第5話 等価と犠牲と欲しいもの
今日も授業に集中できない時間が続いている。
鼻に突く女の子らしいいい匂い。やわらかくてほのかに甘いにおいが、風に乗って隣からやってくる。
甘いにおいの出所は、済ました顔で黒板を眺めているようだけれど。
「皆さんには何か犠牲にしてでも成し遂げたい願い事はありますか」
黒板には白く細い線で竹取物語の貴族の名前が列挙されていて、この話がいたく気に入っている古典の先生の小ネタなんかも書かれている。
誰がどういった経緯で何を貢いだのか。当時の文献まで調べ上げた上に先生の考察も深緑の板の上に乗っていた。一応授業なのでそれらの内容をノートに書き記す。退屈な授業の重要な暇つぶし。
そんな中唐突に放たれた端的で浅ましい人間の黒い部分を集めたようなセリフに教室は静まり返った。
何かを犠牲にしてまで欲しいものはあるか。
それは僕に対しての何らかの当てつけにも聞こえるけど、古典の先生がそこまで知っているとは思えなかったので、僕の思い過ごしだ。少しだけ、眉間にしわが寄っている気がしたのでもんでみる。
僕が嫌いな多人数での些末な話が四方から聞こえてくる。まるで田舎の夏の田んぼみたいに各々が喚いていて一人一人が何を言っているのかなんて皆目見当もつかない。
その中でも聞こえてしまうものがいくつかある。
誰かが言った。
「それって要するに男女の関係をいってるのか? 不純じゃね?」
誰かが言った。
「世の中結局犠牲なしに物を欲しがるなんて甘い考えなんだよ」
犠牲ね。
口に出すのは簡単だろうけど、現実をしらない人たちのたわごとなんて所詮遊び。
「でもさ、だからっつって何にも欲しがることをしないなんて死んでるのと同じだよな」
些末な話で、僕には関係のないくだらない会話で、その中の雑音でしかないはずの言葉が、どうしても耳から離れない。
欲望を持たないことは良いことじゃないか。誰の迷惑にもならず、浅はかな考えも持たず、質素に生きて何が悪いというんだ。そうやって生きて行くことで間違いを犯すことなく清らかに生きていけることだってできるというのに。
似たような考えを反芻することで自己の正当性を何度も確認し、発狂しそうになる僕はなんとか自我を保っていた。もし、これ以上今の僕を否定するような発言があると、僕は人として機能する自信がない。それを感じるほどに、掌に嫌な汗をかいてしまう。なんならいっそこの場から消え去りたいとさえ思う。
「それは確かにそうね。人は今まで何かを欲しがることで発展してきたし、生きてこれた。でも、単に子供みたいに欲しいと駄々をこねていたわけじゃない。それに見合った努力をちゃんとして、欲しがることを許されてきたのよ。だから、何かを犠牲にしてほしがることは悪いことじゃない。むしろ何かを犠牲にしてほしがるべき、と私は思う」
正直なところ、最近全然授業に集中できていたなかった。それはすべて隣に座る甘いにおいのせい。でも、どういうわけかこの瞬間だけは古典の先生が言う言葉が脳に直に振動として伝わるかのような重みがあった。依然として教室全体はまばらな会話に騒然としていたけれど、そんな会話が透けて見えて、教室の中に僕一人しかいないかのような気持ちになった。
何かを犠牲にしてでも欲しかったもの。その対価に見合ったもの。
そんなこと考えてみたこともない。僕は、母さんを殺してまで生きてしまった。僕の命は間違いなく母さんの命の上に成り立っている。何も欲しがることのない生きた屍のように存在している僕は、果たして母さんの命と対等だろうか……。
すっと隣から人気が消える気配がした。正確にいうと、僕の視線より上に移動するような気配。
「私は、ほかの誰が何と言おうと私が欲しいと思えるすべてのものを手に入れたい。たとえそれがどんな犠牲を払おうと」
