中島翔太の感染爆発

平山圭

中島翔太の感染爆発


「君は、自分と友達になりたいか?」


  ◇


 練馬区、光が丘第三小学校には現在、およそ千五百人の中島翔太が収容されている。当初は体育館のみの解放であったが、個体数の急増した五月中旬からは教室や図書館も活用されるようになった。いまでは校内の空間全てが中島翔太に埋め尽くされている有り様だ。中島翔太たちは段ボールで衝立てを作り、各々のパーソナルスペースを確保している。遺伝子から記憶に至るまでの全てを共有する彼らの間に、果たしてプライバシーなるものが存在しうるのか、担当者には甚だ疑問だったが、ひとまずはこのような措置がとられた。六十三ヶ所の他の収容所においても状況は全く同じだ。彼らはみな、現在急ピッチで建設が進めらる巨大収容施設への移送を待ち望んでいる。地域住民や関係者にしても、その気持ちは同じであった。


 八月現在、確認されている中島翔太の個体数は約四万にまで上る。感染性が発覚した一月から半年間、その数は指数関数的に増加していた。捕獲と隔離が徹底された今、グラフは緩やかなカーブを描きつつあるが、状況は未だ余談を許さない。


  ◇


 全ては夢から始まった。

 昨年の十二月中旬、「夢牛」というイラストがネット上で話題となった。眼鏡をかけた若い男の絵で、見た者はそれから毎晩、絵の男を夢に見るようになる、というストーリーだ。一定期間後に死ぬという派生型も流行した。

 ことの発端は互いに関わりのない、複数の個人による投稿だった。同じ男が繰り返し夢に現れるという趣旨の投稿が十一月末から十二月初旬にかけて、ツイッターを中心に多数寄せられ、各人が夢見るその男の容貌の類似がささやかな注目を呼んだ。


 #チー牛の夢

 #エルム街のチー牛

 #ThisChigyu


 その他いくつかのハッシュタグに多数の目撃談が寄せられた。「夢牛」はそうした一連の流れを受け、とあるイラストレーターが面白半分に投稿した人相書である。話に尾鰭が付くにつれ、それはある種の呪いの絵へと変質していった。「チー牛」という俗語の流行と時期が重なったことも、噂の悪質な方向付けを手助けした。

 かくして「夢牛」は大きな話題となったが、本題についてはあまり盛り上がらなかった。「This Man」の陳腐な模倣という印象が強かったからだ。一部の目撃者はそれでも熱心に話の真実性を主張したが、その熱意が逆に人々を引き離した。そして「夢牛」の流行も、一週間ほどで収束した。


 年が明けて、「夢牛」は再び流行した。人相書にそっくりな人間が、全国各地で発見されたためだ。しかもそれは、絵に似た複数の人々ではなく、絵と全く同じ顔の一人の人間なのだ。眼鏡、子供のような髪型の黒髪、小さな顔、気の抜けたような、幼い顔の作り。ツイッターだけでなく、インスタグラムやユーチューブにも多くの写真が投稿された。夢牛の実体化に、ネットは大きく盛り上がった。


 #夢牛の日本縦断


 だがまもなくして、人々は違和感に気づき始める。多すぎるのだ。まず、嘘を許さない一部のネットユーザーが夢牛を捉えたいくつかのツイートを取り上げ、それらの共存が物理的に不可能だと示した。早朝の東京、昼前の宮崎、夕方には秋田で、夜は大阪。夥しい数の投稿が摘発された。そして次第に、大半の投稿が虚構――少なくとも真実だと断言できなくなった。


 #偏在牛


 帳尻を合わせるため、夢牛は双子になり、三つ子になり、五つ子になった。最終的には破綻した。これを受けて、話の文脈は怪談的なものへとシフトする。実際、人々は不気味に感じ始めていたのだ。夢牛を霊的な存在だとする主張も乱立した。


 #チー牛の幽霊


 間もなく、夢牛を二人同時に映した写真が現れた。その枚数は次第に増え、やがて一枚あたりの夢牛の数も増え始めた。三人、四人、五人……。もちろん大半がフェイクだったが、一部は確かに本物だった。そして十二人の夢牛が言い争う動画がユーチューブに投稿されたとき、人々は確かな恐怖を感じた。


