スナーキー・パピー『エンパイア・セントラル』
スナーキー・パピーというバンドが、二〇一〇年代半ばから音楽界を席巻している。「音楽界を」である。ジャズシーンというと狭すぎる。スナーキー・パピーは、ジャズを重要なルーツとして持ちながらも、ジャンルの枠を軽々と飛び越えていくような活動をずっと続けている。
このバンドのことを知らない人のために、公式ウェブサイトの紹介文から一部を抜粋して訳出する(https://www.snarkypuppy.com/about より。バンド全体の紹介文が三段落あるが、その後半二段落を訳す)。
スナーキー・パピーは一種のコレクティブ(共同体)で、二十五人もいるメンバーは交替を重ねている。メンバーは多忙なスケジュールで各自の仕事を続けていて、それはサイドマンとして(例えばエリカ・バドゥ、スヌープ・ドッグ、ケンドリック・ラマー、ディアンジェロなどといったアーティストの)であったり、プロデューサーとして(カーク・フランクリン、デヴィッド・クロスビー、サリフ・ケイタなどの)であったり、ソロミュージシャンとして(彼らの多くはスナーキー・パピーの持つインディー・レーベルであるグラウンドアップ・ミュージックに所属している)であったりする。このバンドは黒人と白人両方のアメリカ音楽文化が一つに収束していくことを象徴していて、世界各地の音楽に由来するアクセント的な要素を伴っている。これがバンドの中核をなしている。日本、アルゼンチン、カナダ、イギリス、プエルトリコの各国とも、バンドのメンバーの中に代表者がいる。しかし、個々のプレイヤーの文化的多様性よりもなお、スナーキー・パピーの音楽を定義づける特徴は、創造的な仕方での発展を目指す絶え間ない冒険の中で共に演奏することの喜びである。
このバンドは、二〇〇四年に、ベーシストでありバンドの主作曲家であるマイケル・リーグによって結成された。最初は、ノース・テキサス大学におけるジャズ・スタディの課程で出会った友人同士のグループだった。さほど目立たない始まりであった。その三年後、ダラスのゴスペル音楽やR&Bのコミュニティとの幸運な交わりが、バンドの音楽をよりファンキーで、直接的で、直感的なものに変えた。バンドはロバート・スパット・シーライト(ドラム)、ショーン・マーティン(キーボード)、ボビー・スパークス(キーボード)といったミュージシャンを引き込み、また伝説的なキーボード奏者であるバーナード・ライト(マイルス・デイヴィス、チャカ・カーン、マーカス・ミラーなどと共演)から多大な影響を受けたが、そうしたことは全てこの時起こったことである。
そんなスナーキー・パピーが二〇二二年九月に新譜をリリースした。『エンパイア・セントラル』。「帝国の中央」とでも訳せばよいのだろうか。これが何を指すのかは断定できないが、バンドの出身地であり、人口・面積ともにアメリカ第二位の州であるテキサス州のことを指していると解釈するのが自然だと思われる。
今作はスナーキー・パピーの過去作の方向性を表面的には踏襲しているが、バンドの本質的なあり方は実は大きく変わっている。この変化がバンドにとって重要であるのはもちろんであるが、バンドの持つ影響力の大きさを鑑みれば、この変化は音楽界全体に波及していく可能性がある。その意味でこれは重要な作品であるに違いない。
ここに『エンパイア・セントラル』に対する私のレビューを記す。
【スナーキー・パピー『エンパイア・セントラル』のレビュー】
本作は、全曲がスタジオライブで収録された。スナーキー・パピーがこの収録形式でアルバムを制作するのは、(ボーカリストやオーケストラとの共演作を除いた)単独作としては『ウィ・ライク・イット・ヒア』(以下WLIHと略す)以来である。バンド自身もおそらくはこのことを強く意識しているであろうし、リスナーの視点からも、本作をWLIHと対比させることで見えてくることが多くある。
アルバム全体の印象として強く意識されるのは、(WLIHと本作という単純比較において)「ソロ」よりも「曲調」で聴かせる方向にシフトしているということだ。
WLIHと比べると、本作における各曲中のソロの時間的割合は明らかに少ない。各ソロのミックスバランス上のボリュームも控えめであるようだ。そして、多くのソリストが「空気を読んだ」ソロを演奏していて、WLIHの各所で見られたようなソロでの爆発的な盛り上がりはそれほど見られない。あくまで曲調に沿うように演奏することを、ソリストは最優先しているように感じられる。
一方で、本作の各楽曲の曲調は、バンドの過去作に比べて重厚に練り上げられているような印象をリスナーに与える。しかし、楽曲の基本的な構成自体がWLIHより複雑になっているかと言えば、そうではない気がする。ジャンル横断的なリズム構造、グルーヴする変拍子、色彩豊かに変転するハーモニー、などといった、バンドを特徴付ける要素はもちろん本作でも健在であるが、それらの複雑さという観点だけで比較すれば、WLIHとの差はさほど大きくはないと思える。
どこで差が生まれているのか。
私が思うに、楽曲がコンポーザーからバンドに手渡された後で、マジックが発生する。バンドのアレンジが実際どのように実施されているかは想像してみるしかないが、おそらく、コンポーザーが用意した楽句をメンバーへと割り当てる段階、さらにそれを踏まえて各メンバーが創意工夫を凝らして自分の楽句を演奏する段階、の二つはあるはずで、そこで楽曲を練り上げる強度が、WLIHの時より上がっているのだと私には感じられるのである。
一つ一つの楽句(この言葉で私は、メロディだけでなく、バッキングのパターンやリフや短いフィルなども指そうとしている)が、明確で強い意志を伴って演奏されている感覚が確かにある。「惰性」という言葉は、本作の演奏を評価する言葉としてはまったく似つかわしくないし、その似つかわしくない度合いはWLIH以上であろう。
こうした「ソロ」と「曲調」のバランス感の違いを一言で表現したいと思うなら、例えば次のような言い方もありうるだろう。WLIHはパーティー志向であるが、本作はラウンジ志向であると。
これがかなり大雑把で曖昧な言い方であることは承知している。それでもわざわざこのように書いたのは、自分達の音楽がどのように聴かれるか、ということをスナーキー・パピーが強く考えた形跡をこの志向のシフトに見て取れるような気がするからである。
かつてここまでラウンジ的なスナーキー・パピーの作品があっただろうか。なぜ彼らは、本作でここまで強くラウンジ志向を推し進めたのか。このシフトが二年前から続くコロナ禍の影響下にあることは明白であると、私には思えるのだが、これ以上の邪推はやめておこう。
『エンパイア・セントラル』は、スナーキー・パピーのこれまでのどの作品よりもくつろいで聴くことができる。これは間違いないことだ。
ジャズの死と再生 僕凸 @bokutotsu
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