3. われても末に
日常を断ち切りたいと願って起こした行動だったのに、結局私は日常に戻ることしかできなかった。
当然と言えば当然だ。
何十年と生きてきて、全てをいきなり変えることなどできはしない。
「
例の上司に提出していた企画書が戻ってきた。
パラパラとめくってさっと目を通すが、思っていたよりも指摘の数は少なかった。
私はふっと湧き上がってきた気持ちに蓋をすると、仕事用の頭に切り替えて目の前の作業に取り掛かる。
「それと、今日HF社からPCリプレイスの提案があるので同席してください。後で会議招集をかけます」
「わかりました」
せかせかと話を終えると、上司は渡り鳥のようにすぐに他の席へと行ってしまった。
私はその背中を少しだけ目で追ってから、すぐにパソコンへと戻した。
◇
「日本HFの
違和感の塊がにこやかに挨拶をしてきた。
自然な笑顔を顔に貼り付け、軽く腰を屈めながら丁寧に名刺を差し出してくる。
「情報システム部、
体に染みついた挨拶が自然と口をついて出たが、心の中は恐慌状態だった。
名刺を交換する手がわずかに震えるが、目の前の女はどこ吹く風とこちらを気にした
様子もなく、私の名刺をしげしげと眺めている。
「めずらしいお名前ですね。御影石は花崗岩から作られているんですよ」
奇遇ですねと言って女が笑う。
濃紺のパンツスーツが似合っているなどとどうでもいいことを考えながら、席に着く。
「まずは資料の説明をさせてください。すでにメールでお送りしたものですが、一応お配りいたします」
女が的確に、時には冗談を交えながら言葉を尽くして上司の心を掴もうとする。
「
商談中、一言も話さなかった私の様子を窺うようにして女が声をかけてくる。
「ありません。わかりやすい説明でした」
「ありがとうございます。では、ご検討のほどよろしくお願い致します」
私を見て、上司を見て、女が深く頭を下げる。
時間にして数十分。私にとっては数時間に等しい時間だった。
女が綺麗に一礼してその場を辞した後、私は自席に戻って放心していた。
——なにが仕事でよく日本酒を貰うや。ハイテク機器を売り歩いててそんな機会があるはずないやろ。
貰った名刺を見やる。裏側には走り書きのような数字が並んでいた。
——これは、あかんやろ。
女との関係はあの時あの場所できれいに完結したはずだった。
女を抱いた後、眠り込んだ彼女をベッドに残したまま適当な新幹線に飛び乗った。
そして東京に帰ってきて、退屈で鬱屈とした日常が戻ってきたはずだった。
私は混乱した頭を抱えながら自らに課された仕事をなんとかこなそうとしたが、就業時間を過ぎてもまるで仕事にはならなかった。
◇
どこまでが本当の話だったのか。
私は渡された名刺の裏側を眺めながらため息をついた。
京都出身なのは本当のことだろう。
身に染みついた方言はごまかせないし、かつて見た女の沈んだ顔からも嘘の匂いは感じられなかった。
ひとつの嘘が、全ての情報を怪しく感じさせる。
体感的には信じられると思っていたが、そうではない可能性もあった。
私は一体なにを躊躇っているのだろう。
そう自問するが、答えが出る気配はない。
手の中で弄び過ぎた名刺が脂を吸ってよれていた。
スマホに番号を打ち込んでは眺め、すぐに消すことを繰り返す。
怖いのだろうか。
何かが決定的に変わってしまうことが、怖いのだろうか。
それこそあの時、私が望んだことではなかったのか。
疲弊し伸びきった日常を断ち切りたい願ったのではなかったのか。
私はぐっと奥歯をかみ締めると、思い切って既に入れてあった番号に電波を飛ばす。
「はい。
仕事用の張りのある声が返ってくる。
残業中だっのかとばつが悪くなり、返事をしないまま通話を終了させようとした。
「……みっちゃん?」
「……そうや」
私は天を仰いで椅子の背にもたれ掛かると、呟くように声を出した。
「久しぶり~!」
能天気な声が返ってきて、仕事中ではなかったのかと首を傾げる。
天に昇るような楽し気な声で話す女とは裏腹に、私の声は地を這うように低かった。
「なんで東京にいるん」