 #クローン牛

 #十二人の怒れるチー牛


 この頃から、夢牛の本名が出回り始めた。彼ら自身が口を揃えて名乗るのだ。


 #中島翔太


  ◇


 とはいえ、一月時点では中島翔太を実際に見たという人間は多くなかった。それゆえ、噂については悪質なフェイクという見解が一般的であり、動画をピークに流行りは収束していった。一方で、中島翔太関連の投稿が消えたわけでもなかった。


『中島翔太に道を聞かれた』

『中島翔太に風邪をうつされた』

『娘の部屋から中島翔太が出てきた。

 逆に娘は姿を消した』


 一連の投稿は確かに薄気味悪かったが、それを深刻に捉える雰囲気ではなかった。まだ、中島翔太はオカルトの範疇に居たのだ。

 そしてその態度を後押しするように、二月から三月の半ばまで、時間は静かに流れ去った。あとから思えば、それは嵐の前の静けさだった。


  ◇


「緊急事態宣言の発令は四月のはじめ……でも、一月には感染性が発覚していたんですよね」

 そう、資料を捲りながら呟く桜庭を、大谷が厳しい目で睨む。

「それは批判か?」

「いえ……単に、この間隙が気になって……」

「たしかに一月時点で、我々は『中島翔太』という感染症を発見していた……だが誰が即座に順応できる?という事態に」

「……わかります」

 会話は途絶えた。エアコンの音が二人きりの会議室を満たす。桜庭は後悔した。しかし幸いにも、気まずい空気が凝り固まる前に、会議室のドアが開く。桜庭は顔を綻ばせる。

「朝倉教授」

 背広を来た初老の男が顔を覗かせる。

「あれ、ガラガラだね」

「皆さん、収容所の視察に向かわれました」

「ふうん……あまり歓迎されてないのかな」

「いえ、そういうわけでは」

「いや、いいんだ。正直僕も、驚いている」

「この異常事態だ。あらゆる分野の知見が欲しい――心理学も例外ではないということだ」

 大谷の口調はいかにも不機嫌そうだが、朝倉はあまり気にしない。

「正確には、僕の研究はもっと広い裾野を持っている――臨床心理学、精神分析、認知行動科学――まあ、多少は役に立てるつもりだよ」

「それを願うね」

「よろしくお願いします」

「うん……」

 朝倉は椅子を二つ挟んで桜庭の隣に座る。

「始めよう」


「手始めに、『中島翔太』の基礎知識について確認したい。僕のほうでも勉強したつもりだが、なにしろデマが多い」

「そうですね。妥当な手順だと思います」

「ただし、我々も多くを知っているわけではない」

「確定事項を中心にお伝えします」

「助かるよ」

 桜庭は朝倉に資料のコピーを渡し、説明を始める。

「まず、『中島翔太』は感染症です。感染性因子はプリオンに似たタンパク組織ですが……未だ不明点が多い状態です」

「少なくとも、特効薬やワクチンが、すぐには作れない」

 大谷が忌々しげに引き継ぐ。

「永遠に作れない可能性も?」

「ある。否定はできない」

「なので我々にいまできることは感染の抑制のみとなります。幸い、空気感染はしないようで、感染経路は飛沫感染や接触感染――唾液や鼻水を介した、眼や鼻の粘膜からの侵入――というのが定説です」

「マスクやゴーグルである程度は防げると」

「ええ、今のところは。顔の粘膜から侵入した感染性因子はやがて脳髄に移動し、増殖、およそ三十パーセントの確率で『中島翔太』を発症します。潜伏期間は二週間から一ヶ月と言われています」

