愛してくれないなら死ね

下村りょう

海の魔女のお墨付き

 あるところに、それはそれは美しい人魚の魔女がおりました。魔女は人間に興味津々で、毎夜海面に昇っては、泡のように光る人間の街や、騒がしい聲の聞こえる大きな船を眺めていました。魔女は人間のことを知りたいあまり、他の人魚と話せなくなる代償を以て人間の言葉を理解する耳を手に入れていました。そうして人間たちの話し声に耳を傾けていたのです。

 そんなある日のことです。魔女がいつものように海面から顔を出すと、虚ろな顔で船に乗っている若い男と目が合いました。いつも大きな船の上にいる人間とは違い、汚くボロボロの服と呼ばれている布を身に纏っていました。髪もボサボサで、なんだか変な臭いもしています。

「こんな朝早くから潜るのか?」

 そう語りかける男に、魔女は嬉しくなって返事をしようとしました。しかし聲は男に届きません。魔女は大切なことを忘れていました。人間の聲を理解する耳を持っていても、人間と語らう舌は持っていなかったのです。魔女は恥ずかしさのあまりに顔の半分を海の水に浸けました。

 魔女と男の目が合います。間近で見る人間の目は月明かりに照らされて輝き、ついじっと見てしまう、そんな不思議な魅力を魔女に与えました。そうして見つめ合っていると、男はひとりでに納得をして、魔女に語り始めました。長いこと病気で床に臥せている母がいること。男は貧乏で、もう薬を買うお金も持っていないこと。このままでは男も母親も死んでしまうため、せめて男だけでも海に身を投げようとしたこと。

「でも、お前みたいに、こんな朝早くから働かされているやつもいるんだよな。おれ、もう少し頑張ってみるよ。それでだめになったら、身売りでもなんでもしてやらぁ」

 そう笑って、男は岸へ戻っていきました。去る直前に頭に触れた手は熱く、魔女は男が岸に戻って見えなくなっても、そこに居続けていました。


 海の中で、魔女は独り、初めて話しかけてくれた男のことを、何度も何度も思い出しました。あの熱い手がまだ頭に乗っているようで、魔女の身体まで熱くなってしまいます。

 あの男は陸のどこに住んでいるんだろう。あの男のことをもっと知りたい。人間の暮らしをしてみたい。あの男と、人間の暮らしを……。

 そして

 あの男の身の上を想って涙を流します。その涙は頬を流れる前に硬くなり、キラキラと輝く宝石となりました。

 手のひらの上で次々とかわいらしい色に変化する宝石をじっと見つめます。たしか、宝石というものはとても高価で、たくさんのお金を手に入れられると人間が言っていた気がします。そして魔女は思いつきました。

 私が人間になればいいじゃない!

 そうと決まればさっそく支度をしなければなりません。人間になる魔法の準備もしなければいけません。

 魔女の魔法は万能ではありません、代償が必要なのです。人魚として生きる術の一つを失う代わりに、欲しいものを一つ手に入れられるのです。その魔法で、魔女は人間の言葉を理解できる耳を手に入れたのです。

 では人魚が人間となる魔法には、何が必要なのでしょう? 

 尾ひれは要りません。人間は二本足で立って歩くのですから。

 歌声も必要ありません。人間は言葉で通じ合うのですから。

 これだけあれば人間になるには充分でしょう。魔女は涙からできた宝石をぎゅっと握って海面に踊り出し、とびきり幸せな気持ちで歌をうたって魔法をかけました。


 魔法は成功しました。魔女は岸まで泳ぎ、熱さの残る浜辺に打ち上げられました。するとなんということでしょう。あの男が駆け寄ってきてくれたのです!

「おまえ、大丈夫か?」

 男は服を脱いで魔女に着せます。そのときに自分が人間たちにとって恥ずかしい、裸と呼ばれる恰好をしていると気が付きました。男の好意に甘えて、魔女は男の服に袖を通します。あの時にした変な臭いに包まれ、魔女は人間になれたことを実感します。

「こ、これ、あなたに……」

 魔女は掠れた声でそう言って、ぎゅっと握りしめていた宝石を男の手に乗せます。

「こんな高価なもの、受け取れねえよ。服をやっただけだ。そんな義理はねえ」

 魔女の予想は的中していました。自分の涙からできた宝石は高く売れるのだと。しかし同時に疑問にも思いました。なぜこの男は受け取らないのでしょう。この知識を教えてくれた船の上の口ひげを生やした男たちは、「宝石が目の前にあれば飛びつく」と言っていたのに。

