「死人に口なし」

 お経を読む声が、部屋を充満していた。

 雑音が巻いているわけでもないのに、モヤがかかったように、何を言っているのかは聞こえない。耳に馴染みがないからなのか、最後列だからなのか、そもそもお経とは聞き取り辛いものなのか。とにかく、退屈な時間が流れていた。

 手持ち無沙汰で隣の席へ目を向ける。中学生くらいの少女。何度も船を漕ぎながら、それでもなお、眠気に抗おうとしている。

 僕の視線を感じてか、少女が目を覚ました。目が合う。少女が僕を見ると、ニヤリと笑ったので、僕は無言で首を横に振り「いやらしい目で見ていたわけではない」と主張する。

 どうやら信じてもらえたようで、少女はまた、何処とも言えぬ虚空に向かって、船を漕ぎ始めた。

 少女の名前は井熊いぐま とも。僕の可愛い妹分だ。


 時は二時間ほど巻き戻って、午前九時。僕は近所の斎場へ足を運んでいた。

 当たり前だが、葬式に出席するためである。しかし、普通に葬儀に出席するだけでは、ドラマにならない。というのも、僕と今日弔われる故人の間には全く接点がないのだ。

 理由は至極簡単。他人の葬儀に出席して、その人となりを想像する、これが僕の趣味であるからである。

 歪んだ死生観、その末路がここだ。我ながら、不謹慎で気味の悪い趣味だと思う。しかし、やめようと思ってもやめられない。葬式が行われる知ると、故人がどのような人生を送ったのか、気になってしょうがなくなる。調べたところ、法には触れないし、それが当たり前な地域なんかもあるらしい。もちろん、特定の地域の風習など、免罪符にならないことは理解している。それでも、やめられない。

 故人の名前を確認するため、斎場の入り口へと向かう。斎場へ行ったことがない人は、わからないかもしれないので、軽く説明する。斎場は規模の大きいところだと、同じ日にいくつかの葬儀や通夜を行うため、入り口の掲示板に故人の名前と、開会時刻が書かれている場合がある。なので、ここを見れば、誰の葬儀がいつ行われるかわかるわけだ。

『茶図 真矢  午前十一時』

 掲示されていた名前は一つ。知らない名前だった。比較的近所付き合いの深い地域なので、知っている名前だったりもするのだが、今日は違うようだ。安心して中へ入っていく。故人の人となりを想像するのが目的なのに、予備知識があっては面白くない。完全に知らない状態から始めるからこその面白さ。

 斎場へ入っていく。中は異常なほどに涼しく、喪服の中でジワリと滲んでいた汗が、さっと引いていくのを感じた。遺体を置いておく都合上、夏場の斎場はとても涼しい。入ってすぐ、エントランスのような空間。四方は真っ白い壁で囲われ、両脇には重厚感のある花瓶が、等間隔で並べられている。

 隣接している形式だけの警備員室の前を、我が物顔で通り過ぎ、少し廊下を歩く。すぐに受付を発見した。葬式の受付は、斎場のスタッフがやるもの。と思っている人もいるかもしれないが、実際は違う。基本的には、故人に近すぎない親類や、同僚、友人が行うのだ。なので、適当な嘘をつくとバレる恐れがある。

 僕はできるだけ怪しまれなくて、葬式に来てもおかしくない間柄ということで「故人が行きつけだった喫茶店のオーナー」と言っている。実際に、両親が所有しているマンションのテナントで喫茶店をやっているので、万が一のことがあっても、言い訳が立つということである。まあ、葬式が行われることをどうやって知ったのか。なんて聞かれると少々面倒だが、いちいちそんなことを聞いてくる人に、出会ったことはない。会計以外の仕事は割と適当だ。あくまで堂々と受付へ向かう。よそよそしくする必要はない。

「お疲れ様です。茶図氏に贔屓にしていただいていた喫茶店『Sunny Kiss』のオーナー、相羽あいうと申します」

 受付は三人。三十代くらいの男女と、五十代後半くらいの女性。手元を見ると、五十代の女性の手元に封筒、残りの二人の手元に芳名帳(参列者の名簿)があった。

 初老の女性が、うやうやしく口を開く。

「ご足労いただきありがとうございます。こちらにお名前とご住所をお願いします」

 芳名帳に、名前の代わりに、店名と住所を書く。これも嘘は書かない方がいい。真実に交えて嘘をつくのが、賢い騙し方だ。書き終わったので、スーツの内ポケットから封筒を取り出す。香典だ。実際に二万円入っている。無駄なことに金を使うな。と思われるかもしれないが、これは代金。アトラクションなのだから、対価は払って当然だろう。

