第6話パフェと箍と盗撮と

 人は咽喉が渇けば水を飲む。

 腹が減ればものを食べる。

 眠くなったら寝て、笑いたいときに笑う。

 とても人間らしい行動。その当たり前の行動が僕には難しい。

 対照的な人間をここ最近見つけてから、僕はそのことについて何度も悔やんだ。どうしてこの人はそこまで自分に素直にできるのだろうか。今にも死ぬかもしれない病を抱えておきながら。本当ならもっと健康に気を使って生きるべきではないのか。

 そう考えれば考えるほど、なぜ僕にはそんな生き方ができないのか。という葛藤も生まれていた。彼女とは対照的に、僕にはそんな死に至る病を抱えたという事実はない。

「誘っていて一言も話さないのはなんで?」

 どうしてこういう事態に陥っているのか、僕にもわからない。

 目の前の瀬戸内さんは心底不思議に思っていることだろう。何せ、急に放課後喫茶店に誘われたかと思えば、三十分近く何も話すことなく見つめていられているのだから。

 瀬戸内さんが飲んでいたアイスティーの氷が軽快な音を鳴らして、その液体の中に消えていった。

「しかも、私はちゃんとこうして連君とお茶をしようと頼んでいるのに、どうしてまた水だけで済まそうとしているの?」

 言われて視線を落とす。30分も放置された冷水さえたっぷりと汗をかいて、もう何時間待たせる気なんだと僕を責めている気がした。

 僕は、結局何をしたくて瀬戸内さんを呼んだのか。責められても仕方がない目的のないただの暇つぶし。僕は、いったい何のために、

「はぁっ……。もいい。帰る」

 溜息をつかれても当然だ。今、こうしている間にもなんの目的もない無駄な時間が流れているのだから。鞄をもって外に出て行こうとする瀬戸内さんに、僕は待ってほしいと口を割ることもできない。

 何か言わないとと思えば思うほど、僕の頭の中に何もないことが浮き彫りになって余計に体が硬直する。

 言わなきゃ、知りたいって、もっと、君を。

 オーダー表をもって歩き出した瀬戸内さんにばれないように小さくつぶやく。

「僕も、欲しがっていいんだ」

 その言葉に勢いをと鼓動を乗せる。あとは野となれ山となれ。

「イチゴパフェ一つ」

 通り過ぎようとしたウェイトレスに僕の中で一番通る声で明瞭に伝えることができた。

 そのおかげで会計を済ませようとしていた瀬戸内さんが不思議そうな、でも興味がある時の大きな瞳でこっちを見ていた。


「一応確認なんだけどさ、本当に食べる気?」

 その確認は聞くんじゃない。とはいいつつも、恐る恐る首を縦に振る。

 頼んでしまったし、時間を使わせてしまっているし、何よりここしばらく食べ物らしいものを食べていないこの体に少しでも栄養を送るという行為を少しでも慣らしていかないと、母さんの命と等価であるかどうかの検証の前に僕の命が尽きてしまう。

 今日この瞬間、僕の体はそれこそアナフィラキシーショックを起こして死んでしまうかもしれない。今までサプリメントしか口にしていない体からすれば、目の前のとても甘い罪の味がするこの物体は、異物でしかない。僕ら地球人からすれば、これは間違いなく宇宙人なんだ。


 でも、その宇宙人だっても地球人じゃないってだけで、地球人だって宇宙人なんだぞ?

 

 頭をよぎるその言葉が、僕の中の防衛線を決壊させた。


 目をつぶっていたけど、味はわかる。

 舌から口全体にいきわたるのは、甘さよりも先に程よい冷気。

 そして、圧倒的な甘酸っぱさが波状になって舌から脳天へと突き抜ける。

 同時に、冷たいものを食べると急激に頭が痛くなるという例の現象も。

「大丈夫? お店の人やっぱりやっぱり呼ぼうか?」

 僕の中では、これらの現象が一気に起きたような錯覚さえ覚えていた。あまりに情報量が多すぎて、頭の整理がつかない。幼少期に初めて見たショートケーキの食べ方をまねたというのに、まだ先端のイチゴが待ち構えているというのに。

 手が震えていた。汗がふきでているのを隠せない。冷たいものを食べているはずなのに。

 でも、

「すいませーん、ちょっと吐きそうなんです。ボールか何か」

 僕の手の震えがテーブルを伝い、今にも飛び出しそうに身を乗り出す瀬戸内さんにも届いたのだろう。はっと振り向く瀬戸内さんの表情は急に誰かに切り付けられたような切実な表情と得体のしれない動物を見た時のような険があった。

