第26話 (私に弁明しなきゃいけない義務、全くないのわかってる?)


「颯太」


 スポーツショップのある場所とは随分離れられた場所で、篠が名前を呼んだ。颯太の足はぴたりと止まった。


「足、少し早い」

「――っすみません」


 慌てて振り向く。篠は少し息切れしているようだった。何も気にせず、大股でどんどん歩いてしまった自分にショックを受ける。


「どっか座りたい」

「はい」


 部活の先輩に言われた時のように、即答する。背筋を伸ばして辺りを見渡した。しかし、ベンチはこの辺りに見当たらない。


「じゃあここ、立って」


 座る場所が無いと気付いた篠が、壁を指さした。どうしてだか、今は何一つ、篠に逆らう気が起きない。


 ビクビクと怯えながら、言われるがままに壁際に立つ。篠がまた、颯太の股の間に入ってきた。


 ぎょっとしている颯太の胸の中で、篠が腹の底から息を吐き出す。


「ふー……」


 大きなため息をつきながら、篠が颯太にもたれかかる。颯太は背を壁につけ、篠の腹に手をやって体を支えた。


 そのため息を聞いた後に、偉そうに何かを説教できるほど、肝は据わっていない。


「重たい?」

「いえ、全然」

「疲れたの。少しこうさせて」

「はい」


 後輩の手本のような返事をする颯太に何も言わず、篠は前を向いた。今までで一番、遠慮無く接されている気がする。颯太を気遣うことがない、全力で預けられた体重が、少し愛おしい。


 颯太の胸に、篠の頭がある。

 大股で歩いたせいか、元カノの話題を出されたせいか、篠がくっついているせいか、心臓が早鐘を打っている。もしかしたら、篠にも聞こえているかもしれない。


 首を動かして篠の顔を覗くと、真顔だった。颯太の前では、あまりすることのない表情だ。

 胸がそわそわとし始めて、颯太は口を開いた。


「あの」

「?」


 篠が無言でこちらを見る。

 その表情にも、やはり笑みは浮かんでいない。


「美和とは――」


 今更ながらに、名前を呼び捨てなことに気付いて、一度口を閉じる。しかし、今更名字を言ったところで、誰だそれといった感じだろう。颯太は顔を思いっきり顰め、眉を下げながら言葉を探した。


「L1NEもブロックされてるし、連絡も取ってなくて」

「……」

「もう全然、会う予定も無くって、ですね……」

「……」


 篠が無言で見上げてくる。


 颯太はこれ以上何を説明すればいいかわからず、口を閉じた。何を言っているんだと思う自分と、何かを言わなければと逸る自分が、心の中で大暴れしている。


 どうすればいいかわからず落ち込んでいる颯太を見て、篠は一つ息を吐き出した。颯太の体がびくりと震えたのが、接していた面から伝わったのだろう。篠がぐるりとこちらを向く。


 篠の大きな瞳が真っ直ぐに颯太を見ている。


 内心まで見透かされそうな目だ。見透かしてくれるなら、どうぞ見てくださいと差し出したい気持ちになった。そうしたらきっと、颯太の素直な気持ちが隅々まで篠に伝わるのにと。


 篠が手をかざす。

 何をされるのかと一瞬身構えた颯太の頭が、軽くなった。篠の指には、颯太のキャップが摘ままれている。


 キャップを持った手とは反対の手で、篠がもう一度颯太の頭に手を伸ばす。


 驚いている颯太の頭を、篠の手が撫でた。


 ゆっくりと篠が手を動かす度に、颯太の心の底から何かが湧き出てくるようだった。


(近い、と口にしたら……多分、今のこの人は、離れてしまう)


 颯太は篠を見ていて、篠は颯太の頭に手を伸ばしていた。どう考えても、近すぎる。けれど、この手を離して欲しくなくて、颯太は黙り込んだ。


(この人は、元カレにもこんな感じだったんかな)


 これだけ綺麗な篠に、今まで恋人がいなかったとは思えない。


(近くにいたらくっつくのが当たり前で、全身で頼って、貴方しか知りませんって顔をして――)


 自分以外の男にこんな風にしている篠を想像して、颯太は苦々しくため息を吐き捨てた。

 今は篠の元彼氏の話では無く、自分の元彼女の話である。


 いつの間にか、篠の腰に両手を回し、彼女が倒れないように支えていた。


 撫でられる力に従うように、颯太の頭がどんどんと落ちていく。

 とん、と颯太の額が篠の肩にぶつかる。


 篠の肩に乗った颯太の頭を、篠はまだゆっくりと撫で続ける。


(ほんとに俺、『わんこ』みてえ)


 ずっと、どこかで篠の世話をしているのは自分だと思っていたが、やはりリードを持っていたのは篠だったのだろう。

 颯太は開き直って、篠の肩の上で顔を動かした。篠の首がすぐ目の前にある。


 そして、思っていたよりも、ずっと近い場所にあった篠の目を、上目遣いで見る。


「篠先輩。どうしたら笑ってくれますか」


 許してくれと言うのは変な気がして、颯太にとって一番大事な質問をした。


 篠は撫でている手を止め、何度か瞬きをする。


「今は笑えない」

「そこをなんとか」

「安売りしないの」

「知ってます」


 他の男に安売りをしているところを、見たことは無かった。

 簡単に篠に笑いかけて貰えない、警戒しかされない男達。そんな位置には、決して落ちたく無い。


 颯太は縋る目で篠を見つめる。


 篠は口を引き結んで、俯く。拍子に髪が流れ、颯太の頬に当たった。


 くすぐったくて身を捩ったのがわかったのか、篠は颯太の頬に指を這わせて、髪を退ける。そしてまた、颯太の頭を撫で始めた。


 颯太は「待て」をされている気分で、微動だにせず待ち続ける。

 しばらく撫でた後、何かに折り合いをつけたような声で、しっとりと囁いた。


「……じゃあ、篠って呼ぶ?」


 そんなことでいいのなら、すぐにでも叶えてやれる。


「篠」


 言われた瞬間に、颯太は口を開いた。

 名前を呼ぶと、篠の顔がふっと和らいだ。


「篠」


 今しか無いと思い、たたみかけるように名前を呼ぶ。


「篠」


 肩に鼻を擦り付けるように顔を寄せると、ふふっと、小さな笑い声が聞こえた。


 颯太がパッと顔を上げる。篠が呆れたような、喜んでいるような、悲しんでいるような、変な顔で笑っていた。


「……篠」


 けれど、何より愛しかった。




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