ひと夏の思い出

依月さかな

それは僕の人生の中で生まれて初めて振り絞った、大きな勇気だった。

「やだ。行かない」


 彼女の二つ返事で、僕の勇気はあっさりと砕けてしまった。


「な、何で!?」

「わたし、騒がしい場所って嫌いなんだよね。それにその日は予定があるし。それじゃ」


 あまりのショックで固まる。

 なのに、僕の顔なんか一度も見ず、彼女はくるりときびすを返して早足で行ってしまった。


 「ちょっと」とか、「待って」とか。

 彼女を呼び止める言葉はいくらでも浮かんでくるのに、なにも言えないままだった。


 あまりにヘタレな自分を呪いたくなる。


 昨夜は誘い文句を考えて何度も部屋で練習したし、今朝だって頭の中でシュミレートしたのに。


 そう。

 僕は気になっていた彼女を初めて、この夏、デートに誘った。

 即答で断られちゃったけどね。


 初めての出会いは一年前。

 彼女——愛菜まながうちの学校に編入してきた時だった。


 僕を含めて男女数人のグループですぐ仲良くなった。

 普段は友達としての付き合いだから、仲間内では遊ぶことはある。


 でも、僕は彼女に恋をしている。

 だから当然、二人だけで出かけたいと、ずっと思ってた。

 なにかチャンスがないかな、と悩んでた僕のところへ舞い込んできたのは、来週行われる夏祭りの情報だった。


 地元の夏祭りはテレビで取り上げられるほど盛大に行われるし、屋台も多く出回る。

 中でも一番の名物は豪勢な花火で、大勢の見物客が集まることで有名だ。


 このイベントを使わない手はない。

 だから僕はなけなしの勇気を振り絞って、人生初になるであろうデートに彼女を誘ったのだった。


「あんなに拒否されるなんて、思ってなかったなあ」


 もともと愛菜はクールな性格だけど、付き合いは良いし、誰が誘っても大抵は頷いていた。

 だから断られないだろう、と心の中では思っていたところもある。


 だけど、こうしてあっさりフラれたところ、やっぱり僕には脈なしだったってことなんだろう。


 彼女の「やだ。行かない」という言葉が僕の失恋を決定づけたような気がして、今までになく気持ちが沈んでいった。






 そして、あっという間に祭りの日はきた。


 僕はというと、行く気になんかなれなかった。

 一緒に行きたかった彼女とは行けないし、ここのところ落ち込んでばっかりで友達の誘いもつい断ってしまった。

 ここで一人でのこのこ出かけて行ったら、みじめじゃないか。


 だからクーラーの効いたリビングで、僕は寝転がってテレビを見ている。

 そんなだらしのない弟に嫌気がさしたのか、眼前に仁王立ちした姉が眉を吊り上げて軽く睨んできた。


優太ゆうた、まーただらだらしてる!」

「別に真咲まさきには関係ねえだろ。いちいち絡んでくるんじゃねえよ」


 しまったと思ったが、もうすでに遅しだった。


 普段姉に逆らったりなんてしないのに、この時ばかりはイライラしてつい言い返してしまった。

 真咲はピクリと眉を少しだけ動かす。


 姉弟の間では名前は呼び捨てが常で、もちろん姉もそれだけで怒ったりはしない。

 ただ、真咲は一度激高したら恐ろしくてたまらないので慎重に言葉を選ぶべきだったのに、つい刺々しい言葉を返してしまった。


「……へぇ、いい度胸じゃないの。このあたしにそんな偉そうな態度を取るなんて。覚悟はできてるんでしょうねえ?」


 あ、ヤバい。

 真咲の声が地を這うように低くなってきてる。


 すぐに起き上がって逃げようとした。

 けれどそんな僕の思考が手に取るように分かってるのか、後退りする前に姉が詰め寄ってくる。


「優太、如月きさらぎ家の家訓を忘れたようね。目上の者には逆らわない。このあたしがたっぷりと教えてあげるわっ」

「ま、真咲、タンマ!」

「問答無用!」


 ああ、もうダメだ。


 鬼のような形相をした姉を前にして、僕は胸ぐらをつかまれる。

 襲ってくるであろう彼女の拳を顔で受け止めようと覚悟した、その時。




 ピンポーン




 ——と、インターホンが家中に響いた。




「チッ……命拾いしたわね。早く出なさい、優太」

「出ます! 今すぐ出ます!!」


 ここで姉の命令に逆らっても意味はない。

 こくこくと頷いて、僕は玄関へと走った。


 助かった。

 ありがとう、誰かは知らないけどうちに訪問してくれた人!