「お悔やみ申し上げます、こちら少ない額ですがお受け取りください。封筒に記載してある通り、お返しは必要ありません」

 腹ではそう考えながら、あくまで誠意を持って香典返しを断る旨を伝える。もちろんお返しを貰うのが申し訳ないという気持ちはあるが、いちばんの理由は自分が部外者であることがバレるのを防ぐためだ。

「お気遣い痛み入ります。では、そのように伝えておきますね」

「よろしくお願いします」

 手続きを済ませ、会場へ入っていく。

 受付や警備なんてこんなもんだ。香典を狙ったりしなければ簡単に侵入できるし、警戒もされない。

 とりあえず、参加人数から式の規模を予測し、情報が集まりやすい場所に、アテをつける作業から始める。

 葬式で故人の人となりを知ろうと思ったら、いちばん楽で効果的なのは参列者の会話、中でも陰口を盗み聞きすることだ。しかし、この盗み聞きも対象を選ばずに、手当たり次第にやっていては効果が薄いし、怪しまれてしまう可能性もある。なので、葬式の規模を予測することで、会場の見取り図と照らし合わせて、陰口の集まりそうな場所を探るのが、最も手っ取り早い。

 不審がられないよう、いつものポイントへ向かう。この斎場は最初に言った通り近所にあるため、何度か入ったことがある。構造はある程度理解していた。

 向かうのは、先ほどの受付を左に曲がってすぐのところにある待機室。式までのしばらくの時間を、置いてある菓子なんかで潰すための部屋だ。故人の親族や、特に親しかった人物には別の部屋が用意されていることが多く、ここへ来るのは故人とはそこまで親しくないながらも、礼儀で参列している人、というのが大半。大きめの葬式が行われる際は、格好の狩場だ。

 待機室の引き戸へ手をかける。中からは小さめの話し声、内容は聞き取れないが、後ろめたそうな雰囲気を感じた。期待に胸を膨らませ、扉を開こうとした瞬間。

「お兄さん。部外者ですよね」

 背後から女性の声がした。

 驚きで体が跳ねる。動悸がする。嫌な汗が垂れる。

 こんなことは初めてだ。今まで何度となく、他人の葬式に参列してきた僕だが、他の参列者に感づかれたことは、一度もない。今回にしたって、なんらかのミスを犯した上でバレているのだとしたら、不服ではあるが納得はできただろう。しかし、そうではない。僕は完璧に事をなしているし、成果の出るような行動にすら移っていない。受付をパスした時点で、僕には疑われる要素なんてなかった。

 驚きと少しの恐怖を悟られないように、努めて自然に振り返る。あくまで僕は疑われているだけ。

 目の前にいたのは、セーラー服に身を包む中学生くらいの少女だった。ハネのある茶髪のボブ。顔立ちは幼く、ノーヒントで僕が部外者であることに気がつけそうなほど、聡明そうな印象は受けないが、不思議と制服に着られているという印象も受けない。

「いやだな。確かに、仕事仲間や友人だったわけじゃないけど、あの人は僕の店の常連だったんだ。お葬式くらい来たって文句は言われないはずだよ」

 一瞬迷った末、否定。あまり積極的に嘘はつきたくないが、しょうがない。

 しかし少女は、尚も訝しげな表情。完全に信用されていないようだ。

「証拠はありますか?」

 二に証拠ときた。故人との思い出を捏造することはできるが、関係を物で示すのは難しい。

「そんなもの持ってきてないよ。こんなふうに疑われるなんて思ってなかったから」

 少々苦しいな、と自分でも思う。だが言っていることは間違っていない。葬式に備えて、故人との思い出の品をわざわざ用意してくるやつなんて、そっちの方がよっぽど怪しいだろう。それに、参列している人間が、全員そういった物を持っているとは限らない。

「呼吸。それと歩き方」

 少女はポツリと呟く。

「呼吸と歩き方? それがどうしたっていうんだい?」

「呼吸が異常に深い。それと歩き方が少しだけ左右に揺れています。これは何か後ろめたいことを隠しているときの特徴。しかも、私が話しかけてからさらに深くなっている」

 ギクリ。体内からそんな音がした。先ほど彼女に対して「聡明そうな印象は受けない」と、僕は感じた。訂正しよう、彼女は実に聡明だと。そもそも、疑いをかけられた時点で、警戒するべきだった。自分でわかっていた通り、彼女は。誰彼構わず同じ話しかけ方をする以外で、僕に話しかけるには、端から疑い──それも確信に近い──を持っておかなければならない。つまり、彼女は話しかけてきた時点で、僕を部外者だと、ある程度予想していたということだ。