先生の発言に感極まったのか、それとも僕の知らないところで病が進行してしまったのか、誰も発注をしていない彼女の宣誓はクラスを再び混とんの中へと沈める結果になった。
瀬戸内さんは僕の欲求をよみがえらせると言ってくれた。死んでしまっている僕の欲求。その亡骸はもしかしたら今や朽ち果ててしまっていて、すでに腐敗して再起不能の可能性だってあるのに。
いや……そうじゃない。辞めたんだ。何かを欲しいと思うことを。それを感知する感覚もどこかに捨てさった結果が今の僕だ。僕は、人の道を外れたんだ。それでいいとさえ、想うほどに感覚が鈍磨していって、生きているのかさえもわからない。
五月の半ばにもなっていた。まだ梅雨には早いというのに、湿った空気が街を覆い、挙句の果てにはこうして傘を斜めにしないと歩けないほどの大雨に見舞われている。僕が本当は欲求をどうにかしたいとかはさておいて、僕は瀬戸内さんが提案したことを断って学校を後にした。
怖い。その言葉を口にできるほど、僕は瀬戸内さんを知らない。そう言っても理解してもらえるほど、彼女も僕を知らない。距離があるからこその防衛線も、こういう時は余計な仕事をしてくれる。そのせいで僕は今からでもどこかに出かけようとげた箱を漁る瀬戸内さんに、怪訝な顔をされてしまった。
信じらんない。なんて簡潔かつ鋭い言葉でも言い放ちそうな不機嫌な顔。眉間のしわがいつもより数段濃く谷を形成していた。
ほんの数分前のことだというのに、いったいどうして言い逃れをしたのか思い出せない。
気づけばげた箱の前で呆然と立ち尽くす瀬戸内さんを置き去りに、雨の中に僕は消えた。
言霊なんてものが本当にあるのかなんて僕は信用していないけど、僕の嫌いなその言葉を口にしたが最後、僕はその言葉に体を乗っ取られて、ひどい醜態をさらした挙句死んでしまう。きっとそうなる。
いや、死ぬよりも恐ろしいことも起きうる。それが何かとははっきり言えないけど。
車が勢いよく水しぶきをあげて、僕の横を通過するのを感じ取った僕は、なんのけなしに進路をわずかに反らしたのがまずかった。
自分の身に何が起きたのかを正確に理解したのは、地面にしりもちをついて、通りすがったその人にひどく罵声を浴びせられて時だった。どこに目ぇつけて歩いてやがんだ。お前の目は節穴か。
僕は必死に謝ったんだけど、その謝罪がまた気にくわないとかで、僕は人通りの少ない帰り道を巡回中だったお巡りさんが通りかかるまでさんざん殴られることになってしまった。
珍しいこともあるもんだ。と双方思ったことだろうね。
僕は、殴られた拍子にどこか頭でも打ったらしく、暖かい食事をとってしまった。正確にいうと、食べたなんて大げさに表現するような量じゃないし、飲み込んだ直後に激しい吐き気に見舞われて、そのまま洗面台へと駆けこんだんだけど、叔父さんは夕刊から顔をのぞかせては僕のことを何か新しい生き物でも見るような目で見ていたし、おばさんは目を潤ませていたから驚きだ。杏奈に関しては、その二人の大げさな感嘆ぶりに心底あきれたような冷たい視線で溜息をついていたんだけど。
結果からすると、僕は自らに課した禁忌を破ることにした。
もし仮に母さんの命を犠牲にして僕が生きているのだとしたら、こんな生き方ではダメな気がした。少なくとも母さんの命と今の僕の命とでは釣り合わない。引き取られてから初めての食事に、相当驚かれたようだけど。
ほんと、珍しいことがあるもんだ。
数発殴られただけでこんなにも体にダメージが行くなんて思いもよらなかった。体重がずいぶんと減ったからかもしれない。殴られた瞬間、体が揺らいですぐに倒れてしまったし、なにより久しぶりのことだったので受け身をとるのも忘れていた。
僕がその日の夕飯に少しだけ前向きになる少し前、僕は倒れこむように東家についた。意外だったのは、僕のその様子をみて、杏奈がすぐに駆け付けてくれたこと。
「どうしたの?」だって。
