少女と子猫の夏の一日

仁藤 世音

一滴の子猫

 コオロギが鳴き、蚊取り線香の香が漂い、家から漏れる明かりが慣れない縁側に座る私の影をクッキリと描きだしていた。何だか輪郭がハッキリしないそれから視線をずらすと、塀の向こうの暗闇だ。明かりがない。故郷とは違う。ここは何だか寒い、半袖を着ているせいだ。

 朝は気だるい、朝に弱いから。空はやたらと青すぎる。舗装された道路の狭い事、小川のせせらぎはぶっきらぼうで、道路を横切る狸の家族はきっと何も考えてない。

 校舎は廃屋。ヒトの学び舎だなんて思えない。空調をはじめ、あるべき設備が無い。飛び交う言葉に華が無い。粗雑な言葉がでたらめに口から投げ飛ぶ。「トカイちゃん」なんてあだ名はセンスの欠片もないし、そう指摘したら誰も近寄りもしなくなった。腑抜けで気骨のない弱虫。


 こんな田舎に越してきた理由を私は知らない。いや、忘れてしまった。あまりのショックに頭が真っ白になった。そんな大事なことを決めるのに、両親は私に相談しなかった。味方じゃない。信頼関係なんてなかった。私には、選択肢をくれなかった。


 友達なんていらない、友達なんていらない。心配そうなふりをする両親に、そう呪詛のように繰り返した。そしてまた夜、縁側に誘われる私の影が簡素な塀に映し出される。


──みゃぁ

「みゃぁ?!」


 ビックリしたビックリした!! 心臓が止まるかと思った!

 ……落ち着いて、改めて目をやると、その子は逃げもせずにじっと私を見つめて前足を縁側にかけようとしていた。とても小さいネコ。きっと生まれてそんなに経ってない。縁側に飛び乗る脚力もないほどに。そっと抱き上げた。ウィルスなんて持ってないだろう。だってその子はあまりにも毛並みが美しいのだ。青みがかった灰色は土埃さえなく、澄み切ったエメラルドの瞳とまだピンク色の愛らしい肉球を持っていた。きっと近所の飼い猫だ。

 初めて会ったのに、私という人間を警戒しないのもやっぱり飼い猫だからだ。少しばかり呆気に取られていた私がやさしくだいていたらねむってしまったんだもの。……安心を感じたんだ。それにしても……温かい。閉じられて一直線の瞼を私は守りたくなった。そのまま部屋の布団に連れて行き、タオルをそっとかけてあげても起きなかった。

 私はすぐに両親にこのことを話しにいった。同居人が子猫に滅多なことをしないとも限らない。あの子の安全のためにやむを得ない。両親は驚いて目配せした。母は保護に反対の立場をとったけど、私が強引にまくし立ててやったら意表を突かれたって感じで折れてしまった。その程度の気持ちで反対していることがわかっているから、私も強く出られる。その夜、私は子猫の隣で朝を心待ちにした。

 次の日の朝は珍しく爽やかな風が吹いた。子猫と一緒に伸びをして、かなり早く家を出た。子猫用のご飯なんて家にないから、遠回りして播磨屋さんまで買いにいかなくちゃいけなかったから。

 でもこの日は本当に珍しい。川のせせらぎが軽やかなメロディのようだった。思わず橋の上で足を止めた。


「ネコちゃん、気持ちいいね~」

「ニィニィ!」


 うっとり癒されてるようだった。

 播磨屋さんに着くとすぐにミルクを用意してくれた。店主の江原おばあちゃんは本当に優しい人だ。


「江原おばあちゃん、この子ね、昨日の夜うちに迷い込んだの。どこの子か知らない?」

「う~ん。ごめんね。そんな話は聞こえてないねぇ」

「そっか……」


 ミルクを飲む頭を撫でると、灰色の毛並みが綺麗に流れた。江原おばあちゃんはそれを見てハッとしたようだ。


「ねぇ、お節介かもしれないけど、髪留め、あげようか?」

「え? ……あ!」


 子猫を気にするあまり、髪を結ぶのを完全に忘れてた。よく邪魔に感じなかったもんだ。お言葉に甘えて受け取った髪留めはくすんだ地味な緑色で、でもそれが飾らない江原おばあちゃんらしくて私は嫌いになれなかった。髪を結ぶと江原おばあちゃんはうんうんと頷いて、かわいいねぇと、言ってくれた。


