第12話 「次は寄らせろ。外堀埋めるから」「うん」

「うわぁ……」

「あんまり見ないで」


 弁当を食べている篠の腕を見た颯太は、つい声を漏らしてしまった。

 何度見ても、颯太は顔が引きつる。カーディガンを脱いだ篠の腕は、もう白い部分がないのではないかと不安になるほど、赤黒かった。


「なんでこんななるんすか……」


(練習するか、なんて言わなきゃよかった……そしたら、一日だけで済んだのに……)


 颯太は完全に引いていた。こんなになってまで、たかが球技大会を篠が頑張る意味がわからなかった。





 あの日、遅れてやってきた颯太に篠は何も言わなかった。四時間目の授業によっては、昼休みがへずられることなど珍しくないからだろう。

 それでも、その十分を篠のために使ってやりたかった颯太は、彼女に申し訳なく思っていた。


 あれから彼女達は何か言いたげにしばらく颯太を見ていたが、颯太が一切取り合わなかったので、諦めたようだった。


 その後は平穏に、篠の練習時間を確保できている。


「友達も出来てたよ。青あざ」

「まじすか? 俺、なったこと無いんですよね……」

「そうなの? 私、すぐ出来ちゃうんだよね。最後は黄色になるの」

「黄色……?」


 意味がわからなかった。篠の友達はどうだか知らないが、目の前にある篠の細い腕が黄色になっていくのは、かわいそうでたまらない。


 最初に青あざを見た日、絶句した颯太は大慌てでタオルを取りに戻った。水で濡らし、絞ったタオルで篠の両腕を冷やす。その日はレシーブの練習は止め、パスの練習をした。


「女子ってそうなんすかね……やっぱ折れるんじゃないっすか……?」

「折れないよ。大丈夫だよ」


 項垂れる颯太の背を、篠が小さな手でさする。さする篠の手には、テーピングしている指もあった。


「今日も早めに切り上げるんで、ちゃんと冷やしてくださいね」

「うん。ありがとう」


 よろしくね、コーチ。なんて篠がふわわっと微笑むから、颯太は大きなため息を吐くことしか出来ない。


「……篠先輩、今日の放課後暇です?」

「うん」


 不思議そうな顔をしながらも、篠はすぐに頷いた。


「今日、四時から学校使えないらしくて、部活休みになったんです。期末中はあんま出来なかったし、球技大会もう明日ですし……放課後もやりますか?」

「や、やる! お願いします!」


 篠が嬉しそうに頷いた。

 颯太はポケットからスマホを取り出すと、ブラウザで検索画面を開く。最近の公園はボール遊びを禁止しているため、少し遠くの大きめの総合公園に行かなければならない。


 すいすい、と親指でスマホを操作していると、篠が寄りかかってきた。颯太のシャツの裾を掴み、顔を寄せてスマホを覗き込んでくる。篠の頬は、颯太の二の腕にくっついていた。


(ああ。画面が見たいのか)


 颯太は篠が見えやすいように、スマホを少し動かす。


「この公園でいいですか?」

「うん。歩いて行くから、ちょっと待たせちゃうかも」


 スマホに指を伸ばし、篠は公園のマップをタップした。場所を確認するように、じっと地図を見ている。触れあっていた肩と肩がこすれた。


「それなんすけど、篠先輩、ニケツ出来ます?」

「にけつ?」


 自分で言ったくせに、颯太はぎょっとした。天使の唇から出していい単語では無かった。


「すみません。自転車の後ろ、乗れますか?」

「人間が乗れるようになってるなら、乗れるとは思う。でも、二人乗りって、しちゃいけないんじゃなかった?」

「あ、そうなんですっけ。じゃあ俺走ります。篠先輩、自転車は乗れますか?」

「……乗れるけど、ナラ君のは、無理じゃないかな」

「サドル下げます」

「……いけるかなあ?」


 篠は難しげな顔をして、むむむ、と唸った。


 


***




 篠の漕ぐ自転車の後ろを走る。


 スカートのまま漕ごうとした篠に、ジャージのズボンを履かせたのは颯太だ。自身もジャージ姿で走りながら、履かせて正解だったと、ふわりとスカートが靡く度に切に思う。


 篠の漕ぐ自転車の籠には、颯太の鞄と篠の鞄、そして一つのバレーボールが入っている。部活バッグは重すぎたのか、篠がバランスを取れなくなったので、部室に戻してある。

 母には怒られるかもしれないが、明日持って帰ることにした。篠がバランスを取れず、転倒する方が大事である。


 自転車を漕ぐ篠が、途中でチラチラと後ろを向いた。走る颯太を心配しているのだろう。その度に、自転車の頭がふらつくので、颯太は厳しい顔をして首を振る。


「篠先輩、前見てください」


 颯太に叱られると、篠は前を見る。しかしすぐにまた、ついてきているか心配になるのか、ちらりと後ろを伺っていた。


(鈴でもつけてやりゃあよかった)