「転勤やで。あの時にはもう名古屋から東京にっていうのは決まっててん」
「私の鞄、漁ったん?」
「うん、ごめん。名刺だけ貰ってた」
少しだけ申し訳なさそうに、女が罪の告白をする。
ちゃんと確かめてはいなかったが、鞄の中から無くなったものは特段思い当たらなかった。お金もたぶん、大丈夫だったと思う。
「忘れてるとは思わんかったん?」
「たかが数ヶ月で忘れられるほどの関係やったん?」
「たかが一日二日の関係や」
「関係の濃さは時間やないよ」
ああ言えばこう言う。
女にとって私の言葉などさほど意味をなさないのだろう。
「……なんの用なん?」
「電話かけてきたんはみっちゃんなんやけど」
「かけるように仕向けたやろ」
「まあ、そうやね。もう一回、みっちゃんに会いたかったからかな」
「もう会ったやろ。なんやねん。切るで」
「いや待って。ちゃんと言うから」
女が電話口でわざとらしく深呼吸をするのをイライラしながら聞く。
「みっちゃん、私と付き合って」
「なんでやねん。アホちゃう」
「さすがにひどない?」
「身代わりの女になんてこと言うねん」
「身代わりちゃうし。みっちゃんがそう望んだから、一回だけそうしたけど」
「私のせいなん? ひーちゃんがしんどそうやったから気使ってあげただけやのに」
「まあ、そうやね。お世話になりました」
「感謝しいや。じゃあ切るで」
「いやだから待ってって」
慌てたようにそう言って静止する女に、心がざわざわと波立った。
「本気やって。今どこ? 会いに行って説明するから場所教えて」
「家やで。待ってるわ」
「いやだから住所教えてって」
「免許証くらい見てたやろ」
「見てへん! それは濡れ衣や!」
電話口からなにかが落ちる音や、がちゃがちゃとドアを開ける音が響く。
「京王線沿い」
「ほんま!? 私もやで!」
家の近くのカフェの場所を告げると、女が心得たとばかりに元気よく返事をする。
「あと、あの日本酒持ってきいや。余ってるんやろ」
一瞬で私の意図を見透かした女が、たまらないとばかりに大きな声で笑った
「大事な決断の時に酒に頼るん、よくないと思うで」
「うるさいわ。ひーちゃんと違って私はノーマルやねん」
「過去形にせな。昔のことにしがみつくのはよくないで」
「昔にしがみついて名刺渡してきたんは誰やねん」
「私や。行為中にみっちゃんにしがみつかれてたんも私や」
「覚えてへん」
「うそやん」
「うそや」
どうでもいい掛け合いをしながら、私たちは会話を続ける。
悪くはないのかもしれないとも思うが、なにが正解なのか私にはわからなかった。
ただ、私を求めるように伸ばしてくる手は暖かくて優しかった。硬い顔をして立ち尽くしていたら、抱きしめて慰めてやりたいと思うほどには気に入っていた。
「あと、煙草はあかん」
付け足すように言うと、女がまた笑った。
「代わりにキスな」
「どうせ訂正するやろ。最初から言いや」
「キスを含む一連の行為」
「ま、ええわ」
「軽いなあ」
「固く守る年でもないんや」
部屋を出ると、すぐ傍にひっそりと佇んでいるカフェを見た。
どこか懐かしい人影が店の前に立っていて、私の足取りが少しだけ軽くなる。
求められて、与えて、いつの間にか逆に与えられている。
人影に向けて手を上げた。
手招きをすると、犬のように一目散に駆け寄ってくる。
「みっちゃん!」
「いい加減その名前で呼ぶんやめえや」
「え……
「なんでそんな不安げやねん」
「やって、御影石は花崗岩やねんで。運命過ぎて信じられんやん」
「私はひーちゃんが墓石の名前名乗ってる方がびっくりやねんけど」
「御影石は墓石だけやなくていろんな建物に使われてるから! あと、御影石は花崗岩と同義やからその理屈やと
いつの間にかつながれていた手を引いて、
「変な事したら叩き出すで」
「変なことって?」
ぎろりと睨みをきかせてみると、
「お金取ったり、もの壊したり」
「強盗やん」
くくっとくぐもった声で笑うと、
体を軽く押されて背中が廊下の壁にぶつかる。
「煙草吸いたいんやけど」
「酒瓶でも吸っとけば。得意やろ」
「酒では満足できひん」
「ココアシガレットあるけど」