「発症……」

 大谷が呻く。無視して桜庭は続ける。

「発症するとまず、罹患者は三十八度以上の熱を出し、嘔吐や下痢を繰り返します。それが平均して一週間ほど続き、この期間に体構造の大規模な改変が行われます」

「大改造だ」

「そうです。発熱はすさまじい新陳代謝によるものと考えられます」

「まるで蛹だな……その期間の感染力は?」

「あります。潜伏期間にも感染力はあるようです。完全体にしか感染力はない、というのは、真っ赤な嘘です」

「やっぱり……」

「熱が引いた頃には罹患者はもはや別人です。脂肪はおろか筋肉もなくなり、視力は急激に衰えています。そして何より――」

「――中島翔太になっている」

「そうです。全細胞が中島翔太に変わっています。顔、指紋、骨格……。脳も例外ではありません。罹患者は記憶、人格、全て同一の状態にセットされます」

「我々はこれを完全体と呼んでいる」

「改めて聞くと、やはり恐ろしい病ですね」

「ああ……発症以前の身体の情報は全て失われているから、完全体をもとに戻すことはまず不可能だ」

「一生……」

「そう、一生、中島翔太として生きることになる。あれを生きていると言っていいのかは、いま議論の真っ最中だがね」

「テセウスの船、か……」

 朝倉は中島翔太の写真に目を落としながら、困ったように頭をかいた。

「倫理や哲学はさておき、問題は、退ことだ。医療崩壊寸前で収容先を各地の公共施設に変更したが、そこもいまやパンク寸前……」

「収容所の完成が待たれますね」

「うむ……」

「確定事項は以上でほぼ全てです。あえて付け加えるなら――」

「――『夢牛』だね?」

「ええ。潜伏期間や改変期、感染者は中島翔太の夢を見ると言われています。ネット上では『夢牛』として、去年の暮れから話題になっていました」

「もっと早くに気づけたはず、か?」

「いえ、そういう意味では……」

「まあ、まあ。仕方がないよ。中島翔太は身を隠す習性がある。発覚が遅れたのはそのせいだ」

「ええ、その通りです」

 桜庭は胸を撫で下ろす。

「中島翔太の習性については朝倉教授のほうがお詳しそうですね」

「ああ、そうかもね」

「三月になって漸く、中島翔太は世間に露出し始めた……三月末には渋谷のスクランブル交差点や山手線にも出没した」

「そして緊急事態宣言に至る、と」

「その通りだ。エイプリルフールに発令したせいで、失笑を買う結果となったがね……。さて、次は朝倉教授、あなたの番だ。何か、見解がおありで?」

「ええ、お話ししましょう」


  ◇


 池袋の街はよそよそしい静寂に包まれていた。人通りは平時の半分といったところで、誰もがマスクとゴーグルをつけ、常に周囲を警戒している。装備のせいで、知り合いもろくに識別できないのに、それでも〈中島翔太〉を探しているのだろうか?

 滑稽だ――そして哀れだ。

 彼らは僕を恐れている。それは奇妙な感覚だった。なんとなく申し訳ない気もしたし、同時に――ああ、僕は頭がおかしい――高揚もした。今すれ違った通行人たちは、僕が諸悪の根元だと知らずに、この半年間の仇を討つ機会を逃したことを知らずに、今日一日を過ごすのだ。僕はその事実にぞくぞくしてしまう。僕は頭がおかしい。

 僕はいま、黒マスクにスキーゴーグルという格好だ。ばれるはずがない。そもそも世間は僕が黒マスクをするなんて、それどころかスキーをするなんて、想像もしていないのだろう。そこがうかつなのだ。僕をちっぽけなチー牛だと思っている。もちろん、彼らが僕をチー牛だと考えてしまうのも無理はない。そういう意味では、僕はたしかにチー牛だ――チー牛とは、世間の作った主観的な物差しに過ぎないのだから。だが僕はただのチー牛ではない。僕は狂っている。僕は頭がおかしい。

 多くの施設では検温と人相のチェックをしているが、人手の足りないところでは行われていない。駅やファミレス、スーパーがそうだ。おかげで僕は自由に移動ができるし、食べ物にも困っていない。まったくだらしない世の中だ。これじゃまるで張り合いがない――おっと、これは危ない思考だね……。

 でも実際、世界中の人間が僕になるというのも、案外悪くないのかもしれない。世の中は本当に馬鹿ばかりだ。暴れ牛に紫陽花戦争、あれだけ痛い目に遭ってもまだ学習しない。僕から逃れたいのなら、家に引きこもるしかないのだ。それすら理解できずに、見よ、インターネットはいま、中島翔太が右翼か左翼かで意見が割れ、喧喧囂囂たる有り様だ。ああ、逆にかわいそうになってしまう。少なくとも彼らは、僕になったほうが幸せだ。

 けれどもし本当に、世界中が僕だらけになってしまったら、僕はとても生きていけないだろう。僕は僕のことが大嫌いだ。僕は欺瞞の塊だ、僕は偽善者だ、そして――僕は本当は理解している。今までのはただの冗談だ――僕はちっぽけなチー牛だ、僕はコンプレックスの塊だ……。