「……泣いてるの?」

 あまりの痛みにないていることも気づかなかった。

 あまりの衝撃に飲み込むことも忘れていた。

 あまりの優しいくちどけにそれらを体が拒否することもしなかった。

「おいしいの?」

 人前で泣くなんて男じゃない。なんていつの時代に誰が言ったのか知らないけれど、少なくともそれくらいの考えは僕の中にもあったはずなのに、僕は。

「あぁ、あ、あ、あああああああああああああああああ」

「なにもそんなに泣かなくても」

 瀬戸内さんがとってくれた紙ナプキンも僕からあふれ出す水を前にもはや意味はなかった。決壊したダムのように、次から次へとあふれるそれを止めることなんてもはや僕にもできなかった。箍が外れて、今まで僕を形作っていたものがなくなり、僕ではなくなる。その型からあふれるものは広がり大きくなる。

「いいなぁ。私はいまだに何かを食べてそんなに泣いたことがないから。でもさ、イチゴパフェでそんなに泣くんだったら本当の大好物を食べたら連君死んじゃうね」

 もしこれが罪だというなら、僕はきっと今死んでしまう。でも、それでもいいと思える優しい味だった。その味がもっと欲しくて、僕はスプーンで中身を掻き出す。口に入れる度に、数秒待つことなく、個体から液体へと姿を変えて、胃に消える。

 食道を通過するときに感じる滑らかさ、胃に落ちた時の冷たさ。

 僕は、生きている。

 そう思えると余計に涙が止まらなくたって、

「はいはい、泣かないの」と彼女が僕を撫でるまで、僕は感情の上書をすることができなかった。

「もう少しでこの世を去ってしまうかもしれない可憐なクラスメートからの教えを一つ。今感じているそれが幸せってやつ。でも、あんまりそれにこだわりすぎると本当に幸せが何なのかわかんなくなっちゃう。だから、ほんの少しだけ不幸を混ぜるの。大人が飲んでるビールみたいに。甘いものばかりだとそれに飽きちゃうからたまには苦いもの取らないとね」

 なんていう割に彼女も声高らかにイチゴパフェを頼む。

「……君にとっての苦みって何?」

 率直な意見だった。僕が知る限り、彼女が苦悩にさいなまれているところを知らない。たとえ病に苦しんでいるとしても、ケロッとそれを口にするものだから現実味がない。本当は難病なんて噂だったりする可能性もある。だって僕が瀬戸内さんが眠ったのを目撃したのは、あの僕の登校初日くらいなもの。

 あの病は確か、日を追うごとに睡眠時間が多くなる傾向にある難病のはずだった。

「うーん、どうだろ。ないかな。そんなもの味わっても崩壊するだけの私の体に意味はないし。しいて言うなら入院生活だったかなぁ……。退屈でさ、それが原因で病気より先に死ぬんじゃないかって思っちゃって」

 もう少しでこの世を去ってしまう可能性のある人間ならどうして入院生活を過去のことのように話すのだろう。

「どういう……」

 意味なのか問いただしてやろうと思ったのに、僕の願望はやはりうまくはいかないらしい。

 古めかしいシャッター音が音声となって通路側から響いた。

「え……あんた。サプリメント以外のまともな食べ物食べたの……?」

 僕をあんた呼ばわりする強気な幼馴染が、僕とその目の前にある乱暴に食したパフェと、その傍らに無数にある紙ナプキンを交互に見ては疑問符を僕に投げつけてくる。

「しかも目ぇ真っ赤」

「……別れ話をしてたの。もう連君に振り回されるの、限界って」

 口にした長いスプーンをくるくる空中で回しながら、悲しそうな顔なんて一切しない幸せそうな表情で平然と嘘をつく。

「別れ話ぃ!?あんたらいつからそんな関係になってたの?!」

「いや、別にそんな話は……」

「ちゃんとおばさんに報告しなきゃね。両方とも」

「あんたにはあとでたっぷりと聴かせてもらおうじゃないの」

「ちょっと、話が違う」

「仕方ないから、ここのお金、連君が持ってくれるんだったら許してあげる」

 イチゴパフェが二つで1600円。それくらい払うつもりで店に誘ったので、その条件はむしろ好都合だった。

「払うよ。誘ったのは僕だから」

 ひらひらさせるオーダー表を文字通り奪い取る。斜陽した通路をレジに向かい、ポケットから財布をまさぐりきっちり払う。

 そのイメージだけは持っていた。だからすっと財布も出せたし、イメージ通りの店員の対応になんだか勝った気さえしていた。

「せっかくなんだし、やっぱりそのお金でもっと遊びに行こうよ三人でさ」

 脇をいると誰もいなかったので、気のせいかと財布を再び開けるころには、逆側に回っていた瀬戸内さんがすべて終わらせていた。

 

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