「関係者ではないとして、あなたは何をしに他人の葬式なんかに来ているんですか」

 沈黙を肯定と取ったか、僕を部外者と断定して話を進めるらしい。

「特に理由はないよ。趣味なんだ」

 観念して、素直に答える。どうやらこの子の前では嘘はつけないらしい。

「本当みたいですね。もう行っていいですよ」

「え?」

 予想外の言葉に、間抜けな返事。

「もう行っていいと言ったんです。だって、香典を盗んだりとか、式をめちゃくちゃにしてやろうとか、考えている訳ではないんでしょう? でしたら、私にはあなたを追い出す義理も義務もありません。それとも、追い出されたいんですか。あなたが望むなら、ここで大きな声を出すくらいの協力はしますけど」

「いやいや滅相もない。ただ、見逃されたことに驚いただけ」

「そうですか。では失礼します」

 言うが早いか、振り返ってズンズンと廊下を歩いていった。

 嵐のような少女だった。表情は凪だったが。

 一呼吸おいて、まるで殴られたかのような衝撃の余韻を、未だ引きずりながら、僕は扉へと手をかけた。




 待機室は二十畳ほどの和室。部屋の左右に長机が設置されていて、等間隔に菓子。向かって右には中年の男性が三人。菓子をつまみながら、何やら楽しそうに話している。反対の机では、同じく中年の女性が四人でヒソヒソ会話していた。時折辺りを気にするような動作をしているところを見るに、後ろめたそうな雰囲気の正体は彼女達らしい。蔑むような、馬鹿にするような気持ちの悪い笑み。「他人の葬式への出席」なんていう趣味を持っている身で言えた物ではないが、僕は彼女達のような人々が全く理解できない。故人を弔うための式、それを行うための会場で、よくもまあ陰口なんて言えるものだ。

 部屋の入り口に立っていては、肝心の内容が聞き取れない。パーソナルエリアを侵さない範囲で、できるだけ近づいていく。

 ギリギリ言葉として聞こえるか聞こえないか、それくらいの微妙な距離。ちょうど良い場所に菓子が置かれていたので、自然に着席できた。

 煎餅の封を開けて、聞き耳を立てる。


「結局、ご両親に何度も言われてたのに、結婚はしなかったんですね。噂だと性的不能者だったとか」

 しばらくは僕を警戒してか、辿々たどたどしい日常会話のみだったが、僕が四枚目の煎餅に手を伸ばした頃に、やっと警戒を解いてくれたようだ。早速、典型的な陰口のお出ましである。

「どうやら女性とお付き合いしたことがない訳じゃないみたいよ」

「というと?」

「なんでも、大学生の頃に付き合っていた女性といろいろあったことが、トラウマになっていたらしくて。性的不能ではないけど、軽度の女性不信だったみたい」

「それで奥さんもお子さんもいなかったんだ」

 死ぬまで独身を貫くというのは、それはそれで美徳だと僕は思う。しかし、悲しいことに、そう思わない人の方が世の中には多いようで、葬式ではこの手の陰口を飽きるほど耳にする。同じ日に何度も聞こえてくることもしばしばだ。

「なるほど……。でも、家にお邪魔する時、決まって中学生くらいの女の子がお出迎えしてくれていましたよ。今日も見かけたので、てっきりあの子がお子さんだと思っていました」

「ああ、あの茶髪の女の子ね。井熊 友とかいう。確か、近所の養護施設の子供だったかしら。家に上がり込んで、相当よくしてもらってたみたい。やっぱり乞食こじきには金持ちの匂いがわかるらしいわね。遺産の一部もあの子に渡っているって話だし」

 茶髪の中学生、脳裏に先ほどの女の子が浮かんだ。両親が来ているような様子もなかったし、何の繋がりで式に来ているのか気にはなっていた。そういうことか。

「本当に嫌ね。あんな小汚い子供に渡るくらいなら私にくれればいいのに」

 ピシッ。

 手元に力が入りすぎて、五枚目の煎餅が割れてしまった。彼女がどのように養護施設へと辿り着いたのかは、どうでもいい。そんなことは問題ではない。問題なのは、とてつもない苦労をしたであろう彼女を「小汚い」と嘲笑うクソより汚い大人達だ。