「みゃぁ!」


 朝ごはんを終えた子猫も、まるで褒めてくれるように快活に喉を鳴らしたのだった。

 訪ねネコは学校でも人気を博した。転校して以来寡黙だった私が熱心に話すものだから、クラスの子はみんな驚いた。でも子猫の前に心は一つになった。飼い主探しの情報収集を手伝ってくれたのだ。

 子猫は誰にでも愛想がよかったが、決して私のそばを離れなかったし、抱き上げるのを許すのも私だけ。何だかちょっと嬉しくなった。子猫は学校中の話題をさらったけど、結局手がかり一つないし、交番に行っても、帰りに播磨屋さんに行っても、それは同じことだった。


「君のおうちはどこにゃのかな~?」


 まだ明るい縁側に座り、首筋を指で撫でながら問うと、「ふにゃぁ」。ここが我が家って言ってる気がした。

 その夜、父は興奮気味で帰宅し、改めて子猫を眺めた。


「この子は新種かもしれない!」

「猫に新種とかあるの?」

「え……。いや、でも種類とも少しずつ特徴が違うんだって! パパ、知り合いのネコ馬k……ネコマニアに聞いたんだから間違いないよ」


 その夜は布団の中で、眠くなるまでじゃれていた。甘い声、ふわふわな毛並み、賢そうな眼、まだ不慣れな手足の動き。どれをとっても愛しくて、私を虜にした。でもふと、不安になった。


「ねぇネコちゃん。私といて楽しい? 本当は家族のとこに帰りたいのに、無理してない? きっと、生まれた場所に帰してあげるからね」

「にゃぁ」


 無垢なものは美しかった。





「お嬢さん、起きてください、お嬢さん」


 優しい男性の声がして私の肩を揺らした。目を開けるとまたも私は仰天することになった。人間ほどもあろうかという大きなネコがじっと自分を見ていたのだ。その毛並みは美しい灰色で瞳はエメラルド……。まさかと思ってわきを見た。すやすやと眠っている小さな子猫とそっくりだ。違うところと言えば言葉を話していること、それからとても不安そうなことだろうか。


「初めまして、僕はその子の父です。この度は娘が大変お世話になりました」

「ど、どうも……」


 子猫はぱっと飛び起き、怯える私をリラックスさせるように腕の中に納まった。


「お嬢さんは猫又をご存じでしょうか?」

「えっと、尻尾が沢山の妖怪、ですか?」

「えぇ、それです。僕も娘も猫又族なのです」


 見ると子猫の尻尾は一つだったが、その巨大な猫には尻尾が八本はあった。


「御安心なさい、恩人である貴女を襲ったりなどしません。本当に感謝していますよ。私たち家族は競争が苛烈な地域から最近この方面に越して来たのですが、娘は環境の違いに怯えて人間界に迷い込んでしまったのです。猫又と言っても赤ん坊、普通のネコと何ら変わらない」


 猫又はゆっくりと娘をくわえると、そっと目の前に置いて軽く頬を舐めた。すると猫又は心底安心したように息をついた。


「貴女には本当に感謝しなくては。この子の幸せを一番に思ってくれたのですね。猫が好きな人間はみんな、ネコを自分の幸せの道具にします。でも貴女は違ったようだ。何より、名前を付けていなくてよかった」

「なぜです?」

「我々は名を持ちません。名を持てば猫又族でいられなくなり、娘は二度と僕たち、猫又だけの世界に来れなかった」


 その時私はようやく理解した。もうこの子とはいられないのだ。一日と少しの間だけを共にしたこの子と。子猫もそれがわかっているのか物憂げに「にぃ~」と鳴き、すり寄った。やっぱり温かくてかわいくて。


「僕からはせめてもの感謝の証として、この記憶を貴女から奪うことはしません。……本当はいけないんですけどね。しつこいようですが、ありがとうございました」

「……はい。じゃあね、ネコちゃん」

「にゃぁ!」


 最後に抱き上げて頬をすり寄せた。


 ハッと気が付くと朝になっていた。私はいつも通りに布団で寝ていて、でも子猫はいない。不思議と寂しさはなかった。どうしてか、朝が嬉しいと思った。その日は越してきて初めて、笑顔で満ちた「おはよう」を家族と交わすことが出来たのだった。 

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