過ぎですってぇ」

 だからと言って今から始まるであろう仕事の山をこいつがどうこうできるわけがないだろう。だったら事実を素直に話してお帰り願うべきじゃないのか。俺には今から搬送されてくる患者の対応が待っている。

ーーーーーーーーー新薬も開発せにゃならんのに、くそっ

 踵を返した俺は、ガキが握る見覚えのなるものにはらわたが煮えた。このくそ忙しいときにこいつは問題を抱えてきやがった。なんでも買ってやると誓った娘が欲しがった最新型のスマートフォン。本体だけでもいいだろうと提案したのが却下を食らい、わざわざ専用にケースまで買ったものだ。画面が割れているのは、今こいつが握っているからではないだろう。だが、

「そいつをどこで手に入れた!?」

 壁掛けの時計が外れて落ちて割れた。それよりも大きい声で喚くあの看護婦。この騒ぎを聞きつけて、ほかの看護婦やら医師やらがわらわらと集めってくるのではないかと内心焦ったが、そんなこともなかった。まぁ、おおよそ街中で起きた災害の患者がそろそろやってくるころだろうし、そちらの対応に追われているのだろう。

 壁にたたきつけるように押さえつけてやったガキは、恐怖のためか俺を見ることはない。そう思うのが普通の論理だろう、だが、奴は

「突然、瀬戸内さんが消えて、それで、……それで」

 言葉こそ震えはあったが、何がそんなに楽しいのか狐の面でもかぶっているかのようなふざけた笑みをたたえていた。

「先生ぇ。ここは病院ですよぉ」また間延びした声で言われてイラつくが、まっとうな理由だったので話してやる。建前でしかない。本当は、ガキの言う言葉に愕然として体に力が入らなくなったというのが一番近い事実。

 つくづく、馬鹿馬鹿しい。

 ボスっと尻をバカ娘のベッドに下す。ガキのいう話が本当なら、娘はもう戻っては来ない。俺の研究も無駄に終わる。

 廊下ではバタバタと動き回る人の影が感じ取れる。けたたましい喧騒で指示を出す医師とそれに応じて走り去るキャスター。こちらもそろそろ現実を受け入れないといけないのか。娘がこの世界から消えた現実を、今この瞬間で俺の中で消化しきって、仕事に取り掛かれと、そう言いたいのか。

 そんなの、できるわけがない。あのバカ娘は、あいつと俺の娘だぞ。

「何か知りませんか? ……確かにこの病室にいた子なんです。笑ってないで教えてください!」

 娘がこの世界から消えてしまった事実を認めないということは、要するに俺が嫌っているオカルトじゃなないか。人はいずれ死ぬのだから。でもそれを認めるわけにはいかないなどという心が俺にもあったらしい。ガキに指摘されるまで、自分の表情の場違いさに気づくのがだいぶ遅れた。

「君、彼と俺にコーヒーを入れてくれないか?」

「こんな非常事態に何呑気な事言ってるんですかぁ」

「こういう時こそ冷静になる必要がある。今はまだ情報が錯綜していて、全体像をつかむまでこっちもパニック状態のはずだ。コーヒーでも飲んだらちゃんと仕事に戻ってやるさ」

 タイタニック号の沈没の時も、乗客が冷静になれるように音楽隊が終始美しい音色を奏でていたらしい。などと悠長なことはこの際引っ込めといてやる。

 いくら疲れがたまっているとはいえ、そんな雑談をしているような場合ではない。

「早く」の意味を顎をしゃくることで示す。彼女の目には俺がよほどの奇人に映ったらしい。訝しむように眉間に皺を寄せたものの、きちんと病室から抜け出して、給湯室のある方向へこそこそ動き出した。

「さて、君はこの町の惨状をどう思う?」

「それは僕の返答には」などと戯言に付き合うつもりはない。

「単刀直入にいう。今この町は絶滅の危機にある。それも事態は非常にひっ迫している。今月……あと10日か、そのうちにケリをつけないと間違いなく。だ。君は私を気が狂った医者だと思うか?」

 あと三日。そんな口からでたらめを行ったところで、事態は変わらない。満月は既に終わっている。この状況に、冷静になろうとすればするほど、憤怒の念が胸を焦がす。

 大きく息を吸い、目の前で困惑するガキを見る。俺の視線が怖いのか、この状況を理解しがたいのか、唇を震わせるだけで何も発しようとはしない。当然だ。こんなオカルトみたいな状況、理解しろということこそ無理がある。

「それと瀬戸内さんはどういう……」

「消えたんだろう? さしずめ水たまりかどこかを歩いているときにでも」

 ガキが口を開いた驚きと、それに順応していいる俺に対する驚きと。

 食い入るような視線。前のめりに聞く姿勢。決して話そうとしない娘のスマホ。こいつがどういう心境でここまでやってきたのか、そんなことまで俺は知らん。だが……。

「これから話すできごと。それを信じるか信じないかはお前の勝手だ」

 俺は、信じない。決して。

 話の内容を少しでも腹に残しておくと、それが詰まってすべてを吐き出すことができない気がした。だから、できるだけ深く、ゆっくり深呼吸をしてすべてを吐き出す。

「今から千年以上前、ある男が月人に惚れた。月人はこの地に永住するつもりはなかった。が、男の存在が足かせとなり、月に還る日数を大幅に超えてしまった。怒りに震える月の住人は何度も男に月人の返還を求めてそのたびに交渉した。まぁ、交渉なんてそんな牧歌的なもんじゃない」