 不甲斐なくて、僕は空を見た。良い天気だった。


  ◇


「我々はまず、中島翔太の人格を立体的に分析しました」

「立体的?」

「多角的な分析。すなわち、ほぼ完全な理解です」

「傲慢だな」

「不遜と傲慢こそ科学者の本質だ。続けても?」

「構わんよ」

「どうも。中島翔太の人格とは、例えるなら合わせ鏡の世界です。延々続く鏡面。心の中で、彼は常に二人の自分を用意している。主観的な自分と、客観的にそれを観察する自分だ。そして客観的な自分の方にこそ、本当の自分が、魂が居ると考えるんです。やがて、その場所も主観的だと感じたら、またその外側に遊離する……彼は永遠にこれを繰り返します。彼の一挙手一投足は、彼にとって全て演技であり――その点ではオーウェルの『二重思考』にも似る……」

「独特だな」

「いいえ。極めて没個性的だ」

「なに?」

「三色チーズ牛丼型とでもいいましょうか?ありふれた思考体系です。そして普遍的だ。ドストエフスキーや太宰治も作中で言及している。なに、卑小な人間ですよ」

「その卑小な人間が、いま我々を脅かしているのか」

「ええ。三色チーズ牛丼型人格――ちっぽけですが、感染する人格としては、もしかすると最悪かもしれない」


  ◇


 僕はタピオカを買って、公園のベンチに座った。すっかり流行りの過ぎたこのドリンクを啜りながら、ぼくはついつい笑ってしまう。


『信じがたいことに、中島翔太にはタピオカが有効であることがわかりました』


 いい大人が、真面目な顔で言うのだから世話はない。たくさんのデマが流れた。タピオカを飲むことで免疫が作れる……タピオカを飲むと発症しない……〈中島翔太〉はタピオカを飲むと溶けてしまう……呆れた話だった。

 僕は普通にタピオカを飲む。僕は異性と淀みなく会話できる。僕はスターバックスに入れる。コスパが悪いから、あまり頻繁には利用しないけれど。

 タピオカ騒動が起きたのは五月ごろ、緊急事態宣言が解除されてすぐの話だ。つまりは、連続暴れ牛事件の直後。みんな僕が怖かったのだ。正確には、僕の模造品が。しかしまだ彼らは僕たちを甘く見ていた。それが原因で、あの戦争が起こったのだ。

 僕はタピオカを飲み干した。容器は道端に捨ててやった。僕はこんな悪事だって働けるのだ。僕は駅へ向かった。


  ◇


「中島翔太は自分が世界一賢い人間だと確信している。中島翔太は気が短い。中島翔太は興奮すると早口になる。中島翔太はよくしゃべる。中島翔太は『論破』を好む」

「ああ、それは我々も痛いほど知っている。捕獲に毎回手こずるからな」

「言い負かされそうになるんですか?」

「まさか。唾が散るんだよ」


  ◇


 #オタク特有の早口

 #飛沫感染

 #スーパースプレッダー牛


  ◇


「三色チーズ牛丼型人格――その思考体系は一見複雑で深淵じみているが、最初に言った通り、所詮は二枚の鏡だ。底は浅い。我々はすぐに分析を終えました。そしてこれらの分析結果を踏まえ、彼らの習性、行動心理について研究を始めたのです」

「中島翔太の習性、ですか」

「ええ。幸い、サンプルは豊富にあった。まず、例の『連続暴れ牛事件』。中島翔太の反撃です」

「反撃?」

「そう、反撃。宣言の発令中、我々は中島翔太の捕獲と隔離を徹底しました。そして市民たちもそれを模倣した……俗に言う『チー牛狩り』だ。地方では自警団のようなものが組織された。各地で中島翔太が炙り出され、そして――」

「――虐待の末、殺害された」

「ええ。火炎放射器の作り方がネットでバズりました。殺害や虐待の様子を捉えた映像が『汚物は消毒だ』というハッシュタグに多数集まった……中には顔が似ているだけの、ただの人間もいた」

「……」

「しかしこれらは一定の効果を挙げた。まあ、大半はあなた方による捕獲と隔離による功績ですが……何にせよ、感染者数は横這いになり、五月の始めには緊急事態宣言が解除された」

