エニドリオン

深川夏眠

ενυδρείον


前略


 お訊ねの件だけれども、ありのままをお伝えするよ。


 旧友αから久しぶりに連絡があって、どうやら予約できそうだから、いかがかね……って言うんで、話に乗ったんだ。

 彼の故郷に程近い、βという保養地があってね。海に突き出した岬で、温泉もあるし、釣りができて、もちろん磯料理は絶品と評判――の割には、大して賑わっていない。宿が少なく、しかも料金が高いので、若者や家族連れには敬遠されるらしい。海水浴も可能だが、ホテルのプライベートビーチだから、泊まらなければ利用できないとか。

 貴兄は以前、新婚旅行先のミコノス島から絵葉書を送ってくれたっけ。あんなにゴージャスじゃないが、なかなか悪くなさそうだと、αが寄越した画像を見て思ったから、是非にと応じた。小生は鄙びた雰囲気の方が旅情をそそられるのだ。


 最大の目的は沖に浮かぶ小島に上陸すること。この船賃と、着いてからのの分が加算されるので、週末は宿泊料金が更に高くなるという。

 γホテルの裏手には物資の搬入口の他に、船着き場へ続く間道がある。夕食の後、一服してのそぞろ歩き。程よく腹がこなれたら桟橋へ。客を乗せた船が出るのは土曜だけ、しかも新月の夜を除く。だから、部屋には月齢を記したカレンダーがある。

「どうしてさくの晩は駄目なんだ?」

の気が荒くなるから、らしいよ」

 普通、デッキに上がってのクルージングは爽快なものだが、そこはかとない後ろめたさのせいか、夜風はなまぬるく気だるかった。あまりに近く大きな満月が、我々の動向を見張っているようで不気味だった。航跡に煌めく無数に分散した月光を、一種の恐れと共にぼんやり眺めていたが、期待と不安がい交ぜになった小生の心持ちを知ってか知らずか、αはなくてよかったな……などと、あくび混じりに暢気な一言を漏らした。


 島に着いて下船し、そのままプロムナードを歩いてδ水族館のエントランスへ。人生初のナイトアクアリウム体験だが、必要以上に照明が絞られていると感じたのは気のせいだったか。

 最初は南国の海を模した小さなサンゴ礁にルリスズメダイ……だと思うが、解説パネルのたぐいはなかった。空調設備の立てる低い唸りがブーンと聞こえるだけ。何の説明も受けないまま、程よく見栄えのいい小型の魚がカラフルな飴細工のように艶めいて身をくねらせる様を、無感動に瞥見して先へ進んで行った。

 狭い通路を抜けたら、ちょっとしたシアター風の空間が広がっていた。階段状の座席に腰を下ろすこともできる。が、他に客がいなかったので、我々は巨大な水槽にひたいをくっつけんばかりにして主役たちの登場を待った。縦横無尽に舞い踊るエンゼルフィッシュは、差し詰めバックダンサーか。

 音楽が流れ出した。「死のトーテン舞踏タンツ」。サン=サーンスではない、フランツ・リストの重厚な管弦楽曲だ。ドボッ、ドボッと五、六が飛び込み、無数のあぶくを蹴立てて踊り出した。

 とはいえ、いずれも素顔は普通のお嬢さんに違いない。若い娘たちが、よく出来た衣裳で下半身を覆い隠し、懸命に尾鰭をはためかせて立ち泳ぎしているに過ぎないのだ。酸素ボンベもなしに浮遊するとは大したものだが、お世辞にも水中バレエと呼べる代物ではなく、恐らく素人同然の彼女らは、日銭を稼ぐため、必死に身体からだを張っているのだろう。上半身の着衣は尻尾に合わせてスパンコールで飾ったストラップのないブラジャーだけで、白いかいなを剝き出しにした偽の人魚は、肉付きがよく健康的なだけに一層、下手くそなダンスとあいって物悲しい風情を醸していた。銘々が一方の二の腕にバングルを装着しているのだけれども、まるで家畜の耳に打たれた管理タグを想起させ、アクセサリーというよりは拘束具のようで、少し嫌な気分になった。

 αも同様の感懐に囚われたか、やや下品なニヤニヤ笑いを浮かべていたが、

「期待以上だ。大したもんじゃないか」

「呼吸は平気なのかね」

 問いかけるまでもなく、人魚は一尾、二尾と順繰りに上昇しては我々の視界から姿を消し、しばらくすると戻ってくるのだった。

「ほら、入れ替わったろう」

 αは踊り子が交代したと指摘したが、小生にはしかと見定められなかった。

「ヘアスタイルが違う。腕環も」

「色なんか、こんなに薄暗くちゃ大して区別もつくまい」

 αはチッチッと舌を鳴らしながら、アクリルパネルに向かって差し伸べた人差し指を軽く振って、

「真剣が足りないよ。何のために大枚はたいて、こんな退屈な見世物に齧りついているんだ」

 確かに、二十歳未満は入館不可と言いながら、繰り広げられるのはして官能的でもグロテスクでもない、精々PG12程度のだ。αはようやく本当の目的を明かした。曰く、気に入った娘のバングルの色を係員に伝えて、俗に言う、延いては、の手筈を整えてもらうのだ――と。

「悪趣味だね」

「フフフ」

「ところで、新月の夜に獰猛になるっていうのは……」

 αは声を潜めて、

が混じっているんだとさ。それらしいのは見受けられなかったが……」

 オーナーは真正のマーメイドを養うべく、この水族館を運営しており、カムフラージュのため――もちろんも兼ねて――踊り子たちを働かせているとか。

「で、どうなんだ。誰か連れ出す気になったのかい」

「今晩は無しにしておく」

「まさか、のセイレーンを狙っていたのか」

「ハハハ」

 物販コーナーには、剝落した人魚の鱗を加工したとの触れ込みで、幸運のお守りとか何だとか、玉虫色の細片をあしらった、つまらない土産物が並んでいた。


 乗船場へ戻った我々に、屈強な若者が車椅子を押して追いついた。軽く目礼を交わしたが、座っている女性は俯き、長い髪で顔を隠したままだった。服は黒いロング丈のワンピース。陰鬱な彫像めいて不気味だったが、ひょっとすると、体調不良で引き揚げる踊り子の一人かもしれなかった。