 彼女が本当に乞食だとして、養護施設を抜け出しては、茶図氏を訪れていたとする。それの何が問題か。悪いのは彼女を取り巻く環境であって、彼女ではない。盗んでいる訳でもないのだ。生きるための工夫を人に笑われる筋合いなどない。

 気分が悪くなり、たまらず部屋を出る。

 喉のあたりにまとわりつく不快感を拭いたくて、受付の近くに置かれている給水機を目指して歩いた。




 給水機までの数十歩で、多少は怒りもおさまったが、いまだに胸の中で不快感がうごめくのを感じる。

 こんな気持ちになったのは久しぶりだった。この世の不条理、不合理、理不尽への怒り。とうの昔に怒ることなど忘れていまっていた。自分一人が怒っていたって、誰も助けてくれないし、何も変わらないと悟ったから。

「身寄りのない子供に愛を」口で言うのは至極簡単だ。SNSを見れば、いつでも見られる光景。だが、一体そのうちの何割が行動に移しているんだろう。一円の募金すらしていないような人間が、大半なのではないだろうか。かくいう僕だって、自分だけが助かっておいて、その後募金したことなんて一度もない。

 紙コップを手に取り、蛇口の下に押し込む。少しの抵抗感の後に、紙コップ越しに手のひらへ冷たさが伝わった。

 あるいは、あの卓越した観察眼こそが、彼女が生み出した負の産物なのかもしれない。僕がこのような歪んだ趣味を持ったように、彼女は必要以上の観察眼を得たのではないのだろうか。だとしたら、そんな悲しい話はない。

 きっと、始まりは「好かれたい」という純粋な欲求。人間として至極真っ当な欲求。それが、生まれながらの歪みによって、あの観察眼へと昇華した。彼女は理解しただろう。自分が歓迎されていないと。それこそ、必要以上に。

 凪のような表情と、傍若無人な態度の矛盾。出どころはおそらくそこだ。

 冷水を一気に胃へ流し込む。そんなことで気持ちがおさまるはずもなく、二杯、三杯と水を飲み干した。それでもなお、不快感は消えない。

「あなた、もしかして真矢さんの息子さん?」

 まるで待機室の時のように、またもや背後から女性の声。しかし、今回は歳を召した貫禄のある声。

 それより、気になったのは内容。僕が茶図氏の子供。そんなことはあり得ない。僕と彼は赤の他人だぞ。棺桶も遺影も見ていないから、彼の顔すら知らないのに。

 たまらず振り返る。

 そこにいたのは、受付をしていた初老の女性。和風の喪服がよく似合うロマンスグレーの長髪。シワを刻んだ顔は老いこそしているが、若かりし頃の美貌を容易に想像させる。

「人違いじゃないでしょうか? それに、彼の家に通っていたのは、女の子だと聞いています」

 人違いも何も、彼と僕には全く接点がないのだから、そんな可能性は万に一つもない。しかも、友は女の子だ。僕と見間違うわけはないだろう。

 僕がキッパリ否定すると、女性は少し慌てた様子で答えた。

「あらやだ、なんで勘違いしちゃったんでしょう。私もそろそろ歳かしら」

 そして、困ったように笑う。受付の時より印象が柔らかく、人を安心させる雰囲気を放っていた。

 いや、待て。おかしくないか。茶図氏は未婚だ。今の時代未婚者に子供がいたっておかしくはないだろうが、彼はそれに加えて女性不信だった。子供を作るに及ぶような関係の女性がいたとは、考えにくい。

 僕と井熊 友を間違えた可能性もないだろう。彼女は小柄な少女、僕は成人男性だ。それに、女性は僕に話しかける際「息子さん?」と聞いた。性別を取り違えているわけではないのは明白だ。ならば、この女性はなぜ存在しない茶図氏の息子と、僕を重ねたんだ?