 君は僕の命の恩人だ!


 心の中で、思いつく限りの感謝の言葉をつぶやきながら、玄関のドアを開ける。

 思わず笑顔でその人を出迎えた瞬間、僕は目の前の人物に固まってしまった。


 だって、訪問客は、今は会いたくなかった大好きな女の子だったからだ。


「あ、優太。家にいたんだ」

「愛菜……? ど、どうしたのさ、急に」


 黒髪のショートボブに、くりっとした大きな瞳でじっと見てくるのは、どこをどう見ても愛菜だ。見間違いじゃない、みたい。

 学校で会う時とは違って制服じゃなかった。

 ノースリーブの紺色のシャツに、膝より少し長い淡い水色のスカート。つばの広い白い帽子をかぶっている。

 夏らしい爽やかな印象のコーディネイトだ。とってもかわいい。


 まるで、今からどこかに出かけるような服装だけど……。


「祭りは?」


 いつもと違う愛菜をぼんやり見ていたら、彼女は淡々と尋ねてきた。


「愛菜が僕の誘いを断ったんだろ。今さら祭りに行く気になるわけないじゃないか」


 彼女のいつもと変わりない様子に、なんだか胃がむかむかした。

 思わず口調を荒くして答えてしまって、後悔する。


 こんな、嫌な言葉を返すつもりじゃなかったのに。


 本人は大して気にしていないのか、顔色を変えずに大きな瞳で僕を見て、首を傾げた。


「ふーん。じゃあ、今は暇なの?」

「ひ、暇なわけが……」


 本当は、なんの予定もない。今までリビングのソファに寝転がってだらだらしていたくらいだし。

 だけど素直に暇だ、と口にできるはずもなく、僕は意地を張った。いや、正しく言うなら張ろうとした、のだ。


 僕は失念していた。

 背後から迫り来る恐ろしい怪物、もとい姉の存在を。


「誰が来てんの、優太」


 愛菜と別れて家の中に戻ったら、間違いなく姉の手による報復が待っている。

 それだけは……それだけは、どうしても避けたい!