「そして『反撃』が始まった」

「その通り。中島翔太はそもそもストレスに弱い。チー牛型人格は逃避の人格です。僕は悪くない、あいつらが悪い、あいつらはおかしい……しかし臆病なので、宣言の発令中には動けませんでした。世間が落ち着いた頃になって漸く、癇癪玉を爆発させたのです」


  ◇


 連続暴れ牛事件。

 それは渋谷駅で始まった。ハチ公前にたむろする若者の集団に対して、一人の中島翔太が繰り返し唾を飛ばしたのだ。複数の目撃者によれば、中島翔太はゴーグルとマスクをして人だかりに近づき、彼らの目の前でそれらを外すと、「俺は中島翔太だ!」と繰り返し宣言して、凶行に至った。また、彼は犯行の最中、顔をぐしゃぐしゃにして泣いていたという。この事件はインターネットで大きな話題となった。


 #暴れるチー牛

 #暴れ牛


 この一件は多くの中島翔太を触発し、同様の事件が各地で連鎖的に発生した。非感染者の模倣犯も現れた。「暴れ牛」は五月に二百四件確認されたが、政府の捕獲部隊が動き出すと鳴りを潜めた。

 人々は一連の事件を、「連続暴れ牛事件」と名付けた。


  ◇


「捕獲部隊の出動によって、『連続暴れ牛事件』は収束したかに見えた。しかしそれは間違いだった」

「紫陽花戦争」

「ええ。六月、中島翔太は徒党を組んで蜂起した。原宿・竹下通りから始まり、大阪、名古屋、九州……各地へと暴動は波及した。口からよだれを垂らす中島翔太の行進……よじったティッシュで執拗にくしゃみを繰り返し、撒き散らされる唾……そして彼らは無差別に、通行人に噛みつき始めた……文字通りの意味で。あれはまさに――」

「――ゾンビ映画そのものでした」

「そう。ゾンビ・パニックだった。そして実際、六月に感染者は急増した。市民の気の緩みでは説明しきれない速度で」

「緊急事態宣言の再発令寸前まで事態は悪化した。だが捕獲部隊の決死の戦いによって、六月中旬には沈静化に成功したんだ」

「あれは迅速な対応だったと思います。ネットでの評価も高い。人権擁護派からの批判はありますが……」

「ふん……」


  ◇


 映画みたいだった。竹下通りを群衆が逃げ惑い、〈中島翔太〉はそれを追い、捕まえ、噛みつき、被害者は絶望的な表情で悲鳴を上げた。防護服に身を包んだ捕獲部隊は大量のゴム弾を〈中島翔太〉たちに発射し、足止めされた行列に向けて、建物の上から網が投げられた。僕はその様子をユーチューブで見た。僕は楽しんだ。僕は頭がおかしい。

 あれ以降、政府は捕獲体制を強化した。中島翔太への出頭要請がテレビやネット、街のスピーカーで繰り返された。多くの〈中島翔太〉が自首し、小学校やサッカー場に収容された。そのほうがよほど安全に思われたし、世間は居心地が悪すぎたのだ。

 では僕はなぜ出頭せず、身を隠しているのか?

 僕だって怖かった。いつ捕まって、タコ殴りにされるか、不安で仕方がない。でも収容所も同じくらい怖い。中で〈中島翔太〉を殺処分している、という噂を信じているわけではないが、やはり気味が悪い。それに、自分と同じ顔の人間たちと、すし詰めで暮らすのもごめんだった。

 決心がつかず、もじもじしている間に、僕は気づいた。街は意外と安全だ。いつも通り過ごしても、誰も気づかない。今みたいに。むしろ現状維持こそ最善の策に思われた――生き延びるためには。

 そう、生き延びるため。僕は生き延びなければならない。オリジナル、本物の中島翔太である僕は。

〈中島翔太〉は皆、自分を本物だと言う。それは知っている。だが事実なのだ。僕は中島翔太の自宅のリビングで目を覚ました。生まれてから十九年の記憶をしっかりと携えて。他の模造品たちはどこで目覚めた?見知らぬホテル、知らない女の子の部屋、入院した覚えのない病院の個室。可哀想だが、奴等はみんな偽物だ。僕こそがオリジナル。僕こそが本物の中島翔太。

