暴虐の魔王
広大な大洋に面した海辺に三人は立っていた。はるか向こうに小島が見える。ちょうど上ってきた朝陽と重なってまぶしい。ハッピーエンドにふさわしい好天だ。
「恐縮ですが、ここからはいつものようにおひとりでお願いします」
「十年にわたる仕掛けの仕上げです。くれぐれもお気を付けください」
ふたりの秘書官が頭を下げると、ネフティスはうなずいて歩き出した。言われなくてもわかっている。十年間かけて、至福の時を作ってやったのだ。ここで失敗するわけにはいかない。ネフティスの足下に地下へ向かう階段が現れる。ネフティスはその階段を降りる。灯りのない螺旋階段。果てしないと思われるほど階段は続く。
ネフティスは階段を降りながら、つらつら思った。十年前、この地にやってきたネフティスは王の信頼を得るため、次々と魔族を葬った。そのおかげで至福冥還師として仕えることを認められた。だが、簡単に葬ることのできない相手が何人もいた。この地下にいる暴虐の魔王もそのひとりだ。殺すのは難しくないが、ただ殺せば祟りが残る。祟りを残さないために十年の年月をかけて仕掛けを用意せざるを得なかった。呪いによって永遠の命を得ているネフティスにとって十年は長くない。
ネフティスは小島に着いた。巨大な地底湖にぽつんと浮かんでいる。地上と同じように光り輝く太陽があり、森があり、動物もいる。
この小島は遠くからは見えるが、近づくと見えなくなる。そもそも地上には存在しない。地下深くにある。小島の幻が海上に漂っているのだ。だから船で近づくと姿が見えなくなる。
螺旋階段は島の中央に続いていた。ネフティスが階段から降りて岩だらけの海岸に向かうと、哲学者のような風貌の老人が岩に腰掛けて景色をながめていた。美しく長い銀髪に伸び放題のひげ、おだやかな表情からは暴虐の魔王とまで呼ばれた魔道士の面影はない。深く刻まれた皺は長年の思索を物語っている。ネフティスは老人の後ろで立ち止まると声をかけた。
「完成したのだな」
「十年かかったな。全ての魔力を使い切った気がする」
老人は振り向かずに答える。この男には見えている、とネフティスは感じる。この世のほとんどの出来事はここにいながらにしてわかるくらいの力は残っている。
「こいつが動くのを見たら、なにも思い残すことはない」
こいつとはこの小島そのものだ。草木が生いしげり、小鳥が舞う桃源郷のようなこの島が、世界の善なるもの、無垢なるものを喰らい尽くす最終魔術兵器に変貌する。ネフティスの目の前の老人はその装置を十年間かけて完成させた。ネフティスは老人に乞われるままアドバイスを与え、不足している資材を調達した。魔法具を与えたこともある。
「動かしなさい。あたしも見たい」
ネフティスは迷いもせずに告げた。老人の肩がかすかに揺れた。さすがに驚いたのだろう。魔族を滅する仕事のネフティスが口にしてよいセリフではない。一度起動すればこの世界を破壊する。
「あんたにはこれまで手伝ってもらった恩義がある。だからもう一度訊ねる。ほんとうにいいのか?」
老人はネフティスに背中を向けたままつぶやく。
「お前をここに閉じ込めたのは、あたしだ。恩義など感じる必要はない。あたしが封じなければ、お前は自由に暴虐の限りをつくせた」
「だからだ。この世界を破壊する装置に比べたら暴虐など児戯に等しい。そのことに気づかせてくれた。だが、お前がいいと言うならオレは動かす」
老人は立ち上がった。ネフティスは無言でうなずく。秘書官たちは彼方の海岸からここを監視しているはずだ。肝を潰しているかもしれない、とネフティスは心の中でくすりと笑った。
「こいつが動けば、善なるもの、無垢なるものを喰らい尽くす。あんたは逃げてくれ」
老人はそう言うと初めてネフティスの顔を見た。ネフティスは無言でそのまま立っている。老人が「いいんだな」とつぶやくと、ごう、と風が吠えた。たちまち周囲が暗転し、漆黒の闇に包まれた。そこにネフティスの白い顔と、老人の身体だけが浮かんでいる。
「逃げろ? とは異な事を言う。あたしを罠にはめて殺すつもりだったんじゃないのかい?」
この装置を動かせば近くにいるネフティスは真っ先に喰われる。魔王はそう考えていたはずだった。
「そう思ってた。でも、もうそんなのどうでもよくなった。オレはもう満足だ。見てくれ、この漆黒の闇をどこまでも昏い。美しいと思わないか?」
魔王が誇らしげに笑みを浮かべた時、その姿が消え、一瞬のちにまた静かな小島の景色に戻った。ただ、魔王だけが消えている。
「ほんとに素晴らしい」
ネフティスはそう言うと、元来た階段を昇り始めた。
「あの……いったいなにが起きたのでしょう?」
「暴虐の魔王は幸福な最期を迎えたのですか?」
ネフティスが姿を現すと、秘書官たちが質問してきた。
「いつでもあたしの仕事はハッピーエンド。知ってるだろ。十年もかけたんだ」
ネフティスはため息をつく。
「それより、次の仕事だ。式典は夕刻なのだ。早く次の仕事を終わらせないと間に合わない」
ネフティスの言葉にあわてて絨毯を取り出す。
「あいつはあの装置に己の魔力も呪詛も全て注ぎ込んだ。おかげで装置は完成したが、もはや装置そのものが魔王としてのあいつの分身になっていた。残った本体には無垢な魂だけが残った。十年前のあいつならあたしに、逃げろ、なんて言わなかった」
絨毯は三人をのせて滑空した。雲の上に出ると、ネフティスは口を開いた。秘書官たちは首を傾げる。
「それはわかります。会話も聞いておりました。しかし、ネフティスさまがなにもなさらないうちに魔王は消えてしまいました」
「あの装置は、善なるものと無垢なるものを喰らい尽くす。近くにいた無垢な魂、つまりあいつを喰い、動力源の魔力が失われて装置も停止した」
「なるほど、ネフティス様にはこうなることがわかっていたのですね。お見事です」
「しかし、ひとつ間違えばネフティス様も装置に喰われる危険があったのでは?」
「あたしは魔女だよ。善でも無垢でもない。邪悪な存在だよ。喰われるわけがない」
ネフティスは表情を変えずに答えた。秘書官たちはそれでもよくわからない顔をしている。わからなくていい、とネフティスは思う。
「十年かけたんだ。ぬかりはない」
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