 その千年前の出来事は、今と違って医療も発達はしていない。赤く光る窓の外を、ちらと見やる。

「男が惚れた月人はその地の民にとってとても重要な人物だった。それこそ千年以上たった今でもこうして熱烈に返還をもとめてるってほどにな……。男は、ある条件提示させられた。その条件さえ飲めば、晴れて月人と暮らせる。しかし、男は条件を飲まなかった。いや……条件も飲まなかった」

 救急車が何台かこちらに向かっているのか、職業柄あまり聞きたくない耳障りな音が遠くから近づいてくる。

 話はそろそろ区切りをつけて、こちらも臨戦状態にしておく必要がある。幸か不幸かこちらの話になんの疑問も持たない程度の知能しか持たない間の前のガキは、俺の服装からして俺の立場が分かったらしく、そのうえでこんなオカルト話をするこの病院の医者を少し訝しんでいるようだ。眉間にわずかに皺はよるものの、だまって話を聞いている。

「……どうして?」

 わずかに唇が震えるように見えた気がしたが、別にその質問に答えてやるつもりで言うわけじゃない。

「水だ。この世界にあふれている水を要求してきた。この世界を焼き払い、すべてを蒸発させるつもりだった。お前は大切な人間をそばに置く代わりに、この世界の人間を一人残らず殺す決断が下せるか?」

 タイミングを計ったように画面に亀裂が走った娘のスマホが淡い光を放つ。

「……見て見ろ」

 白衣のポケットに忍ばせておいた俺のスマホも、申し訳程度の光を放って小さく自己主張していた。

ーーーーーーーーーーーー世界各国で森林火災相次ぐ

 臨時のネットニュースが流れてきていた。俺の説明よりもそっちのほうが身に入りやすい。

「探しているんだ。月の因子で満たされた次期神楽耶姫を。嫌がる姫を月人は強引に連れ去る瞬間、姫は光の粒になり消えた。らしい。」

 粒になっても男のそばにいたかった。これだけ聞けば聞こえはいい。

「……もしかして、それが」

 どうやらガキはろくに未だに飯も食っていないらしい。空気が口から洩れて声は小さく、頼りない。全力で走ってきたのも加味しても、立っているのがやっとってところか。

「本来ならば白雪姫症候群は肌の一部分が白濁する程度の外見が損なわれる。古来の言い伝えではその後神隠しにあうとされる。……うちのバカ娘は、発症から今日までの間白濁が止まることはなかった。選ばれたんだ次期神楽耶姫に……。ここから先は何も知らないお前には立ち入れない話だ。うちに帰って晩飯でも食って寝るんだな、葉月連」

ーーーーーーーーこいつら一族がすべての元凶、神楽耶姫を殺し、疫病を地球上に振りまいた。

「名前……どうして……?」

 なんだ、こいつ。そんなことまで知らないのか。東も、もっと情報を与えてやるべきだろうが。

「錯乱してたからな、お前は母親を手にかけたあとにどういうめぐりあわせか俺の病院にやってきた。俺は瀬戸内孝則。お前が必死に探し回っている瀬戸内雪菜の父だ。そして俺の家系はだいだいお前ら葉月の一族を監視する役目を担っている。初めましてと言いたいところだが、生憎そんな悠長な時間はない。単刀直入に言う。娘はあきらめろ。伝承が本当なら娘さえ手渡せば世界の崩壊だけは免れる」

 話は済んだ。コーヒーが届かないのは、きっと誰かにつかまってそのまま現場に連れていかれからだろう。となれば、俺も悠長に夢想している場合ではない。代々受け継がれてきたくだらない妄想もこれでしまいだ。白雪姫症候群の研究もこれで意味をなさないことが、わかった。これまでの苦労も、もう少しで完成するワクチンさえも意味はない。

 娘は、戻ることはない。


 だから、諦めろっていうのかよ……!


 ひらがなで脳内に入ってくる言葉を、俺は知らない。

 今まで怯えと驚きの表情しか出さないガキが、俺に対して啖呵を切っている。

「父親なんだろう! それで納得できるのかよ! 父親っていうのは、どこでもそんな勝手なものかよ!」

 俺は最初、娘のスマホを持ってきた子のガキをぶっ飛ばしてやろうと心の隅で思っていた。それを止めたのは俺が着ているこの潔白な白衣だ。これを着れなくなれば、娘を本当の意味で守ってやれない。そう考えると、一気にその気は失せた。が、俺は気づくとガキに胸倉をつかまれて、ベッドに押し倒されていた。

「なんか知っているんだろう?! 千年前の出来事なんて俺は知らない。でも、千年前の出来事と同じになるとは限らない。そうだろう! 人間な、明日の天気だってわかんねぇんだぞ」

ーーーーーーーーーー明日の天気もわからない、か

 ノックもコーヒーもなしに、あの看護婦が戻ってきてほぼ罵声のような仕事の要請をしてきた。

 取ってつけたような典型的な内容だったので、反射的に行動で来た。今は、このガキに構っている場合ではない。が、明日の天気は晴れるのかもしれない。

「私が知っていることはさっきのが全部だ。だが、もし仮にほかに何か情報があるとすれば水無月神社だろう」

 ガキをはねのけ、ドアを開ける。何度も往復する医師と看護師が慌ただしく作業に追われていた。

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