「なんであんの」
「射的の景品」
「なにしてんねん」
そのまま顔が近付いてきて口付けられる。
「余裕のない女はモテへんで」
「こうちゃんがのらくらするからやん」
「こうちゃんになったんか。ややこしいな」
「みっちゃんにする?」
「んー、そうやな。みっちゃんで。混乱するわ」
私の顔を至近距離から眺めながら、
「興奮してきた?」
「破廉恥なやつやな」
「健全な大人やからね。余裕でR-18や」
「私は掛け算した方がええかもな」
「え……?」
「バツ2やしな。言ってへんかった?」
「ほんまに?」
「まあ、どうでもええやろ」
「いや、まあ……。ええか別に」
戸惑ったように
「……ここでするん?」
「嫌? 立ってしてる時、すごい可愛かったんやけど」
私の迷いを潰すように
途端に呼吸が苦しくなって頭に血が上る。
手でひっかくようにして直に肌を触られて腰が跳ねた。
「ええなあ……」
独り言のように
足の間に割って入ってきた太腿に股の奥を押し上げられて軽く呻いた。
「みっちゃん、好きやで。観念しい」
「その二つの単語並べるん、おかしない?」
体はすっかりその気になってしまっていて、
「ここで悲鳴上げたら強姦成立するかな」
「まだ未遂やし。それとたぶん痴話喧嘩やと思われて恥ずかしい思いするだけやで」
「そうなったら慰謝料請求するな」
「なんで私が請求されなあかんねん。共同作業やろ」
「その言い方、なんか嫌や」
次第に立っていられなくなって、
それを待っていたかのようにパンツのボタンが外されて、できた隙間から手がそっと忍び込んでくる。
触れられた指先に全身が軽く痺れた。
「でもそうやん? みっちゃんが協力してくれんかったらこんなことできひんわけやし」
「もっと、言い方があるやろ。ロマンチックなやつとか」
「ロマンチストやったか。じゃあ、織姫と彦星ファックとか?」
「それのどこにロマンチック要素、ある?」
全身に血が巡る。
酸素が足りなくて喘ぐように口を開く。
「じゃあなんて言ってほしいん?」
「普通に、情を交わす、とかで、ええんやけど」
ゆっくりと体を揺すられて小さく悲鳴が漏れた。
「情ね。先に情を交わしてから愛を育むわけや」
「うっさ……」
それ以上は言葉にならなかった。
自分の荒い息と動物のような鳴き声に頭の中が塗りつぶされていく。
膝がかくりと折れそうになるたび、
入り込んでいた指先に意識を根こそぎ持っていかれそうになって、それをぐっと耐えてから肩口にねじ込んでいた頭を上げた。
すぐ傍で顔を紅潮させていた
「みっちゃん、顔真っ赤や」
ひーちゃんもやと言いたかったが、口から漏れたのは情けない呻き声だけだった。
左手をずりずりと這わせて後頭部を掴むと、こちらに引き倒して強引に口付ける。
それが限界だった。
体がふわっと浮いた感覚がして全身がぶるぶると震えた。
声は
力の抜けた体は
「よかったやろ?」
ウィンクのようなものをしながら
「あほか」
私はぷいっとそっぽを向くと、たまたま近くに置いてあったキッチンペーパーを手に取った。
「まだやで」
中に入ったままだった指が軽く蠢く。
たったそれだけで悲鳴を上げそうになって、私は
「もう終わりや。一回分やろ」
「両方が満足して一回やと思うねん」
「屁理屈ばっかり言いよって」
「ええやん。愛を育も?」
「愛というより情を育んでるような気がするんやけど」
「どっちでも一緒やろ」
中途半端にはだけられていたパンツを強引に剥ぎ取られる。
肌に直接冷たい床が当たって、熱を持った体には気持ちがよかった。
ふと見上げた先では、
「みっちゃん。私と付き合ってくれへん」
いつもよりも低い声が響く。
営業用の滑らかな言葉ではなく、関西弁のふざけた雰囲気でもなかった。
不格好なイントネーション、不格好な言葉。
「しゃあないな」
私の言葉にぱっと表情を明るくさせた目の前の女に、私は軽くキスをした。
N700系 21:12発 (新大阪行) 三笹 @san_zazasa
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