「いや。今、すっげえ暇だよっ!!」


 気がつくと、僕は愛菜にこう叫んでしまっていたのだった。




 * * *




 我ながら情けない、とは思う。

 弟は姉には勝てない運命なのだ。


 だけど、好きな女の子の目の前で、姉に怯える姿なんて見せたくはなかったなあ。


 深いため息を五回くらい吐いた後、その時になってようやく僕は疑問が頭に浮かぶ。


 そもそも、どうして自分はその好きな女の子と、こうして隣に並んで歩くことになってるんだろう。


「愛菜、どこに行くんだ?」

「優太は、今暇だって言ってたでしょ」

「いや、そうなんだけど」


 たしかに僕は愛菜と出かけたかった。

 だけど、君はデートの誘いを断ったじゃないか。なぜ、今さら一緒に出かける必要があるんだ。


 ——そう、僕の方から切り出すよりも早く、愛菜の方が口を開く。


「デートしたいの。付き合ってくれない? 行きたいところがあるんだけど」


 今度こそ、僕はぽかんと口を開けて固まってしまった。

 でもこの耳で聞いたんだ。間違いなく、幻聴なんかじゃない。


「優太しか思いつかなかったのよ。まあ、行きたい場所は祭り会場じゃなくて、静かな場所なんだけど。いいから来て」


 愛菜は決まって、細かい説明を省くクセがある。

 というよりも、考えるより即行動するタイプっていうのかな。


 言うよりも早く、彼女は僕の手を引っ張って前を進んでいく。


 あまりの急展開にドキドキしてそれ以上何も言えず、ついて行った。







 数分歩いた後、最寄りの駅に着く。

 そこから電車に乗り込み、僕たちは祭り会場とは反対方向へと揺られて進んで行った。


 二駅ほど過ぎても、愛菜は目的地の詳細を教えてはくれなかった。


「一体、どこに行くんだ? この方向って、街から離れていってるんじゃ……」

「行けば分かるから」


 聞き出そうとしても彼女はそう言うだけで、すぐに黙り込んでしまう。

 らちが明かないし聞く気も失せてしまって、再び長い沈黙が僕たちを包んだ。


 それから何駅ぐらい過ぎたっけ。

 見たことも聞いたこともない駅名のアナウンスが流れた頃、僕は愛菜に促されて電車を降りた。


 駅を出てから、僕は唖然とする。


 だってそこは、マンションもなにもない田んぼばっかりの田舎町だったからだ。


「こっち」


 目を丸くする僕とは反対に、彼女は至ってマイペース。

 手を引っ張って再び進んでいく。土地勘のない僕はここがどこだかさっぱりで、愛菜に身を任せるままだ。


 歩くこと数分。

 ついに彼女は立ち止まった。


 そこは、草がびっしり生い茂った河川敷だった。


 ちょろちょろと、心地よい水音が聞こえる。

 そんなに大きくはないものの、川があるみたいだ。


「来たかった場所って、ここ?」


 尋ねると、愛菜はこくりと頷いてくれた。


「そうよ」


 返ってきたのは一言だけ。


 草の短い場所にハンカチを敷いて、愛菜は腰を下ろす。

 僕もその隣に座った。


 そして再び沈黙が続く。


 いつもの仲間がいないせいか、よけいに静かだった。

 黙り込んだままだし、かと言って何か切り出す話題もなくて、なんか気まずい。


 これってデート、なんだよな?


 予想してたのと全然違う。たしかに静かな場所ではあるんだけど、さ。

 かと言って、文句を言える雰囲気でもない。静かに流れる川を眺めてるだけの彼女には、何か訳ありの事情を抱えているんだろうってことは、さすがの僕も気付き始めてる。


「わたし、ここに住んでたの」


 不意に、ぽつりと愛菜が言った。

 思わず僕は返す。


「それって、うちの学校に編入してくる前?」

「うん、一年前にね」

「そうなんだ。だから、ここに?」

「そう。ここはお気に入りの場所なの。風は気持ちいいし、静かだし」


 そう言って、彼女はそっと瞳を閉じる。


「それに、ここは〝彼〟と初めて来た場所だから」


 時が止まる。


 少ししてから吹いた風が、僕の頬を撫でた。


「え、と……〝彼〟って?」

「大切な恋人よ。一年前に交通事故で亡くなったの」


 亡くなった。

 何度も繰り返し、その重い言葉が頭の中でめぐっていく。


 なにか。

 なにか、言わなくちゃ。


 震える唇を動かして、僕は口を開く。


「そうなんだ、死んじゃったんだね……」

「死んでないわ。だって、彼はわたしの心の中では生きてるもの」


 まっすぐに僕を見つめて、愛菜は胸元のあたりで片手をぎゅっと握った。

 その黒い瞳は揺るぎのない強い眼差しで。


 だから、今度こそ確信してしまった。


 僕は失恋したのだ、と。


 そうか、そうなのか。

 愛菜はいまでも〝彼〟のことを想ってるんだな。

 

