流星の夜

中村ハル

第1話

 飲みかけのレモネードのストローを半分口に咥えたまま、藍色がかった黒髪が風に揺れた。

「変身、て言ったのかい?」

「言ったよ、そう言った」

 レモネードを飲み込んで、Jは訝しげに眉を顰める。

「変装、じゃなくて?」

「しつこいな、そうじゃないことくらい、分かってるだろうに」

 僕も真似して眉をしかめてみせた。Jはしげしげと僕の顔を眺めた後で、降参だと手を挙げる。

「君が何を言おうとしてるのか、さっぱりわからない」

「どうしてさ。ありのままに言ってるだろう」

「君との外出に、ユタまで誘ったのが気に入らないなら、そう言ってくれよ」

「気に入らないなんて言ってない。それよりもなお悪いさ。ユタは誘わないでほしいし、なんなら君と出かけるのだって駄目だ」

「どうして」

「新月だから」

「だから、どうして」

 僕は焦れて、地団駄を踏んだ。Jはいつだって利発なのに、こんな時ばかりわからず屋になるんだ。

「さっきから言ってる。君だから話したんだ。なのにJ、君ったら、なんだってそんな意地の悪いことを言うんだ」

「意地が悪いって……当然だろう。夜に星を見に行けない理由が『変身するから』だなんて莫迦げてる。そうだろう」

 真面目な顔でそう言われると、僕もそこは認めざるを得ない。だが、事実なのだから、仕方がない。いつも腹痛だの、猫が行方不明だの、弟がメレンゲまみれだのと、適当な嘘をでっち上げて逃げ回っていたが、ついにそれも限界だった。「あんまり断るなら、もう誘わない」そうJに脅かされて切羽詰まった僕は、ずっと隠していた真実を打ち明けたのだ。それなのに、Jときたらこの始末だ。

「大体どうして変身するのさ」

「知らないよ、気づいた時にはそうだったんだから、仕方がないだろう。僕のせいじゃない」

「親御さんは知ってるんだろ?」

「さあ、どうだろう。知らないとは思えないけど」

「聞いたことないのか?」

 呆れた、とJは盛大に溜息をついて首を傾げた。

「だって別に、外にさえ出なければなんの問題もないし。ましてや、星空の下になんて行かなけりゃ、それこそ気づかないんだから」

「ユタがいなければいいのか」

「何が」

「星を見に行くことさ。僕と君との二人なら問題ないんだろ」

 だってもう秘密は知ってしまったんだし、とJが愉快そうに笑った。

「でも……笑わないか?」

「笑わないさ、笑うもんか。大体、どうして笑うんだよ。君がどんな姿になろうとも、そんなこと、僕には何の問題もないさ。それとも中身まで別人になってしまうっていうのか」

「中身は一緒だよ。見た目だってそう変わるわけじゃない」

「じゃあいいじゃないか。君は先から何をそんなに気にしてるんだ。いいね、今日の夜、23時に満天ビルヂングに集合だ。ソーダを忘れるなよ」

「ソーダ、何でだい?」

「決まってるだろ、飲むのさ」

 それじゃ準備があるから、とレモネードの残りを僕に押しつけて、Jは風のように走り去ってしまった。まったく、勝手が過ぎる。

 僕は深く息を吐き出して、今夜の外出について、頭を悩ませた。僕の姿が変わることを、Jは本当に受け入れてくれるだろうか。


 夜にこっそりと部屋を抜け出し、満天ビルヂングに向かう。キャップを目深にかぶっているので、辺りが見づらい。今夜は新月だから空に月の明かりはなくて、星の光がビーズの粒を撒いたように、紺碧の夜の天蓋に煌めいていた。僕の目の奥が、ちかちかと瞬く。

 いつもは夕方に全ての電灯が消えてしまう満天ビルヂングの屋上が、何やら騒がしかった。ぼう、と微かな灯りが闇の中に浮き立っている。

「Jのやつ、人がいるじゃないか。2人でって約束したのに」

 苛々と僕は地面を蹴って、帰ろうと踵を返した。その鼻先に、真後ろまで来ていてJの顔がぶつかって、2人して驚いて仰反る。弾みで僕のキャップが落ちて、慌てふためく僕を横目に、Jが身を屈めてそれを拾ってよこした。

