訪問‐⑥
「最後に、ご主人の書斎を拝見してもよろしいでしょうか?」
俺は手帳を胸ポケットにしまうと、康子から視線をそらして尋ねた。
放心状態だった康子は、ハッと我に返り慌てて頷く。
「……すみません。お薬を飲みたいので、少しだけお待ち願えますか……」
康子は、片手で胸元を押さえながら言った。
蒼白の顔面に、汗が滲んでいる。
俺が頷くと、そのままキッチンの奥へと引っ込んだ。
恐らく、彼女も精神安定剤を服用しているのだろう。
薬の助けを借りなければ、とても生活できないのだ。
俺の訪問が、彼女の精神の均衡をかき乱してしまった事は否めない。
後悔は無いが、後味の悪さは拭えなかった。
「すみませんでした……どうぞこちらです」
ほどなく、康子は戻って来た。
そのまま、おぼつかない足取りで廊下の奥に先導する。
大丈夫ですかと問うと、弱々しい笑みを返してくる。
小さな肩が、廊下を歩くたびゆらゆらと揺れた。
ふとその肩に手を置き、慰めの言葉をかけてやりたい衝動に駆られた。
俺の悪いクセだ。
偉丈夫を自負していても、弱者を前にすると感情の抑制が効かなくなる時がある。
特隊の卒業訓練で、飛翔兵器から隊員を守ろうと飛びついたのがいい例だ。
沈着冷静さが求められる特殊部隊員としては、致命的な欠陥と言えるだろう。
いかに過酷な訓練でも、生まれ持った性質までは変えられないという事だ。
こんな性分では、命が幾つあっても足りゃしない。
俺は心中のジレンマと闘いながら、眼前の女性への憐憫の言葉を飲み込んだ。
廊下の端に階段があり、二階に上がると黒い扉があった。
「ここです」
開いた扉の奥は、真っ暗な闇だった。
康子は照明のスイッチを入れると、どうぞと脇に退いた。
照明に照らされた室内には、黒を基調とした家具類が所狭しと並んでいた。
左右の壁には大型の黒い書棚が林立し、中央にはやはり黒い書斎机が置かれている。
窓に垂れ下がった漆黒の遮光カーテンが、一切の外光を遮断していた。
この装飾が成彦の趣味なのかどうかは不明だが、部屋全体が独特の威圧感を放っているのは確かだ。
俺は周囲を一瞥すると、まっすぐ書斎机の方に向かった。
康子の了承を得て、抽斗を一つずつ確認する。
全て空だ……
「主人の死後、警察の方が確認された時からその状態です。生前から、主人の机の中がどうなっているのかは私も知らなくて……」
問うような俺の視線に、康子が申し訳なさそうに答える。
「ご主人のパソコンが見当たらないようですが?」
俺は念のため、書棚の方も確認しながら尋ねた。
「それが……」
康子も腑に落ちないような表情を浮かべる。
「警察の方にも聴かれたのですが、主人が復職した日から見かけていないんです。私はてっきり、研究所に持って行ったものと思っておりました。それで警察の方も研究室の机やロッカーなどを探されたのですが……結局、どこにもありませんでした」
そう言って、康子は布巾を握り締めた。
くそ!先手を打たれたか……
俺は、心中で拳を叩いた。
極度の絶望感に陥った者が、そのまま引き籠ってしまうのは珍しくは無い。
大抵は何をする訳でもなく、無気力な日々を送るのが通例だ。
成彦の場合は昼夜を問わず、ひたすらパソコンを眺めていたという。
まさかオタクばりに、ゲームに没頭していたという訳ではあるまい。
一体、何をしていたのか!?
もしかすると……
武装ドローンに関連した事だろうか?
だが当時の成彦の状態を考えると、今ひとつ説得力に欠ける気がした。
最愛の子供を亡くし、気を失うほどの衝撃を受けたのだ。
当時の精神状態については、医師の証言もある。
とてもじゃないが、他ごとを考える余裕など無かった筈だ。
恐らく、そこには別の理由があるに違いない。
心身耗弱を押してまでも、やらねばならぬ理由が……
そしてその答えは、奴のパソコンの中にある。
そう考えて、俺はこの部屋の
だが、肝心のパソコンは霧のように消えていた。
偶然とは思えない。
明らかに誰かが、何らかの理由で証拠隠滅を図ったのだ。
パソコンに目を付けられる事を恐れて……
俺の全身を、焼け付くような悔しさが渦巻く。
もっと早くに来ていれば……
『炭化物反応があります』
突然、頭の中にレフティの声が響いた。
「何っ!?どこだ?」
俺はあまりの唐突さに、康子がいる事も忘れ叫んでしまった。
まさか、このタイミングで報告が入るとは思わなかった。
『西北西に十七メートル。当邸宅の正面付近です』
家の正面だと!
なぜ、邸内に入る時に分からなかったんだ?
『反応が現れたのは一分前です。今解析が完了しました』
俺の疑念が聴こえたかのようにレフティが答える。
その言葉に、俺の全身が一気に硬直した。
今まで無かった所に反応が現れた……
それはつまり、たった今
炭化物の付着した物体……
つまり、凶器と
俺は怯えた顔の康子に会釈すると、何も言わずに部屋から飛び出した。
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