第60話 撤退戦

 ロガ軍の潰走。


 帝国軍はそう思ってくれているだろうか。


 そもそもに大多数の兵を揃えられる帝国軍にそう何度も勝てるはずがない、そう判断してくれただろうか。


 さて、どうだろう。


 辛酸を経験していなければ調子に乗る事も考えられたが、今の段階でそこまで考えが及ぶだろうか?


 分からない。


 分からないけれど、私が泡を食って逃げ出したと思えるような、それでいて抵抗を止めないような撤退を意識して、そのように指揮を続けるしかない。


 これは非常に大きな賭けだ。


 本来ならば決して行わないような、激しく胃が痛くなりそうな賭けだ。


 戦争で賭けと言えば賭ける物が自身の命のみならず、他者の命なのだから胃が痛くなるのは当然だが……これは今まで行ってきた賭けの中でも飛び切り厳しい。


 軍が退けば敵は勢いづく。


 勢いに乗った敵の攻勢は強まり思わぬ被害を出す。


 だから、撤退する際には組織だって抵抗を示しながら焦らず撤退せねばならない。


 ……撤退ね、まあ、逃げ出す訳だけど。


 今回の撤退はカルーザスが決戦でほぼほぼ勝ちを手中にしたと思わせなくてはならない。


 カルーザス以外の連中に。


 カルーザスは、あいつは私の意図を見抜くだろう、だが、見抜いた所でコンハーラやザイツの功名心を抑え込めないと思う。


 それが証拠にサンドラの提言通りにカルーザスが動き出したからだ。


 フィスルに討ち払われた帝国騎兵たちは私の命を奪う事に失敗した事を伝えたのか、騎兵が突入したにも関わらず中央も左右の陣も崩壊しない事で察したのかまでは分からないが、カルーザスは奇襲が失敗した事を悟ったのだろう。


 サンドラの言葉通り私を狙うのではなく手足を奪う事に目的をシフトさせたようだ。


 つまり、この場合は右翼への攻勢を強めたのだ。


 偶然ではあったが、強まった攻勢とほぼ同じタイミングで我々は撤退に移行していた。


 抵抗を示しながら撤退を開始した。


 ここで問題が生じた。


 左翼、中央共にどうにか撤退戦に移行できているが、右翼はそれすらままならない程の攻勢にさらされたのだ。


 物見が言うには右翼を責める敵左翼にはカルーザスの旗印が翻っていたと言う。


 右翼を指揮するリウシス殿がいかに才能があろうともカルーザスが直接指揮する敵左翼を打ち破るのは至難の技だ。


 カルーザスが持っている天賦の才と培ってきた経験に及ぶべくもないからだ。


 フィスル率いるナイトランド騎兵が右翼で共に戦っているとはいえ、それでもカルーザスが直接指揮するゾス帝国軍は強く、一向に撤退を許されていない。


 私も何度か機を見計らって援軍を送ろうとしたが中央を攻める攻勢は衰えを知らなかった。


 じりじりと焦燥ばかりが募る。


 勢いに乗った帝国軍の猛攻を受けながら右翼に援軍は送れない、私自身が討ち取られる訳にはいかない。


 だが、このまま手をこまねいていては撤退戦と言う決断を下した意味がなくなる。


 リウシス殿を始めとした将兵が、……フィスルが戦火に焼かれ消えてしまう。


 このまま撤退を続けてしまうと右翼が完全に孤立して包囲殲滅の憂き目にあう。


 右翼側にはサネイ川がある、帝国軍は右翼全体を包囲することなく包囲殲滅が可能な状態に移行できるだろう。


 だからと言って左翼も攻め立てられている以上、援軍は期待できない。


 どうする? 中央のこの陣が反転攻勢をかけるか?


 それは言わば朝令暮改、兵が戸惑い損害が増す行為だ。


 それでも見捨てる訳にはいかない……いかないじゃないか。


 友人や……妻を見捨てる等と言う事は私には……。


 だが、この中央の陣で戦う兵士たちはどうなる? 私が右翼を見捨てられんと反転攻勢をかける事によって死なずに済んだ命を失わせることになったら?


 その兵士達だって誰かにとっては友人であり家族であろうに。


 だが、それは右翼で戦う兵士達にも言える当たり前の話だ。


 だから、どうする? どうすれば良い?


 これはあくまでカルーザスから別の者に指揮権が移行するための策だが、いたずらに損害を出せばそれは既に策ではなくなり、いずれは私は破れるだろう。


 右翼を救うために反転しても、右翼を見捨てても兵士達の損耗は著しいだろう事が予測される今の状況では何を行おうと意味がないのかも知れない。


 それも当たり前の話だ、私は凡夫……いや、守るべき者を守れもしなかった愚か者だ。


 相応に本気を出したカルーザスが相手となれば選べる選択肢など限られている。


 だと言うのに私はその事実を認めなかったためか、戦いの中でも難しいと言われる撤退戦を選んだ。


 私ではカルーザスには届かない。


 多くの者の力を借りてここまで来たが、今のままでは全てが潰える。


 どうするか、どうしたら良いのか分からずに居た私に迫る者達がいた。


 私を討たんとする帝国兵だ。


「ベルちゃんっ!」


 コーデリアの注意喚起の声で我を取り戻した私は剣で突き出された槍の穂先を切り払い、天啓を得た。


 天啓と言うか、やけっぱちと言えるかもしれないが。


「敵将カルーザスは右翼に釣り出されたぞ! 全兵力を集中させるように左翼に伝令を放ち、我らも予定通り反転攻勢に移る!」


 私が死ねばロガ軍が終わりというならばゾス帝国は誰が死んだら終わりか? 帝国としては皇帝が討ち取られたとなれば混乱はすれども終わりではない、だが軍事ではカルーザスが死ねば精神的支柱が消え去る。


 だから、口から出まかせであれなんであれ、予定通りカルーザスを釣り出したと帝国兵にブラフを放ったのだ。


 私に迫っていた帝国兵たちは僅かだが確かに動揺を示した。


 攻撃の手が僅かに鈍り、そのせいで私は何とか間合いを離れることができた。


「ベルちゃんっ!」


 コーデリアが駆けつけてくれた事で、連中は私を討つ機会を逸したことに気付く。


 だからこそ、私に固執せず得た情報を伝えるべく自陣へと駆けだす。


 連中が無事に自陣に辿り着く保証はないし、そもそも無謀な試みだ。


 だが、攻勢に出ない者に勝利はない。


 それにこちらの動きが伝われば敵の右翼や中央も意図を察するだろう。


 私を討てば戦が終わると動いていた彼らならば、カルーザスが討たれれば帝国軍はほぼほぼ終わると言う事実を理解する……と思う。


「先ほども言ったが予定より早く攻勢に移る」


 兵士たちを指揮しながらどこかで思った。


 結局これは右翼を助けに行く口実なのかもしれないと。

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