 音でも鳴ってれば、安心して漕げるだろう。

 そんな犬みたいな発想をしてしまった自分がキモすぎて、颯太はげっそりとした。





 十分ほど走ると目的の公園についた。篠が自転車を駐輪所に停め、鍵をかける。

 公園は親子連れや、テニスコートに練習に来ている中学生で賑わっていた。芝生のスペースには、地元のラグビーチームが来ているようで、大きな声を出しながら練習をしている。


「こっちのほう行きましょう」

「うん」


 鞄とバレーボールを持って、公園の中の道を歩く。ボールを扱っても問題無さそうな場所を見つけると、颯太と篠は練習を始める。最初はあれほど戸惑っていた篠も、颯太がボールを掲げると、すぐにフォームを取れるようになっていた。





 帰りの時間も考慮して、日が落ちる前に練習は止める。再び篠が自転車に跨がり、颯太は篠の家まで走った。


 走る背を、夕日が鋭く照らす。篠の家は一度送っていたため、場所はなんとなく知っていたが、厳密な場所はわからない。


(ここら辺で、別れた方がいいか)


 ただの後輩に、家の場所まで知られたくないだろう。そう思い、颯太が声をかけようとした時に篠が振り返る。


「家まで来てくれる? 曲がってもいい?」

「――はい」


 言いかけた言葉を呑み込んだ颯太は、篠に続いてカーブミラーを左に曲がった。


 篠が颯太から距離を取った場所で、自転車から降りる。走って近付いた颯太の横を、篠が自転車を押しながら歩き始めた。


「うちね、あの黒い屋根の家」


 篠がハンドルから片手を離し、一軒家を指さした。篠の手から自転車を預かると、颯太が押し始めた。


「送ってくれてありがと。ずっと走らせちゃって、ごめんね」

「篠先輩を走らせる方が嫌ですよ」


 颯太が笑って返すと、篠も笑った。


「遅くなって怒られませんか?」

「まだそんな遅くないし、ちゃんと連絡も入れてたよ。ナラ君こそ、せっかく部活お休みの日だったのに。こんな時間まで、付き合ってくれてありがとね」


 いえ、と一言で済ませた颯太に、篠が手を差し出した。


「?」

「握手。してくれる?」


 道路の端にスタンドを立てて自転車を固定すると、悩む事無く颯太は篠の手を掴んだ。

 ぶんぶんと、篠が握手した手を上下に振る。


「よし。これできっと、明日は大丈夫」


 篠がにこっと笑って言った。颯太は手を開き、篠の手を間近で見る。指は突き指と、真新しいタコだらけだ。

 あんなに綺麗だった白魚の手を思い出し、同情心が湧く。


「……本当に、よく頑張りましたね」


 この手を見るだけでも、篠がどれほど頑張ったのかがわかる。


「そうなの」


 ふふっと笑う篠は、傷ついた手を後悔していないようだった。颯太は篠の手の傷を手当てするように、ぽんぽんと優しく叩く。


「こんだけ頑張ったんですから、絶対役に立てますよ。少なくとも、邪魔にはなりません」


「……ほんと?」


 掠れた声に、ハッと息を呑む。声色にも驚いたが、尋ねられたことにも、何故か驚いたのだ。


 ――もしかして、颯太が言った言葉に問い返されたのは、初めてでは無いだろうか。


 些細な事でも、篠は「いいの?」とか「ほんと?」と言った確認を、これまで取らなかったことに気付く。


(思えば、そのくらい会話の中じゃ普通なのに。よっぽど俺が、そういうこと言わせない空気出してたとか?)


 気をつけてはいるが、人に高圧的に取られやすい颯太は、知らぬ間に篠にプレッシャーを与えていたかも知れないと思い、出来る限り優しく言った。


「本当です。嘘なんかつきません」


「ありがと……」


 小首を傾げ笑顔を浮かべた篠は、すぐに俯いた。唇を少し噛み、涙声で続ける。


「ずっと見てくれてたナラ君が言ってくれると、自信つく」


 持ったままだった手を、ぎゅっと握りしめる。


 颯太は篠のつむじを見た。


 胸に広がる何かにせっつかれ、バレーボールよりも小さな頭に、手のひらを押し当てる。


 そしてぽんぽん、と軽く叩いた。


「明日、頑張ってください」


「……うん、頑張るね」


 颯太の手を頭に乗せたまま、篠は顔を上げた。涙目を緩く細めて、笑顔を浮かべている。


 今まで見た笑顔の中で、一番綺麗な笑顔だった。






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