 翌日、αに急な連絡が入った。不承不承、休日を返上して仕事しなければならなくなった彼は、わるきのように殊更のんびり朝食を取った後、ノートパソコンを抱えて館内の図書室に籠もった。暇を持て余した小生はジムで軽く身体をほぐしてから屋外プールへ移動した。

 デッキチェアに身を預けてぼんやりしている女性がいた。髪を頭の上で巻貝状にまとめ、真っ黒なサングラスを掛けている。キャミソールにショートパンツというラフな格好だが、せっかくのには左右揃って包帯がグルグル巻かれ、辛うじて自由を謳歌する指先がモゾモゾ蠢いてペディキュアを輝かせていた。見た目の印象は懸け離れているが、昨晩、車椅子で介助されていた人ではなかろうかと直感した。

 小生はギャルソンに合図して飲み物を運ばせ、一つを彼女に勧めた。

「昨晩お会いしましたね」

「ああ、どうも……」

 彼女は掠れた声で物憂げに応じた。

「日光浴ですか」

「そのつもりだったけど、日差しがキツ過ぎて。パラソルの陰から出られない。火傷しそう」

「部屋でお休みにならないのですか?」

「無理にでも慣らさなきゃいけないの。早く普通の生活を送りたいし」

「水中舞踊と言えば聞こえはいいけれど、過酷な重労働ですな、あれは」

 彼女は喉が詰まったような、かさついた笑いを漏らし、サイドテーブルに置かれたトロピカルグラスを持ち上げた。足同様、手指の爪も滑らかに彩られていたが、小生の目は皮膚の具合に釘付けになった。いわゆるが異様に発達して大きな皮膜を形成し、水滴をまとったガラスにペタリと張り付いたのだ。

 彼女はきまり悪そうに苦笑いして、

「手術で切ってもらおうかな」

ですか」

「アハハ。それより、こっちの方が問題なんだけど……」

 痒みがあるのか、反対の手が包帯の隙間に入ってボリボリ音を立てた。すると、戻ってきた指はさんが獲物を捕らえたように、ひわともときともつかない、珍しい色味の薄片を摘んでいた。

「なるほど。時間も手数もかかりそうですね。費用も」

 彼女は小さく頷き、

「引き取り手が名乗りを上げると、最初は小さい水槽に移されて……詳しくは言えないけど、いろいろがあって、人間らしい見た目になったら、こうやって……」

「順応を図るといったところですか」

「そう。でも、その人、こっちが準備してる間に突然亡くなって。かと言って、一度こんなになっちゃったら、もう元には戻れないし……」

「ふむ」

「あの水族館で働くしかないかな、って」

「ここを離れて、遠くへ行く気はありませんか?」

 グラスの縁に飾られたパイナップルを齧りかけた彼女の眼が、黒いレンズの下で大きく見開かれるのがわかった。


 つまり、小生はαを出し抜いてに成功したのだ。関係者に話を通して然るべき手順を踏み、相応のを払ってεを身請けした次第。亡くなった親類が遺した郊外の空き家を改築し、通いの家政婦さんに来てもらって、静かに暮らし始めたわけだ。生涯、気儘な独身のつもりでいたが、縁は異なもの味なもの。

 ε子の太股の鱗が剝がれるたび、懐紙に包んで現金に添えて近くの神社に奉納している。そこは林の奥なのだが、大昔はみぎわで、豊漁祈願が行われていたそうだから、よしなしとも言えんだろう。以来、思いがけない儲け話が転がり込むは利鞘は稼げるわで、笑いが止まらない。島の水族館の土産物売り場に掲げられた「を呼ぶ人魚の鱗」云々は本当だったらしい。

 しかし、気になるのはε子の発話がどんどん小さく聞き取りづらくなっていく点。本人が言うには、喉に玉らしきものが引っ掛かっているとか。足を得て地上に適応する代わりに声を奪われる宿命か。今はまだ、ほとんど車椅子での生活だが、一人で歩けるようになる頃には完全に発声できなくなるかもしれないという。そして、死を迎えた瞬間、黒真珠に似た一顆を吐き出すはずだと教わってきたそうだ。彼女に先立たれたら、小生はその粒を加工し、形見として身に着けたいと考えている。

 いや、それよりも、悩みはむしろ、新月の宵にε子が髪をおどろに振り立てて狂乱することだ。一体何が気に食わないやら。ともあれ、そのときだけ地下室に閉じ込めねばならないのが辛い。


 以上が新妻との馴れめだ。ここまで読んで、貴兄は呆れているか、あるいは軽侮の微苦笑を浮かべているだろうか。

 同封のパラフィン紙を開いてご覧いただきたい。我がテュケーの踝から零れた鱗だ。益々の昌運を祈って謹呈する。


 それでは、これを以て祝儀への礼状とさせていただく。内祝いの品を手配したので、ご笑納願う。


                                   草々



           ενυδρείον【τελος】




*雰囲気画⇒https://cdn-static.kakuyomu.jp/image/E1yscFr7

*縦書き版はRomancer『月と吸血鬼の遁走曲フーガ』にて

 無料でお読みいただけます。

**初出:同上2020年9月(書き下ろし)

 https://romancer.voyager.co.jp/?p=116522&post_type=rmcposts

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