第6話
僕は、結局リミちゃんに気の利いたことは何も言えなかった。「良かったね」とかなんとか……本当に精彩を欠く、どうしようもないことしか言っていない。
オーディションをまるっとパスして合格? どういう意味だ。いや、どういう意味か、僕だってうっすらわかっている。リミちゃんもわかっているだろう。でも、それって、どうなんだ。
僕らの特訓の日々を思い出すと、ひどく胸がモヤモヤした。
次の日から、リミちゃんはなんとなく元気がなく、ずっとぼんやりしているようになった。会社でもそうだった。
部長が失言をして、清野さんがそれに激怒して、みんなの仕事が止まり、リミちゃんが頭を下げる。相変わらずそんなことも繰り返されたが、リミちゃんは日に日に目に見えて力なくなっていく。見かねて僕も(主に清野さんの怒りを)止めに入ったが、「ともくん、大丈夫だからこれ以上面倒にしないで」とリミちゃんに耳打ちされてしまった。
オーディションを受けた芸能事務所からは、入所のための書類が届いていた。リミちゃんはそれを開封もせず、机の上に置きっぱなしにして、時折ぼんやりと眺めていた。
僕は――僕はどうしていいのか本当にわからなくて、ただ彼女の背中を撫でることしかできなかった。
そんな、ある日。
「部長、お話があります」
フロアに高い声が響いた。見ずともわかる。清野さんだ。
リミちゃんの夢を真剣に聞いてくれたということで、僕の清野さんへの苦手意識はだいぶ薄れていた。なんなら、勝手な仲間意識すら抱いていた。
しかし、部長のデスクの前に立った清野さんは、とんでもないことを言い出したのだ。
「最近の部長の態度は目に余ります。職場環境配慮義務を欠いているとして、弁護士に相談しています。つまり、部長を訴えます」
「えっ」
当の部長より先に声を上げてしまった。目ン玉をひん剥いて清野さんを見上げていた部長は、そのまま眼球をぐるりと回して僕を見た。僕のせいでリアクションするタイミングを逸してしまったらしい。すみません。
「……う、うった、うた、歌える、違う、訴えるって、な、なんで……?」
ようやく発した部長の言葉は、もうこれ以上ないほどにしどろもどろだった。対する清野さんは、「心の底からの軽蔑」を擬人化したらこんな感じだろう、という表情で冷たく言い放つ。
「さっき言いましたよね。部長は職場環境配慮義務に違反しています」
「しょくばかんきょうはいりょぎむ……?」
もはや部長は、完全な腑抜けだった。
「従業員が安心して働ける環境に配慮する義務ですよ。管理職のくせにそんなことも知らないんですか? 具体的に言うと、ゴリ美先輩への数々のセクハラを始めとするコンプライアンス意識に欠けた言動です」
「えっ」
今度はリミちゃんが声を上げた。当たり前だ。弁護士が出てくるようなキナ臭い話題に、突然自分の名前を出されたのだから。しかし、またもリアクションのタイミングを逸した部長は口を鯉のようにパクパクさせた。
「わ、わたし?」
「セクハラやパワハラが横行するような職場で、他の従業員が安心して働けると思いますか!? ゴリ美さんに対して当然なされるべき配慮がなされていないというのは、これ問題ですよ!」
「ゴリ美くん、きみ、君、僕を訴えるの」
「わ、わたしは訴えるなんてそんな――」
「ゴリ美さん! 部長に、たくましいねえ、とかフサフサでいいなあ、とか言われて嫌じゃないんですか!」
「そ、それは……嫌ですけど……でもそれくらい……」
「い、嫌ならそう言ってくれればいいじゃない! それをこんな、いきなり訴えるなんてさぁ!」
「いえわたしは……」
「それは違います! 上司と部下の関係でそんなにはっきり言えるわけないじゃないですか! ゴリ美さんは私じゃないんですから! それがパワハラですよ」
「清野さん、わたし、本当に大丈夫――」
「ゴリ美さんがそうやって我慢することが全員の不利益につながるんですよ!」
僕は耐えられなくなって立ち上がる。
「清野さん、それはさすがに――」
「もういい加減にしてよ!」
それを遮ったのは、リミちゃんだった。
「ねえ、もういい加減にしてよ。もう嫌だよ。耐えられないよ。全部わたしのせいなの? そうかもね。わたしがゴリラだから」
「違う、ゴリ美さんはゴリラなんかじゃ」