「失礼なことをお聞きしますが、茶図氏は未婚だったのでは」

 疑問は募るばかり。たまらず、目の前の女性へと無責任な質問を飛ばす。

 思い返せば、僕はこの時点で、真相に気がついていたのだろう。しかし、それを自分の言葉にするのが怖かった。だからこそ、半ば誘導尋問のように女性に質問を繰り返し、真相を得ようとした。

 女性は、一瞬だけ驚いたような顔をした。

「良く知っているのね。そう、彼は生涯未婚だったの。でもね、大学生の頃に付き合っていた女性との間にお子さんがいたのよ」

 僕の予感は、幸いというか、不幸というか、的中してしまっていた。廻り出した歯車は止まることを知らず、真相は僕の元へ開示される。

「大学生同士、しかも真矢さんは作家希望だから、子供どころか自分たちすら食っていける見通しがない。しょうがなく、子供はベビーポストへ……。って大丈夫? 具合が悪くなっちゃったかしら。そういえば、話しかける前にお水をたくさん飲んでいたものね。医療室へ案内するわ、ついて来て」

 女性が僕を気遣う声が、遠くで聞こえる。少女に侵入がバレたときなんかと比べ物にならないほど、大きな動悸。思わず、その場にしゃがみ込んでしまった。まるで大太鼓を体内で叩いているようだ。まさか。まさか。

「大……丈夫です。そんなことより、それは何年前の話ですか」

 振り絞るような声。届いているか不安だったが、女性が困惑するような表情をしたので、どうやら伝わったようだ。

「『それ』って言うのは、お子さんのこと?」

 無言でうなずく。

「確か、茶図さんが大学三年の頃の話だから……。ちょうど三十年前ね」

 さらに動悸が大きくなる。もう止まらない。

「何月のことか、分かったりしますか」

 怖い。知るのが怖い。動悸は大きくなるばかり。悪寒が手を伸ばすように背中を支配する。息をするのさえままならない。

「記録的な猛暑だったと聞いてるから、多分八月じゃないかしら」




 瞬間、世界から音が消えた。




 あんなにうるさかった動悸も、背中を這いずっていた悪寒も、苦しかった呼吸も。

 何もかもが、消えた。




 ああ、そうか。死んだのか、僕の父は。




 八月生まれで今年三十歳になる、同じ施設育ちの子供は僕以外いない。同じポストから別の施設に行った可能性はない。あのポストが行き着くのは僕が育った施設のみ。つまり、僕は茶図 真矢の息子だ。今日弔われる、故人の息子だ。

 やっと見つけたのに。死んだのか。

 いや、違う。僕は見つけるためにやっていたんだ。生きている両親に会うのが怖かったから。それこそが僕の本当の歪み。本当の異常。棺桶の中で物言わぬ死体になった相手になら、いくらでも文句が言えると、心の底では思っていた。

「なんで僕なんか産んだんだ」

 そう言いたかっただけなのだろうか。自己否定を嫌いながら、結局、行動の根底には自己否定が敷き詰められてたのだろうか。「死人に口無し」そんな下らないことを望んでいたのだろうか。

 少し考えればわかるはずだろう。死んだ人間に文句を言ったって、何の意味もないと。

 僕は、実に愚かだ。

 不思議と涙は出ない。あるのは虚無感だけだった。

「その子供、僕です」

「えっ?」

「僕は、茶図 真矢の息子です」

 音を取り戻しつつあった世界が、もう一度静まる。まるで永遠のような静寂。


「やっぱりそうだったのね。後ろ姿がすごく似ていたのよ」

 しばらくして、女性が呟いた。

「あの後、どうなったのか聞いてもいい?」

「ベビーポストで数ヶ月過ごした後、養護施設に送られたらしいです。小学校へ上がる前には里親に引き取られて、それからは特に不自由なく今に至ります」

 女性は安堵したように、胸を撫で下ろす。

「そうなの。真矢さんにはもう会った?」

「いえ、まだ」

「じゃあ会いに行くといいわ。御焼香をあげる時に、よく顔を見ておきなさい」

 他の参列者の目に触れるのを嫌って普段はあげない御焼香も、今回ばかりはあげよう。

「そうします」

 少し落ち着いた途端、先ほど三杯も飲んだはずなのに、体が異常に乾いているのに気づいた。フラフラと立ち上がって、水を汲む。女性も、同じく水を汲み、受付の椅子に座るよう促した。


 バランスの悪いパイプ椅子へと腰掛ける。

 水を口にして、少し落ち着きを取り戻す。

 何となく、心の整理はついた。実の父とはいえ、彼とはほとんど面識がない。言っちゃ悪いが、育ての親より死なれたときのダメージは小さい。それでも、深く傷ついたことに違いはないが。