 オリジナルは生き延びなければならない。このパンデミックに打ち勝つ鍵は、きっとそこにあるのだから……なんてね。


  ◇


 続きは収容所を見ながら話したい、と朝倉が言うので、三人は移動を始める。彼らはいま長い廊下を歩いている。

「ところで」

 思考解析を踏まえた中島翔太の潜伏数の検討から、朝倉が話題を変える。

「仮に存在するとして――オリジナルは見つかりそうですか?」

 大谷は肩をすくめる。

「無理だろう。中島翔太に聞けば、みな同じ住所を口にするが、訪ねてみればマンションはどの部屋も空っぽだった。おそらくはクラスターが発生したんだろう。手遅れだったんだ。同居していたらしい両親はもちろん、親戚とも連絡がとれない。中島翔太が嘘をついている可能性も考慮して、戸籍も洗ったが、同姓同名が多すぎる」

「オリジナルにも感染能力が有るとすれば、両親はすでに……」

「ああ、完全体になっている可能性もある。一度自宅に帰ったが誰もいなかった、もしくは自分が何人もいた、という個体も多い」

「オリジナルが見つかれば、あるいは、と思ったのですが……」

「望みは薄いな。まあ、完全体はみんな、自分こそが本物だというがね」

 三人はエレベーターに乗った。


  ◇


 池袋駅の西口前は大騒ぎだった。

「画一化は地球の意思です!種の進化です!すべての不幸は『あなた』と『わたし』の違いから生まれる!画一化された未来にそれはない!マスクを外しなさい!ゴーグルを脱ぎなさい!もはや、我々が生き残る道はそれしかない!」

 マスクもゴーグルもつけていない集団が横断歩道の前を陣取り、演説が行われていた。反発の怒号が飛び交い、野次馬はその様子を撮影し、何人かが警察に通報していた。少し離れたところからそれを見ていた僕は、エヴァみたいだな、と他人事のように思った。

「なぜ顔を隠すのですか!みんなしているから!?馬鹿げている!みんなメディアに踊らされているんだ!自分のエゴを手放せない、浅ましいマスメディアに!なにが個人主義だ!なにが新自由主義だ!これは地球の意思なんだ!」

 男は息切れしながら、別の男にマイクを渡した。突然、ヒップホップだろう、音楽が流れ始めた。男が話し出す。

「それじゃあ聞いてほしい。んで考えてほしい。なんでみんな、中島翔太の人生を、不幸だって決めつけんの?」

 それには同感だ、と思いながら、彼は駅に入った。背後では日本語ラップが歌われ始めた。


  ◇


「サンプルの分析を終えた我々は先月、ついに臨床研究に移りました」

 朝倉たちは収容所へと続く渡り廊下を歩いている。大谷が眉をひそめる。

「臨床研究だと?」

「ええ。完全体を使った実験です」

「そんなことを!」

「我々は複数の完全体を用いて様々な実験を行い、膨大な情報を引き出しました」

「彼らの体構造は我々が調べ尽くした」

「そんな類いの実験はしないし、できません。心理学的な臨床実験です」

「ふむ……初耳だ」

「データはいま整理している最中だから、仕方ない。近日中に共有する予定です」

「そうしてくれ」

「実験結果が集積するなかで、僕は――まだ結論とは呼べませんが――ある、一つの知見を得ました」

「何ですか?」

 無邪気に尋ねる桜庭に朝倉は微笑む。

「この騒動は、いずれ終わる」


  ◇


 マンションに帰った中島翔太は、部屋の前に立つ不審な男の姿に直面した。スキーゴーグル、黒マスク、目深に被った灰色のキャップ。ジージャンにジーパン、リュックサック。中島翔太は暫しまごついたが、意を決して声を出した。