「人に殴られて痛みを感じ取れるくらいにはまだ生きているらしい」僕の中ではそうやって発音したつもりではいるけれど、口を切ってしまっていて何を言っているのか自分でもわからなかった。
簡易的な応急処置を施された僕は、無理に夕飯を押し込み、それを異物と判断した体の反応に正直に従い、その後日常のタスクをこなして自室に戻った。
ベッドに座るや否や、隣の部屋で律義に勉強をしているはずの杏奈が僕の部屋に入ってきた。
「さすがに勉強はしてないのか……」
は、してないのかという話し方になんだか落ち着かない何かを感じて、そのまま僕は杏奈を見ていた。
「この家来てから珍しく夕飯食べたり、どこで粗相をしたのか知らないけど、初めてじゃないの? 誰かに殴られたのも」
「殴られたのは別に初めてのことじゃないよ。あまり話したくないからその辺は察してほしいな」
「でもさ、どういう心境の変化なわけ? あんた気づいてた? 涙目になりながらご飯食べてたよ? おかげで今日母さんまでもらい泣きしちゃってさ、明日はなんだか豪勢に作るとか張り切っちゃって。私今ダイエット中なんだけど」
どうやら僕がその夕飯を地球に返してあげたことはばれていないようで、後にも先にもこの話が出てくることはなかった。
「杏奈から見て、僕はどう映る?」ずいぶんと回りくどい話の聞き方だと思うけど、いきなり自分が生きているように見えるのかどうなのかと聞くよりは、常識的な聞き方に思えた。あとは、杏奈との古い付き合いで染みついた空気に頼る。
「もしかして、授業中のあれ? だとしたら、あんたは人間として機能していない」
さすがは杏奈だと感心したのと同時に、やっぱりそう見えるのかと落胆する気持ちが往来した。となると、その後の返答もおおむね予想がつく。
「……。叔母さんの件。話してもいい?」言いながら杏奈は僕の了解を得ることもせずに、僕の隣に腰を下ろした。僕はさながら、取調室に座る犯人みたいな心境になっていた。
「私は詳しい話は聞いてないけど、おばさんはあんたが殺したわけじゃない。だから、あんたは」
何も悪くない。そんなセリフを、僕は耳にタコができるほど聞かされてきた。そのたびに僕は、生きるために母さんを犠牲にしたことは何も悪くはないという意味だとはき違えてきた。
でも、それに対して今日、別の可能性が浮上してしまった。
「……夢を見るんだ。あの日のこと。僕が母さんの手を払いのけて、おにぎりを奪い取る。毎日毎日、毎回毎回、何かを欲しいと思う瞬間、僕は心底自分を嫌う。でも、もし仮に、先生の言うように、母さんの命を犠牲に僕が生きているのではなく、母さんの代価に、僕の命があるとして、僕は母さんの命分生きているって言えるのかなって」
昔からそうだった。僕が友達に何か嫌なことをされたときでも、何も言わずに僕の心境を見透かしていた。そしてそのたびに姉のように威張り腐ってはだらしがないだの、意気地がないだの。
「そこまでわかっててどうして行動に移せないの? 意気地なし」
ほらね。
「……話、聞いてあげるから行ってごらん。あんたにしては珍しくうちに馴染もうとしてたから、それくらい許してあげる」
正直なところ、僕はこの姉ぶる幼馴染に過大評価をしていた。もう一押し何か言葉を僕に浴びせてくれれば、僕はその心の内をおおっぴろげにできるのに。なんて、杏奈にはいつも頼りすぎる自分にため息が出る。
「……。もし、また僕が何かを要望してしまうようなことがあるなら杏奈はどう思う?」
伏見がちな視線を杏奈に向けると、きょとんとした表情で僕を見ていた。口は微かに開かれて、落ちくぼんだ瞳が虚空をみている。僕は、こういう時はあまりいい予感がしない。だいたいそうだ。こういう時は簡易的に傷つけられるのがおちだ。そんなもん、お前の問題だろなんて。
「それは、要するに、何か欲しいものでもあるの?」