 気になるのは、この女性のことだ。女性不信だったはずの彼のことを、なぜそこまで知っているのだろう。

「なぜ真矢さんについてこんなに詳しいのか、気になっているんでしょう?」

 ギクリ。体内でまたあの音が鳴る。

「は、はい」

「話せば話すほど真矢さんに似ているわ。面白いくらい」

 女性は水を一口飲んで、まるで何かを思い出すかのように、宙を見つめた。

「彼が小説家だったのは知ってる?」

「はい、先ほど貴女も『作家志望だった』と」

「そう、大学を卒業後、とある新人賞を取って、彼は小説家になった。私ね、今は退職してしまったけれど、出版社に務めていたのよ、編集者として。そのとき担当していたのが、真矢さん、いえ『小五郎 慎二先生』だったの。

 最初の頃の小五郎先生は本当に酷かった。本来なら二人三脚の作家と編集者なのに、私ったら担当についてから五年間も彼の本名を知らなかったのよ。

 その後、先生も私も色々頑張って、いつの間にか信頼できる仕事仲間になったわ。一緒に食事や買い物もしたの。きっと他の人が聞いたら、信じてくれないでしょうね。

 こんなおばさんの色恋なんて聞いたってしょうがないでしょうけど、私、彼のことが好きだった。そして、多分彼も私のことは憎からず思ってくれてた。でも、お付き合いも結婚もしなかった。何でかわかる?」

「いえ」

「あなたのためよ。あなたに、会ったこともない、けれども何より大切な息子に、申し訳が立たないからって」

「僕のためですか……。そんなことしたって意味ないのに」

 締め付けられるような痛みが、全身を襲う。

「彼も意味がないのはわかってたみたいよ。それでも、私とは一緒になれないって言ってた。ほんと馬鹿ね」

「はい。本当に、大馬鹿者です……」

 涙が一雫、溢れて膝に落ちた。

 それを皮切りに、次々と涙が溢れる。止まらなくなる。腕で拭っても拭っても、止まることを知らない。まるで感情の濁流だった。

 僕は、その濁流が枯れるまで泣き続けた。




「もう大丈夫です。ありがとうございます」

「本当に大丈夫? ぎゅっとしてあげようか?」

 女性は悪そうな笑みを浮かべ、からかうように言う。

「お気持ちだけいただいておきます」

 僕も自然に笑みを浮かべながら言い返す。暖かい空気が充満していた。

「じゃあ、そろそろお経も始まるし、私は失礼するわ。またあとで」

「はい」

 空になった僕の紙コップを受け取って立ち上がり、女性の背中が遠ざかっていく。

「あの!」

 思わず呼び止めた。

「ありがとうございました。お話、聞かせてくださって」

 女性は、振り返ると、にこりと笑って。

「ええ、私もあなたに話せてよかったわ」

 心に風が吹くようだった。


 さて、僕の胸の憂悶ゆうもんは消え去った。ならば、僕はなすべきことをなそう。

 井熊 友。彼女を、救おう。


 受付を挟んで、待機室と反対側の大部屋。そこが、お経を読み上げる部屋だった。

 体感で待機室の二倍ほどもある部屋には、所狭しと椅子が並べられ、いかに彼が愛された人物だったのかを物語っている。色々吹っ切れた今では、それがとても誇らしかった。

 開始十五分前、すでに座席にはポツポツと人影。そして、並べられた椅子の最後列に、彼女は居た。

 悲しいのか、怒っているのか、悔やんでいるのか、微妙な表情。僕には、何となく寂しそうに見えた。

 一直線に彼女の席へ向かい、隣に座る。

「どうですか、お葬式。楽しいですか」

 僕が座るのとほぼ同時に、冷たく突っぱねるように言う。取りつく島もない。

 何と返そうか迷っていると、友の方から追撃が来た。

「その様子だと、気づいたんですね。おじさんがあなたの父親だって」

 ギクリ。三度目の音。まさか、今日一日、どころか半日で、こんなに何度も驚くことになろうとは思わなかった。

「知ってたんだね」

「ええ。嘘をついた時に呼吸が深くなるのは、人間ならば必ず起きる生理現象です。ですが、左右に歩き方が揺れるのは違う。それはおじさんの癖でした。知る限り、そんな変な癖があるのはおじさんとあなただけです。あと、右目が一重で左目が三重。何となく面影もあります。すぐ気がつきましたよ。だから見逃したんです」