「あの」

 男がこちらに気づく。

「あの、そこ、僕の部屋なんで……」


  ◇


「もし自分がもうひとりいたら、君は自分と友達になりたいか?」

 完成間近の巨大収容所を見上げながら、朝倉が言った。

「え、なんですか、その、ありきたりな……」

「いいから」

「一長一短じゃないですか?」

「そうだね。では中島翔太はどうだろう?」

「さあ……」

「それを知るために、我々は実験をした。目を覚ましたばかりの完全体を二人、四畳半ほどの空間に監禁したんだ」

 大谷が目を見張る

「なんだと……」

 無視して朝倉は続ける。

「一週目、早い段階で彼らは打ち解けた。二週目にはより親密になった。部屋によっては性的に交わるところもあった」

 桜庭が、げえ、という顔をするのを、朝倉は楽しんだ。

「そして三週目……長くても四週目には実験は終わった。なぜだと思う?」

 桜庭はわからないような顔をした。だが実際には、だいたい見当はついていた。


  ◇


 デニム生地に身を包んだ男は、中島翔太を無視しておもむろにリュックを開いた。そして中から、持ち手のついた筒上のものを取り出す。


  ◇


「部屋は十五個。そのすべての部屋で殺人が試みられ、死者一名が九部屋、二名が二部屋、残りは未遂に終わった。いま、仮収容所内で中島翔太間の抗争が起こっていることは御存知ですか?」

「抗争?なんの話だ」

「知らないのか。中島翔太たちの間で派閥が形成され、それらが対立しているんです。施設内の縄張り争いとかね」

「社会を形成している……?」

「ええ。『女』も生まれていますよ」

 再び、朝倉は桜庭を見て楽しむ。

「……それで……?」

「はい。これらのことから私は勘づいたんです。この感染爆発は、自ずと収束するように、始めからプログラムされている、と」


  ◇


 #中島翔太の倒し方


  ◇


「中島翔太の感染爆発は、様々な形で我々の社会に与えました。たくさんの人々の事実上の消失をはじめとして、サービス業を中心とした経済への打撃、治安の悪化、社会不安の醸成……そしてそれらうちのひとつに、倫理観・人間観への攻撃があります。『テセウスの船』問題にはじまり、中島翔太は人間なのか、という問い、そして中島翔太に人権はあるのか……。大谷さんも言っていましたね。一番の問題は誰も退院できないことだと。われわれは感染源を隔離はできるが、処分できない。彼らは、とりあえずは人間だから……」

「その通りだ」

「その問題はね、個室に鍵を付けない、それだけで解決しますよ」

「あんたまさか……」

「遺族――この言葉は少し間の悪い感じがしますね――彼らを含め、世間一般には、知られていなかった二次症状、とでも説明すればいい。そういうのが得意な組織がバックについているでしょう?」

「しかし……」

「我々は何も手を下しません。さっきも言ったように、これはプログラムなんです。彼らは自ずから殺し合い、消滅する」

「本当にそうなるのでしょうか」

「なる。例えば――」

 朝倉は少し考える。

「――優勢思想というものがありますね。究極には、優れた遺伝子を劣った遺伝子から隔離し交配させ、その質を高めていく……科学的に正しい、そんな顔をして語られる思想です。ですが、その『選択と集中』が仮に正しいとすれば、『多様性の保存』も等しく正しい。両者の優劣について、科学は判断しません。判断するのはあくまで人間。進化論を振りかざしても、所詮はただの思想です」

「なんの話だ」

「まあ、聞いて。インセスト・タブーというものがありますね。『人間の条件』とも言われますが、野性動物――たとえばライオンなんかにも見られる禁忌です。そして、それこそ進化論に基づけば、そのような法を持つ種が生き残った。自然崇拝を披露するつもりはありませんが、この世界には、多かれ少なかれ、閉じた輪の中での増殖を嫌う側面がある」

「況んや、中島翔太をや……か」

「ええ。彼らの思考体系にはあらかじめ同胞殺しがプログラムされている……潜伏している中島翔太たちも、いずれ……」


  ◇


 中島翔太は、自身に向けられたその筒上の道具が、手作りの火炎放射器だと理解する。男はマスクを外し、ゴーグルを外す――小さな目、気の抜けた童顔。男が笑う。

「汚物は、消毒だ!」

 オレンジ色の炎が光る。


  ◇


「朝倉教授」

「なに?」

「中島翔太とは、一体なんだったんでしょうか?」

場違いな過去形の使用には、その場の誰も気づかない。

「さあ……ノアの洪水のような、神様の試練か、あるいは……」

「あるいは?」

「神様の悪ふざけ、かな」


  ◇


 九月、全国二十二ヶ所の収容所が完成し、中島翔太の移送が開始された。各地に現れたその黒い、巨大な直方体を見て、誰かが言った。

 棺桶みたいだ、と。

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