「いやゴリラだわ! どう見てもゴリラでしょ! それはわたしが一番わかってるの! 子供の頃から思ってたよ、なんでわたしはみんなと違うんだろうって。みんなと明らかに違うよなって。だって全身に黒い毛が生えてるしね! でもいい時代だよね、みんな気にしないよ〜って顔で付き合ってくれんのよ! 小学校の頃から! ありがたいよね。気にしないほうが絶対不自然なのに。だからさあ、わたしだって気にしてませんよ〜って顔して適応するしかないじゃない!? それで無事にここまでやってきましたよ! たまに部長みたいな人もいるけど、ある意味ではそのほうが自然だよね。だってゴリラだもん! そりゃそこに触れたくなりますよね! そしたらさ、清野さんみたいに、良かれと思ってさ、気ぃ使ってくれるじゃん、それで気ぃ使いすぎて変な空気になるじゃん! その空気の責任は誰にある? ゴリラであるわたしだよね? だからわたしが謝ることになるじゃん! 誰が悪いの? 誰も悪くないよ! それはわかってるの! でももう嫌なの!」
ボロボロと大粒の涙と一緒に、リミちゃんは言葉をこぼした。それは、僕も聞いたことのない、本当の本音だった。
「リミちゃん……」
僕は駆け寄ってその背を撫でると、誰かが声を上げた。
「でも、ゴリ美さんには優しい彼がいるじゃないですか」
しかし、その言葉は逆効果だった。
「それ、わたしが美人でも言いますか!? 彼氏がいていいですね、って、それ、ゴリラなのに彼氏がいていいですね、ってことじゃないですか。彼氏がいるのは幸せなことですよ、それはわかってる! でも、恋愛だけが人生じゃないでしょ!? 恋愛が満たされてたら他は求めちゃだめ? ゴリラだから? わたしはわたしの人生を普通に謳歌したいし、普通の人と同じように、外見だけじゃなく、中身とか、能力とかも見てほしいの! いいならいい、ダメならダメでいいから。なぜかゴリラで可哀想だから気を使ってあげよう、じゃなくて、何を言って何をしたか、見てほしいの! それなのに、それなのに……!」
「オーディションはどうなったんですか?」
清野さんだ。リミちゃんはキッと清野さんを睨むようにして言った。
「受かったよ」
「それじゃあ」
「ゴリラだからね! ゴリラだから受かったの! わたしは! 演技も何もしないうちから、ゴリラの俳優は珍しいからって理由で受かったんだよ! それってなに? 結局わたしの存在意義はゴリラであることだけなの? ていうか、なんでゴリラなんだよ! お父さんもお母さんも普通の人間なのに、なんでわたしだけゴリラなの! もう、なんなのよ……なんなんだよWOOOOOOOOOOOO!!!!」
ドムドムドムドム!
フロアにドラミングの音が響く。
「リミちゃん! リミちゃん!」
なだめて、早く落ち着かせないと。この姿をみんなに見られたくないと言っていたのは、他ならぬリミちゃんだから。
しかし、リミちゃんの怒りと悲しみは大きかった。これまでとは比べ物にならないほどに。
フロア中の社員はみな、初めて見るリミちゃんの変貌に唖然としている。あの清野さんも言葉を失って立ち尽くす。
「ウー……ウー……ウホオオオォォォォォォォオ!!!!」
その叫び声とともに――リミちゃんの身体が膨張し始めた!
「ウオオオオオオオオオオ」
リミちゃんが駆け出す。腕……いや、前足も使って、全力疾走する先は、窓ガラス。
「待って、リミちゃん――!」
僕の指先があと少しのところで空を掻く。
リミちゃんは巨大化しながら黒い肢体をしなやかに躍動させて、躊躇なく窓ガラスに飛び込んだ。
ズゥン……。
地鳴りがした。割れた窓ガラスの向こうには、
巨大な、ゴリラの顔があった。
リミちゃんは、ビルの四階分の大きさまで巨大化していたのだ。
「リミちゃん……!」
窓に駆け寄ろうとすると、グラリと揺れた。リミちゃんがビルを掴んで揺さぶっているのだ。
揺れに耐えきれず転んでしまう。部長も、清野さんも他のみんなも、壁やなんかに必死につかまっている。
このままビルを壊される……かと思いきや、揺れが止まった。
窓を見やると、そこには離れていくゴリラの後ろ姿があった。
「待ってよ! リミちゃん……ゴリ美!」
『ごめんね、ともくん。やっぱりわたしは、みんなと一緒に暮らせない。どんなにみんなが気を使ってくれても、むなしくなる。だからわたし、森に帰るよ』
そう聞こえた気がした。
「それなら僕も連れて行ってよ! リミちゃん!」
目一杯の大声で叫んだけど、遠のくゴリラの背は、一度も立ち止まることはなかった――。
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