 無表情で淡々と告げる。僕には全く興味を示さない。まるで機械のようだ。

「父とはどうやって知り合ったの?」

 友は、キツく一度僕を睨みつけ、渋々といった風に唇を動かす。

「まだ私が小学生だった頃、おじさんが突然施設へやってきたんです。あの時は目的を知りませんでしたが、後からあなたの行方を調べに行ったんだと聞きました。

 見るからにお人好しそうだった彼を見て、ついていけばいいことがあるかもしれないと考え、施設を抜け出して彼を追った。すると彼は車に乗り込む前に私に気づいて『わざわざ追いかけてきたのか。しょうがない、お菓子くらいなら御馳走しよう』と私を連れて帰ったんです。

 それからと言うもの、私は何度となく施設を抜けてはおじさんの家に訪れて、日々を過ごしていました。そんなのどかな日々すら、もう二度と私の元には戻ってこないんですけどね」

 最後の言葉が、まるで自分のことのように、重量を伴って胸の中へ落ちてきた。

 足枷を付けられたまま、水の中に沈んでいくような感覚。想像もできないような絶望。

「じゃあ、僕があの人の息子だって知らないのも気づいてた?」

「ええ。普通、父親の葬式に、そうと気づかず出席する子供なんていないでしょう。ならばそこに何らかの事情があるはず。

 それに、あなたの話はおじさんから聞いたことがありました。生きてるなら成人済みの息子がいると。私に充てられる遺産の半分は、あなたが見つかった時に渡すようにも言われています」

 流石の観察眼だ。ここまで予測できているとは。

「君が考えた通り、僕は茶図 真矢の息子で、孤児。そして、君も孤児なんだろ」

 僕が「君も」と言った瞬間、小さく友の体がピクリと反応したのが見えた。

「『津塩寮』。僕も君と一緒であそこの出身だ。今は資産家の両親と暮らしながら、喫茶店を営業してる」



「もし良ければ、君もうちに来ないかい?」


「そんなこと言って、私に何するつもりですか」


 言霊というのは、恐らくこれを指していう言葉なのではないだろうか。そう錯覚してしまうほどに、冷たく燃える怒気を孕んだ一言。

 友は、怒りを隠すこともせず、続ける。

「勘弁してくださいよ。そんな美味い話があるわけないでしょう。馬鹿にするのも大概にしてください。仮に本当に私を引き取るつもりだったとして、それが何になるんですか。同情ですか、哀れみですか。そんなもの反吐が出る。誰にも助けられなくたって生きていけます。

 自分だけ幸せになれて嬉しいでしょうね。下らない。年だけ重ねて、幸せを重ねて、本当におめでたい。

 これだからお葬式なんて来たくなかったんです。変に哀れみを向けられるくらいなら、嫌ってもらった方がマシだから」

 マシンガンのように言葉が飛んでくる。一言一言が悪意に満ちていて、正直聞いてるだけでも苦しい。

 しかし、これは僕の苦しみではない。これは、彼女の心からの悲鳴、SOS。環境が歪めてしまった、彼女なりの感情表現なのではないだろうか。

 撃ち出される言葉の全てが、僕には「助けてくれ」と叫んでいるように聞こえる。言葉の弾丸を掻い潜って、それでも私を救って欲しいと。こんな私でも、愛して欲しいと。

 だから、僕は君を救おう。父のように、父以上に。

 そして、君を愛そう。父のように、父以上に。

 僕は、弾幕を撃ち終えた彼女に向かって、隙ありと言わんばかりに、反撃を叩き込む。

「君の人生、君一人だけのものだと思ったら大間違いだ」

「はあ? 意味がわかりません。『もう君は一人じゃない』とでも言うつもりですか?」

 友はかたくなに、僕の手を取ろうとはしない。まるで、引き取られた直後の自分を見ているようだ。

 周りの人間が信用できなくて、世界の全てが敵に見えて、それでも誰かに助けて欲しくて。なのに、助けを求めるのが怖い。裏切られたら、いなくなってしまったら。考えるだけで、怖くて仕方なくなる。

 その気持ちは、本当によくわかる。でも、無条件で自分を助けてくれる人が現れた時、甘えられないのは、もっと辛いし、もっと怖い。だからこそ、彼女には素直になって欲しいのだ。

