金魚
黎明
金魚
「行ってくるね、アキト」
綺麗にアイラインをひいたカナコは、出かける前にはいつも金魚鉢を優しく撫でる。
水と分厚いガラス越しに見える歪んだ光景。決して広くはないマンションの一室。いっそ清々しい程物の少ない室内で、机の上に置かれたマグカップだけがひっそりと生活感を醸し出していた。
僕はくるり、と意味も無く回転してみる。
真っ赤なひれが、なめらかな曲線を描いて跡をひいた。
僕がここに来てから、もうじき半年が経つ。カナコとの出会いは、夏祭りだった。と言っても、地元の神社で行われる小規模なものだけれど。
金魚すくいの屋台に出され、窮屈なたらいの隅でじっとしていた僕をすくいあげたカナコは、それはそれは嬉しそうに僕を持ち帰った。
僕ら金魚の間では、人間に飼われたが最後、ろくに世話をされずに数日で死んでしまうなんてイメージが先行していたけれど、彼女は念入りに洗った丸い金魚鉢に僕を移し、その日から一日も欠かさず毎日餌を与えてくれている。おかげで僕は、この家に来てから空腹を感じたことはない。
「私たちが出会ったのはきっと運命だったのよ、アキト」
誰と重ねているのか知らないけれど、人間みたいな名前で僕を呼び話しかける彼女は、年齢の割に随分メルヘンチックだと思った。
カナコは僕のことを大切にしてくれるから、僕も彼女が好きだった。
でも、僕はカナコのことをほとんど何も知らない。知っているのは、彼女が若い女の人であることだけ。一人暮らしをしていて、夕方から出かけて行ったと思ったら、帰ってくるのはいつも朝。僕は、彼女のドアを開ける音で目を覚ますのだ。
あるときカナコは、ひどく疲れた様子で帰ってきた。その日はまだ真夜中で、寝入ったばかりだった僕は再びそっと目を開けた。窓から見える月が、不謹慎に綺麗な夜だった。
ぐったりと床に倒れ込んだ彼女は、泣いていた。何があったんだろう。鉢の中をぐるぐる回っていると、彼女は起き上がり、僕を見つめた。
「だめなの、だめなのよ。私には彼が愛せないの」
ぽつり、と今にも消えそうな声で紡がれる支離滅裂な話の断片をどうにか繋ぎ合わせると、どうやらカナコは恋人と別れたようだった。僕は彼女に恋人が居たことに少し驚いた。けれど、彼女も年頃の女性であるわけだから、あり得ないことではないだろう。
僕はカナコが好きだから、彼女が辛そうにしているのを見るのは辛い。暗い色に染められた瞳を、僕もじっと見つめ返す。
「ああ、貴方は私を慰めてくれるの?アキト」
うふふ、と不器用に笑う彼女を、抱きしめてあげたいと思った。カナコは一人じゃないよ、僕がいるから。そう言って、思いつく限りの優しい言葉をかけてあげたい。一晩中ずっと、悩みを聞いてあげるのもいいかもしれない。
でも僕は金魚で、彼女は人間。気持ちを伝えることすらも不可能だ。
どうして僕は金魚なんかに生まれてしまったんだろう。水から出てしまえば、呼吸もままならずに数分と生きていられない。魚の中でも弱くて脆い、ちょっとばかり立派なひれを持っているだけの、小さな生き物。カナコが一人ぼっちで泣いている夜も、僕はこの鉢のなかで間抜けにパクパクと口を動かしていることしかできない。
僕は、自分が金魚であることを呪った。
神様、お願いです。どうか、どうか僕を人間にしてください。カナコが好きなのです。僕が、彼女を守ってあげないといけないのです。どうか、お願いします。
その日から僕は、毎日祈った。朝も昼も夜も、眠らずに祈り続けた。
そうして一年が経ったある日の黎明、僕は人間になっていた。ついに祈りが神様に届いたんだ。僕は嬉しくなってその場でくるくると回った。身体は今までのように軽くなく、綺麗なひれも無くなってしまったけれど、僕は満足だった。
やっと、やっと人間になれた。僕が側にいれば、カナコにもう寂しい思いをさせたりなんかしない。僕たちは恋人同士になって、ずっと一緒に暮らしていけるんだ。
思わず飛び跳ねてしまいそうな衝動を抑えて、カナコの帰りを待った。彼女に会ったら最初になんて言おうかな。そのことを考えると、胸が踊った。
しばらくして玄関のドアが開き、「ただいま」と言いながら彼女が入ってきた。
「おかえりなさい、カナコ!」
ずっと言いたかったその台詞に、精一杯の笑顔を添える。
「金魚のアキトだよ、人間になれたんだよ」
だから、カナコとずっと一緒にいられるよ。
そう続けようとした僕は、彼女の表情を見て、全てが手遅れであることを悟ってしまった。
ああ、神様はなんて意地悪なんだろう。
「私が愛していたのは、金魚の貴方だけなのに」
なんてことをしてしまったの。私のアキトを返してよ。
バッグを取り落とし、その場に呆然とへたりこむ彼女を、僕は黙って見つめていた。
色も音も失われた室内で、金魚鉢に取り残された水草だけがゆらゆらと揺れている。
金魚 黎明 @___reimei
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