「そっか。ごめんね」


 思わず謝ると、彼女は黙って首を横に振る。


 今日の愛菜はいつもとはどこか違って見えた。

 制服じゃないから、なのかな。


 いつもより少し表情がやわらかくて、川を見つめる目は憂いに満ちていてきれいだった。


 本当に、その人のことを好きだったんだろう。

 考えれば考えるほど胸にぐさりと刺さるけれど、同時に僕は隣にいる彼女がこんなにも想う相手のことが気になってしまった。


「その恋人ってどんな人だった?」


 恋敵のはずなのにその相手のことが気になってしまうなんて、自分のことながら馬鹿なんだと思う。 

 けど、そんな僕の気持ちを知るはずもなく、悔しいことに彼女は花が咲いたように笑った。


「優しい人。優太と同じ漢字の名前なのよ」

「同じ漢字?」

「うん。そのままの優しいっていう字で、〝ユウ〟って名前」


 ユウ、か……。


「愛菜が言うなら、本当に優しい人だったんだね」


 基本的に、愛菜は歯に衣を着せたりなんかせず、本当のことしか言わない。

 嘘は嫌いなんだ。


 空を仰ぐ。


 夕焼け色だった空が青暗くなり、闇が迫りつつあった。


「うん。優太みたいに優しかったよ」


 なんでこんな時に、そういうこと言うかな。


「優太だから話したのよ。だって、人の話をどんな時でも真剣に聞いてくれるもの。優太は人の話を無責任に流したり、笑ったりしないから」


 ふと愛菜に向き直ると、僕は胸が痛んだ。


 今の僕はこんなにも、もうこの世にはいない恋敵に対してぐるぐるとどす黒い感情を抱いてるっていうのに。

 そんな屈託のない笑顔を向けられたら、もう全部どうでも良くなるじゃないか。


 どうして、君はこんなに可愛いのだろう。


「ありがとう、信頼してくれて」

「当たり前でしょ。友達だもの」


 トモダチ、ね……。 

 口に出されると、なんかショックだ。めちゃくちゃ切ない。


「ここはね、優のお気に入りの場所だったの。初めての夏に一緒に出かけた場所なんだ」

「そうなんだ」


 たぶん、ここは愛菜の気に入ってる場所でもあるんだろう。

 首肯して深呼吸する。肺にいっぱい新鮮な空気を吸う。


「もう少ししたらね、優太も驚くと思う。あっちでは見られないものがここでは見れるから」


 その言葉の意味を知るのに、そう時間はかからなかった。


 すでに夜のとばりが降りた空の下。

 なんとなく穏やかな水音のする方を眺めていると、点々と幾つもの小さな光が灯っていく。


 優しい光だった。

 小さくて、少し触れただけで壊れてしまいそうな。儚い淡い光だった。


「ホタル……?」

「うん。きれいでしょ? ここの川はすっごくきれいだから毎年ホタルがくるの」

「へぇ」


 生まれて初めて見た。

 街で生まれ育った僕にとって、滅多なことでは見られない未知のモノ。

 壊れ物みたいに繊細で、宝石のように美しかった。


「うん、きれいだ……」

「優もね、ホタルが好きだったの」


 愛菜は、一言一言を慈しむように口にする。

 ずっと大切にしてきた思い出なんだろうな。


 昔の恋人は恋敵のはずなのに。

 今の僕は、まるで一番大事にしている宝物を見せるように笑顔を向ける彼女に魅入ってしまっていた。


「泣いてもいいよ。僕はホタルをもう少し見てるから」

「何言ってんの。わたしは決めてるの、〝彼〟に見せるのは笑顔だけだってね」


 くすりと彼女は笑う。

 だけど僕は笑わなかった。


「でも、手つないでいい? ほら真っ暗になると迷子になりそうだし」

「いいよ」


 いつもと変わらない淡々とした口調だった。

 僕はひとつ頷いて、細い指を握る。


「ホタル、きれいだね。カメラとか持ってくればよかったな」

「ばか。フラッシュたいたりしたら、ホタルが怖がるじゃない」

「それもそっか」


 軽く笑い合う、僕と愛菜。


 他愛もないことをしゃべって時間を潰す。

 二人だけの時間は、どんなに長くても飽きなかった。


「また来てもいい?」

「わたしに断らなくても、自分で来たらいいじゃない」

「えー。だって僕、ここの土地勘ないし」


 そう不満をもらすと、彼女は僕の手を振り払わずにプッと吹き出した。


「もうしょうがないなあ。そんなに言うなら、また連れて来てあげる」


 くすくすという笑い声と共に、愛菜は僕の手をぎゅっと握り返してくれた。




 僕の初恋は実らない。

 彼女の心はすでに誰かのもので、僕に向くことなんてないだろう。


 それでも彼女が必要としてくれるのなら、僕が一緒にいることでその小さな胸に刻んだ心の傷が少しでも癒える助けになるのなら、それで構わない。


 彼女は、大切なひと夏の思い出を僕に見せてくれた。


 だから僕は愛菜のしあわせを願おう。


 無理して笑うんじゃなく、どうか彼女が自然と笑顔になれるような毎日が戻ってきますように。


 幻想的な光に包まれながら、僕は心からそう祈った。




 

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ひと夏の思い出 依月さかな @kuala

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