「ああ、そうだ。君はもう一人じゃない。だってそうだろう? 血なんか繋がってなくたって、父が君へ愛を注いだのなら、僕と君は無関係じゃない」

「なんなんですか、あなたは。意味がわかりません。私みたいな乞食に構ったって、意味がないのは明白でしょう。私は一人で生きていけます。誰の手助けもいりません」

「じゃあ、その目に浮かんでる涙は何?」

 やっと、手が届いた。

 友の両目に、雫が生まれる。一番星のように明るく光り、やがて頬を伝って落ちていった。

「なんでもないです。ただ、あなたにムカついてるだけで……」

 友は、あくまでも認めない。しかし、その手は確かに涙を拭っている。

 怯えた小動物のように縮こまる彼女を、優しく抱擁する。

「そんなに構えなくても、いいんじゃないのかな。僕だって、施設にいた頃は、誰も信じられなかったし、自分一人で生きようとしてた。けどね、人間は誰かに頼らないと、生きていけない生き物なんだ。今だって、僕は決して真っ当な人間なんかじゃないよ。でも、少しはマシになったとは自分でも思う。だから、君にも少しくらい自分のことを、好きになって欲しい」

 腕の中から、すすり泣く声が聞こえた。

 やっと素直になってくれたらしい。今はその泣き声が、何より嬉しかった。



「おじさんが亡くなったって聞いた時、私泣けなかったんです」

 赤く泣き腫らした目を隠すことなく、友が口を開く。

 場所は先程の待機室。お経の邪魔にはなっていけないということで、移動した。

「人生で一番辛い出来事だったはずなのに、一滴も涙が出なかった。さっきまでもそうでした。

 でも、今泣けたおかげで、気持ちの整理がついた気がします」

 そう言った友の表情は、確かに先ほどの何倍も明るくなっていて、年相応の可愛らしさを取り戻している。

「それは良かった。濡れ煎餅食べる?」

「いただきます」

 小包装の濡れ煎餅を手渡す。素直に受け取る様子が、第一印象と違いすぎて少し驚いた。しかし、この子の本来の性格はこっちなんだろう。素直で、純粋。それ故に傷つきやすく、曲がりやすい。

 もぐもぐと頬張る姿に、本当の妹のような愛らしさを感じる。

「改めて聞くけど、友ちゃん。うちに来る気はないかい?」

 今の彼女なら大丈夫だろう。素直に受け止めて、自分の答えを返してくれるはず。

 友は、一瞬驚いたような顔をした後、急いで煎餅を飲み込んで、改めて僕の方へ向き直った。そして一言。

「やっぱり、お断りします」

 予想外の言葉。しかし、彼女の晴れやかな笑顔を見ると、それが単なる拒絶や否定でないことは、すぐにわかった。

「理由を聞いてもいいかな」

 友はコクリと頷いて、再度口を開く。その表情は自信に満ちていて、もはやその先の説明はいらないような気がした。それでも、言葉にするのは大切なことだ。僕が安心したいのはもちろんだが、何より、言葉にすることによって、彼女自身の意思が強くなる。

「おじさんのことは大好きです。不自由な環境でも、頑張れるだけの力を、私は彼からもらっていました。

 彼が亡くなった今、ただ単に鞍替えするように、お兄さんの元へ行くのは、ただの甘えだし、不誠実だと思うんです。もしかしたら、今後私はこの選択を、後悔するのかもしれない。それでも、私は出来る限り、自分の力で進んでいきたいんです。

 辛くなったときに誰かに頼るのを、怠るつもりはありません。近くにいる誰かが、何も言わずに私を助けてくれて、私もその人たちが困っていたら助ける。そんな関係を広く築いていけたら、それが一番だって思うんです。

 だからお兄さん。あなたには『兄』ではなく、そう言った人たちの『第一号』として、私を見守っていて欲しいんです」

 そう告げた友は、やはり言葉にすることによって自信を得たのか、さらに良い顔つきになっていた。その顔を見て、僕も安心する。

「君がそうして欲しいと言うなら、僕に拒否権はないよ。ただ、君自身が言った通り、人に頼ることを忘れないで欲しい。

 何か困ったことがあれば、僕を、そして『第二号』を『それ以降』を頼ってくれ。必ず力になるから。そして、君は同じくらい、みんなの助けになってやるんだ。いいね?」

 友は、憑き物が落ちたような笑顔で、深く、深く頷いた。それは、間違いなく僕が見てきたあらゆる物の中で最も美しく、最も硬く、最も強い。

 そして、申し訳なさそうに、しかし不思議と遠慮するような様子はなく、一言。

「わかりました。そこで、早速一つお願いがあるんですが……」

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