「なんだ、変身って言ったって、変わらないじゃないか」

「そんなことより、J、なんだよ、あれ」

 賑わっている屋上を指差して、僕はJに噛み付いた。Jは笑い声の降る屋上を見上げて、少し眉をしかめた。

「騒がしいな。あれじゃあ隣のビルの爺さんが、また怒鳴り込んでくる。早く行って静かにさせなきゃ」

「待ってよ、僕は行かない」

「なぜ」

 ついてくるのが当然だと思っていたのか、見開いた目が、僕を見つめる。

「言ったよ、見られるのが厭だって。君だから教えたんだ。それなのに、酷いじゃないか」

「みんななら、平気だよ」

「平気なもんか!君だって、知らないクセに!」

「知ってるさ」

 鼻が付くくらいに近く、Jが顔を寄せて僕の目を覗き見た。僕は咄嗟に顔を背けて目を伏せる。

「知らないとでも思ってたのか」

 Jの両手が僕の頬を挟んで、ぐいと顔を上向けた。否応なしに正面を向いた僕の目を、Jの瞳が覗き込む。

「これだろう。新月の夜、君の左目の中には満月が宿る。知ってたよ。気づいてないと思われてたなんて、心外だ」

 怒ったような調子で僕を突き放すと、Jは僕を置いて満天ビルヂングの階段に向けて歩き出す。僕は慌ててその後を追い、とっくに踊り場を曲がって消えたJに追いつこうと階段を駆け上がった。

 6階の踊り場を過ぎて角を曲がる。息を切らせて顔を上げた先で、Jが僕を捕まえて、愉快そうに笑い声を立てる。

「こうすれば、君は絶対についてくると思った」

「酷いじゃないか」

「酷いのは君さ。君と僕とが、どれだけ長く友だちでいたのか忘れたの」

 僕の頭からキャップを剥ぎ取ると、踊り場の窓から放り投げてしまった。

「それから君は気づいてないから教えるけどね。君のその目、新月以外にも、月は見えてるよ」

「え?」

「月が空にある夜は、君の目の中の月はすごく儚くて、見えにくいけど。まるで有明の月みたいに薄く張り付いてる。知らなかっただろう」

「……知らなかった」

「変身なんかじゃないよ。君のはそれが普通だ。空の月とは逆の、影の部分が、君の目の中で光るのさ。さあ、行こう。みんなが待ってる」

 驚いて声も出ない僕の手を引いて、Jは階段を駆け上がる。Jの藍色の髪が、きらきらと揺れる。遅れずについていくのがやっとだった。


 屋上の扉を開くと、集まっていた少年たちが一斉に振り向いた。みんな既に、何かの準備を終えているのか、今にも走り出しそうな気配を放っている。

「遅いぞ」

 ひとりの少年が歩み出て、Jの肩を叩き、それから僕を見た。

「新入りかい?」

「僕の友だちだ。月を飼ってる」

「なんだって?」

「今日の彼のは、満月だよ」

「見せてくれ」

 返事も待たずに少年が、僕の肩を掴んで目の奥を覗き込んだ。

「本当だ。すごいな。新月の晩だけかい」

「それが、可笑しいんだ。本人は今の今まで、そう信じてたんだけど、実のところ、毎日出てる」

 僕を横目に見ながら、Jが自慢げにそう説明した。だが僕は、目の前の少年と、屋上に立つ少年たちに釘付けだった。誰も彼も、髪が目が、きらきらと眩く煌めいている。

 地上から見た時に、ぼんやりと灯っていた明かりは、彼らの煌めきだ。

「星のよく見える夜には、僕らは変身するのさ」

 片目を瞑ってみせた少年の瞳の中で、星が瞬いた。

「だから、僕らは星を狩るんだ。時々足してやらないと、光が弱るからね。さあ、J、もう時間だ。行くぞ」

「了解」

 Jが鞄から取り出した物を、僕の掌に押し付ける。渡されたのは白いグリップに花の象嵌が施された、フリントロックのピストルだ。

「月光の下で撃ち落とした星の味と輝きは格別なんだ。だから君がいたら、どんな夜にも星の味は保証されたも同然さ。ソーダは持ってきただろう」

「う、うん。持ってきたけど」

「だったら、それに星を入れて乾杯しよう」

「でも、J、君」

「気づかなかった?僕もこんな夜には、姿が変わるのさ」

 そう笑って、Jが藍色の髪を掻き上げる。紺碧の髪の中に、数多の星屑が煌めいては消えていく。

「君と一緒に、星が見たいんだ。いいだろう」

 不器用に瞑ってみせたJの左目の表を、大きな流星が過っていった。

 あちらこちらで、光を纏った少年たちが星を撃ち落とす音が響いて、満天ビルヂングの上には、流星群が舞い落ちる。

 賑やかな新月の夜は、星屑とソーダの香りで満たされていった。

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