一瞬だけ、間を開けてしまった。僕自身、どこか自分の欲望を認めたくない節がまだどこかにあるのかもしれない。半年近くもそうしてきたんだ。無理もない。頷く代わりに杏奈の顔を見る。大きく見開かれた瞳は、驚きと探求心に満ち溢れていた。僕にはいまだない探求心。
「おばさんもきっと喜ぶよ。今のあんた、少しだけおばさんと同じだけの価値を持とうとしているのかも」
僕は、本当に甘い人間だ。でも、正直僕はこの言葉だけでも今までの体の重みみたいなものがきれいに浄化されて、体が徐々に軽くなっていくのを感じていた。
……僕も、欲しがっていい。
そう思える事が出来るようになったのは、もしかしたら僕が少し成長して前進しようとしている証拠とみていいのかもしれない。
僕は、母さんの葬儀には出ていない。
軽度の栄養失調と脇腹に抱えた痣のせいで出席を病院側に止められた。
お気持ちはわかりますが、体の負担が大きすぎます。
生きる機能を停止してしまった母さんの体は、日に日に自然の法則にしたがい腐乱していく。僕の気持なんか待ってくれなかった。
「母さん久しぶり」
木陰に煌めく墓石にはまだ母さんの名前はない。聞いた話では名前はなくなった直後に入れないといけないもでもないらしく、僕が落ち着いたら僕のタイミングで真苗を入れればいいらしい。そっと撫でてみるけれど、やっぱり一肌なんて感じなくて、否応なしに母さんの死を突き付けられる。
母さんはもう、いない。
「今日はさ、ちょっと連絡があってさ」不思議と涙なんて出ていない自分がいた。もうすでに乾ききって枯渇してしまったのか、泣き方を忘れたのか、そもそも知らないのか。泣きたいわけではない。泣いてしまうと、今度は止め方がわからず腹が空いたと泣き喚く赤子のように泣きじゃくってしまいそうだったから、それはそれでいいのかもしれないね。
「僕さ、ちゃんと母さんの分まで生きようと思う」
ペットボトルに汲んでいていた水を墓石にかけて花を手向ける。
そよぐ風に線香の煙は揺れて、空気の流れに乗って消えていく。
母さんの人生はこんなんじゃない。もっと華やかであるべきだ。もっともっともっと。
東家に来てから初めて小遣いを欲しがった。
それは母さんのことに整理がついたというわけではない。でも、このまま足かせのように母さんのことを使いたくはなかった。だから、せめて母さんを言い訳に使うのではなく、理由に使おうと思った。僕が欲しがったのはそのためのお金。
「これ、喜ぶと思って」
最大限の僕の親孝行。はたから見たら、僕はきっと狂人に見えるに違いない。だって僕が選んで買ったのは生前母さんとは無縁だった真っ赤なバッグなのだから。押しつけがましい考えかもしれないけど、赤という色は大人の女性を連想してしまう。母さんも淡色よりはこういうはっきりとした色合いのものが好きだった。
黄色い傘、青い花瓶、真っ白なワンピース。
「東の叔父さんがね、驚いたような顔してたよ。……引き取られてからなんも食べてないかったし、僕の口から何か欲しいだなんていわれる日が来るとは思ってなかったんだろうね」
「……それだけじゃないさ。……連君、あまり運動しているそぶりがないわりに結構足が速いんだね。君が家を出てからすぐに追いかけたんだけど、追いつくどころかもうすでに墓参りも終わりか」
その言葉と同時に、僕の背後に影を感じた。
風に混じるマルボロの匂いがあいつと同じだから、一瞬だけ心臓が大きく鼓動したけれど、話す内容とおっとりとした口調が東の叔父さんだということを証明してくれた。
急いできたらしく、おじさんは手を団扇のようにして「夏でもないのに汗かいちゃったよ」と僕の隣に歩を進ませて、荷物を置いた。
「墓参りなんて久しぶりだろう? まぁ、そうそう来るものでもないか」
談笑でもしているかのような笑い。あいつから逃げ回っていたくせに、どうして今更笑えるんだ。助けてもくれなかったくせに。