「あな、あなたに、受け取ってほしいの」

「だめだ」

 魔女は困りました。これがなければ、男はどうして魔女と会話することを選ぶのでしょうか。

「わたし、いえが、ないの。これ、あげるから住ませて、おねがい」

 魔女は縋ります。人魚はどんな人間よりも美しく、そして人間が美しいものには目がないことは知っていました。男はため息をついて、「わかった」と言いました。


 人間の暮らしは、元人魚の魔女にとって辛いものでした。たった二本の足で体の全部を支えなければいけません。そして地面はとても熱いのです。つま先が触れようものなら、ナイフで抉られるような痛みが魔女を襲います。また、日の出ている時に外へ出ようものならサンゴのように白くなってしまいそうで、男のように働きに出ることも叶いませんでした。しかし悪いことでもありません。男が働きに出ている間は男の母の世話をして、夜になれば男に体を支えてもらって海まで行き、海の中で涙を流して宝石を作り、それを男に売りに行ってもらいました。男に触れられている場所はとても熱かったのですが、魔女にとってはそれすらも愛おしかったのです。海から帰り、眠りにつくまでは男とお互いのことを語らい、陸に伝わる物語を聞きました。男は海の上で出会った魔女と目の前にいる女が同じだと知らないようでした。

「母さんの世話は大変だろう」

「そんなことないわ。私、家族がいないの。だから、あなたたちと暮らせることはとても楽しい」

「そうか。いつもありがとう。お前がいなければ、日々の生活もままならないのに」

 魔女の作った宝石はとても高く売れるようで、男は日に日に身なりを奇麗にしていきます。そして、ついにボサボサの髪を切ったとき、男はあまり家に帰らなくなりました。母の世話をし、夜にはひとりで海に向かい、男が帰らないことに涙を流します。

 ――彼は私のことが気に入らないのかしら。


 ある日、男が家に帰ってきました。見たこともない装飾品を身に付けて、口にひげを生やしていたのです。そして隣国のお姫様と結婚すると言い出しました。わがままで金遣いが荒いと評判のお姫様でした。そして魔女を小間使いとして雇うと言うのです。

 男の母は泣いて喜び、これまでの鬱憤を晴らすように、魔女を罵りました。

「そ、そんなの、いやよ」

 宝石を地面に撒いて魔女は言いました。しかし男は魔女のほほを叩いて、大きな声を出すとすかさず母親と一緒になって宝石を拾い集めました。

 式の日取りはもう決まっていると、男は言いました。



 船の上の一室で、魔女は宝石を足元いっぱいに落とします。朝からあまり動かない足に鞭を打って式の準備をしていたのです。隣国からきた小間使いには怒声と冷笑を浴びせられ、やっと準備が終わったと思えば、埃ばかりでなにもない部屋を寝床としてあてがわれました。結婚も、男と母の変貌ぶりも、何もかもが突然でした。

 魔女の二本足は使いものになりません。ここから逃げ出すことも、男を追いかけることも満足にではできないのです。

 魔女に残っているのは縋りつく手――

 いや、欲望魔法を解く手です!

 魔女は部屋を飛び出すとキッチンからナイフをくすねて、魔法をかけました。愛する男の死を引き換えに、自身にかけた魔法を全てなかったこと水の泡にする魔法を。

 そして、男とお姫様が眠る寝室に忍び込むと、眠る男に魔法のナイフを振りかざします。

 ――たった一瞬のことです。300年を生きる人魚にとって、瞬きをするようなもの。それなのに――――

 魔女の頬に熱いものが触れます。魔女は泣いていたのです。誰かのためではありません。自分の不幸に泣いているのです。涙はもう、宝石にはなりませんでした。

「ああ、人間の涙はこんなにも熱いのね」


  *


 魔女にかかった欲望の代償は、人間ひとりの死なんてものでは少なすぎた。私は人魚としての美しさを失い、もう話などできない人魚――欲望を持たない者たちと離れ、本当に独りで暮らすことを余儀なくされた。私と同じ、愚かな欲を持つ人魚が現れるまで、誰にも苦しみを明かすことなどできないままに。


 海の底で、髪の短くなった人魚たちを見上げる。彼女たちに渡した短剣には、光に照らされて美しく輝く人魚の髪を代償に、魔法で失ったものを取り戻す魔法がかかっている。若い人魚には、まだ戻ることのできる居場所が残っている。私と同じ愚かな人魚は、同じ運命を辿ると、信じていたのに。

 ナイフが海に飛び込んできた。次に人魚たちの叫ぶ聲、そして、たくさんの泡が海に飛び込んでくる音。

 泡の中にあの人魚はいなかった。人魚たちは必死に泡をかき集めたけれど、それも虚しく、泡は一体となって海面に昇っていった。ナイフが私の元へ戻ってきた。あの日ついていたものとおなじ赤は、見えなかった。

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愛してくれないなら死ね 下村りょう @Higuchi_Chikage

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