おじさんの笑いには僕は答えなかった。答えてしまうと、それは僕もその話に乗っかってしまったという証拠になり、僕のこれまでの神妙な空気を汚す。
しばらく黙ったまま、隣の叔父さんの様子をうかがう。
終始満足げに口角を上げながら割と丁寧に作業を進める。僕と同じようにペットボトルで水をかけ、僕よりもたくさんの花をささげる。叔父さんの選んだ花は白くて上品で、その場に見合った品種なんだろう。だから余計に、僕の選んだものが際立って見えた。
僕が選んだものはすべてそうだった。
「どうしたのその鞄。今から誰かにあげるのかい?」
思わず墓石から取り上げて、背後に隠してしまった。僕が母さんに捧げた花もそうだった。視覚的にどれも自己主張が強い色ばかりで、趣がない。ずいぶん身勝手な、自己満足。
だからなのだろう「ずいぶんとお金がかかる女の子なんだね」という言葉を僕は素直に聞き入れられなかった。
認めたくなかった。僕たちを救ってくれなかった目の前の大人を。
「母は生前から何一つとして自分に何かを買ってあげるなんていうことはしませんでした。もし仮に、早い段階であいつの束縛から逃れることができていれば、僕が母の墓前に派手な鞄を持ってくるようなことはなかったかもしれません」
僕自身、この言葉が息を吸うように口から出ることに心底驚いていた。
それは僕に言葉を遮られた叔父さんも同じようで、突然切られたような表情をして呆然としていた。
「……、感情出せるようになったんだね」
一瞬だけ何を言われたのか聞き取れなかった。風の悪戯に耳をふさがれたのかもしれない。
「……え?……!」
「ほら、今もそう。連くんいつもなんだか表情が一つしかないみたいに生活しているから、やっぱりあの事気にしているんじゃないかって」
「その話、しないでもらえます? それとも、もしかしてわざとそうしてますか?」
怒りという感情を久しぶりに体感していた。その反面、この人に何を言っても僕の問題は何一つ解決しないと、僕の内側から抑制するいつもの感情も働いて、僕は結局この発言に対しても何か大きな行動に移すことなく握りこぶしを作って耐えていた。
「……連君にそう言われても、僕はやめる気はないよ。君も姉さんと家族だったかもしれないけど、僕も姉さんの弟だからね。だから一応言っておくけど、姉さんはそういう鞄は趣味じゃないよ。もっと大人しい感じの鞄を好んでいたはずだ。もし仮にほかにあげるような女の子がいないのならば、それは立派な無駄遣いだ」
君の、ち
気が付くと胸倉をつかんでいた。
気が付くと握っていた拳を振り上げていた。
気が付くと、叔父さんが雑草が伸びる墓石に尻もちをついてた。
「誰が、父親だって?! あんたがあの時、あいつから俺と母さんを守ってくれたら、俺だってこうはならなかったはずだ。母さんだって、あんな冷たいところで死ぬことはなかった。親子でたった一つの握り飯を奪い合う事なんてなかったはずなんだ」
声が震えていたのは、吐き出した言葉に感情をこめてしまったから。憎悪。僕が心に飼っている感情の中で、一番醜く、それでいて粗暴で、時折檻を揺らして外に出ようとしているのを僕はいつも知らないふりをしていたのに……!
髪に何かが落ちるのを感じ取ったときには、空から雨粒が降り出していた。
「……すいません。これからちょっとやることがあるので」
一礼してから、踵を返す。
「なんでも好きにするがいいさ。ただ……、何事もバランスだ。暴走だけはするなよ」
乾いていたはずの墓石は、雨でぬれていた。
叔父さん、嫌……。あの人は、殴られた痛みからか、路上で酔いつぶれたように片足だけ折り曲げてうつぶせたまま立ち上がろうとはしなかった。
母さんに供えた握り飯も、そのうち雨で崩れるだろう。
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